「にいちゃん、遊んでいかへんか?」
髪をポマードで後ろに流し、スラックスのポケットに手を入れながら、脂の乗った雰囲気をまとったおじさんは、僕を見て笑顔を浮かべていた。
そのころの僕は、おじさんが何者なのか分かっていなかった。今では、あのおじさんが水商売の店員で、明らかに小学生である僕をからかっていたのが分かる。
おじさんの背後には店の扉があり、陽が落ちて色を失っていく街には似合わない派手な光を発していた。僕は少し緊張しながら笑い返し、右手を高く上げておじさんに挨拶し、そのまま通り過ぎた。
平成初期にはこういうテキトーな感じがまだ残っており、多種多様な人々が時と場所を同じくして混ざり合いながら生きていた。それが僕にとっての京都の原風景であり、木屋町の記憶であった。
京都の寺に生まれて

僕は京都の裏寺通りにある極楽寺という寺に生まれ、現在は僧侶として生きている。「京都のお坊さん」と言うと多くの人が勘違いする。きっと大きな庭には美しい枯山水が施され、代々受け継がれてきた立派なお寺なんやろうな、と。
しかし、実際に僕が生まれた寺は、面した道路が車一台分の幅しかなく(しかし両面通行可能という、狭い京都の道あるあるである)、庭にある以前飼っていた犬のお気に入りおしっこポイントにはいまだに草が生えていない。そして寺は京都市の繁華街である河原町、三条通、四条通に囲まれており、その奥へ一歩進むと木屋町通、先斗町、祇園といった、いわゆる夜の歓楽街が広がっている。

哲学者の鷲田清一は書籍のなかで、京都市営バス206番の路線には「〈聖〉と〈性〉と〈学〉と〈遊〉が入れ子になって、都市の記憶をたっぷり溜め込んでいる路線なのである。」(『京都の平熱』講談社学術文庫)と記しており、僕はこれを初めて読んだとき大きくうなった。まだ言語化できていなかった感覚が、言葉によって表された快感を得たのだ。

ただ僕の場合は、〈聖〉と〈性〉と〈学〉と〈遊〉が裏寺通りから木屋町という極めて狭い範囲のなかで全て一緒くたにまとまっていた。
眠る街には人生の遊びが詰まっている

極楽寺から歩いてすぐの場所にある木屋町通は、京都の夜の歓楽街のひとつだ。昼は人通りが少なく穏やかなこの道も、夜になると景色が変わったかのように色めき賑やかになる。
この街で生まれ育った僕や友人たちにとって、木屋町が遊びの場所になるのは自然の流れだった。学生時代は放課後にゲームセンターやボウリング場、カラオケで友人たちとはしゃぎ、成人を迎えると居酒屋に足を運び、ライブハウスやクラブで趣味を深め、就職すると上司や後輩たちと少しええ酒を飲み交わす。人生の先輩たちが喫茶店や静かなバーで思い思いの時間を過ごしている姿を見ることもできる。人生のライフステージに合わせた遊び場がここにはある。

しかし、東京や大阪などの大都市の歓楽街とは違い、やはりそこはこぢんまりとした京都らしく、ギラギラという表現とは少し異なるおとなしさがある。夜が深くなってくると街全体は静かになり、人の声もそこまで騒がしくはない。
「新宿の歌舞伎町が眠らない街なら、木屋町は眠る街やからな!」
同じく木屋町で青春を過ごした僕の友人があるとき楽しげにこう言った。彼は京都を離れ、いまは東京で懸命に生きている。ひょうきんだが根は真面目な彼と久しぶりに再会したとき、髪型がキレイなモヒカンになっていて、東京は怖い街だなと思った。きっといまも眠らずにいるのだろう。僕は相変わらず毎日8時間眠っている。
隙あらば歴史が入り混じる京都の街
木屋町にはいわゆる夜の店が多い一方で、歴史的な場所も点在している。飲食店が連なる道に立誠小学校跡地が突如現れる。1869年に下京第六番組小学校が開校し、その後校名が変わり、1927年には京都市内で最古の鉄筋コンクリート造りの校舎が建てられた立誠小学校が元となる施設だ。今は立誠ガーデンヒューリック京都として、ホテルや図書館、多くの人が歓談する芝生の広場などが整備されている。
通りに面した小学校の門は、いまでも当時の姿のまま残っており、歴史を感じさせるつくりではあるが、30年ほど前までは実際に小学校として使用されていた。まだ僕が幼稚園に通っていたころに親と何度か立誠小学校に入ったことがあり、僕が見た世界のなかで初めての小学校は木屋町のなかにあった。
また、三条通と木屋町通の交差点あたりには瑞泉寺がある。歓楽街の中にある神社仏閣が僕は好きで、知らない街で見つけたときは手をあわせるようにしている。これから欲望を発露しにいく人々に対して、神さん仏さんが「気をつけなはれや」と声をかけてくれるような気持ちになるのだ。
そのあとに実際に酩酊したり、恥ずかしい目に遭うたびに「ほれ言わんこっちゃない」と神さん仏さんのため息が聞こえそうになるのだが、いつかその愚行を改めるまで神仏はそこにいてくれる。慈悲マジ感謝。
瑞泉寺は、かの豊臣秀吉の養嗣子であり関白になった豊臣秀次の菩提寺で、秀次の一族と家臣の墓として五輪塔が並ぶ。現在は国内外で活躍するイラストレーターの中川学さんが住職を務めている。
他にも、国語の教科書にも載っていて学生たちをなんとも言えない気持ちにさせた森鴎外の小説「高瀬舟」の舞台となった高瀬川が通りと平行するように流れており、桜の季節になると昼間も多くの人が写真撮影に訪れる。歓楽街の中に色味の異なる歴史が混じり合うあたりが京都らしい。
僧侶と飲んべえが同じ卓で同じ時間を過ごす店

最近僕がよく居場所としているのは「D場(ディーバ)」という飲み屋である。DJとしても活躍する友人が開いた店だ。京都で音楽に関わる人たちや、店主の人柄に誘われた人たちが集まり、尖りのないのんびりとした人々が多い印象だ。店内は大きなコの字のカウンターがあり、友人やデートで来るのはもちろん、ひとりで訪れても店主やその場にいる誰かと会話を交わすことができる。

D場の店主も僕と同じく京都で生まれ育った人間だ。あるとき何気ない会話をしていくなかで、地蔵盆の数珠繰りの話になった。
地蔵盆とは関西の各町内で行われる夏の行事で、地蔵菩薩を祀る子どもを中心とした縁日だ。町内の大人たちが催しやお菓子などを用意して、子どもたちが集まり楽しむ一日となっている。
その地蔵盆の中でよく行われる特有の催しが数珠繰りで、大人も子どもも混ざって輪になり長く大きな数珠を持ち、念仏を唱えながらぐるぐると回す。初めて聞く人にはこの「大きな数珠」という物のサイズ感に戸惑いがあるらしく、さまざまなサイズはあるが、大きなものでは数珠の玉ひとつひとつは拳大ほどの大きさで、全長は長めの縄跳びのロープの端同士を繋いで円にしたほどの長さと考えるとわかりやすい。
大人になり、「久しく地蔵盆も数珠繰りもしていない」とD場の店主は口にした。生まれ育った京都に暮らしていても、引越しをしたり近所の付き合いがなくなったり、そもそも子どもが少なくなってきたりと、色んな理由で地蔵盆と縁遠くなってしまった人の話をたびたび聞くことがある。
なので、ものは試しとD場の店の中で「大人の地蔵盆」というものを行った。店主が懐かしい駄菓子やおもちゃを用意して、僕がお地蔵さんと数珠を寺から運び、お経を読みながら常連の面々と一緒に数珠を回す。懐かしく思う人もいれば、初めてで数珠を回すときに妙に緊張する顔もあり、懐かしさもありながら新しい有意義な時間を過ごすことができた。
そもそも、僕は飲み屋には顔を出すが、30代後半でお酒をやめた。友人と酒を交わす時間にはたくさんの楽しい思い出があったが、もともと体質に合わなかったのか、最近では飲むと頭が痛くなり、それによって気分も悪くなり、相手に気を遣わせるのもしんどくなった。それならいっそ酒を絶ったほうが、何の支障もきたさないことに気づいたのだ。むしろ、居酒屋での会話は舌が滑らかに動き、普段よりも会話が弾むようになった。
酒というものが人生を充実させるために必要なものであったと、僧侶である自分が言うのは妙な話なのかもしれないが、実際に誰かと会い、交流する中で酒は役に立つ。まだ見ぬ相手と気を許し合い、お互いを知るために、酔うという状態が会話を促してくれた。しかし、それは手段のひとつに過ぎず、会話のトレーニングが終わった今では、酒の力を借りる必要はなくなった。

そうして、D場でグラスに入っているジュースを片手に、黒衣や袈裟の姿ではなく普段着で何でもない会話をしているので、初めて会った人は僕が僧侶であることに気づかないこともある。
僕もあけすけな性格なので、初対面の人とも、最近の映画や音楽の話から下世話な話まで気兼ねなく話しているのだが、僧侶であることがわかった瞬間に背筋が伸びる人もいて面白い。それまで下世話な話をしていたのに、急に「実は実家の墓をどうするか考えていまして……」なんて相談があったりもする。お酒の力を借りずとも、木屋町に来たくなるのは、こんな交流があるからだ。
僕たちは遊びのなかで世界を学んできた

「お坊さんとこうやって話したのは初めてです!」
これは、友人である元ヤンキーで二十代の看護師の言葉である。ある時は休日に特攻服を着て、好きなアーティストのライブに行った写真を見せてくれた。僕は彼女のその言葉がうれしかった反面、僧侶や寺というものが一般的に遠い存在になっていることにも気づかされた。
京都には寺がたくさんあり、黒衣を着て車やバイクを運転するお坊さんの姿も珍しくない。しかし、実際に僧侶が仕事以外で人々と交流する機会は減ってしまったのだろう。
そもそも僧侶というのは仕事ではなく、人生であり生き様であると僕は信じている。だけれども、効率化を図った社会の中では、僧侶もまたビジネスライクになってしまった。
ブッダはインドで出家者の労働を禁止したが、それが現代の人々にどれだけ頭ではなく感覚で受け入れられるのだろうか。労働というもの自体が2500年前のインドと現代の日本で様変わりしてしまった状況において、僕たち僧侶はブッダの教えをどう理解すればよいのか、考え続ける必要がある。
そのための僕の一つの回答が、木屋町で人と話すことだった。なんやねん、ただ遊んでるだけの言い訳やんけ、と言われたらそれはそれで受け入れる。ただその言葉は遊びの意味を蔑ろにしている。
そもそも、遊びという言葉には「学ぶ」という側面があるのではないだろうか。まるで、物心のついた子どもが街や自然の中で遊びながらこの世の中を肌で学ぶように、僕たちもまた遊びの中でさまざまな発見をする。それはまさに、人生における学びだろう。
また、仏教僧が各地を巡り歩きながら布教・教化することを遊行という。口から小さな仏さんが六体飛び出している像で有名な空也上人や、踊念仏でおなじみの一遍上人は、遊行をした僧侶としても有名である。もちろん、彼らが遊びに耽っていたわけではない。寺を離れた外の世界で修行を行い、自らの仏教を深めていった。
こう考えると、内と外を行き来する中で、自己とは異なる他者と触れ合い、喜びを伴う新たな発見をすることが、遊びの本質なのかもしれない。
だから僕は、下世話な話からお葬式の相談まで、木屋町のなかで同じテーブルの上に乗せて話す。布教なんておこがましいことは言わない。ただ、僕を媒介にして仏教に触れてくれればそれでいい。ふとあるごとに友人の言葉を思い出し、僧侶としてのあり方を見つめ直すきっかけにしている。
ただ、あまりにもあけっぴろげに色々話すものであるため、「お坊さんなのに飲み屋でお酒を飲んでいていいんですか?」と尋ねられることもある。そのときに「これ、ソフトドリンクなんですよ。実は酒はやめてて」と答えると、「飲んでないのに深夜まで起きててそのハイテンションなんや……」と、ちょっと引かれることもある。これは仏教でもなんでもなく、僕が変なやつであるという話だ。
著者:鵜飼ヨシキ
1986年に京都の極楽寺に生まれ、書店員やwebライター・編集者を経て、現在は僧侶として生きる。ポッドキャスト「私より先に丁寧に暮らすな」に出演。他にも寺でのイベント企画・運営や、夜喫茶ドボン、音楽ユニット「馬(mar)」、アンビエント念仏セッションなどの活動も行う。
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編集:ピース株式会社
