出鼻を挫かれた新高円寺で逆転ホームランを放つ世界一うまいチャーハン

著: 峯大貴

新高円寺に住むつもりじゃなかった。1991年に生まれてから、ずっと大阪で過ごしてきた私が大学を卒業し、東京の会社に就職するために上京してきたのは2014年のこと。卒業論文を無事に書き上げた1月。4月の入社までに引っ越しを完了させなければいけないとあって、気持ちは急いていた。入社が決まっているマーケティング・リサーチの会社はJR品川駅直結。同期入社で同じくこの度上京するメンバーとどこに住むか情報交換し合っていたが、その多くは会社から近くて家賃も安い、京浜東北線の大井町~川崎近辺で続々と家を決めていった。

自分もその近辺の街から散策をし始めた。どの街も生活がしやすそうで魅力的ではあったものの、どうにもこの街でなければいけないという大義名分が見当たらない。きっと会社に入ると毎日深夜まで働いて疲弊して帰ってくるはずだから、住む街には仕事を忘れさせてくれるような憧れと愛着と癒やしを求めたかった。また大学生の時から今の音楽ライターとしての活動を仕事とは別で始めていたので、そうなるとライブハウスやレコード屋が多い下北沢・渋谷、または高円寺・吉祥寺あたりの中央線を生活の拠点にした方がいいのではないかと考えた。

中でもひときわ憧れを持っていたのは高円寺とその隣の阿佐ヶ谷だ。日本のフォーク・ミュージックを愛好していた私にとっては、〈あゝ中央線よ 空を飛んで あの娘の胸に突き刺され〉という歌詞に胸を鷲掴みにされた友部正人「一本道」の舞台である、阿佐ヶ谷の駅。そして吉田拓郎がソリッドなギターの1フレーズのみで全編歌い切ってしまう名曲、その名も「高円寺」。自分にとっては会社に通いやすいとか、数少ない知り合いである同期が周りにいるとかよりも、住む街を選ぶ理由としてしっくりきた。

それで実際に高円寺に降り立ってみると雑多な感じと商店街の多さが肌に合っていた。なんだか大阪の天満とか千林に通じる雰囲気もあって、大好きな大阪を離れたことで空いた心の穴も、ここなら埋めてくれるような気がした。

私は高円寺に住みたい。


フジファブリック“茜色の夕日”のジャケットでもお馴染み高円寺陸橋

JR高円寺駅北口の純情商店街の中にある不動産会社に希望の条件を伝えて、いくつか内見した。担当者が「次の物件は店から少し距離があるので自転車で行きましょう」と15分ほど漕いだところでも数件見ることにした。賑やかな高円寺にもこんな静かなエリアがあるのだなと好感を持ち、一番家賃が安く、でも一番クローゼットが大きかった1Kの家に決めた。本当に高円寺に住むことになった。

全ての契約を済ませて、正式に上京。JR高円寺駅南口を出てスーツケースを転がし、いざ新居に向かう。高円寺パル商店街を通り抜け、ルック商店街も通り抜け、15分ほど歩くと青梅街道に出て東京メトロ丸ノ内線 新高円寺駅が見えてくる。Google mapを確認するとさらに15分ほど南に行ったところが私の家だ。そこでようやく気づくのだ。「あれ?俺の家、高円寺じゃなくて新高円寺?」

出鼻を挫かれた。私が借りたアパートの住所は杉並区堀ノ内。立地で言えば高円寺駅近辺どころか、新高円寺駅と方南町駅の中間。そりゃ静かだし、自転車で15分かかるわい。不動産会社に騙された、これが東京の厳しさか……と思った。条件には「駅から徒歩15分以内」とだけで「高円寺駅」を指定していなかったし、そもそもなぜここまで気づかなかったのかという自分の落ち度を棚に上げながら、私の新生活はスタートした。

私は高円寺に住めなかった。

しかしいざ住んでみると堀ノ内は居心地がよかった。少し歩けば善福寺川が通っていて、そこに沿うように位置する和田堀公園はとっても広大。散歩しながら原稿について思索を巡らせるのに最高の場所だった。商店こそ数は多くないが、大きな「サミット」が住宅街のど真ん中にあって買い物には困らなかった。

通勤で使う丸ノ内線はJR中央線よりも通勤ラッシュが穏やかなのもよかったし、万が一大幅に遅延するようなことがあってもさらに15分ほど歩いて中央線を使えば回避できる。

高円寺周辺では「小杉湯」と「なみのゆ」という2軒の銭湯が有名だが、自宅から徒歩15分圏内には「杉並湯」、「桜湯」、「大和湯」(2023年3月末で閉業)、「ゆ家 和ごころ 吉の湯」となんと銭湯が4軒もあったのだ。“今日はどの風呂入りに行こか”と、ささやかな贅沢が味わえるのも好きだった。

またいざお酒を飲みに行ったり遊ぶとなったら高円寺まで足を延ばせばもうパラダイスだ。店主がギタリストのバルコニーバー「SWAMP」、音楽や映画に驚くほど詳しい大人たちやミュージシャンらがいつもディープな会話を交わしている屋根裏酒場「ペリカン時代」、そして1975年創業である日本有数の歴史あるライブハウス「JIROKICHI」は特に自分の心を支えてくれた場所だ。逆に高円寺近辺に住んでいたら、楽し過ぎて毎晩お酒に溺れていたようにも思う。それに高円寺周辺で飲んだとしても、30分ほどかけて千鳥足で帰る。そうすると少し酔いが覚めた状態で家につく感じも心地よかった。

おっとついつい高円寺の話になってしまった。新高円寺駅周辺にも名店はたくさんあるぞ。いつも重厚な立ち振る舞いの店主と、なんとも可愛い配膳のおばあちゃんがたった二人でやっている「中華料理 タカノ」の世界一うまいと断言できるチャーハン。アコースティック専門のライブハウス「STAX FRED」で観たガリザベンとグッナイ小形、藤山拓の弾き語り。安くてなぜか漫画が充実していて、店名の由来が気になる「カラオケボックス アメリカ村」……。

色々あげつらってみたが、なんといってもこの街に愛着を持ったのは、高円寺に憧れるきっかけである吉田拓郎が広島から上京して初めて一人暮らしをした場所は高円寺ではなく堀ノ内にある「堀ノ内ハウジング」だと知ったことだ。妙法寺のすぐ横にあるこの場所は拓郎の人気を不動のものにした『人間なんて』(1971年)のジャケットの撮影場所にもなっており、今も建物は現存している。

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『人間なんて』のジャケットで吉田拓郎が座っている階段もまだ姿を残している

拓郎が住んでいた時期からだいぶ後年、1992年に発表した「今度はいったい何回目の引越しになるんだろう」では当時を回顧した次のような一節もある。〈あわい想い抱いて 中央線が走る 妙法寺に恋が散り 俺は恵比寿へと 青梅街道を(環七から) 左に曲がる(堀ノ内で)〉。

私は高円寺には住まなかったが、拓郎のいた街には住んでいたのだ。

そんな新高円寺エリアには昨年12月まで9年近く住むことになった。この間には勤務先が品川から新宿になったり、会社を辞めてフリーランスになったり様々な身辺の変化もあったが、出ていく理由は見つからなかった。ようやく重い腰を上げることができたのはパートナーと同棲することになったから。新たな生活の拠点とした東急世田谷線沿線は新高円寺と全く趣が違うのだが、実に快適で早くも愛着を持ち始めている。出不精な自分を違う街に連れ出してくれて本当に感謝だ。

せいぜい7kmほど離れた場所に引っ越すだけではあるのだが、新高円寺を離れることとなり、最後にお世話になったお店へと訪れた。前述の「ペリカン時代」で新たに住まうエリアについて話していると副店主が“その辺りって大学時代にハルくん、トモくん兄弟が住んでたところだよ”と教えてくれた。ピーズの大木温之とTOMOVSKY。私が10代から熱狂的に愛する二人であり、初めて原稿でギャラをもらったのも雑誌「ROCKIN'ON JAPAN」の読者投稿欄に送ったピーズにまつわる文章だ。また私は憧れの人が若き日を過ごした土地に引き寄せられたのである。

著者:峯大貴(みね・だいき)

峯大貴(みね・だいき)

1991年生まれ。ANTENNA / Gerbera Music Agency所属。音楽ライターとしてミュージック・マガジンやMikiki、BRUTUSなどにも寄稿。大阪北摂出身、東京高円寺→世田谷線在住。

https://twitter.com/mine_cism

編集:ツドイ