学生時代の「カルチャー熱」を受け止めてくれた下北沢と、大人になった僕が家族と暮らす経堂|文・こがけん

書いた人:こがけん

1979年2月14日生まれ。福岡県出身。NSC東京7期。R-1ぐらんぷり 2019にて決勝進出。おいでやす小田さんと組んだ「おいでやすこが」として参加したM-1グランプリ2020では準優勝を掴んだ。

1997年の春。大学進学にともなって地元の福岡県久留米市から上京したばかりの僕は、「カルチャーのある街」での暮らしに強烈に憧れていた。地元にいた頃から映画やファッションが好きだったこともあり、東京に来れば、雑誌で目にしていたようなオシャレな暮らしがかなうのでは……と思っていた。

僕が通っていた慶應義塾大学商学部では、1、2年生向けの授業は日吉キャンパスで開講される。だから、ひとり暮らしをすることになった慶應の1、2年生の多くは、日吉駅の裏側から放射状に延びる商店街エリア、いわゆる“ひようら”に住むのだ。
ご多分に漏れず、僕もはじめは“ひようら”に家を借りた。“ひようら”は、お金のない大学生にとっても暮らしやすい、いいエリアだ。

けれど、当時の“ひようら”にはカフェや古着屋のような店はなく、僕が福岡で夜な夜な雑誌を読みながら想像していたような、カルチャーに囲まれた暮らしとはすこし違っていた。

イケてる慶應ボーイへの反発心と、下北沢への強烈な憧れ

それに加えて、反発心を覚えたのが、当時の慶應生の男子たちの雰囲気だ。日焼けブームの真っ只中だったこともあり、慶應でもガングロにオールバックがあちこちで見られた。彼らの多くがVネックのサマーセーターを着てルイ・ヴィトンのサイドバッグを持ち、素足にローファーを履いていた。それが「イケてる慶應ボーイ」の象徴だったのだ。

僕が好きなシンプルなファッションやストリート系のファッションをしている人はほんのひと握りで、ダンスサークルか音楽サークルの中にしかいなかった(だから僕は、逃げるように音楽サークルに入って音楽を始めることとなる)。自分たちのような人間はもしかすると、ガングロにサマーセーターの慶應ボーイからは「負け組」として見られていたかもしれない。

そんな僕が1、2年生のときから熱心に通っていた街が、下北沢だ。“ひようら”に限らず東横線沿いに住む人が多い慶應生の遊び場は、自ずと代官山や中目黒のような東横線の停車駅になる。けれど僕は、代官山のように洗練された街よりもむしろ、下北沢の独特な雰囲気に夢中になった。

当時から「古着の街」だった下北沢には、どんなジャンルの古着屋もあった。膨大な量のフランスの古着を扱う店から、70年代のヨーロッパのサッカーチームのユニフォームを扱う店まで。かの有名な「シカゴ」下北沢店も全盛期だった。店主の趣味がそのまま古着のセレクトに現れている店が多く、僕は毎日のように古着屋巡りを楽しんだ。

下北沢には古着屋はもちろん、カフェや飲み屋もたくさんあった。決して、洗練されたハイソな街ではない。けれど、そこで暮らしている人の息遣いが感じられるような温かみのある空気が下北沢の魅力だと思った。自分がずっと憧れていた「カルチャーのある街」そのものだ。僕はいつしか「下北に住みたいなあ」と考えるようになっていた。

下北沢駅から徒歩3分。夢にまで見た街での学生生活

大学3年生でキャンパスが三田に変わったことをきっかけに、僕は念願の下北沢に住み始めた。

住んでいた部屋は家賃7万円の1DK。駅徒歩3分、一番街商店街の中にあるアパートの3階だった。駅からのアクセスは抜群にいいけれど、トイレは和式で、風呂はついていない。それでもまったく困らなかったのは、建物の1階が「八幡湯」という銭湯だったからだ。
夕方になると銭湯に併設されたコインランドリーに寄り、乾燥機をセットした状態で銭湯に入るのが習慣だった。夜、自分の部屋の窓を開けていると、1階から石鹸の香りが立ち上ってくることもよくあった。当時の下北沢にはまだ、高い建物がほとんどなかったから、目を凝らせば東京タワーや新宿のビル群も見ることができた。

銭湯の隣には、いまも人気店の「椿」という居酒屋がある。外から店内が見えず、学生にはすこし敷居の高い雰囲気の店なのだけれど、一度入ってみたら、物静かな大将がつくる焼きとんと焼き鳥が抜群においしかった。

家からすこし歩くと「三河屋酒店」という老舗の酒屋もあった。当時、コロナビールをケースで買えるのは「三河屋」さんだけだったから、よく立ち寄っては、コロナビールやオシャレなリキュール類をここで買っていた。リキュールなんて家に置いておいてもめったに飲まないくせに、なぜか買い揃えてしまっていたのは間違いなく、下北沢という街の雰囲気に当てられていたのだと思う。とにかく浮かれていた。

芸人をやめ、板前修業の道へ。料理の基本を叩き込んでくれた名店「都夏」

これを読んで、「学生のくせにわりといい暮らししてたんだな」と感じている方も多いかもしれない。実はその通りで、当時はバイト代に加えて実家から仕送りももらっていたから、わりと自由な暮らしができていた、というのが正直なところだ。

しかし大学を卒業した翌年、就職活動に嫌気が差した僕は、何を思ったか、大学の同級生に誘われるがままにNSC(吉本総合芸能学院)に入学し、芸人を目指し始めてしまう。NSCで出会った相方と「マスターピース」というコンビを組んで活動を始めたものの、当時は収入がほとんどなかった。家賃が払えなくなった僕は銭湯の上のアパートを泣く泣く出て、同じく下北沢にある、家賃3万8000円のボロアパートの2階に住み始めた。どれだけお金がなくても、下北沢の街から離れるのは嫌だったのだ。

そのアパートは1階がダーツバーになっていて、恐ろしく壁が薄かった。夜、寝ていると1階からダーツを投げたときの電子音が延々と聞こえてくるのに加え、僕の右側の部屋にはハードコアバンドのベーシストの人が、左側の部屋にはパンクバンドのギターの人が住んでいたから、常にどこかしらで音楽が鳴っていた。
いま思えばめちゃくちゃうるさい環境だったはずなのだが、不思議と、隣人ともめるようなことは一度もなかった。各々が好きな音楽を大音量でかけていても「またやってんなあ」と許し合えるような寛容さが、当時の下北沢という街にはあったのだと思う。

NSC卒業からわずか半年ほどで、実は僕は、芸人を一度やめている。モチベーションの低さを自覚して、「売れるわけがない」と思ってしまったのだ。食べることが好きだったこともあり、それから数年の間はいくつかの店で働きながら、本気で板前修業をしていた。

その頃の僕がもっともお世話になった店が、「都夏 下北沢本店」だ。17時開店にも関わらず、料理の仕込みが朝の9時から始まるような本格的な店で、僕はここで料理の基本を叩き込んでもらった。当時から現在も変わらず、下北沢で大人気の居酒屋だ。

「都夏」の接客のスタイルはすこし変わっていた。具体的に言うと、板前がお客さんにガンガン話しかけるのだ。僕もいろいろな有名人とお話をした記憶があるし、大好きなミュージシャンの大瀧詠一さんが来店されたときは、サインまで頂いてしまった。サービスでおつまみを出したりするのも個々人の裁量に委ねられていて、いい意味でのゆるさと温かさがある店だと感じていた。もちろん言うまでもなく、料理の味は折り紙つきだ。

家族ができて移り住んだ経堂の街での、お気に入りのお店の数々

そんな根っからの下北沢フリークの僕だが、実は10年ほど住んだあとで、下北沢を離れている。

「料理は楽しいけれど、やっぱり自分が食べるほうが好きだ」というシンプルな事実に気づき、板前修業をやめて芸人に復帰してから数年。ピン芸人として芽が出るまではかなり時間がかかったが、その間に僕は気づけば30代を過ぎ、おじさんになりつつあった。下北沢が好きな気持ちは変わらないけれど、駅のすぐそばの賑やかすぎる雰囲気は、いまの自分にはすこし合わないんじゃないか、という気持ちが芽生えてきたのだ。

経堂の街に出会ったのは、下北沢から遠すぎない小田急線沿いで、もうすこしだけ落ち着いたところはないだろうか……といろいろな街を探していたときのことだ。下北沢まで自転車で行ける距離で、急行列車も止まるという点がまずよかった。街なかを探検してみると、下北沢に劣らないほど多くの飲食店があり、「都夏」での修行で舌が肥えた自分でも驚くような名店がいくつもあることにも感激した。

飲食店のレベルの高さと治安のよさ、生活のしやすさが決め手になって、僕は家族とともに経堂に住み始めた。ここでいくつか、僕の大好きな経堂のお店を紹介させてほしい。

まずは「ホットケーキ つるばみ舎」。ここはもともと、麻布の有名なフルーツパーラーで修業されていた方が始めたホットケーキ屋さんだ。僕はホットケーキだと、スフレ系のふんわりした生地よりもしっかりした生地のほうが好きなのだけれど、硬すぎる生地は嫌だという頑固なこだわりがある。「つるばみ舎」の生地はその点、あまりにも理想的な柔らかさなのだ。

トッピングのフルーツや生クリームも最高だ。甘味からカットの仕方まで、フルーツの扱いを完璧に知っている人がつくっているな、というのがよくわかる味。ホットケーキに添えられている黒糖のメープルシロップはとても甘みが強いので、最後の1カットだけメープルシロップをかけて食べる、というのが僕のこだわりだ。

それから、「paddbre」という、塩麹を使った料理と焼き菓子のお店も大好きだ。家庭的な雰囲気のお店なのだけれど、どの料理も体が喜ぶような、深みのあるキメの細かい味で、ワンプレートでも満足できるランチはどれもおいしい。ラムとキャラメルのチーズタルトやキャロットケーキなどのスイーツもおすすめだ。お店を運営されているふたりの店員さんの人柄もすばらしいから、経堂を訪れたらぜひ足を運んでみてほしい。

鮮魚店出身の大将が営む名店「もつ焼き 松ちゃん」「魚ケン」

居酒屋だと、「もつ焼き 松ちゃん」「魚ケン」がお気に入りだ。どちらのお店も、経堂の「魚真」という有名な鮮魚店で修行をしていた大将が始めた店という共通点がある。

「松ちゃん」は赤ちょうちんの定番メニューがリーズナブルな価格で食べられる居酒屋なのだけれど、和風の煮物にほんのすこしだけ山椒が利いていたりと、どの料理にもひと工夫凝らされているのが痺れる1軒だ。酒飲みがほしい「アテ」を完璧に理解してくれている店だな、と行くたびに感じる。

そして「魚ケン」は、とにかく鮮魚のおいしいお店だ。大将がその日ごとにいちばん新鮮な魚を目利きして仕入れているからこそ、マグロやイカのような定番だけではない、珍しい魚が出てくるのがうれしい。

鯨料理も名物だから、おいしい鯨を食べてみたい人にも薦めたい1軒。板前をしていた人間としては、「こんなに綺麗でおいしい刺し盛りがこのスピードで出てくるなんて」と毎回驚かされてしまう店でもある。

小田急線沿いの街には、「カルチャー」と「住みやすさ」がどちらもある


時代を経て、下北沢から経堂へと暮らす場所を移した僕だけれど、いまとなってはどちらの街も同じくらい愛着がある。

小田急線沿いの街のいいところは、下北沢のように賑やかで人が多い街であっても、祖師ヶ谷大蔵のようにすこし庶民的で落ち着いた街であっても、成城学園前のような閑静な街であっても、同じようにその街独自の味を持っていて、なおかつ住みやすさが担保されているところだと思う。

特に下北沢には、「カルチャーの街」として強い憧れを抱いている人も多いと思うけれど、オシャレな店もたしかに多い一方で、「オオゼキ」のように、新鮮なものが安く買えるスーパーがきちんと街に根付いていたりするよさもある。地元の人同士の交流も多く、東京にしては緑も豊かで、初めて上京してきた人が住む街としても、子育てをする街としても、小田急線沿線はオススメだ。

経堂は芸人にもやさしい街だ。飲食店では「芸人やってるんだ、頑張ってね」と常連さんたちが声をかけてくれるし、僕が「おいでやすこが」としてM-1グランプリの決勝に出た際なんて、「松ちゃん」の大将と女将さんが「うちの店はおいでやすこがを応援しています」と書いた紙を玄関に貼ってくれていたほどだ。

最近は芸人たちの中でも経堂の魅力がじわじわと広まりつつあるようで、ここ数年でずいぶん、ご近所さんとなった芸人も増えてきた。(かつての僕のように)カルチャー熱に当てられたい若者にも、「下北沢、大好きだけどちょっとだけ離れてみようかな」という落ち着いた大人にも、経堂はきっと、抜群に居心地のいい街のはずだ。

取材・編集:小沢あや(ピース株式会社) 構成:生湯葉シホ