神楽坂、家賃2万7千円。誰とも出会わなかった1年半|文:荒田もも

著者: 荒田もも

自分だけのポストが欲しいと思ってひとり暮らしをはじめた。自分宛てに届いた手紙やハガキを、誰かが先に読む可能性のない、自分だけのポストが欲しいなと思った。

誰も入れない部屋

ひとり暮らしをはじめて間もなく、部屋の鍵をなくしてしまった。

その日通った場所を遡るようにたどったが、見つからない。気づいた時にはすでにだいぶ遅い時間になっていた。交番にも届けられていなかった。ぼんやりと灯りがともった交番で遺失届を書きながら、どうしようかな、と思った。部屋に入ることができない。

鍵開けの業者を電話で呼んで家の前で少し待つと、狭い道に軽自動車が入って来るのが見えた。軽自動車の扉が開くと、そこにはありとあらゆる道具が並んでいて、とても安心したのを覚えている。

15分後、鍵開け師が言った。
「だめだ。原始的すぎて開けられません」

わたしの住みはじめたアパートは、神楽坂駅から徒歩5分、家賃2万7千円の築85年(当時)、風呂なし、トイレ共同、アパート名にはベタに「荘」がついていて、不動産サイトの謳い文句は「トランクルームとしてオススメ!」。つまり、かなりのボロ家だった。

次に、鍵開け師は庭側に回り、2階のわたしの部屋の窓を指差した。
「窓の鍵、もしかして開いていたりしませんか?」
「あるいは開いているかもしれません」

そのひとはわたしの返答にうなずくと、建物のそばに植えてあるヤシみたいな木に上りはじめた。ゆさゆさとすごい音をたてて木が揺れる。雨どいに足をかけると、バキンッと大きな音が静かな夜の神楽坂に響いた。うまくいかずにずり落ちる。また上る。メガネの位置を直そうとしてまた木から落ちる。繰り返す。SASUKEの練習みたいだ。その人が背中にかく汗に対応するように、自分もじんわりと汗ばんだ。

もぎゅ……、もう、だいじょうぶです……! あわてて小声で謝った。その方は悔しそうな表情で、本来は鍵が開かなくても支払うはずの出張費も受け取らずに帰っていった。バックライトを見送る。

途方に暮れて、24時間営業のファミリーレストランに入った。

疲れ果ててうとうととしていると、店員に声を掛けられる。あっ怒られる、と身構えると、「そこは監視カメラの死角なんで、もしなにかあったら悲しいので。あっちの席のほうがあったかいし、安心なので」と、違う席に案内してくれた。

深夜とも明け方とも言えない微妙な時間帯のファミレスは、思ったよりにぎわっていた。わたしは、さっき自分の部屋の鍵を開けようと頑張ってくれた愛らしいひとのことを思い出す。

そして、自分の部屋の、原始的であるがゆえに頑強な、かわいいセキュリティーについて考えた。あの部屋は、わたしが手にした、容易に他人が入ることのできない、生まれて初めてのプライベートな空間だと思った(いまは自分すら入れないくらいなのだから!)。あの部屋に届く手紙を読むのは、自分以外にいない。

輝かしい生活のはじまりだ。心の底からわくわくして、頬杖をついて半分眠りながらにやけた。

結局、それから引越すまでの1年半、待ち望んでいた人物から手紙が届くことはなく、ポストには廃品回収などのチラシがねじ込まれるだけだった。

ひとりはたのしい

25歳でひとり暮らしをはじめた。選んだ街は新宿区の神楽坂。理由は、会社に近いという簡単なものだった。

この地域は出版社が多く、それに伴い印刷会社も多い。当時わたしは印刷会社で営業職をしていた。営業職といっても、なにかを売り込みに行くことはほとんどなく、出版社の編集者に原稿の進捗を確認して自社のスケジュールを調整したりする、いわゆる進行管理役だった。

わたしは、取引先の出版社の、漫画や小説の編集さんたちが大好きだった。自社にも、自分が「一番最初の読者」であることに誇りをもっているDTPの作業者が多く、尊敬していた。書籍を世に出すために、毎日深夜まで働いた。

ひとり暮らしはずっと前から、したかった。とはいえ奨学金の返済と、家に入れているお金が合わせて月に10万円、それに家賃を加えるとなると、贅沢を言えないことはわかっていた。

不動産検索サイトで地域を選択、「安い順」に並び替え、一番上に出てきた家を内見して、その場で決めた。賃貸の契約を終えてからIさん(母親にあたるひと)に伝えた。Iさんの車に荷物を詰めて、手伝ってもらいながら引越しをした。

神楽坂は、「日本のパリ」とも呼ばれる上品かつ華やかな街だが、一本裏道に入ると、そこには確実に人の生活が広がっている。銭湯も多く、風呂なしアパートに住む自分にとってはありがたかった。

実際に住みはじめると、思ったよりも壁が薄く、隣室のNHKラジオの音が筒抜けだったが、なぜか嫌ではなかった。

初めてつくった野菜炒めは洗剤の味がした。

洗濯板で服を洗うのは無理だと悟り、コインランドリーに通うことにした。

なにもかもが困難だったが、にやけながら過ごせた。

朝起きると、四畳半の部屋がとても広く感じる。共同の流しで歯を磨いていると、向かいの建物の屋根でねこが寝ているのが見えた。

銭湯に行くのも最初はおっかなびっくりだった。

人前で裸になるのが恥ずかしくて、タオルで体を隠しながら脱いでいたけど、慣れてくると服を脱ぎ捨てるのが快感になった。

仕事が終わったあとも開いている銭湯は、白銀町にある第三玉乃湯。神楽坂に芸妓さんがいるなんて都市伝説かなと思っていたが、第三玉乃湯には御髪を綺麗に結った、所作の美しい方たちが来て、髪はそのまま、首から下を丁寧に洗い、また街に帰っていくのだった。帰って布団に入ると、体からまだ香る薬湯の匂いに安心して眠れた。

夜中は、隣の部屋のNHKラジオの音が、アパート全体に染み渡るように広がった。この期間、わたしは一切音楽を聴かなかった。パソコンも前の家に置いてきていた。周囲の環境音と、脳内で再生する好きな曲が、音楽のすべてだった。テニスコーツの「まあるいひと」と、ANBBの「One」をひたすら頭の中で流していたと思う。

この時期の自分には、「One is the loneliest number」という歌詞がとても甘い響きに聴こえた。

ひとりはさみしい

以前から自分は、気持ちが沈み、鬱々とすることがあった。毎日仕事で疲れていたこともきっと関係していたけれど、それだけではない。

わたしは、ずっと昔から、自分の居場所のなさ、所在のなさを感じて、ほとんど足場がない場所を歩いているような不安な気持ちで過ごすことが多かった。それが極まったある日、脳内であんなに鮮明に再生できていた好きな曲もぱったりと止まった。ぽっかりあいた穴を埋めるように、わたしは手当たり次第、食べものを吐くまで食べるようになってしまった。

助けを求めたかったけれど、頼れる大人もいなかった。自分で選んだはずなのに、ひとりはひどくこたえた。気がつくと、部屋にいるのに「帰りたい、帰りたい」とうめいていた。でも、それは前の家でも何度も口をついて出た言葉だった。わたしはもう、自分がどこにいるのか、存在するのかわからなくなってしまっていた。

腹落ち

とある深夜、ぼろぼろの格好で食材の買い出しに出た。精神的に追い詰められていて、坂を上る足が重かった。神楽坂駅近くのKIMURAYAというスーパーの前を通ると、なぜかたくさんの人が集まっている。唐突にカウントダウンの声が上がり、クラッカーが鳴らされる。ひとりが小さなプラスチックカップをわたしに手渡した。

「よかったらどうぞ! 今日はボージョレ・ヌーボーの解禁日ですよ!」

わたしは「いやいや、わたし買えませんので……」と手を振る。その時には、少ない貯金を切り崩して過食するための食べものを買っていた。それに、何日も風呂に入っていない、ひどい見た目の自分にワインを渡すことがシュールで変だと思ったのだ。

わたしの表情を見て、その人は、「?」という顔をした。

「別に買わなくてもいいんです。ほらほら」

受け取って、飲んだ。本当にいろいろな人がワインを飲んで笑い合っているのを見ながら、わたしはぼんやりと、でも明確に、自分が他人との間に引いてしまっている線のようなものに気づきはじめていた。誰に対してもフラットに向き合いたいと思っていたのに、自分は、収入の違い、坂の上と下、美醜などによって人をわけているらしい。なぜなら、自分みたいな人間が神楽坂という街に受け入れられることはないと、誰と擦り合わせるでもなく、たったひとりで思いこんでいたから。

もちろんわたしがワインを買うことはなく、逃げるように帰った。ボジョレー・ヌーボーがめちゃくちゃに高価なワインではないと知ったのも後日だった。そりゃ孤独になるはずだな、と思った。

 

部屋に帰って、また天井を見上げた。

もうひとつ、先ほどの出来事で腑に落ちたことがあった。自分は、人が集まってできる組織の中での居心地の悪さ、居たたまれなさに強い苦しみを感じていて、それをなんとか克服しようと、場所を変えたり、自分の心持ちを変えたりすることに努めた。しかし、どう上手く転んだとしても、その苦しみが今後、完全になくなることなんてないということだ。自分には故郷やホームは存在しないのかもしれない。そう思うと、不思議とスッキリとした気持ちになった。

翌朝、ずっと読めていなかった漫画を抱えて新潮社にほど近いベローチェに向かった。取引先である漫画の編集さんから「よければ読んでみてください」と借りたものだった。「1話から最終話まで、挫折などを描かず、テンションが上がり続ける」ことを裏テーマに書かれた物語は、読み進めるごとに自分の気持ちも上向きになっていくのを感じた。最終話は涙が止まらなくなるほど素晴らしかった。漫画を閉じると、はす向かいのお客さんと目が合った。

たまった洗濯物を取りに戻って、コインランドリーに向かう。

どの洗濯機も使用中だったので、洗濯物を抱えて待つ。ほどなくしてひとつから洗濯が終わった音が鳴り、腰をかばうようによいしょっと立ち上がったひとが取り出したのは、くたびれたトイレマットだった。洗ってもなお、かなり汚い。入れ替わりに、わたしは自分の洗濯物をそこに入れた。なんだか面白くて気分が上がった。身体を念入りに洗い流して、銭湯の大きな湯船に漬かった。あったかくて、気持ちよかった。

変なひとたち、不確かな記憶、大切なもの

ある金曜日、会社の同期と朝まで飲んだ。このまま家に帰ったら確実に寝てしまうし、たぶん夕方まで起き上がれない。土曜日をつぶすのはもったいないと、わたしは喫茶店コパンに入った。コーヒーとクッキーを頼んで席に着くと、そんなに柔らかくないはずの椅子のクッションにお尻がぐんぐん沈んでいき、わたしは意識を失ってしまった。

目を覚ますと、同じテーブルの向かいの席に、全身ピンクの知らないひとがにこにこして座っていた。白い髪はステンレスタワシみたいな素材でできている。

その人はわたしが目を開けると同時に、勝手にしゃべり出した。

最近まで歌舞伎町で水商売をしていて、「切った張った」をたくさんやったこと。最近の歌舞伎町は闇がなくなってしまい、自分はいられないと思ったこと。昔はわたしもあなたのようにひ弱な人間だったこと。あなたはかっこうつけてたばこを吸ってるように見えるからやめたほうがいい、「それ、ふかしてるでしょ?」。ある時、多摩動物公園に行って動物を見たあと、近くの友人の家に一泊するつもりで三カ月滞在したこと。いまは、神楽坂でテレビ・新聞・週刊誌がある居酒屋(「テレビ・新聞・週刊誌がある居酒屋」……?)をやろうと思っていること。

そして、物件を探すと言って店を出ていった。神楽坂は昼も夜もさみしくて、意味がわからないんだなと、わたしはにやけながら泣きそうだった。

この街で新たに出会い、関係が続いた人はほとんどいない。

ただ、本当にあったんだろうかと疑うような不確かな感触の記憶や、都合よく改変された脳内の思い出に自分は救われてきた。

閉館してしまった名画座「ギンレイホール」。お得すぎる年間パスを利用して、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を5回見に行った。

エマ・ストーン演じるサムが未知に遭遇した際の、驚きと戸惑いとわくわくのない交ぜになった、あのニヤケ顔を見るため映画館に通っていたと言っても過言ではない。それに近い表情を、自分はこの街でたくさん浮かべたと思う。

時折、希薄な、しかし自分にとっては強烈で大切な出来事があれば、自分は故郷やそれに準ずる土地を持たなくても生きていける。この街が最初にそう思わせてくれた気がする。

結局、神楽坂に住んだ一年半、あのポストには誰からの手紙も投函されなかったけれど、自分が自分宛に送った「この話、おもしろいから聴いてよ」「マジで辛くて死にそう、たすけて」みたいな声は、あそこにたくさんたまっていたのだと思う。

いま、わたしは編集やライティングの仕事をお手伝いしている。うまく言えないけれど、これは、そんなふんわりとしていて形をもたない声や記憶たちを扱う仕事なのではないかと思っている。このエッセイで、わたしは自分の曖昧な記憶を、言葉にすることでここにとどめた。形にすれば、忘れなければ、言葉はいつでも引き出し、再生することができる。そのスキルは、孤独を生きていくための道具になる。おそらく。

 

結婚を機に、わたしはこの街を離れた。

自分を受けとめようと努めてくれる、世界で一番尊敬するパートナーを得て、緊張の糸がぷっつりと切れたようにわたしはベッドから起き上がれなくなり、会社を辞めた。

著者: 荒田もも

ライター・編集者。下北沢にある日記の専門店でお店番をしたり、スコーンを交換するユニットを組んだりしています。
Twitter:@arata4771
Instagram:@inoue_q

編集:友光だんご(Huuuu)