大阪・昭和町のまちづくりで注目される都市計画家・加藤寛之さんが、良い街にするために始めたこと

取材・文: 吉村智樹 撮影: 出合コウ介

2024年10月、大阪を拠点にエリアの価値向上に取り組むチーム「ビーローカル・パートナーズ」が、国土交通省主催の「地域価値を共創する不動産業アワード」(2023年募集の第2回)で優秀賞、さらに「2024グッドデザイン賞」を受賞しました。

W受賞の舞台となったのは大阪市阿倍野区の昭和町を中心とするエリア。主力メンバーである都市計画家・加藤寛之(ひろゆき)さん(49)は千葉県出身です。関東出身の彼がなぜ大阪でまちづくりを始めたのか。どうしてそれは成功したのか。加藤さんにお話を伺いました。

一方通行な考え方をする日本がイヤでカナダへ留学した


ビーローカル・パートナーズ 加藤寛之さん

―― 大阪にお住まいの加藤さんは、実は千葉県出身だそうですね。千葉のどちらですか。

加藤寛之(以降、加藤):千葉市の中央区です。高校を卒業して実家を出るまで住んでいて、高校は隣の美浜区まで通っていました。

―― 生まれ育った千葉にどのような印象をおもちですか。

加藤:僕が過ごした90年代当時は「子どもからお年寄りまでみんな、心も身体も東京の方を向いている街だ」と感じていました。高校生だったら第一に東京の大学への進学を考えるし、卒業したら勤務地も東京を選ぶ。そういった印象がありましたね。実際、父も東京で働いていましたし。

―― 東京への憧れが強いのですね。

加藤:憧れというか、自己肯定感が低いと思いましたね。僕が住んでいた中央区は県庁があるし行政や商業の集積地。文字通り千葉の中央でした。しかし、東京から距離が近い区の方が偉いという空気感があって、中央区よりそっちの区の方がステータスは高いんですよ。

高校生だった僕はそれにすごく違和感があって。「なんでみんな一方通行な考えしかもっていないんだろう。いいじゃん、自分が住んでいる県や地域に誇りをもてば」と、ずっと思っていました。「自分が住んでいる街はすごいし、よそと違っているから面白い」って胸を張りたいじゃないですか。10代でそう考えていたことが、現在の自分の仕事につながっていますね。


音楽に明け暮れた高校時代(写真提供/加藤さん)

―― ご自身は東京への憧れはなかったのですか。

加藤:なかったですね。みんなと一緒というのがイヤな性格なんですよ。東京どころか日本が嫌いになって、脱出したかった。それでカナダへ留学したんです。

―― カナダで学んで心境の変化はありましたか。

加藤:カナダへ渡って驚きました。誰もが日本を褒めるんです。あのころちょうどNECのラップトップ(ノートパソコンの前身となる小型パソコン)が流行っていて、「お前の国はこんなクールなものをつくれるのか。すごいな!」って。街にはトヨタ車が走り回っていたし、みんな日本が好きなんですよ。カナダで日本が嫌いなのは日本人の僕だけ、みたいな状況で。

それで、今度は日本が嫌いな自分自身に違和感をおぼえるようになってきたんです。「なんで自分は日本がイヤなんだろう。もう1度、日本を見つめなおしてみよう」という気持ちで帰国しました。

地域ごとに独立性がある関西に居心地の良さを感じた

――  カナダから帰国後は京都の立命館大学に通われたそうですね。京都を選ばれたのはどうしてですか。

加藤:特に理由はないんです。京都は高校の修学旅行で行った経験があって、良い記憶が残っていたのと、関東の反対は関西だろうくらいの気持ちでした。

―― 関東と関西では言葉や習慣がずいぶんと異なります。ギャップは感じませんでしたか。

加藤:良い意味でギャップを感じました。とにかく居心地が良かった。京都に住んでいたころによく耳にしたのが「大阪の人は京都が嫌い。京都の人は大阪が嫌い」という言葉でした。もちろん誇張して言っているんだろうし半分冗談みたいな感じなんだろうけれど、お互い譲らないところが僕にはすんごい気持ちが良かったんです。

――  当時の関東はそうではなかったのですね。

加藤:自分が大学生のころの関東は東京をヒエラルキーの頂点として階層的な考え方をしていましたね。東京が1番上で、次が神奈川か、みたいな。

そこへいくと関西は京都と大阪が張り合っていて、その隣でシュッとしている神戸があって、京都や大阪を相手にもしていない。奈良は都だったし滋賀には琵琶湖があるし、和歌山は熊野古道など世界遺産があって、それぞれが独立独歩。みんな自分が住む街が大好きだしプライドがある。関西にはそんな気風があって、自分には合うなと感じました。


立命館大学在学時(写真提供/加藤さん)

「小さな街の個性が重要だ」という言葉で都市計画に目覚めた


お話を聞いた阪堺電鉄上町線「東天下茶屋」駅近くの様子

―― 都市計画を職業にしようと考えたきっかけは何ですか。

加藤:カナダから帰国した大学3年生の時、都市計画家でコンサルタントの髙田昇(たかだ すすむ)先生の授業をたまたま受けたのがきっかけです。

髙田先生は大学でもアルマーニを着こなす、すごくカッコいい人で。そんな髙田先生が授業で「日本は大都市だけじゃなく小さな街の個性が重要だ。しかし今それが失われてきているから、何とかしないといけない」とおっしゃったんです。

その言葉を聞いて「これだ!」と。自分が日本を嫌いな理由、関西にいて居心地が良い理由がわかったし、呪縛から解放された気がしたんです。

――  それまで都市計画には関心があったのですか。

加藤:まったく、なかったです。それまで都市計画なんてぜんぜん興味がなかったのに、「僕が将来やらなきゃいけない仕事はこれだな」って、ひらめいた。そして授業を受けたその日に髙田先生に弟子入りを志願したんです。

その申し入れを聞き入れてもらえて、大学時代から髙田先生が運営しているまちづくり系シンクタンク「COM計画研究所」でアルバイトを始めました。


――  行動が早いですね!

加藤:まさに「都市に目覚めた」という感覚でしたね。でも、初めは周囲から理解されませんでした。当時バンドをやっていたこともあって、友達に「都市に目覚めたよ」と言っても、みんなX JAPANのToshiのことだと思っていましたから。それくらい都市と僕とはつながらないイメージだったんです。

周囲は僕をそんな目で見ていましたが、僕は都市に夢中でね。髙田先生の付き人のようにくっついて回りました。尊敬する先生とずっと一緒にいられるので勉強になりますしね。

イタリア人から感じた「この街が大好き」という情熱

―― 大学卒業後はそのままCOM計画研究所に入社されたのですか。

加藤:いいえ、半年ほどイタリアへ行き、約20都市を放浪しました。1999年の3月に卒業して、本当なら4月から先生の研究所で働かなきゃいけなかったんですが、先生に「1年、休ませてください」とお願いしたんです。

新卒のやつが突然「1年も休ませろ」なんて普通はありえない、ワケがわからないじゃないですか。先生も驚いて、「さすがに1年間はだめだ。半年で戻ってこい」とおっしゃって、イタリアへ渡る許しを得ました。

―― なぜイタリアへ行こうと思われたのですか。

加藤:そのころ、法政大学で教鞭を執っていた建築史家の陣内秀信先生がイタリア建築・都市史の本をたくさん出しておられたんです。それを読んだ影響ですね。陣内先生は僕にとって第2の心の師匠です。

イタリアって都市国家なんです。それぞれの地域に個性があって、とにかくみんな自分が住む都市を愛しているんだと陣内先生の本には書いてある。そんなイタリアの都市を自分の目で確かめてみたいと思ったんです。

――  実際にイタリアへ行って、どのように感じましたか。

加藤:街への愛情、都市への思いがとにかく熱いんですよ。各都市で「オススメのお店を教えてください」と訊くと、どの都市でもすべての人が自分の好きなお店のことを熱心に語ってくれる。なぜ好きなのか、どんな料理がオススメで、なぜ美味しいのかをこと細かく丁寧に教えてくれるんですよ。なかには「お前に食べさせたい」ってご馳走してくれる人までいてね。


イタリア放浪時期の加藤さん(写真提供/加藤さん)

―― そこまで熱い反応をする人は日本では少ないでしょうね。

加藤:日本ってすぐ「うちの街、なんにもないよ」って言っちゃうでしょう。謙遜なんだろうけど、その自己肯定感の低さが衰退の原因になっているのではないかと、イタリアへ行って改めて考えました。

日本だって、江戸時代は国で分かれていたわけじゃないですか。そのころの独立性をもう一度見つめなおすことができたならば、地方の過疎化や東京一極集中は解消されるんじゃないかと、一貫して現在も思っているところです。

父親と同世代の男性と喧嘩しながらまちづくりに挑んだ

――  帰国して、すぐにCOM計画研究所に入社されたのですか。

加藤:いいえ、会社員にはなっていないです。先生は社員にしたかったようなのですが、僕はいつか独立するって決めていたから「社員にはなりません」と。それなのでプロジェクト単位でギャラをもらっていました。

―― なかなかワガママですね!

加藤:もちろん、ちゃんと仕事はしましたよ。運転手としてどこへでもお連れしたし、住む場所だって先生の言う通りにしましたから。大阪に住むようになったのも、先生の指示でした。

―― ということは、居住地は大阪以外を考えておられたのですか。

加藤:初めは兵庫県の夙川を希望していました。初めて訪れた時、「なんて風が心地いい街なんだろう」と感心したので。その話を先生にすると「ダメだ。オフィスがある帝塚山の近くに住め」と。

それで、いきなり現在の昭和町近辺に住んだんです。最初に選んだのはお隣の住吉区。住吉大社の近くでしたね。そこから隣の阿倍野区へ移って、今日まで徒歩圏内を転々としてきました。


昭和町は大阪市阿倍野区にある地名。土地造成が昭和4年(1929年)に完結したことから、記念として年号の昭和を冠した町名となった。Osaka Metro御堂筋線「昭和町」駅があるため行政区分では昭和町に該当しない駅周辺エリアも愛称として昭和町と呼ばれる場合が多い

―― では、もうずっと大阪ですか。

加藤:実は2年間、兵庫県の丹波市(2004年に6町が合併)に移住した時期があるんです。先生から「丹波に移住しろ」と命じられ、地域の人たちと共にまちづくりの仕事をしていました。

―― 住み込みでまちづくりとは、かなり気合が入ったプロジェクトですね。

加藤:地域の人たちと一緒に事業を組み立てて、計画を具体的に動かして運営するところまでやらせてもらえたんです。自分の父くらいの年齢のおじさんと喧嘩ばかりしていましたが、最終的には街の人たちに受け入れられて、好かれました。

プロジェクトの終わりのころには「加藤くん、また遊びにおいで」「このまま住めばいいのに」と言ってもらえて。2年間すごく楽しかったですし、丹波での経験が現在の僕をつくったなと思います。本気で取り組むと、街の人たちはわかってくれるという実体験でしたね。

初めての青空市に可能性を感じた


加藤さんと、バイローカルのよき理解者であるレストランBAR「DJANGO」のジャックさん

―― いつ独立されたのですか。

加藤:先生のもとでおよそ10年丁稚奉公して、2008年に独立しました。

―― 加藤さんの大きな功績の一つとして2007年から大阪・枚方(ひらかた)市で始まった「枚方宿くらわんか五六(ごろく)市」があります。定期開催の青空市が地域活性化に貢献し、後に加藤さんが始めるバイローカル*1の先駆けになった催しだと思いますが、決行にはどのような背景があったのでしょうか。


「枚方宿くらわんか五六市」(写真提供/加藤さん)

加藤:先生のもとで枚方のまちづくりの仕事をしていて、2005年に僕が勝手に「町家情報バンク」を起ち上げたんです。枚方はかつての宿場町で、良い町家が多く残っているので。それでホームページのCGIも自分で書いて、応募フォームをつくって始めました。

すると新聞社をはじめ、たくさんのメディアが取り上げてくれたんです。そして、まだ3物件しか掲載していないにもかかわらず、店舗経営をしたり計画している人たちが一気に100人ぐらいが登録してくれました。もちろん、3物件はたちまち成約して、うれしいけれど困ったぞという状況で。

―― 目の付け所が良過ぎたために、まだスタート段階なのに登録が殺到したんですね。

加藤:まさかそんなに注目されるとは思ってなかったし、登録してくれた残り90人以上の人に申し訳ないと思っていたところ、登録者の1人が京都・百万遍(ひゃくまんべん)の手づくり市に出店していると知りました。出店経験を聞きながら「青空市で街をよりよきものにできないか」と考えるようになったんです。

―― 確かに京都・百万遍といえば手づくり市の街というイメージがあります。ハンドメイドマーケットの代名詞と言える歴史ある青空市ですよね。

加藤:百万遍の手づくり市って地域のためではないじゃないですか。あれを地域を変革するための仕掛けとして実施すれば、住民とお店の交流が生まれ、まちが変わっていくのではないかと考えたんです。そうして地元の有志や枚方市役所の職員と一緒に五六市を始めました。

―― すぐにうまくいきましたか。

加藤:いや、ぜんぜんです。前例がないものですから、期待していた90人以上いる登録者が誰も出店してくれないんですよ。30店舗を予定していたのですが、僕も自分で3店舗を出して、開催日にやっとギリギリ埋まったんです。

そして……お客さんが来ない(苦笑)。みんなで「どうしよう、これ」と頭を抱えました。こうなったらもう意地ですよ。歯を食いしばって月1回の開催を続けました。すると、徐々に定着してゆき、今や200店舗、4000人が集まるマーケットに育ったんです。

―― やはり継続は力なりですね。そして、新しい何かを始めようとしたら、どうしても時間がかかるのですね。

加藤:そうなんです。地域再生の仕事でも、初めに「10年かかる」と伝えています。

街にある「絶対に残したいもの」が暮らしを豊かにする


――  そして、2013年に大阪の昭和町でビーローカル・パートナーズが発足し、今回、栄えあるW受賞を成し遂げられました。加藤さんは中心人物ですが、どのようないきさつで始まったのでしょうか。

加藤:2010年くらいから隣の天王寺駅周辺の開発が進みました。もちろん昔から昭和町の商店街はそんなに元気がなかったのですが、もっともっと昭和町の住民がそっちへ出かけるようになってしまいました。すると、地元の店がさらにどんどん閉店したり流出したりして、昭和町は空き家・空き店舗が増えていったんです。

そこに危機感を抱く有志たちから「加藤くんがやっている枚方の五六市のような催しが昭和町でもできないか」と相談を持ち掛けられたのが発足の背景ですね。僕はまちづくりのために一過性のイベントを打つことに懐疑的で、「良い商いと生活者が出合う場というバイローカルの思想に基づいてやるのなら、自分もします」と表明して、参加しました。


バイローカルの日の様子(写真提供/加藤さん)


バイローカルの日の看板(写真提供/加藤さん)

―― それまで自分が住む昭和町に、どのような印象がありましたか。

加藤:正直に言って天王寺再開発以前の印象は「特にない」という感じでしたね。仕事で全国を飛び回り、たまに家に帰る場所でしかなかったです。

――  昭和町に対して愛着を抱くようになったのは、いつですか。

加藤:「昭和町をなんとかしたい」と声を掛けられた時からですね。初めて自分の住んでいる街が衰退していることに気がついたんです。「ちょっと待って。これはヤバいよ」という感じで。

僕自身、ランチへ行くとなると天王寺や難波・梅田などの繁華街を利用していました。でも、ふと「繁華街にはあんなにいっぱいお店があるけれど、果たして自分は本当に行きたくて行ってるのかな」と自問自答するようになったんです。自分の街に、ホッとできる店がある、安らげる場所がある、それってすごくすてきなことなんじゃないかなと。だから昭和町への愛着というより、「自分が住む街で豊かに暮らせないと、幸せになれないんじゃないか」という焦りが自分で自分を突き動かしたんだと思います。


―― そうしておよそ10年の歳月を経て、青空市「バイローカルの日」は昭和町の名物となりました。ほか、良い商いをする店を厳選した地域MAPを制作するなどさまざまな尽力が実り、10年前に較べ70店舗以上もの新規出店があり、アンケートでは9割近くの住民が「以前よりも地域の雰囲気が良くなった」と回答しています。この10年を振り返って、いかがですか。

加藤:高校時代に感じた「自分が住んでいる街はすごいし、よそと違っているから面白い」という気持ちを貫いたからできたんじゃないかな。

いろんな町おこしにかかわりますが、僕はまず地元の人たちに「絶対に残したいもの」を挙げてもらうんです。店でも光景でもなんでも。そして、絶対に残したいものを誇れる気持ちがあったらほかの街からも「それを見てみたい」「体験したい」ってお客さんがやってくるんです。「うちの街、なんにもないよ」ではなく、「うちの街にはこんなにいいものがある」と自信をもった方が、きっと幸せに暮らせると思うんですよね。


加藤さんが営むのは昭和40年代に建てられた商業施設をリノベし、ikedaya BBQ StyleとTHE MARKET Bakeryの2つの店舗が入ったフードコート「THE MARKET」。阪堺電軌上町線の東天下茶屋駅すぐそばにあり、地元の人たちでにぎわっている

お話を伺った人:加藤寛之(かとう・ひろゆき)

都市計画家/株式会社サルトコラボレイティヴ代表 1975年、岩手県遠野市生まれ・千葉県千葉市出身。立命館大学政策科学部在学中に都市計画家・髙田昇に師事。卒業後、髙田氏が代表を務めるCOM計画研究所のスタッフとなる。2000年、兵庫県氷上郡柏原町(現・丹波市)に移住し、タウンマネージャーとして従事。2007年、大阪府枚方市で地元有志と「枚方宿くらわんか五六市」を立ち上げ、大きな注目を集める。2008年、株式会社サルトコラボレイティヴを設立。日本各地のエリア再生にかかわりつつ、自身が暮らす大阪市阿倍野区では地域の店舗や人材を守り育てるビーローカル・パートナーズの主力となり、「Buy local」を促進。街の価値を高める活動をライフワークとして取り組んでいる。 https://buylocal.jp/ https://www.instagram.com/buylocaljp/ https://note.com/sartoco

取材・文:吉村智樹 撮影:出合コウ介

*1:バイローカル(Buy local)…起源は1990年代、アメリカ・コロラド州のボルダー郡で生まれた「小さな商店の雇用を守ろう」という運動。住民に地元の店舗での消費を喚起し、地産地消や市内観光施設の利用などを推進する社会的運動のこと。自分たちが住み暮らす地元の店舗で買い物や食事をすることで地域全体に活気をもたらし、持続可能な住みやすいまちづくりを目指す行いを意味する。