変わらない道と、変わらない風景がある「上板橋」|文・齋藤明里(劇団「柿喰う客」)

著: 齋藤明里
 池袋までは電車で10分もかからないけれど、何だかのんびりとして、治安もそんなに悪くない町、上板橋。保育園の年長さんから中学3年生までを東京都板橋区の上板橋で過ごしました。引越しが多い家庭でしたが、一番長く住んでいたのがここです。でも10年住んでいたとはいえ、上板橋が地元かといわれると悩んでしまいます。中学卒業と同時に引越してしまい、実家は全く別の場所にあるし、引越し以来一度も縁の無かった土地だし……。
 しかしながら、今回、住んでいた土地に関するエッセイを書いてみないかとお声がけいただき、13年ぶりに上板橋に足を踏み入れることにしました。有楽町線小竹向原駅から東武東上線上板橋駅までの、よく使っていた二駅間を歩いてみます。

 まず降り立ったのは有楽町線小竹向原駅。ここから北に向かって車通りが多い細道を歩いていくと、つつじに囲まれた板橋区立小茂根図書館が見えてきます。


 この図書館によく通っていたんです。本屋さんの何倍も広くて、古い本のちょっとほこりっぽくて甘いような不思議な香りがして、静かで、ちょっと寒い。子ども向けの絵本から文芸書、漫画、雑誌、ジャンルを問わず置かれている本を見境なく読んでいました。私の頭の中はいつだって物語でいっぱいでした。夏休み、宿題が終わってないのにもかかわらず図書館にすぐ行こうとしては、母に怒られていたことを今でも覚えています。ここで本を読みあさった結果、乱読魔の私が生まれたと言っても過言ではありません。

 道なりに沿って歩いていくと、大きな通りに突き当たります。ここは環状七号線、通称環七通り。思い出のご飯屋さん「びっくりドンキー板橋こもね店」はこの環七沿いにあります。
 私が住んでいたのは5歳から15歳までの10年間。ほとんどがおうちご飯の時期で、外食といえば「びっくりドンキー板橋こもね店」か「デニーズ小茂根店」です。思い出を語るとするならば、小学校の運動会終わりにお友達のMちゃんとそのお母さん、私の母、私の4人で、そのびっくりドンキー(びくドン)に行ったときのお話です。

 びくドンにはびっくりサイズというサッカー大会のトロフィーの大きさのカップがあるんです。普段ならそんなサイズは頼めないのですが、運動会終わりのお疲れ様会ということで注文させてもらえました。初めてびっくりドンキーに来たMちゃんを驚かせたかった気持ちもあります。そして運ばれてきたびっくりサイズ。ずっと頼んでみたかった大きなコーラが本当に嬉しくて、とっても美味しかったことを覚えています。正直、全国のびっくりドンキーで味わえますが、板橋こもね店のびっくりサイズのコーラが、私にとっての上板橋の思い出の味です。
 久しぶりにびくドンにも行きたいなあなんて思いつつ、板橋区を横断している石神井川に向かいます。この川沿いに桜並木が続き、春には散った桜の花弁が川に流れていくことから、その近辺の土地が桜川と名づけられたそうです。小学校も中学校もその名のついた学校に通っていました。小学校の入学式で見たピンク色の並木道と桜吹雪も、中学の正門に咲いていた濃い色の可愛い八重桜も、今も鮮明に覚えています。クラスメイトや先生の名前はすぐに忘れてしまったのに、風景や、通学路は覚えているなんて、とても不思議でした。


毎朝、友達と待ち合わせをしていた公園前


石神井川。春は水面が桜の花びらでいっぱいになります

 懐かしさに浸りながら、石神井川を渡って北西の方角に歩いていくと、いきなり木々に囲まれます。そこは、城北中央公園。野球場やテニスコート、子ども向けの遊具広場、ドッグラン、体育館に室内プール、旧石器時代の遺跡までなんでもある、都内でも有数の大きさを誇る公園です。初めて来た人は都内にこんなところがあるのかと驚いてしまうほどの広さだと思います。中学生の頃、目の前にあるこの公園の遊具広場を教室からよく眺めていました。ちょっとやんちゃな子たちが授業をサボってブランコに乗る姿を見ては、絶対サボりたくないけどブランコだけ乗りたいなぁとぼんやり考えていました。今思えば下校の時にでも乗ってみたら良かったのに、生真面目な私は寄り道を全くしなかったので、結局中学3年間乗れずじまいでした。13年ぶりの今回こそは……! と思って広場に向かうと、ブランコには保育園児ほどの女の子たちが楽しそうに乗っていました。そして、可愛い娘達をカメラにおさめようとするお母様方。のどかで素敵な光景を見つめながら、28歳のお姉さんは隣のベンチに座って満足しました。

 少しのんびりしたら住宅街を進みます。東武東上線上板橋駅まではあと少しです。川越街道に出ると、上板橋の住人で知らない人は居ないランドマーク的存在の「五本けやき」が現れました。そしてその奥にかわいいハートマークロゴのスーパー、「コモディイイダ」の看板が見えます。小学生低学年の時、このスーパーの前の屋台で、タレの焼き鳥をよくおやつに買ってもらっていました。店主さんはだいぶおじいちゃんだったし、もう屋台出さなくなっちゃったのかな。ちょっとさみしいな。なんて思いながら川越街道を眺めたら、交差点の手前にもう一店舗コモディイイダが出来ていました。


意外と細めのけやきが並ぶ「五本けやき」

 上板橋は、いつの間にか2コモディイイダがある町になっていました。すごいぞ上板橋。実家を出てからスーパーの楽しさに気づいたのですが、立派なスーパーが半径50メートル以内に2店舗もあるなんてとても魅力的です。その上、駅寄りのコモディイイダの目の前には、老舗の「丸一ストアー」もあります。丸一ストアーに入っている肉のマルサンには、様々な部位のお肉だけではなくチャーシューやチキン、コロッケなど美味しそうなお惣菜もたくさん売られているんです。その近辺には、しそ焼き餃子やチーズ餃子などが楽しめる餃子専門店も、おかずがいつでも何種類も用意されているお弁当屋さんも、ちょっとレトロな和菓子屋さんもあります。改めて見てみると台所を支えてくれるお店ばっかりでした。多種多様なお店が立ち並ぶ上板橋南口銀座商店街を抜けたら東武東上線上板橋駅南口に到着です。

 こうやって2.5キロほどの道のりを歩いてみると、当時行った場所、通った通学路、見ていた風景、全て覚えていました。建物の見た目は少し変わっていましたが、変わらない道と風景があって、子どものころの私がいるように見えたのです。
 上板橋に住んでいた当時の私は、本が好きで、物語の世界に憧れて、マイペースに好きなことを楽しんでいました。13年経った今の私は、本が好きだから読書系YouTubeチャンネルをやっているし、物語の世界に入れるから女優としてお芝居をやっているし、マイペースに好きなことを仕事にしています。自分にとっての今が、小さいころの「好き」の道を進み続けた延長線上にある。そして、きっと私のこれからも、歩んできた道の、その先にあるのです。そう分かったとき、子どものころの思い出にもっと触れてみたくなりました。そして、これからの私のために、また道を歩むのでした。

著者:齋藤明里

齋藤明里

1995年生まれ。2017年より劇団「柿喰う客」に参加し、上品なルックスと野心的な演技で舞台を中心に活動。最近の主な舞台出演作品に悪い芝居『逃避奇行クラブ』、柿喰う客『禁猟区』、『野鴨-Vildanden-』など。2023年6月には舞台『文豪ストレイドッグス 共喰い』、8月には『ワールドトリガー the Stage』B級ランク戦開始編など話題作への出演を控えている。また2021年までTBS系『王様のブランチ』リポーターを5年半務め、現在は読書系YouTubeチャンネル「ほんタメ」MC、書評、エッセイの執筆など、演劇以外にも活動の幅を広げている。(プロフィール写真 撮影:神谷美寛)
Twitter:@akaritter0113
Instagram:@akagram0113
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編集:岡本尚之

東京だけど「東京」っぽくない。自然と食が豊かなアナザー東京、地元・西多摩のこと|文・長塚健斗(WONK)

著: 長塚健斗

西多摩が、僕のホーム

僕は東京23区外である、あきる野生まれ、あきる野育ちのミュージシャン/料理人だ。隣接する福生や青梅、奥多摩などを含めた「西多摩」が僕の地元だと思っている。

都心の駅からJR中央線、青梅線、武蔵五日市線へと乗り継いで1時間ほど。都心に住む方でも、キャンプやバーベキューなどで訪れたことがある方は多いかもしれない。

小学生の頃から、とにかく地元でよく遊んだ。小学生といえば、公園や市民プ―ルなどで遊ぶイメージが一般的にあるけれど(もちろん僕らもよく行った)、僕らは、専らキャンプとかバーベキュー三昧。

東京といえど、西多摩あたりは一軒一軒の敷地が広く、畑や庭をやっている人も多い。家によっては囲炉裏があるぐらいだ。自宅の庭に、親戚が集まってパーティーをすることもあった。順番に、友達のお庭でバーベキューみたいな、そんな幼少期。

中学からは中高一貫の私立に行っていたので、行動範囲が少し変わってあきる野以外にも足を運ぶようになった。そんなわけで、今回はあきる野だけでなく、西多摩の魅力的なスポットを、僕の個人的な想い出と共にご紹介できればと思う。

夏だ!あきる野だ!サマーランドだ!

「あきる野といえば……」で思い浮かぶもの、地元民としてはたくさん浮かぶけれど、とてもわかりやすいところでいえば「東京サマーランド」!

サマーランドは昔、僕の祖母が働いていたので、幼少期からよく行っていた。午前中はいろんな種類のプールに入って、午後は遊園地的なエリアで遊び尽くす。波があるプールとか、小学生にとっては神的存在(笑)。

日本最大級の流れるプール、ウォータースライダーなど、種類もいろいろある。遊び疲れたら、焼きそばとかラーメンとかフードコートで、みんなでわいわいごはんをしたり。中高生のいろいろな青春の風景が凝縮されたような場所だ。

クラインガルテン野良坊は最重要スポット

先述の通り、僕らの地元の遊びといえばキャンプ。中学時代からずっと行っている最高のキャンプ場「養沢センター・クラインガルテン野良坊」はとにかくおすすめ。あきる野にある、キャンプ場兼グランピング施設のような感じで、ログハウスがあって、バーベキュー場があって、川でも泳げる。中学生から今に至るまで、毎年の夏の楽しみはこの場所だった。

夏になったら、友達と行く計画をするのだが、それこそ今でも毎年行っている。ツール類が揃っているので、自分のキャンプ道具がまだ持てなかった頃でも楽しめた。高校時代は、男友達7、8人ぐらいで行って明るいうちはバーベキュー。

買い物リストをみんなで作って買い出しして、「俺らはこっちやっとくわ~」「俺ら野菜切っておくわ~」みたいな感じで、みんなバーベキュー慣れしているので話が早い。僕は今も音楽と並行して、料理人の仕事をしているけれど、思えば当時から料理担当だったし、バーベキューを自然と仕切っていた。

夜になると、夢の話とか「俺、将来はこういうふうになりたいと思ってるんだよね」みたいな話を夜通し語り合う。当時はまだ、お酒が飲めないからみんなジュースを片手に熱く語る。星があって、蛍が舞って、森の匂いと川のせせらぎ。これぞ青春だし、100点満点の想い出ができた。

キャンプの帰り道は、「秋川渓谷 瀬音の湯」一択

僕が大学生くらいの時に、クラインガルテン野良坊をちょうど下ったところに「秋川渓谷 瀬音の湯」という温泉兼宿泊施設ができた。そこの温泉がとにかくめちゃくちゃ良い。

自然の中に囲まれていて、場所も内容も完璧すぎる。この数年で、「温泉総選挙」の「うる肌部門」では、全国1位に3回(2019年・2020年・2022年!)も選ばれているらしい。キャンプ場帰りにそのままここの温泉に入って帰るっていうのが今でもマストコースになっている。

常にサウナにはまっている僕が、サウナで初めて整ったのもこの場所だった。昨年の夏も、キャンプから瀬音の湯のコースのすばらしさを友人に伝えるべく、5、6人を連れて行ったほど。地元には良い温泉がいくつかあるけれど、見晴らしの良さとクオリティという点で、瀬音の湯が一番好きだ。日常のそばに、こうやって大自然があるのが、つくづく西多摩らしいなと感じている。

澤乃井酒造→奥多摩湖→小山製菓というドライブルート

名水百選にも選ばれるほど、水質に恵まれた西多摩には、まだまだおすすめのドライブコースがある。都内からでも行きやすい奥多摩散策を個人的におすすめしたい。

都内から奥多摩に向かう途中、澤乃井酒造が日本酒の試飲もできる施設「澤乃井園」をすごくいいロケーションのところに作っている。澤乃井酒造は、奥多摩にある東京都内では最大の酒造だ。澤乃井園は、酒蔵見学(事前申し込みが必要だけど無料)、利き酒などが体験できる。友達を連れている場合はみんなに試飲してもらって、運転の僕はコーヒーで我慢(笑)。

そのあと悠然と広がる奥多摩湖を見て、チルして、帰り道に青梅の「小山製菓」でお土産を買うのがお決まりのルートだ。奥多摩湖は、湖なのと山々に囲まれているのでとにかく静か。夜のドライブにもおすすめのスポットだ。そのあとに寄る小山製菓は、何を隠そう僕の親戚が営んでいる。

地元の人はほぼ知っているであろう老舗和菓子屋で、創業は1970年。親戚であることを差し引いても、純粋に「酒饅頭」と「すあま」がおいしくて、酒饅頭は、自分が所属する音楽レーベルEPISTROPHがプロデュースするBar「phase」(日本橋)でも取り扱っている。表面を焼いても、おいしい。

この味のために地元に帰りたくなる「デモデダイナー福生店」

23歳ぐらいだろうか、大学と並行しながら料理人としてレストランで働くようになっていた。大人に近づくにつれ、また地元の友達と遊ぶようになって訪れたのが「デモデダイナー福生店」だった。

一言で伝えるならば、「アメリカにあるハンバーガー屋をそのままやってます」みたいなお店。コーラを頼んだら、当たり前にベンティサイズが出てくるし、店内はずっとアメリカンな曲が流れている。そして、ハンバーガーのサイズが大きいし、めちゃくちゃ重い。とにかくジャンクで重い!それが逆にたまらない。

毎日11時半ぐらいにオープンするけど、開店前から近くにある横田基地の人たちや地元の人で行列ができる。僕がいつも頼むのは、マッシュルームチーズバーガーかスモーキーベーコンエッグか、ゴルゴンゾーラのどれか。見た目も味も、ザ・ジャンク!なところが好きで、いつからか、ここに行くために地元に帰るようになったほどだ。

そしてこれは余談だが、この店のあるエリアは基地の存在もあってか欧米のカルチャーを感じられるショップや飲食店がたくさんある。豊かな自然だけでなく、こうしたエリアの影響を受けて育った個性的な感性を持つミュージシャンや俳優がたくさん輩出されているということはあまり知られてないことなのかもしれない。

無性に寄りたくなる「韮菜万頭(にらまんじゅう) 福生店」

デモデダイナーと並んで欠かせないのが、16号沿いの「韮菜万頭(にらまんじゅう) 福生店」。名前の通り、ニラ饅頭が旨い地元の人気店だ。ニラ饅頭をメインとした中華料理屋なんだけど、店構えはちょっとアメリカンな雰囲気も漂っていて、なんというかめっちゃラフなお店。ラフすぎて居心地がよくて、いとこの家族とよく行っていた。

ここではニラ饅頭とチャーハンを頼んで、みんなでわいわい食べるみたいな。最近はデモデダイナーほど行けていないけれど、ここも地元に帰ったら「なぜかよくわからないけど、どうも寄りたくなる」みたいな、いい意味で地元感あふれる場所だ。

「食」から感じ取れる、西多摩の可能性

ミュージシャンと料理人と二足のわらじで活動していく中で、今年はシェフワンという若手料理人のコンテストに出場している。エントリーのテーマが、「地元を盛り上げるフェス飯」だったこともあり、自分にぴったりだった。出場にあたって改めて地元の人たちと話し合う中で、一料理人として、西多摩の「食」の豊かさを再認識する機会になった。

僕が考案したのは「西多摩ジビエの山わさびバーガー」のレシピ。奥多摩で捕れる鹿肉100%食べ応え抜群のパティ、多摩川の源流で育った山わさび、名産の柚子など、愛する地元・西多摩の食材をフルに味わってもらえるハンバーガーを作った。フェスで踊り疲れた胃にもガツっと響くような、そんなイメージで。

そのレシピでは使わなかったけど、魅力的な地元食材はまだまだある。奥多摩に伝わる幻のじゃがいも「治助芋」、秋川牛や豚肉の「TOKYO X(トウキョウエックス)」など、ブランドとして着実に評価されてきているものも増えている。

小さい時に、近所のおじさんが畑で育てていたトウモロコシが、今考えても感動するくらいにおいしかった。そんな記憶も、自分がいま料理をやっていることにつながっている気がする。

西多摩の魅力を知らせたい。そう思う、僕なりの理由

人生の多くを西多摩で過ごしてきたのに、未だに知らない食材がたくさんある。若い作り手さんが最近引っ越してきたりもしているので、そういう方々が丹精込めて作っているものも含めて僕らしく紹介できたらいいなと思っている。

なぜそう思うようになったかというと、自分の父をはじめ、親戚や知人たちが「自分の地域に貢献することが当たり前」という感覚でいるからだ。小さい頃から自分の身の回りには地元の商工会や組合、ロータリークラブの人たちがたくさんいたし、今でも「今年の夏祭りはどうするか?」みたいな、「地域を盛り上げるためには何するか?」をみんなが当たり前にずっと考えている。だから義務感ではなく、自然と地元に還元できるようなことを僕もしたいと思ってきた。昨年、アーティストとして出演した福井の音楽フェスでは、料理人としても参加し、地元の食材を使ったパエリアを提供した。

自分には、音楽があって、食がある。地域創生みたいなことって、その時代その時代で変わらずテーマになり続けるからこそ、自分ができる「音楽」と「食」を通じて、西多摩には関わり続けたい。

著者:長塚健斗(ながつかけんと)

1990年東京都生まれ。2013年にWONKを結成し、ボーカルをつとめる。所属レーベルEPISTROPHではオリジナルブレンドコーヒーシリーズやフレグランス、調理道具等のプロデュースも行う。出演映画「ひとりぼっちじゃない」が公開中。6月1日にはWONKとアルファ ロメオとのコラボシングル「Passhione」をリリース。

編集:小沢あや(ピース)

代官山、巣鴨、祐天寺。落語家・柳亭小痴楽さんが暮らしてきた、冷たくない東京【東京っ子に聞け】

インタビューと文章: 榎並紀行(やじろべえ) 写真: 小野奈那子


東京に住む人のおよそ半分が、他県からの移住者*1というデータがあります。勉学や仕事の機会を求め、その華やかさに憧れ、全国からある種の期待を胸に大勢の人が集まってきます。一方で、東京で生まれ育った「東京っ子」は、地元・東京をどのように捉えているのでしょうか。インタビュー企画「東京っ子に聞け!」では、東京出身の方々にスポットライトを当て、幼少期の思い出や原風景、内側から見る東京の変化について伺います。

◆ ◆ ◆

今回お話を伺ったのは、落語家の柳亭小痴楽さん。幼少期を代官山で過ごし、小学4年生で杉並区の井草へ。その後も巣鴨や広尾、祐天寺など、東京都内を転々と移り住んできました。

さまざまな街で暮らしてきた小痴楽さんですが、その経験をふまえて最も心地よいと感じるのは「人と人の距離感が近く、温かさを感じられる街」。そんな街で触れ合う人たちの優しさは、自身の落語にも生かされているといいます。

今回は小痴楽さんがこれまで過ごしてきた街のことに加え、独特な教育スタイルの両親との思い出、何とか落語の世界にしがみつこうと必死だった修業時代のことなど、たっぷりと語っていただきました。


同級生と涙のお別れも……わずか半年で「出戻り」

── 小痴楽さんの著書を拝読したのですが、かなり激しめの少年時代を送られていたようですね。

柳亭小痴楽さん(以降、小痴楽) 自分ではそれが普通だったから、当時は特に激しいとも感じていなかったんですけど、今思えば特殊でしたね。落語家の父(五代目・柳亭痴楽)と、巣鴨のやんちゃ者だった母。どちらも気性が荒くて、基本的に「拳」で教育してもらいました。兄弟喧嘩を止める時も、母ちゃんが兄貴にガラスの灰皿をぶつけて制止するような感じで(笑)。

「新宿末廣亭」の裏手にある「喫茶・楽屋」でお話を伺いました

── 強烈ですね……。幼少期は代官山にご実家があったと。

代官山駅前

小痴楽 はい。代官山駅から徒歩3分くらいの、郵便局の裏手に家がありました。向かい側に幼馴染の家がやっている「末ぜん」という定食屋があって、よく家族で行きましたね。

当時の代官山は都会なんだけど下町みたいな空気が流れていて、近所のおじいちゃん、おばあちゃんが子どもを見守ってくれているような安心感がありました。道ですれ違えばあいさつを交わすし、ちゃんと目を見て話してくれるし、悪さをしたら怒ってくれる。子どもながらにそれが心地よくて、とても好きな街でした。

── 特に思い出に残っている場所はありますか?

小痴楽 鎗ヶ崎交差点の所に、アメリカのおもちゃや輸入雑貨を売るお店があったんです。もうなくなってしまったんですけど、あそこは思い出深いですね。当時、親父の知り合いの益荒雄さん(元関脇)が現役を引退した頃に、お弟子さんを連れてうちへよく遊びに来ていたんです。益荒雄さんは来る度に僕ら兄弟をそのお店へ連れていってくれて、アメリカのバイクのプラモデルやタートルズ(『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』)のフィギュアを買ってくれました。その後に、みんなで六角亭という串揚げ屋に行くのがお決まりの流れでしたね。夜はお弟子さんが僕らの枕で寝て、枕に鬢付け油の甘い香りが残ったのを覚えています。


── 素敵な思い出ですね。

小痴楽 代官山には楽しい思い出しかないですね。解体される前の同潤会代官山アパートメントにも行きましたよ。当時は、もう誰も住んでいない状態で、草がぼうぼうで森みたいになっていて。子どもにとってはどこか不気味なお屋敷に思えました。怖いもの見たさで兄貴に連れていってもらったんですよ。

それから、近所に外国の駐在員が住む社宅があって、当時は今ほど外国の人は見かけなかったので「アメリカ人は銃を持ってるから見にいこうぜ」なんて、好奇心から見に行こうとしたり。そんな子ども時代でした。

── 代官山から引っ越したのはいつですか?

小痴楽 細かく言うと、僕が小学2年生の時にいったん代官山を出て杉並区の井草へ引っ越しました。でも、半年後くらいに兄貴と親父が学校でいざこざを起こして、また転校しなきゃいけなくなったんですよ。それで、ひとまず親父だけを井草に残して母ちゃんと子どもたちだけ代官山に行き、もともと通っていた小学校に出戻りました。井草へ“正式に”引っ越したのは、兄貴が小学校を卒業してからだから、僕が小学4年生の頃ですね。

── ちなみに、どんないざこざだったのでしょうか?

小痴楽 親父が学校に竹刀を持って乗り込んだんですよ。もともとの原因は兄貴が同級生と喧嘩したことだったんですけど、間に入った先生が喧嘩両成敗ではなく、一方的に兄貴が悪いと決めつけて。それに親父が怒っちゃった。

── なんと……。

現在も代官山には服を買いによく行かれるそう。昔から通うお気に入りのお店は「HOLLYWOOD RANCH MARKET(ハリウッドランチマーケット)」

小痴楽 まあ、親父は変わった人でしたね。そもそも代官山から引っ越すことになったのも、親父の鶴の一声でしたから。当時、代官山アドレスという商業施設ができることが決まって、親父が突然「若者でやかましくなるから引っ越すぞ」と。家族に相談することもなく、勝手に物件も決めてきてしまったんです。「もう契約してきた。庭もあっていい家だろ」なんて言って。父は子どもの学校の手続きのこととかは何も考えないので、その翌月には慌ただしく引っ越すことになりました。

── その時、お母さんはなんとおっしゃっていたんですか?

小痴楽 意外と「あら、そう」みたいな感じでしたね。親父が引っ越すぞと言った時には、もう新しい家の間取図を見ながら家具の配置を考えていましたから。たぶん、母ちゃんも引っ越したかったんじゃないですかね。母ちゃんはネズミが大嫌いなんですけど、当時住んでいた所に出没していたネズミはやたらとデカいんですよ。何度か遭遇して失神したりしていたので、実はネズミとおさらばできるのを喜んでいたのかもしれません。

── とはいえ、子どもにとっては引っ越しって一大事ですよね。転校しなきゃいけなくなりますし。

小痴楽 僕はイヤでした。大人にとっては都内間の移動なんて大したことないけど、子どもの頃って町内を離れるだけで、二度と友達と会えなくなるような絶望感があるじゃないですか。それこそ、小学2年生で転校が決まった時は、クラスのみんなが泣きながらお別れ会をしてくれて。

でも、それから半年後くらいに同じ学校へ出戻るわけじゃないですか。あの時の同級生の冷たい反応ったらなかったですね。「どの面下げて戻ってきたんだ。(餞別であげた)プレゼント返せよ!」くらいの感じで。その後、再び転校する時はもう、あっさりしたもんですよ。「どうせ、また戻ってくるんじゃないの?」みたいな反応で寂しかったです。今回はマジなんだけどな……って(笑)。

授業をサボり、吉祥寺の喫茶店で時間を潰した中学時代

── 引っ越し先の井草の街の印象はどうでしたか?

小痴楽 井草八幡宮の目の前の家だったので、とても静かな環境でした。歩いている人たちもちゃんとしているというか、良い意味でおとなしい街という印象を受けましたね。

井草八幡宮

思い出深いのは、八幡宮の縁日です。ものすごく規模が大きくて、ありとあらゆる屋台が出ていました。特に好きだったのは「型抜き」の屋台です。当時はうまく成功すると景品がもらえてがっぽりでした。

で、ふと屋台の奥を見ると、うちの親父が子どもたちに型抜きを教えてるんですよ。子どもたちから「師匠、師匠」って呼ばれていて。落語ではなく、型抜きの師匠として名を馳せていましたね。

あとは、井草から荻窪まで親父を迎えに行ったことも覚えています。親父が荻窪で飲んだあと、夜中の2時くらいに「車で迎えにきてくれ」と言うので、母ちゃんと二人でよく行きました。帰りに駅前のラーメン屋に連れて行ってもらえるのが楽しみで。

JR荻窪駅北口前

小学生にして、深夜ラーメンの背徳感を味わっていましたよ。なんだか特別な経験をさせてもらっているような感覚がありました。

── なんというか、一つひとつのエピソードが強いですよね。

小痴楽 そうですかね。まあ、井草での思い出といったらそれくらいかな。当時は吉祥寺で過ごす時間のほうが長かったから、どちらかというと吉祥寺のほうが地元感がありますね。

JR吉祥駅北口前

── 吉祥寺にある小中高一貫の学校へ通われていたんですよね。

小痴楽 そうですね。でも中学からは、まともに授業に出なくなりましたけどね。今もそうですけど、子どもの頃から朝が弱くて、とにかく起きられないんです。中学時代は、毎日10時頃に目が覚めていました。当然、その時点で遅刻なんですが、とりあえず学校には行き、荷物だけ置いて外に出て、吉祥寺の喫茶店でコーヒーを飲みながら本を読んで時間を潰していました。昼休みになったら学校でみんなと遊んで、また喫茶店に戻って本を読み、放課後になったら部活に出る。そんな生活だから勉強は全くできなかったけど、楽しかったですよ。

「噺家なめんなよ!」担任教師の胸ぐらを掴む母

── その後、16歳の時に二代目・桂平治師匠(のちの十一代目桂文治)の門下へ入ります。落語家を志したのは、やはりお父さんの影響ですか?

小痴楽 いや、実はそういうわけでもなくて。もちろん親父の職業は知っていましたが、自分もそれになろうとは全く思っていませんでした。どちらかというと、しゃべくり漫才のほうが好きで、漫才師に憧れていた時期もあったくらいで。

きっかけは15歳の時、たまたま僕の部屋にあった落語のCDを聞いたこと。そこで初めて、落語って面白いなと思いました。その後、高校1年生の2学期に早々と留年が決まったこともあって、このまま高い学費を払ってもらって学校にいても仕方ないから、落語家になろうかなと。まあ、今にして思えば舐めてますよね。

── それで、お父さんに相談した。

小痴楽 はい。そしたら親父は、「これを読んでみろ」と立川談志師匠の『現代落語論』を渡してくれました。それが面白かったので、談志師匠の落語の音源も聴かせてもらったんです。ただ、当時の僕は子どもすぎて、談志師匠の落語の良さを理解できなかった。しかも大馬鹿野郎なので、親父にも「この人、センスない」なんて軽口を言ってしまって。そしたら、親父からぶっ飛ばされました(笑)。



その直後に親父が病気で倒れてしまったので、なかなか話し合う機会もなかったんですけど、2カ月後に意識が戻った時に「もし、まだやりたい気持ちがあるなら、(師匠になってくれる人を)紹介するぞ」と言ってくれました。それで、当時の桂平治師匠(現・十一代目桂文治)に弟子入りさせていただくことになったんです。

── 高校も中退して、芸の道一本でいこうと。

小痴楽 はい。その時点で僕は辞めるつもりだったんですが、母ちゃんが「とりあえず、学校に話し合いに行こう」と言うので、担任の先生と三者面談をすることになりました。

そこで先生が「噺家なんて稼げないし、食っていけないぞ」と言ったら、母ちゃんがキレちゃって。僕が頭を上げた時には先生の胸ぐらを掴んでいて「お前の年収言ってみろ! 噺家なめんなよ!」って怒鳴りつけてた。なぜか僕が、「まあまあ」って二人をなだめましたよ(笑)。うちの母ちゃんもやんちゃだったから、気が強いんですよね。そんな両親の元で育ったら、まあこんな人間になっちゃうよね。

師匠に嫌われたくない一心で、必死に落語を覚えた

── 修業時代のことも教えてください。当時はどんな生活でしたか?


小痴楽 そうですね。寄席に入って本格的に前座修業が始まると数年間は無休になるのですが、見習いの時はたまの息抜きで友達と遊ぶ時間もありました。

ただ、基本的には師匠の所へ行かない日も、落語を覚える時間に充てていました。なんせ僕は勉強嫌いで、ノートすらまともに取ったことがなかったから苦労しましたね。小学生の時から手ぶらで学校へ通い、友達から一枚ちぎって貰ったノートの切れ端で1日やり過ごすようなガキだったから、漢字すらまともに書けない。落語を書いて覚える時も、全部ひらがなだから呪文みたいになっていました。一つの噺を覚えるのに、ノートを何十ページも消費して。大人になって漢字を習得してから書き直したら、十数ページ節約できましたよ。漢字ってエコだなと思いました(笑)。

前座修業に入ってからは、より稽古に没頭するようになりました。当時は寝言でも落語をやっていたと、友達から言われたこともあります。それくらい必死でしたね。

── 勉強嫌いの小痴楽さんが、そこまで頑張れた理由は何だったのでしょうか?

小痴楽 もちろん落語家として一人前になりたいという思いはありましたが、それ以上に師匠に嫌われたくない、この世界で生かしてもらいたいという気持ちが強かったですね。師匠にクビと言われたら、もうこの世界にはいられませんから。そうなったら中卒の自分を雇ってくれる所なんてなかなかないでしょうし、何とかしてしがみつくしかないと思っていました。

落語に出てくるような、温かい人たちに囲まれていたい

── 修業時代はどこに住んでいましたか?

小痴楽 巣鴨ですね。18歳の時に、実家が井草から巣鴨に引っ越したんです。巣鴨はもともと母方の両親の実家があったので、小さい頃から馴染みのある街でした。

巣鴨は代官山と同じく、人と人の距離感が近い街だなと感じました。みんなが知り合いのようで、街ですれ違えば自然と会釈をするような空気が心地よかったです。

それだけに、結婚してから住んだところはまるで様子が違っていて驚きましたね。都心の人気エリアと呼ばれる住宅地でしたがマンションのお隣さんと道端で会っても知らんぷりだし、たまに言葉を交わす機会があっても他人行儀というか、どこか冷たい。それくらいの付き合い方のほうがいい人もいると思いますが、僕には合わなかったです。

── ちなみに、今はどちらにお住まいですか?

小痴楽 子どもが生まれてから祐天寺に引っ越しました。この街がまたね、最高なんですよ。みんな普通にあいさつするし、近所の夫婦は「余ったおむつあるけど、いる?」なんて言ってくれる。逆に、僕が差し入れでもらった食べきれないお菓子をお裾分けしたら、快く受け取ってくれます。

祐天寺駅前

あと、ベビーカーを押して歩いていたら、おばあちゃんが「かわいいわね〜」って子どもを触ってきます。そういうのを嫌がる人もいるんでしょうけど、僕は子どもにはいろんな大人と触れ合ってほしいから、ありがたいですね。目上の人とコミュニケーションをとることで礼儀も覚えるだろうし、人見知りもしなくなりそうだし。

── 地方から上京してきた人がよく「東京は冷たい」と言いますが、小痴楽さんはずっと東京にいながら、東京の冷たさも温かさも両方経験しているんですね?

小痴楽 そういえばそうですね。それだけ東京にもいろんな街があるってことですよね。代官山がいい例ですが、都心だからって冷たいとは限らないと思いますよ。


── 小痴楽さんがいろんな東京の街に住んできた経験は、落語にも生かされていますか?

小痴楽 生かされていると思いますよ。特に、代官山や巣鴨、祐天寺で出会った人たちの影響は大きいです。そうした人の優しさを肌で感じることは、落語家としてとても大事なことだと思うので。

なぜなら、落語の中に出てくる登場人物って、基本的に温かいんですよ。人を貶めたり、仲間はずれにしない。「与太郎」(※落語の演目によく登場するキャラクター)と呼ばれるような馬鹿で間抜けな人間も、決して切り捨てたりしないんです。

僕が一番好きなお噺に『錦の袈裟』ってのがあるんですけど、あれなんかまさに与太郎が吉原に行くためにおカミさんを言いくるめる算段を、仲間みんなで考えてあげるお噺ですからね。

また、こんな小噺もあります。

夫「おう、帰ったぞ。今な、隣ん家で子どもたちが泣いてるから何だろうと行ったら、亭主が倒れちゃって米を食えない。芋ばっか食ってるってんだよ。育ち盛りの子どもたちがお腹空いたって、かわいそうだ。うちの米炊いて、持ってってやれ」

妻「分かりました。行ってきます」

夫「おう、どうだった。喜んでたか。そうか良かったね。じゃあ俺らも、おまんまにしようか」

妻「米は全部持ってっちゃいましたよ」

夫「……そうか、じゃあ芋でも食うか」

っていう。

── すごい……。鳥肌が立ちました。

小痴楽 この、困っている人に米を全部あげて、自分たちは芋を食うっていう感覚が好きなんですよね。「分ける」んじゃなくて「あげる」。おカミさんもカッコいいですよね。文句を言わず、一言「分かった」って。考えずに動く優しさみたいなものが、全て詰まっている小噺だと思います。

このお噺は、自分が育ってきた環境で見た風景だったり、やりとりだったりと重なる部分もあります。これからも、そんな街にいたいと思うし、そういう人たちが出てくる落語をやっていきたいですね。

お話を伺った人:柳亭小痴楽(りゅうてい・こちらく)

1988年、渋谷区代官山に生まれる。2005年、16才の時に入門を申し出た途端に父が病に伏したため、二代目桂平治(現:桂文治)へ入門。2008年6月 父(痴楽)の門下に移り「柳亭ち太郎」と改める。2009年、父(痴楽)の没後の、柳亭楽輔(父(痴楽)の弟弟子)門下へ。二ツ目昇進を期に「三代目 柳亭小痴楽」を襲名。2011年に、「第22 回北とぴあ若手落語家競演会」奨励賞を受賞。2015年、2016年には「NHK 新人落語大賞」ファイナリストに。2019年、真打昇進。自身初のエッセイ集「まくらばな」(ぴあ出版)を上梓。
WEB媒体『PINTSCOPE(ピントスコープ)』にてコラム「柳亭小痴楽〜映画世渡り問答〜」や月刊誌「小説現代」(講談社)にて、時代小説の書評を隔月で連載中。

聞き手:榎並紀行(やじろべえ)(えなみ のりゆき)

榎並紀行さん

編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。「SUUMO」をはじめとする住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。
Twitter: @noriyukienami
WEBサイト: 50歳までにしたい100のコト

編集・風景写真:はてな編集部

27歳、学芸大学で遅れてきた「大人の青春」を過ごした話|文・三浦咲恵

著: 三浦咲恵

始まりは偶然、あるいは運命だったかもしれない

「大人の青春だね、羨ましいよ」私が学芸大学(学大)で過ごした5年間を、後に夫はそう表現した。なんという的確な表現。とてもしっくりくる。

そもそも学大に住みはじめたのは、ただの偶然だった。もともとは名前すら知らなかった場所だ。

今から10年前、当時市ヶ谷に住んでいた私は三軒茶屋に夢中だった。最初は友人に馴染みの店に連れて行かれたことがきっかけだったが、すぐに友人抜きでそのお店に入り浸るようになった。東京という場所の楽しさを教えてくれた場所でもある。市ヶ谷でカメラマンアシスタントとして手取り12万であくせく働きながら、往復700円+70分をかけて毎晩のように三軒茶屋まで飲みに行っていた。

そこに行くと「おー咲恵ちゃん!」と迎えてくれる人たちがいて、肩書きや年齢関係なく全員と友達になれた。それが例え一過性のものでも、その楽しさや新鮮味は、当時の私にとってはなくてはならないものだったのだと思う。お酒が弱いくせに、金がないくせに、まったくよく生きていたなと思う。

そんな生活を半年〜1年ほど続けた頃、とあるカメラマンの方の専属アシスタントになるのを機に、ついに引越すことになった。引越し先の第一候補は言うまでもなく三軒茶屋だ。とりあえず通える距離ならいい、風呂無しでも全然いい。そんな思いで数日間不動産検索サイトにかじりつき、ある程度目星をつけた上で、それらの物件を扱っている不動産屋を訪ねることにした。そして私は降り立ってしまったのだ、学芸大学駅に。

電車からホームに降りた時点で気持ちが良かった。地下鉄の駅や三軒茶屋の駅とは違う、太陽や風を感じることのできる、東急電鉄の抜け感のあるホーム。高いビルや騒音、目が疲れてしまうような大きな看板広告が一切なく、気持ちよく空を眺めることができた。

改札を出てからは、その活気にも驚いた。若者からお年寄りまで、たくさんの人が行き交っていた。ベビーカーや小さな子供も多い。会社勤めの人たちばかりの市ヶ谷と違い、その多様性や生活感が心地よかった。

駅の左右に広がる商店街も魅力的だった。おそらく私はこれに恋に落ちてしまったのだ。なんといっても八百屋があった。

八百屋? と思うかもしれないが、八百屋は市ヶ谷にも三茶にもなかった。生まれ育った大分の田舎にもなかった。田舎(それもド田舎)にあるのは、スーパーか直売所だ。かつてテレビで見ていたような、八百屋で野菜を買うという行為への憧れを、その時初めて自覚した。

もちろん八百屋だけではない。学大の商店街には本当に何でもあった。薬局やスターバックスなどのカフェはもちろん、何十年もやっているであろう和菓子屋にクリーニング屋、美容室に肉屋。それに加えて雑誌から飛び出てきたような洒落たパン屋や花屋、セレクトショップなどもあった。なんなんだこの街は……足りないものがないじゃないか。エモい公園(三谷児童遊園)まであるぞ。


洒落た花屋の店頭で泳ぐ金魚たち

そんなわけで、不動産屋まで辿り着く前に学大の魅力にノックダウン寸前だった私は、当初の三軒茶屋に近い内見予定の物件を素通りし、無事、学芸大学駅が最寄りのアパートに落ち着くことになる。家賃は破格の5万7000円。駅まで歩いて15分だが、自転車があるので余裕だった。お風呂もちゃんと付いていた。カチカチ回さないとお湯が出ないタイプだったけれど、それも楽しかった(気になる人は、“バランス釜”で検索)。角部屋で太陽の光がふんだんに入るその部屋を私は一目で愛した。

一年半経ってから気づいた、学大の本当の魅力

そして幕を開けた学大での生活。しかしながら、専属アシスタントとして働いていた最初の一年半は、当たり前だがお金もないし忙しいしで、せっかく移り住んだ学大を掘ることがあまり出来なかった。というより商店街で買い物して帰るだけで、十分満足していたのだ私は。変化が訪れたのは、カメラマンとして独立して少し経ったある頃だった。

その日の夜、おそらく何かの撮影帰りで無性に甘いものが食べたくなった。スマホでググったのか、フラフラ行き着いたのか覚えていないが、とにかくその夜私は初めて「クレープ シエル」を訪ねた。こんなところにクレープ屋が! と思ったのを覚えている。多分。なんにせよ、西口側に住んでいたので、シエルがある東口側は一年半までの間ノータッチだったのだ。今となっては信じられない。

最初の訪問では、残念ながら入れなかった。店主の女性に「ごめんねー」と言われた。たまたま19時閉店の日だったのだ。


クレープ シエル(移転前)

諦め切れず、改めて別の日に訪れた。その時のお客は私だけだった気がする。6~7席ほどの、カウンター席のみの本当に小さいお店だった。真ん中の方の席に座って、クレープをオーダーして待つ間、目の前に吊り下げられていたバナナの束に釘付けになった。

お、大きい……! これはもしや……。「すみません……そのバナナって南米産ですか?」と私は聞いていた(正確には“聞いていた”らしい。店主のまりちゃん曰く「最初にした会話はそれだった」)。ちなみに南米産だった。


調理器具やコーヒーが、狭いながらも可愛く並んでいる。バナナが美味しそうだ

なんだお前はバナナ評論家か、とツッコみたくなるが、これは私にとって重要だった。私は日本の市場をほぼ制圧している東南アジア産のバナナの味がもともとあまり好きではなく、エクアドルやペルーなどの南米産のバナナが好きだったのだ。ただ日本では高価なのであまり買えないし、クレープ屋でもコスパの問題で使われることなんてほとんどないと思っていた。けれど、このお店にはそれがある。そのことに感動してしまった。

もともと人と会話をするのが好きな上にその店のアットホームな雰囲気も相まって、その後も事あるごとに、まりちゃんにいろいろとお店のことを聞きまくった。結果、一つひとつに対するこだわりが過ぎることが判明した。例えば、生クリームやカスタードはもちろん、チョコレートなどのソース類もすべて手作り。コーヒーは特製ブレンド豆を一杯ずつハンドドリップしている。季節になれば栗の渋川煮を一個一個筋を取りながら作るし、定番メニューのツナすらマグロから手作りしていた。

しかもこの店はアルコールも提供する。ワインから焼酎からウイスキーまで、一般的なセレクションはもちろん、お酒が大好きな店主が選んだちょっとこだわりのお酒まで何でもある。レモンを手絞りしたシンプルなレモンサワーはもちろん、ソフトドリンクで言えば手作りのジンジャーシロップで作るジンジャーエールも絶品だ。もはやバーだ。よく見たら「手作りクレープ & Bar シエル」と書いてあった。バーだったわ。タバコも吸えるし、喫煙者のオアシスだった。ちなみにホールスパイスを煮込んで作るチャイも絶品である。


毎回頼んでいたレモンサワー

気づいたら、あっという間に常連になっていた。シエルは常連客がとにかく多い。20代はもちろんシニア(?)世代まで、ありとあらゆる層の人たちがシエルの常連だった。クレープを求める人、お酒を求める人、タバコを心置きなく吸える場所を求める人、その両方……性別も年齢もバックグラウンドも関係なく、その場ではみんながフラットでリラックスしていた。居心地が良すぎて、私も毎日通うまでそう長くはかからなかった。

常連のあいだで広がる美味しいの輪

味にこだわるシエルには、食通の常連も多い。シエルで仲良くなったみーちゃんは、学大近辺の美味しいお店をたくさん知っていた。教えてもらったそれらのお店は、今でも私の胃袋を離さない。月一回は電車を乗り継いで食べに行く。どれも個性的で、とにかく美味しいのだ。


タイ料理屋のプレミアムなパッタイ(タイ風焼きそば) メニューは不定期で更新


「エムサイズ」の鷹番トースト まずはそのまま、その後はバターと蜂蜜がおすすめ

名前を出せないタイ料理屋は、初めて食べたその日から今でもずっとナンバーワン・タイ料理屋オブマイライフだ。泣けるほど美味しい。エムサイズという名のパン屋さんは、天然酵母というワードが世間で流行るずっと前から自家製酵母でパンを作っている。マスカット酵母、あんず酵母、りんご酵母、びわ酵母、フルーツトマト酵母……この間は、黒文字酵母なんてのもあった(黒文字〈クロモジ〉という植物を初めて知った)。どのパンも個性的で美味しそうで、毎回何を買おうか激しく悩む。とりあえず上の鷹番トーストはマストだ。酵母の風味が最高に美味い。

そして、ほとんど実家になったクレープ屋シエル

学大の美味しいお店を書き出したら止まらないので、とりあえずこの辺で話をシエルに戻そう。気付けば、仕事帰りだろうがそうじゃなかろうが、毎日通ってクレープを食べたり、レモンサワーを飲んだりして夜中までいるようになった。一人暮らしというのは最高に気楽だし自由だが、ふと意識するとちょっと寂しい。シエルはそんな私を癒してくれる存在で、第二の実家、心の恋人だった。


自分の誕生日が店のカレンダーに書き込まれたのが嬉しくて撮った写真

ほかの常連さんたちも、少なからず同じような感覚があったのだろう。店主のまりちゃんが忙しすぎてキャパ越えをすると、スッと自然に席を立ち、流しに立って洗い物をやり始める。会計も計算して釣り銭勘定も自分でやる。私も同じで、まりちゃんが手が離せないときは代わりに電話に出たり、お客さんにメニューの説明をしたりしていた。お客さんだけど、お客さんだけじゃない感じ。

そしていつのまにか、がっつりお店の中の人になっていた。インスタの公式アカウントを立ち上げ、季節のクレープの写真を撮り(これは本業*)文章とともにせっせとアップした。写真をプリントしてはPOPとして店の壁に貼り、メニュー表もデザインして店に置いた。完全に自由にやらせてもらっていたし、ただただ楽しかった。


秋限定 洋梨のクレープ

急に終わりを告げた学大での青春

ずっと終わらないと思っていた日々だが、当たり前のように変化は訪れる。私が結婚&引越しをすることになったのだ。ずっとパートナーがいなかったが、突然出会い、付き合うことになり、あっという間に結婚した。相手はオランダ在住だったので、付き合って一年後にはアムステルダムの住人になっていた。

私がオランダに住んでいる間に、シエルも移転することになった(場所はあまり変わっていない)。カウンターだけの小さな店は、今や三倍ほどの広さになった。時間帯によっては従業員もいて、もはやお客がカウンターの中に入る姿はない。

学大に住んでいた5年間、その中でもシエルにどっぷり浸かっていた3年半は、きっと夫の言うとおり、遅れてきた“大人の青春”だった。恋人と制服チャリ二人乗りの代わりに、飲み友とのチャリ二人乗りは叶った。明け方までファミレスのドリンクバーでダベる経験の代わりに、明け方まで飲み屋でダベる経験をした。花火もした。明け方に騒ぎすぎて卵を投げられる貴重な経験もしたし(反省)、警察に注意される経験もした。最後はどうかと思うが、まあ人生にこういう時期が少しはあっていいと思う。

普通の高校も大学も行っていない私には今でも青春コンプレックスがあるが、今なら胸を張って言える。私は学大で青春を過ごした! と。


やたら嬉しそうな酔っ払い 2016年当時の著者

変わらない愛と変わらない安心感

オランダから帰国してそろそろ二年。お店は変わったが、店主と常連客とクレープの味はずっと変わらないシエルに、今は娘を連れて通う。もちろんタイ料理屋とパン屋にも通う。今は割と遠くに住んでいるのでなかなか行けないが、学芸大学駅に降り立つ度に、実家に帰ってきたようにホッとするのだ。

三歳の娘のお気に入りクレープはバターシュガー。私と一緒だ。母はいつの日か、娘がこの店の常連になってくれる日を心待ちにしている。


著者:三浦咲恵

三浦咲恵

1988年生まれ、大分県出身。サンフランシスコ市立大学・写真専攻を卒業。その後東京でスタジオアシスタントとして経験を積み、2014年に写真家・鳥巣佑有子氏に師事。16年に独立し、雑誌や広告で活動を開始。17年、雑誌『コマーシャルフォト』にて“新世代のフォトグラファー34人”に選出される。18年に写真展“Apple Ball”を開催し、同名の写真集も発売。ショートムービーの撮影も始める。19年オランダ・アムステルダムへ居を移し、21年に帰京。20年からイタリア・ローマの写真コンペ「Passepartout Photo Prize」の審査員。一児の母。好きなものはコーヒー、パン、スパイスカレー、娘。趣味は漫画。
Instagram:@sakiemiura_foto
note:https://note.com/sakiemiura
HP:http://www.sakiemiura.com

編集:岡本尚之

「群馬県民は謙虚だけど地元愛がある」パーパー・ほしのディスコさんが語る、群馬県沼田市の思い出

編集: 小沢あや(ピース株式会社) 取材、構成: 伊藤美咲 撮影:小原聡太

お笑いコンビ・パーパーのツッコミ担当の、ほしのディスコさん。個人YouTubeチャンネル「ほしのディスコちゃんねる」にアップした「歌ってみた」動画が話題となり、歌手デビューしたことでも注目を集めています。

ほしのさんは19歳まで群馬県沼田市で過ごし、上京後も定期的に帰省しているそう。先日発売された自伝的エッセイ『星屑物語』(文藝春秋刊)にも、沼田市で暮らしていた頃の話がたくさん収録されています。今回は群馬時代の思い出や、上京後も変わらない群馬県民のマインドなどを伺いました。

沼田市の自然と共に過ごした幼少期

―― ほしのさんは19歳で上京するまで、群馬県の沼田市で育ったそうですね。印象に残っている幼少期の思い出は?

ほしのディスコさん(以下、ほしの):沼田市は畑と崖しかないような田舎だったので、基本的に外で遊んでいました。小学生の頃は農業用水の水を堰き止めたり、よその家の庭のゴルフボールを拾って、的当てみたいに壁に投げたりして……子どもだから許されるような遊びをして怒られていました(笑)。

―― 豊かな自然の中で、子どもらしい遊び方で楽しんでいたんですね。

ほしの:あとは、秋になるとよく祖母とイナゴやキノコを取りに行っていたのが印象に残っています。山に行く道中も宝探しをしている気分で、誰かが落とした靴とかを拾ってました。遊びに行ける施設などが少ない分、その場にあるもので、自分なりに遊んでいましたね。捕まえた虫同士を戦わせるとか(笑)。

―― 中高生になると外で遊ぶ機会も減ると思いますが、遊び方はどのように変わりましたか?

ほしの:実家のすぐ近くにある「望郷の湯」という温泉施設か、カラオケに行くことが多かったです。ほかには、当時ヤマダ電機にポイントカードを入れたら100ポイントもらえる機械があったので、そのためだけに行ったりしていました(笑)。

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―― 高校生の頃には、テレビ番組『田舎に泊まろう!』でレギュラーの松本康太さんが泊まりにきたこともあるそうですね。松本さんはどのような反応をされていましたか?

ほしの:松本さんも「本当に何もないな」と言っていましたね(笑)。食事のときは地元の郷土料理を出すのが定番だと思うんですけど、沼田市にはあまり有名な郷土料理がないので、母親がスーパーで買った刺身を出していました。群馬には海がないのに(笑)。

―― お母さまのおもてなしの気持ちが現れていますね。ほしのさんは昔から音楽が好きだったと思いますが、よく通っていたCDショップなどはありますか?

ほしの:地元に唯一あったCDショップが「文真堂書店」だったので、近くを車で通ったら必ず寄ってもらっていました。当時はまだネットもなかったので、音楽の情報は全部ここで得ていましたね。

シングルマザーとして育てあげてくれた母との思い出

―― エッセイ本「星屑物語」の中で、お母さまとのエピソードも綴られていますね。

ほしの:子どもの頃は、毎週母と病院に通っていたんです。当時は母も看護師として働いていて忙しかったので、病院に行くまでの車の中で、その1週間で起きたことを二人でゆっくり話していました。

帰り道にはよく「びっくりドンキー」に行っていたんですが、あるとき母親がガラスを自動ドアだと勘違いして、思い切りぶつかったことがあって(笑)。これは、いまだにびっくりドンキーを見るたびに母と話しますね。

―― びっくりですね(笑)。怪我がなかったならよかったです! 群馬の女性はたくましいと言われていますが、実際はどうなんでしょう?

ほしの:僕の母もたくましいですが、周りの女の子も強かったですね。小学生の頃の学級委員長は絶対に女の子で、ケンカみたいになると僕がいつも追いかけられてました。ケンカと言っても、掃除の役割分担で言い合いになるとか、ちょっとしたことですけど(笑)。1学年で約40人しかいない小さな小学校だったので、みんな仲はよかったですね。

19歳で「夢を叶える場所」東京へ

―― 上京前、東京にはどんなイメージを抱いていましたか?

ほしの:僕の周りは「将来も群馬で働きたい」という友達が多かったこともあり、東京は「夢を叶える場所」というイメージが強かったです。だから僕は「芸人として有名になるまで地元には帰らない」と決めて、友達の連絡先を全部消して上京したんです。

でも1年足らずで『田舎に泊まろう!』の追跡取材が全国放送されてしまったので、すぐに芸人であることがバレてしまったんですよね(笑)。

―― 思わぬ展開でしたね(笑)。実際の東京生活はどうでしたか?

ほしの:最初に住んだのは足立区でした。近所のコンビニで働いていたのですが、店長さんが僕の芸人活動にすごく理解のある人で。シフトの融通を利かせたりすごく良くしてくれていたので、「店長さんのためにここで頑張ろう」と思って、働いていました。

その後、当時付き合っていた彼女が引っ越すタイミングで僕もバイトを辞めてしまったんですけど、それがなければ、ずっとそのコンビニで働いていたと思います。

―― その後は東京のどのあたりに住んでたんですか?

ほしの:人がたくさんいるところは苦手なので、亀戸、亀有、武蔵小金井のような下町感のある落ち着いた地域を転々としていましたね。

―― 今は東京生活も長くなりましたが、「東京に慣れたな」と思った瞬間はありましたか?

ほしの:一番は、夜道を歩けるようになったことですね。上京したての頃は「夜10時以降は外に出ない」と決めるほどに怖かったんですが、歌舞伎町のボウリング場でバイトを始めたときに免疫がついた気がします。人がたくさんいるところが苦手だと言いつつ、なぜか自分から賑やかな街に行っちゃってるんですけど(笑)。

上京してから実感する群馬のあたたかさ

―― 上京してから気づいたことや、群馬ならではの文化はありますか?

ほしの:群馬の実家では家の鍵を掛けていなかったんですよ。防犯という言葉と無縁で、家に帰ると近所のおばさんがお茶を飲んでたり、玄関前に「食べてください」って野菜が置いてあったりして。地元では知らない人でもすれ違うと挨拶する文化があって、すごくアットホームな雰囲気だったんですけど、東京に来てからそれが普通じゃないと気づきました。

―― 東京では近所付き合いがないことも多いですもんね。上京後はどのくらいの頻度で群馬に帰られていますか?

ほしの:上京したての頃は月に1回の頻度で帰ってきてたんですけど、東京に慣れてきてからは年に1回ほど帰っています。僕は10月生まれなので、誕生日プレゼントとしてインフルエンザの予防接種を母親の病院で打ってもらうために帰ったこともありました(笑)。これまでは電車で3時間以上かけて帰っていましたが、最近は車を買ったので、これからはもう少し頻繁に帰れるようになりそうです。

―― 群馬に帰省したときに必ず寄る場所はありますか?

ほしの:「榛名神社」です。相方のあいなぷぅから教えてもらった占い師さんに、「榛名神社を大切にした方が良い、お願い事をすると叶うよ」と言われて。高校の同級生の子がやっている神社ということもあって、必ず行くようにしています。

―― 東京で活動するなかで群馬出身のタレントさんや芸人さんと会うこともあると思いますが、交流はありますか?

ほしの:タイムマシーン3号の関さんはよく番組で一緒になるので、「群馬帰ってる?」みたいな話をすることはあります。僕は、群馬出身のタレントビックスリーは、中山秀征さん、井森美幸さん、JOYさんだと思っていて。JOYさんにはこの前お会いできたので、中山さんと井森さんにもいつかお会いしたいですね。

あとは、先日【群馬のヤンキー】俺たちの青ハルアゲインさんとコラボ動画を撮らせてもらいました。

youtu.be

この二人は元々芸人なので、群馬で開催されたお笑いライブに一緒に出たこともあるんです。今はYouTuberとして活動する中で、コラボ動画のお声がけをいただきました。

―― 本来は穏やかなほしのさんがヤンキーの真似をしているのも面白かったです。

ほしの:ヤンキーに絡まれないように生きてきたので馴染みはないんですけど、周囲では「地元のデパートには夕方以降近づかない方がいい」という噂を聞いたことがありましたね。群馬にもヤンチャな人はいたと思いますが、実際のところはカツアゲなどに遭ったことはないです。

群馬県民は謙虚だけど地元愛がある

―― 群馬県民に共通するマインドはありますか?

ほしの:他の県の方に比べて、物静かだと思います。「とにかく前に出て目立ちたい!」というより、自分のタイミングを見計らってから出る人が多いです。芸人でも、タイムマシーン3号の関さんはじめ、ロバートの山本さん、宮下草薙の宮下さんとか。周りをよく見て冷静に考える力があるのかなと。

―― その県民性はどこから来るんでしょう。

ほしの:あまり目立たない県だと自分でも思ってるからなのか、県民もあまりガツガツ前に出ないというか。でも、群馬のことが好きな気持ちはみなさん持っていると思います。

―― ほしのさんは、他県の人に群馬のおすすめを聞かれたとき、どこを紹介しますか?

ほしの:よく聞かれるんですけど、僕も18歳までしか群馬に住んでないし、観光地には詳しくないんですよね。「とりあえず草津温泉に行ってほしい」と言っているんですけど、実は僕もまだ行ったことはないです(笑)。

群馬は攻めた味の商品を出しがち?

―― 東京で活躍するほしのさんの姿を見たお母さまや地元の方からの反響はどうですか?

ほしの:たまに同級生から「テレビ見たよ」という連絡が来ますね。僕は上京前に連絡先を遮断してしまったので、一方的にちょっと気まずいんですけど(笑)。母から聞いた話だと、地元の友達はみんな結婚してるみたいなので、僕も結婚したら同窓会を開きたいです。

―― 今は帰省しても、友達に会ったりはしないんですか?

ほしの:そうですね、お忍びで帰ってます。去年、昔バイトしていた「ベイシア」というスーパーに母と挨拶しに行ったんですよ。僕が働いていたことは覚えてくれてたんですけど、今芸人であることは全然知られていなくて。帰省するときに、「周りの人にバレて騒ぎになったら嫌だな」と思っていた自分が、ちょっと恥ずかしくなりました(笑)。

―― ご挨拶もお母さまと行かれたんですね、とても仲良しですね。

ほしの:母はすごく応援してくれてますね。「職場の人からサイン欲しいって言われたから送って!」と嬉しそうに話してくれるので、僕も嬉しいです。この前は「僕には地元に行きつけの店がない」と話していたら、「『行きつけになりたい』と言っているお店があるから、今度一緒に行こう」と言ってくれて。

―― まさかのお店側からオファーが! どこのお店でしょう?

ほしの:文真堂書店の近くにある「あさひや」という美味しいラーメン屋さんです。1回行って、また呼ばれたので今度行ってきます。

―― グルメといえば、他におすすめの群馬名物はありますか?

ほしの:登利平の「鳥めし」は本当においしいです。これはぜひみなさんにも食べてほしいですね。

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群馬といえば焼きまんじゅうも有名です。そのまま飴にした「焼きまんじゅう風ドロップス」もあるんですけど、結構独特な味がします(笑)。なぜか、群馬は変わった味の食べ物を出しがちなんですよね。「ペヤング」の激辛とか。ちょっと攻めすぎちゃうんですよ(笑)。

―― 名物を生み出そうとしてるのかもしれないですね。群馬で実現したい目標はありますか?

ほしの:前橋にある「グリーンドーム」という会場で、歌とお笑いのライブがしたいです。2万人くらい入る場所なので、相当頑張らないといけないんですけど(笑)。back numberさんやBOØWYさんといった、群馬出身の方たちと一緒に実現できたら嬉しいです。

お話を伺った人:ほしのディスコさん(パーパー)

1989年10月23日生まれ。群馬県沼田市出身。2014年、あいなぷぅとともに男女コンビ「パーパー」を結成。 キングオブコント2017、およびR-1ぐらんぷり2020のファイナリスト。2022年、星野一成名義で歌手デビュー。2023年4月24日にエッセイ本『星屑物語』を上梓。8月1日(火)には座・高円寺2にて『パーパー ほしのディスコ ONE MAN LIVE “ DUAL WIELDING ”』を開催予定。 マセキ芸能社 MASEKI GEINOSHA Official Site


編集:小沢あや(ピース)

「自分にとっての幸せと心地よさ」を教えてくれた街「成城学園前」|文・今井真実

著: 今井真実

結婚と同時に成城に住み始め、早いものでもう16年経つ。

ここの街に決めた理由はなんてことない。独身の頃から、夫も私も小田急線沿線で暮らし、世田谷区の住人だったため、土地勘があるところを次の住まいにと希望していた。「世田谷区 小田急線 ◯平米以上 ◯円以下 駐車場付き 1階」と不動産情報サイトで検索し、見つかったのが成城の物件だったのだ。

ただし、引っ越してくる前には一抹の不安があった。成城といえば、高級住宅地だと知られている。私たちが馴染むことはできるのだろうか。思わずドラマの世界に登場する怖い住人を想像してしまう。

……まあ、賃貸なんだし、水が合わなければ引っ越せばいい。それに内見の日に初めて成城という街を歩いたときに感じた空気は、のんびりとしてとっても気持ちが良かった。高い建物が景色を遮ることもなく、見上げると一面に晴れた青空。鳥のさえずりが空気を彩り、これからの新しい生活が希望に満ちているように思えたのだ。

園芸を眺めて散歩するだけでも楽しい街

成城はどんな街なのですか?と聞かれると、いつも答えに窮してしまう。ただ、ここの街を歩いていると、いつも思うのは「優しく美しい街」だということ。

成城に住み始めたときに、驚いたことがある。今までどの土地に住んでいても、こんなに造園業者のトラックが行き交う光景は見たことがなかった。邸宅の庭木は、プロフェッショナルによりきっちり管理されており、それを保つために家主も朝方は水やりや草抜きを熱心にしている。

てくてく散歩しながらその光景を見るたびに、ありがたいなあと思いながらシックな季節の花々を楽しんでいる。巨大な盆栽があったり、園芸が好きな人は散歩するだけで住人の美意識を感じるだろう。

駅前から住宅地まで続く街路樹は季節ごとに彩られ、春は一面の桜、秋は黄金色に染まる銀杏並木が続く。その光景はため息が出るほど美しい。ここでは急いで歩く人がめずらしく、道行く人は、ゆっくりと街路樹を見上げ、その光景を愛している。

その分、花びらや落ち葉は途方に暮れるほど多く、住民はいつも道を掃除している。自然の営みと共生し、景観を保つ。ここに暮らすようになってから、秋には私も落ち葉掃除をする日々だけれど、不思議と少し楽しんでいる自分がいる。

店内でお茶やモーニングも楽しめるお菓子の名店

街路樹の並びにある古くからある名店は、静かな佇まいで存在感を放っている。成城には有名な菓子店が2店舗あり、その個性と味わいは唯一無二だ。

100年以上続く「成城風月堂」は、手土産を買うときに一番最初に覗くお店だ。1階は洋菓子と和菓子が並び、2階に上がると喫茶室が併設されている。

なかでもここのモーニングは私の大好物。さくさくとした生地のキッシュは、菓子店がつくるだけあってバターの香りが濃厚。ほんのり甘味を感じ食べ応えがある。ポットでたっぷり出される紅茶とキッシュを交互に口に入れていると、ここで時間を過ごしていることに幸せを感じてふにゃりととろけそうになる。

朝の9時から開店しているから、急な用事の手みやげにも助かっている。近所の「成城あんや」も「成城散歩」もここの系列店で、モダンな和菓子の品揃えが面白い。それでいて、定番の季節のお菓子もしとやかなおいしさだ。

そして、風月堂から2、3分の場所にある「成城アルプス」。こちらもサロンが併設されており、まるでクラシックホテルのようにエレガントだ。

東郷青児氏の制作した絵画や、繊細な飴細工が展示されており、優雅で寛いだ雰囲気はいわゆる成城らしいお店ともいえるだろう。

自宅から自転車で5分程度の場所なのに、アルプスでお茶をするときには、おしゃれをしてすっと背筋を伸ばして訪れたくなる。もちろんテイクアウトもできるから、少しだけ甘いものを食べたいときには、小さなチーズケーキのリゼットフロマージュを買ってうきうきと家路に向かう。

台所を支えるスーパーマーケットも大充実

なんせ「成城学園前駅」なのだもの。成城は学生が多い街でもある。駅前には三省堂書店や、大型文具店の村田永楽園など、日常的に助かるお店も充実している。急に子どもが「明日ノートいる!」と言い出しても焦らなくていいのはありがたい。

そして私が、成城から引っ越せない最大の要因……それはスーパーマーケット事情。買い物が便利なのだ。駅の改札を出ると、真正面に「Odakyu OX」があり、ワインショップの「ENOTECA」が併設されている。ここのOXは大型店舗で惣菜店の「RF1」も入っていて、いつも人で賑わっている。

駅を出ると、左手にすぐ見えるのは成城石井の本店。うちに来るのは料理関係の方が多いので、「成城石井の本店ですよ」と言うとたいてい喜ばれる。とはいえチェーンのスーパーなので、他の店舗と品揃えは変わらないかもしれないけれど。

スーパーでは珍しく、精肉売り場には小売店のような注文コーナーがあり、お肉の種類の品揃えには目を見張るものがある。

中でも、私が欠かさず買うのはシチュー用の牛スネ肉。狙い目は特売日。国産和牛のびっしりとサシの入ったスネ肉の塊肉が、なんとグラム300円を切るのだ。成城石井の牛スネ肉は、この日ばかりは地域最安値ではないかしらと思いながら、いつも2パックほど余分に買っておき冷凍する。

私が最も頼りにしている「成城フードセンター」

そして、なんといっても一番頼りにしているのは、我が家から近い「成城フードセンター」。お肉と野菜と魚が揃っている個人商店の集まりで、地元の人たちが足繁く通う知る人ぞ知るお店だ。

フードセンターの「石井屋精肉店」のお肉は、とにかくおいしく「味」が良い。赤身肉の味わいの濃さ、霜降り肉の上品さ。ご年配の方は枚数単位で買われたりするのだけど、その柔軟さもいいなあと思っている。

日替わりのお惣菜は、ほっとする家庭料理の味で、お店の余った黒毛和牛でつくられているのにとってもお安い。金平牛蒡の牛肉が霜降り肉だったりするのでたまらない。ただ茹でただけ、蒸しただけの葉物野菜やブロッコリーも売られていてなんて痒いところに手が届くのだろう、と行くたびにほくほくしてしまう。

奥には「小島水産」という魚屋さんがあり、鮮魚やお刺身はもちろん魚の煮物やお惣菜が豊富。焼いた塩鮭、もずく酢もいちいち美味しい。つくり手の顔が見えるお惣菜は、心の疲れも癒してくれる。

スーパーのラインナップは大充実だ。まず、駅周辺だけでも八百幸、成城石井、Odakyu OX、オリンピック、OKストア、西友。さらに自転車を走らせればオオゼキ、クイーンズ伊勢丹、サミットストアまで行けるだろう。

これは料理家という職業柄、本当に助かっている。旬が少しずれたもの、変わったスパイスや果物、輸入食材、チーズ、ワイン。店舗によって、品揃えの個性があるから撮影前にはハシゴすることもしばしば。全てのスーパーが行動圏内にある。

正直、成城にもう少しこなれた飲食店があればなあと思うけれど、これだけスーパーがあると、みんなおうちでご飯を楽しむのだろう。

子育てを通して実感した、地域の人のあたたかさ

スーパーといえば、忘れられない思い出がある。子どもが小さい頃はなかなか今のように食材をじっくり選んだり、買い物を楽しむことができなかった。「どうか会計が終わるまでぐずらないでほしい」と、願うばかり。お目当てのものをさっとカゴに手早く詰めて、ご機嫌なうちにお店を出なくては、といつも急いでいた。

荷物を持ち、手を離した隙に子どもが走り出さぬよう目を配り、お財布から小銭を探す。ただスーパーで買い物をするだけなのに、小さな子どもがいるとなぜこんなに緊張が走るのだろう。

子どもが2歳くらいの頃だったろうか。その日も私は子どもがぐずらないうちにと、重い買い物カゴを右手に、左手に小さな手を握ってレジに並んでいた。

すると、先に並ばれていた上品な佇まいのご年配の女性の方が、ふと私の方を振り返り、「お先にどうぞ。私は急いでないから、いいのよ」と笑みを浮かべ譲ってくださった。遠慮するも、すっと私の後ろに回り込み「さあ」とおっしゃる。
レジの方も、どうぞどうぞと案内してくださり、私はお礼を言ってお会計を済ます。その間、女性はずっと子どもに話しかけてくださった。

この時ばかりではない。この街で暮らしていると、小さな優しさを受け取ることが多い。駐輪場から自転車を出すときは、そこにいる人がすっと横の自転車を押さえてくれる。道で転んでしまったときにはいろんな人が急いで集まって助けてくれる。自分がそうされていると、人にもそうしようと思う。ここでは優しさが循環されている、と日々の暮らしで感じている。

子どもを産み育て始めた時も、不思議と孤独感を感じることがなかった。遊び場や公園、児童館、図書館など子連れで行ける場所が多いのも一因だろう。大きくなった今も、至る所に「こども110番の家」の札を掲げた住宅があり、送り出す立場としてもありがたく思っている。

祖師谷公園に溢れる笑い声

祖師谷公園の中にあるハーブ園で、私は長年ボランティア活動を行っており、ここでも、地域の子どもとの交流が盛んだ。近くの保育園のお散歩コースに使ってもらったり、近所の小学校へ出張授業に行ったりもする。コロナ禍までは、児童館とも連携をとり、子ども達と一緒にお祭りを行っていた。

広大な祖師谷公園は自然に恵まれ、小さな小川でザリガニを釣ったり、子どもたちは走り回るだけで何時間だって遊んでいられる。いつも、ぼおっと子どもの姿を目で追いかけながら、ここはなんて豊かだろうと思っている。広い空があり、芝生が広がり、川が流れ、鳥や虫が花と遊び、人々の笑い声に溢れている。

小洒落た今風のお店や、行列のできるグルメスポットがあるわけでもないけれど……そんなことどうだっていい。私はここでの暮らしに満たされて、心からこの街を愛している。自分にとって、何が必要で、何を幸せと感じるか。それをこの街に教えてもらったからだ。

不動産情報サイトの検索ページで、条件を入れて、予算に合致しただけ。そんな偶然から住み始めただけだった。月日はあっという間に過ぎていき、私が人生で一番長く住んでいる街は、成城になった。

著者:今井真実

料理家。東京都世田谷区で料理教室「nanamidori」を開催していたが、コロナ禍をきっかけにフォトグラファーで夫の今井裕治が撮影した料理の写真とともに、レシピの情報発信を始める。著書に『毎日のあたらしい料理 いつもの食材に「驚き」のひとさじ』(KADOKAWA)、レシピエッセイ『いい日だった、と眠れるように 私のための私のごはん』(左右社)、『料理と毎日 12か月のキッチンメモ』(CCCメディアハウス))『フライパンファンタジア(毎日がちょっと変わる60のレシピ)』(家の光協会)『今井真実のときめく梅しごと』(左右社)がある。

編集:小沢あや(ピース)

出鼻を挫かれた新高円寺で逆転ホームランを放つ世界一うまいチャーハン

著: 峯大貴

新高円寺に住むつもりじゃなかった。1991年に生まれてから、ずっと大阪で過ごしてきた私が大学を卒業し、東京の会社に就職するために上京してきたのは2014年のこと。卒業論文を無事に書き上げた1月。4月の入社までに引っ越しを完了させなければいけないとあって、気持ちは急いていた。入社が決まっているマーケティング・リサーチの会社はJR品川駅直結。同期入社で同じくこの度上京するメンバーとどこに住むか情報交換し合っていたが、その多くは会社から近くて家賃も安い、京浜東北線の大井町~川崎近辺で続々と家を決めていった。

自分もその近辺の街から散策をし始めた。どの街も生活がしやすそうで魅力的ではあったものの、どうにもこの街でなければいけないという大義名分が見当たらない。きっと会社に入ると毎日深夜まで働いて疲弊して帰ってくるはずだから、住む街には仕事を忘れさせてくれるような憧れと愛着と癒やしを求めたかった。また大学生の時から今の音楽ライターとしての活動を仕事とは別で始めていたので、そうなるとライブハウスやレコード屋が多い下北沢・渋谷、または高円寺・吉祥寺あたりの中央線を生活の拠点にした方がいいのではないかと考えた。

中でもひときわ憧れを持っていたのは高円寺とその隣の阿佐ヶ谷だ。日本のフォーク・ミュージックを愛好していた私にとっては、〈あゝ中央線よ 空を飛んで あの娘の胸に突き刺され〉という歌詞に胸を鷲掴みにされた友部正人「一本道」の舞台である、阿佐ヶ谷の駅。そして吉田拓郎がソリッドなギターの1フレーズのみで全編歌い切ってしまう名曲、その名も「高円寺」。自分にとっては会社に通いやすいとか、数少ない知り合いである同期が周りにいるとかよりも、住む街を選ぶ理由としてしっくりきた。

それで実際に高円寺に降り立ってみると雑多な感じと商店街の多さが肌に合っていた。なんだか大阪の天満とか千林に通じる雰囲気もあって、大好きな大阪を離れたことで空いた心の穴も、ここなら埋めてくれるような気がした。

私は高円寺に住みたい。


フジファブリック“茜色の夕日”のジャケットでもお馴染み高円寺陸橋

JR高円寺駅北口の純情商店街の中にある不動産会社に希望の条件を伝えて、いくつか内見した。担当者が「次の物件は店から少し距離があるので自転車で行きましょう」と15分ほど漕いだところでも数件見ることにした。賑やかな高円寺にもこんな静かなエリアがあるのだなと好感を持ち、一番家賃が安く、でも一番クローゼットが大きかった1Kの家に決めた。本当に高円寺に住むことになった。

全ての契約を済ませて、正式に上京。JR高円寺駅南口を出てスーツケースを転がし、いざ新居に向かう。高円寺パル商店街を通り抜け、ルック商店街も通り抜け、15分ほど歩くと青梅街道に出て東京メトロ丸ノ内線 新高円寺駅が見えてくる。Google mapを確認するとさらに15分ほど南に行ったところが私の家だ。そこでようやく気づくのだ。「あれ?俺の家、高円寺じゃなくて新高円寺?」

出鼻を挫かれた。私が借りたアパートの住所は杉並区堀ノ内。立地で言えば高円寺駅近辺どころか、新高円寺駅と方南町駅の中間。そりゃ静かだし、自転車で15分かかるわい。不動産会社に騙された、これが東京の厳しさか……と思った。条件には「駅から徒歩15分以内」とだけで「高円寺駅」を指定していなかったし、そもそもなぜここまで気づかなかったのかという自分の落ち度を棚に上げながら、私の新生活はスタートした。

私は高円寺に住めなかった。

しかしいざ住んでみると堀ノ内は居心地がよかった。少し歩けば善福寺川が通っていて、そこに沿うように位置する和田堀公園はとっても広大。散歩しながら原稿について思索を巡らせるのに最高の場所だった。商店こそ数は多くないが、大きな「サミット」が住宅街のど真ん中にあって買い物には困らなかった。

通勤で使う丸ノ内線はJR中央線よりも通勤ラッシュが穏やかなのもよかったし、万が一大幅に遅延するようなことがあってもさらに15分ほど歩いて中央線を使えば回避できる。

高円寺周辺では「小杉湯」と「なみのゆ」という2軒の銭湯が有名だが、自宅から徒歩15分圏内には「杉並湯」、「桜湯」、「大和湯」(2023年3月末で閉業)、「ゆ家 和ごころ 吉の湯」となんと銭湯が4軒もあったのだ。“今日はどの風呂入りに行こか”と、ささやかな贅沢が味わえるのも好きだった。

またいざお酒を飲みに行ったり遊ぶとなったら高円寺まで足を延ばせばもうパラダイスだ。店主がギタリストのバルコニーバー「SWAMP」、音楽や映画に驚くほど詳しい大人たちやミュージシャンらがいつもディープな会話を交わしている屋根裏酒場「ペリカン時代」、そして1975年創業である日本有数の歴史あるライブハウス「JIROKICHI」は特に自分の心を支えてくれた場所だ。逆に高円寺近辺に住んでいたら、楽し過ぎて毎晩お酒に溺れていたようにも思う。それに高円寺周辺で飲んだとしても、30分ほどかけて千鳥足で帰る。そうすると少し酔いが覚めた状態で家につく感じも心地よかった。

おっとついつい高円寺の話になってしまった。新高円寺駅周辺にも名店はたくさんあるぞ。いつも重厚な立ち振る舞いの店主と、なんとも可愛い配膳のおばあちゃんがたった二人でやっている「中華料理 タカノ」の世界一うまいと断言できるチャーハン。アコースティック専門のライブハウス「STAX FRED」で観たガリザベンとグッナイ小形、藤山拓の弾き語り。安くてなぜか漫画が充実していて、店名の由来が気になる「カラオケボックス アメリカ村」……。

色々あげつらってみたが、なんといってもこの街に愛着を持ったのは、高円寺に憧れるきっかけである吉田拓郎が広島から上京して初めて一人暮らしをした場所は高円寺ではなく堀ノ内にある「堀ノ内ハウジング」だと知ったことだ。妙法寺のすぐ横にあるこの場所は拓郎の人気を不動のものにした『人間なんて』(1971年)のジャケットの撮影場所にもなっており、今も建物は現存している。

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『人間なんて』のジャケットで吉田拓郎が座っている階段もまだ姿を残している

拓郎が住んでいた時期からだいぶ後年、1992年に発表した「今度はいったい何回目の引越しになるんだろう」では当時を回顧した次のような一節もある。〈あわい想い抱いて 中央線が走る 妙法寺に恋が散り 俺は恵比寿へと 青梅街道を(環七から) 左に曲がる(堀ノ内で)〉。

私は高円寺には住まなかったが、拓郎のいた街には住んでいたのだ。

そんな新高円寺エリアには昨年12月まで9年近く住むことになった。この間には勤務先が品川から新宿になったり、会社を辞めてフリーランスになったり様々な身辺の変化もあったが、出ていく理由は見つからなかった。ようやく重い腰を上げることができたのはパートナーと同棲することになったから。新たな生活の拠点とした東急世田谷線沿線は新高円寺と全く趣が違うのだが、実に快適で早くも愛着を持ち始めている。出不精な自分を違う街に連れ出してくれて本当に感謝だ。

せいぜい7kmほど離れた場所に引っ越すだけではあるのだが、新高円寺を離れることとなり、最後にお世話になったお店へと訪れた。前述の「ペリカン時代」で新たに住まうエリアについて話していると副店主が“その辺りって大学時代にハルくん、トモくん兄弟が住んでたところだよ”と教えてくれた。ピーズの大木温之とTOMOVSKY。私が10代から熱狂的に愛する二人であり、初めて原稿でギャラをもらったのも雑誌「ROCKIN'ON JAPAN」の読者投稿欄に送ったピーズにまつわる文章だ。また私は憧れの人が若き日を過ごした土地に引き寄せられたのである。

著者:峯大貴(みね・だいき)

峯大貴(みね・だいき)

1991年生まれ。ANTENNA / Gerbera Music Agency所属。音楽ライターとしてミュージック・マガジンやMikiki、BRUTUSなどにも寄稿。大阪北摂出身、東京高円寺→世田谷線在住。

https://twitter.com/mine_cism

編集:ツドイ