インタビューと文章: 榎並紀行(やじろべえ) 写真: 小野奈那子
東京に住む人のおよそ半分が、他県からの移住者*1 というデータがあります。勉学や仕事の機会を求め、その華やかさに憧れ、全国からある種の期待を胸に大勢の人が集まってきます。一方で、東京で生まれ育った「東京っ子」は、地元・東京をどのように捉えているのでしょうか。インタビュー企画「東京っ子に聞け!」では、東京出身の方々にスポットライトを当て、幼少期の思い出や原風景、内側から見る東京の変化について伺います。
◆ ◆ ◆
今回お話を伺ったのは、落語家の柳亭小痴楽さん。幼少期を代官山で過ごし、小学4年生で杉並区の井草へ。その後も巣鴨や広尾、祐天寺など、東京都内を転々と移り住んできました。
さまざまな街で暮らしてきた小痴楽さんですが、その経験をふまえて最も心地よいと感じるのは「人と人の距離感が近く、温かさを感じられる街」。そんな街で触れ合う人たちの優しさは、自身の落語にも生かされているといいます。
今回は小痴楽さんがこれまで過ごしてきた街のことに加え、独特な教育スタイルの両親との思い出、何とか落語の世界にしがみつこうと必死だった修業時代のことなど、たっぷりと語っていただきました。
同級生と涙のお別れも……わずか半年で「出戻り」 ── 小痴楽さんの著書を拝読したのですが、かなり激しめの少年時代を送られていたようですね。
柳亭小痴楽さん(以降、小痴楽) 自分ではそれが普通だったから、当時は特に激しいとも感じていなかったんですけど、今思えば特殊でしたね。落語家の父(五代目・柳亭痴楽)と、巣鴨のやんちゃ者だった母。どちらも気性が荒くて、基本的に「拳」で教育してもらいました。兄弟喧嘩を止める時も、母ちゃんが兄貴にガラスの灰皿をぶつけて制止するような感じで(笑)。
「新宿末廣亭」の裏手にある「喫茶・楽屋」でお話を伺いました ── 強烈ですね……。幼少期は代官山にご実家があったと。
代官山駅前 小痴楽 はい。代官山駅から徒歩3分くらいの、郵便局の裏手に家がありました。向かい側に幼馴染の家がやっている「末ぜん」という定食屋があって、よく家族で行きましたね。
当時の代官山は都会なんだけど下町みたいな空気が流れていて、近所のおじいちゃん、おばあちゃんが子どもを見守ってくれているような安心感がありました。道ですれ違えばあいさつを交わすし、ちゃんと目を見て話してくれるし、悪さをしたら怒ってくれる。子どもながらにそれが心地よくて、とても好きな街でした。
── 特に思い出に残っている場所はありますか?
小痴楽 鎗ヶ崎交差点の所に、アメリカのおもちゃや輸入雑貨を売るお店があったんです。もうなくなってしまったんですけど、あそこは思い出深いですね。当時、親父の知り合いの益荒雄さん(元関脇)が現役を引退した頃に、お弟子さんを連れてうちへよく遊びに来ていたんです。益荒雄さんは来る度に僕ら兄弟をそのお店へ連れていってくれて、アメリカのバイクのプラモデルやタートルズ(『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』)のフィギュアを買ってくれました。その後に、みんなで六角亭という串揚げ屋に行くのがお決まりの流れでしたね。夜はお弟子さんが僕らの枕で寝て、枕に鬢付け油の甘い香りが残ったのを覚えています。
── 素敵な思い出ですね。
小痴楽 代官山には楽しい思い出しかないですね。解体される前の同潤会代官山アパートメントにも行きましたよ。当時は、もう誰も住んでいない状態で、草がぼうぼうで森みたいになっていて。子どもにとってはどこか不気味なお屋敷に思えました。怖いもの見たさで兄貴に連れていってもらったんですよ。
それから、近所に外国の駐在員が住む社宅があって、当時は今ほど外国の人は見かけなかったので「アメリカ人は銃を持ってるから見にいこうぜ」なんて、好奇心から見に行こうとしたり。そんな子ども時代でした。
── 代官山から引っ越したのはいつですか?
小痴楽 細かく言うと、僕が小学2年生の時にいったん代官山を出て杉並区の井草へ引っ越しました。でも、半年後くらいに兄貴と親父が学校でいざこざを起こして、また転校しなきゃいけなくなったんですよ。それで、ひとまず親父だけを井草に残して母ちゃんと子どもたちだけ代官山に行き、もともと通っていた小学校に出戻りました。井草へ“正式に”引っ越したのは、兄貴が小学校を卒業してからだから、僕が小学4年生の頃ですね。
── ちなみに、どんないざこざだったのでしょうか?
小痴楽 親父が学校に竹刀を持って乗り込んだんですよ。もともとの原因は兄貴が同級生と喧嘩したことだったんですけど、間に入った先生が喧嘩両成敗ではなく、一方的に兄貴が悪いと決めつけて。それに親父が怒っちゃった。
── なんと……。
現在も代官山には服を買いによく行かれるそう。昔から通うお気に入りのお店は「HOLLYWOOD RANCH MARKET(ハリウッドランチマーケット)」 小痴楽 まあ、親父は変わった人でしたね。そもそも代官山から引っ越すことになったのも、親父の鶴の一声でしたから。当時、代官山アドレスという商業施設ができることが決まって、親父が突然「若者でやかましくなるから引っ越すぞ」と。家族に相談することもなく、勝手に物件も決めてきてしまったんです。「もう契約してきた。庭もあっていい家だろ」なんて言って。父は子どもの学校の手続きのこととかは何も考えないので、その翌月には慌ただしく引っ越すことになりました。
── その時、お母さんはなんとおっしゃっていたんですか?
小痴楽 意外と「あら、そう」みたいな感じでしたね。親父が引っ越すぞと言った時には、もう新しい家の間取図を見ながら家具の配置を考えていましたから。たぶん、母ちゃんも引っ越したかったんじゃないですかね。母ちゃんはネズミが大嫌いなんですけど、当時住んでいた所に出没していたネズミはやたらとデカいんですよ。何度か遭遇して失神したりしていたので、実はネズミとおさらばできるのを喜んでいたのかもしれません。
── とはいえ、子どもにとっては引っ越しって一大事ですよね。転校しなきゃいけなくなりますし。
小痴楽 僕はイヤでした。大人にとっては都内間の移動なんて大したことないけど、子どもの頃って町内を離れるだけで、二度と友達と会えなくなるような絶望感があるじゃないですか。それこそ、小学2年生で転校が決まった時は、クラスのみんなが泣きながらお別れ会をしてくれて。
でも、それから半年後くらいに同じ学校へ出戻るわけじゃないですか。あの時の同級生の冷たい反応ったらなかったですね。「どの面下げて戻ってきたんだ。(餞別であげた)プレゼント返せよ!」くらいの感じで。その後、再び転校する時はもう、あっさりしたもんですよ。「どうせ、また戻ってくるんじゃないの?」みたいな反応で寂しかったです。今回はマジなんだけどな……って(笑)。
授業をサボり、吉祥寺の喫茶店で時間を潰した中学時代
── 引っ越し先の井草の街の印象はどうでしたか?
小痴楽 井草八幡宮の目の前の家だったので、とても静かな環境でした。歩いている人たちもちゃんとしているというか、良い意味でおとなしい街という印象を受けましたね。
井草八幡宮 思い出深いのは、八幡宮の縁日です。ものすごく規模が大きくて、ありとあらゆる屋台が出ていました。特に好きだったのは「型抜き」の屋台です。当時はうまく成功すると景品がもらえてがっぽりでした。
で、ふと屋台の奥を見ると、うちの親父が子どもたちに型抜きを教えてるんですよ。子どもたちから「師匠、師匠」って呼ばれていて。落語ではなく、型抜きの師匠として名を馳せていましたね。
あとは、井草から荻窪まで親父を迎えに行ったことも覚えています。親父が荻窪で飲んだあと、夜中の2時くらいに「車で迎えにきてくれ」と言うので、母ちゃんと二人でよく行きました。帰りに駅前のラーメン屋に連れて行ってもらえるのが楽しみで。
JR荻窪駅北口前 小学生にして、深夜ラーメンの背徳感を味わっていましたよ。なんだか特別な経験をさせてもらっているような感覚がありました。
── なんというか、一つひとつのエピソードが強いですよね。
小痴楽 そうですかね。まあ、井草での思い出といったらそれくらいかな。当時は吉祥寺で過ごす時間のほうが長かったから、どちらかというと吉祥寺のほうが地元感がありますね。
JR吉祥駅北口前 ── 吉祥寺にある小中高一貫の学校へ通われていたんですよね。
小痴楽 そうですね。でも中学からは、まともに授業に出なくなりましたけどね。今もそうですけど、子どもの頃から朝が弱くて、とにかく起きられないんです。中学時代は、毎日10時頃に目が覚めていました。当然、その時点で遅刻なんですが、とりあえず学校には行き、荷物だけ置いて外に出て、吉祥寺の喫茶店でコーヒーを飲みながら本を読んで時間を潰していました。昼休みになったら学校でみんなと遊んで、また喫茶店に戻って本を読み、放課後になったら部活に出る。そんな生活だから勉強は全くできなかったけど、楽しかったですよ。
「噺家なめんなよ!」担任教師の胸ぐらを掴む母
── その後、16歳の時に二代目・桂平治師匠(のちの十一代目桂文治)の門下へ入ります。落語家を志したのは、やはりお父さんの影響ですか?
小痴楽 いや、実はそういうわけでもなくて。もちろん親父の職業は知っていましたが、自分もそれになろうとは全く思っていませんでした。どちらかというと、しゃべくり漫才のほうが好きで、漫才師に憧れていた時期もあったくらいで。
きっかけは15歳の時、たまたま僕の部屋にあった落語のCDを聞いたこと。そこで初めて、落語って面白いなと思いました。その後、高校1年生の2学期に早々と留年が決まったこともあって、このまま高い学費を払ってもらって学校にいても仕方ないから、落語家になろうかなと。まあ、今にして思えば舐めてますよね。
── それで、お父さんに相談した。
小痴楽 はい。そしたら親父は、「これを読んでみろ」と立川談志師匠の『現代落語論』を渡してくれました。それが面白かったので、談志師匠の落語の音源も聴かせてもらったんです。ただ、当時の僕は子どもすぎて、談志師匠の落語の良さを理解できなかった。しかも大馬鹿野郎なので、親父にも「この人、センスない」なんて軽口を言ってしまって。そしたら、親父からぶっ飛ばされました(笑)。
その直後に親父が病気で倒れてしまったので、なかなか話し合う機会もなかったんですけど、2カ月後に意識が戻った時に「もし、まだやりたい気持ちがあるなら、(師匠になってくれる人を)紹介するぞ」と言ってくれました。それで、当時の桂平治師匠(現・十一代目桂文治)に弟子入りさせていただくことになったんです。
── 高校も中退して、芸の道一本でいこうと。
小痴楽 はい。その時点で僕は辞めるつもりだったんですが、母ちゃんが「とりあえず、学校に話し合いに行こう」と言うので、担任の先生と三者面談をすることになりました。
そこで先生が「噺家なんて稼げないし、食っていけないぞ」と言ったら、母ちゃんがキレちゃって。僕が頭を上げた時には先生の胸ぐらを掴んでいて「お前の年収言ってみろ! 噺家なめんなよ!」って怒鳴りつけてた。なぜか僕が、「まあまあ」って二人をなだめましたよ(笑)。うちの母ちゃんもやんちゃだったから、気が強いんですよね。そんな両親の元で育ったら、まあこんな人間になっちゃうよね。
師匠に嫌われたくない一心で、必死に落語を覚えた
── 修業時代のことも教えてください。当時はどんな生活でしたか?
小痴楽 そうですね。寄席に入って本格的に前座修業が始まると数年間は無休になるのですが、見習いの時はたまの息抜きで友達と遊ぶ時間もありました。
ただ、基本的には師匠の所へ行かない日も、落語を覚える時間に充てていました。なんせ僕は勉強嫌いで、ノートすらまともに取ったことがなかったから苦労しましたね。小学生の時から手ぶらで学校へ通い、友達から一枚ちぎって貰ったノートの切れ端で1日やり過ごすようなガキだったから、漢字すらまともに書けない。落語を書いて覚える時も、全部ひらがなだから呪文みたいになっていました。一つの噺を覚えるのに、ノートを何十ページも消費して。大人になって漢字を習得してから書き直したら、十数ページ節約できましたよ。漢字ってエコだなと思いました(笑)。
前座修業に入ってからは、より稽古に没頭するようになりました。当時は寝言でも落語をやっていたと、友達から言われたこともあります。それくらい必死でしたね。
── 勉強嫌いの小痴楽さんが、そこまで頑張れた理由は何だったのでしょうか?
小痴楽 もちろん落語家として一人前になりたいという思いはありましたが、それ以上に師匠に嫌われたくない、この世界で生かしてもらいたいという気持ちが強かったですね。師匠にクビと言われたら、もうこの世界にはいられませんから。そうなったら中卒の自分を雇ってくれる所なんてなかなかないでしょうし、何とかしてしがみつくしかないと思っていました。
落語に出てくるような、温かい人たちに囲まれていたい
── 修業時代はどこに住んでいましたか?
小痴楽 巣鴨ですね。18歳の時に、実家が井草から巣鴨に引っ越したんです。巣鴨はもともと母方の両親の実家があったので、小さい頃から馴染みのある街でした。
巣鴨は代官山と同じく、人と人の距離感が近い街だなと感じました。みんなが知り合いのようで、街ですれ違えば自然と会釈をするような空気が心地よかったです。
それだけに、結婚してから住んだところはまるで様子が違っていて驚きましたね。都心の人気エリアと呼ばれる住宅地でしたがマンションのお隣さんと道端で会っても知らんぷりだし、たまに言葉を交わす機会があっても他人行儀というか、どこか冷たい。それくらいの付き合い方のほうがいい人もいると思いますが、僕には合わなかったです。
── ちなみに、今はどちらにお住まいですか?
小痴楽 子どもが生まれてから祐天寺に引っ越しました。この街がまたね、最高なんですよ。みんな普通にあいさつするし、近所の夫婦は「余ったおむつあるけど、いる?」なんて言ってくれる。逆に、僕が差し入れでもらった食べきれないお菓子をお裾分けしたら、快く受け取ってくれます。
祐天寺駅前 あと、ベビーカーを押して歩いていたら、おばあちゃんが「かわいいわね〜」って子どもを触ってきます。そういうのを嫌がる人もいるんでしょうけど、僕は子どもにはいろんな大人と触れ合ってほしいから、ありがたいですね。目上の人とコミュニケーションをとることで礼儀も覚えるだろうし、人見知りもしなくなりそうだし。
── 地方から上京してきた人がよく「東京は冷たい」と言いますが、小痴楽さんはずっと東京にいながら、東京の冷たさも温かさも両方経験しているんですね?
小痴楽 そういえばそうですね。それだけ東京にもいろんな街があるってことですよね。代官山がいい例ですが、都心だからって冷たいとは限らないと思いますよ。
── 小痴楽さんがいろんな東京の街に住んできた経験は、落語にも生かされていますか?
小痴楽 生かされていると思いますよ。特に、代官山や巣鴨、祐天寺で出会った人たちの影響は大きいです。そうした人の優しさを肌で感じることは、落語家としてとても大事なことだと思うので。
なぜなら、落語の中に出てくる登場人物って、基本的に温かいんですよ。人を貶めたり、仲間はずれにしない。「与太郎」(※落語の演目によく登場するキャラクター)と呼ばれるような馬鹿で間抜けな人間も、決して切り捨てたりしないんです。
僕が一番好きなお噺に『錦の袈裟』ってのがあるんですけど、あれなんかまさに与太郎が吉原に行くためにおカミさんを言いくるめる算段を、仲間みんなで考えてあげるお噺ですからね。
また、こんな小噺もあります。
夫「おう、帰ったぞ。今な、隣ん家で子どもたちが泣いてるから何だろうと行ったら、亭主が倒れちゃって米を食えない。芋ばっか食ってるってんだよ。育ち盛りの子どもたちがお腹空いたって、かわいそうだ。うちの米炊いて、持ってってやれ」
妻「分かりました。行ってきます」
夫「おう、どうだった。喜んでたか。そうか良かったね。じゃあ俺らも、おまんまにしようか」
妻「米は全部持ってっちゃいましたよ」
夫「……そうか、じゃあ芋でも食うか」
っていう。
── すごい……。鳥肌が立ちました。
小痴楽 この、困っている人に米を全部あげて、自分たちは芋を食うっていう感覚が好きなんですよね。「分ける」んじゃなくて「あげる」。おカミさんもカッコいいですよね。文句を言わず、一言「分かった」って。考えずに動く優しさみたいなものが、全て詰まっている小噺だと思います。
このお噺は、自分が育ってきた環境で見た風景だったり、やりとりだったりと重なる部分もあります。これからも、そんな街にいたいと思うし、そういう人たちが出てくる落語をやっていきたいですね。
お話を伺った人:柳亭小痴楽 (りゅうてい・こちらく)
1988年、渋谷区代官山に生まれる。2005年、16才の時に入門を申し出た途端に父が病に伏したため、二代目桂平治(現:桂文治)へ入門。2008年6月 父(痴楽)の門下に移り「柳亭ち太郎」と改める。2009年、父(痴楽)の没後の、柳亭楽輔(父(痴楽)の弟弟子)門下へ。二ツ目昇進を期に「三代目 柳亭小痴楽」を襲名。2011年に、「第22 回北とぴあ若手落語家競演会」奨励賞を受賞。2015年、2016年には「NHK 新人落語大賞」ファイナリストに。2019年、真打昇進。自身初のエッセイ集「まくらばな」(ぴあ出版)を上梓。
WEB媒体『PINTSCOPE(ピントスコープ)』にてコラム「柳亭小痴楽〜映画世渡り問答〜」や月刊誌「小説現代」(講談社)にて、時代小説の書評を隔月で連載中。
聞き手:榎並紀行(やじろべえ) (えなみ のりゆき)
編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。「SUUMO」をはじめとする住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。
Twitter: @noriyukienami
WEBサイト: 50歳までにしたい100のコト
編集・風景写真:はてな編集部