自然、まつり、音楽……様々な面を内包した大きな街「浜松」文:イシヅカユウ


書いた人:イシヅカユウ

モデル・俳優。出演した映画『片袖の魚』でムンバイクィアフィルムフェスティバル最優秀主演俳優賞受賞。主演映画『Colors Under the Streetlights』などの代表作がある。

私が育ったのは静岡県浜松市ではない。

というと「浜松市出身ってプロフィールに書いてあるじゃん!」と思う、イシヅカユウのWikipediaを熟読している素敵な方もいるかもしれない。

私が育った場所は、当時「浜松市」ではなく「静岡県引佐郡細江町」と呼ばれていた。山と川に囲まれ、前方後円墳があり、古街道が通った小さな町だ。

私が中学生の頃、そんな小さな町は突如大きな街の一部になった。隣接している浜松市と合併することになったのだ。

私は細江町育ちとはいえ、父方は浜松の中心部の家族だったし、細江の人の大半は浜松市に買い物に行ったりするものなのでそこまでの違和感はなく、ただ住所の書き方が変わったくらいにしか思わないところもあったが、それでもやはりなんとなく、「引佐郡」という響きが無くなることに感傷を覚えた気がする。

「平成の大合併」によって、私はあっさりと「浜松市出身」となった。今まで小さな町の一人だった私は、突如として大都市の一部になったのである。

東京に移り住んでもう10年くらい経ったけれど、私は地元を全て愛している。幼い頃に育った小さな田舎町も、同じようにたくさん思い出のある街中も、まだ見ぬ山奥も、様々な面を内包した大きな街を。

車で何度も訪れた「浜名湖」で出会った魚たち

そんなわけで、縦にも横にも広く、海辺から山奥まで続く浜松市は鉄道よりも圧倒的に車社会である。私も生まれてすぐから親が運転する車に乗って色々な場所へ行った。母方の実家近くに住んでいたのだが、父方の祖父と叔母にとても懐いていた。週末は必ず浜松市の祖父母の家まで泊まりに行き、日曜の夜に車で迎えに来てもらうのが決まりだった。

祖父は料理と釣りが好きで、日曜の朝は早く起きてよく一緒に釣りに行った。浜松には、「浜名湖」という大きな湖がある。現在、この湖は海と接し、海水と淡水が混ざり合う『汽水』と呼ばれる水域となっている。しかし、かつては海とは隔離されていた。明応7年(1498年)の地震による津波をきっかけに、海と繋がるようになった。

場所によって、海のものも川のものもいる。そして浜名湖の外側の遠州灘にも様々な種類の魚たちがいて、釣りには最適な地域だと思う。

近くには「舞阪漁港」などの漁港があり、タイミングよく行くと取れたばかりの魚を見せてくれたりすることもあった。もともと魚が好きで図鑑を熟読していた私は、まだ見ぬ海の底へ思いを馳せていつまでも眺めていた。大きなカエルアンコウを見せてもらった時はもう、興奮してなかなか離れられなかった記憶がある。

秋口になると、黒潮に乗って、浜名湖や遠州灘には本来生息していない、熱帯の海の魚が来る。冬を越せずに死んでしまうので、「死滅回遊魚」などと少し悲しい名前で呼ばれている。

漁港の船着場の隅っこをそっと覗き込んで、死滅回遊魚として来るチョウチョウウオの仲間が固まって泳いでいたりすると、そこだけパッと花が咲いたようでとても美しかった。

バラエティ豊かな浜松地域のお祭り

浜松市は本当に様々な地域を内包している。「クラスター型都市」を目指しているそうだ。実際に、元々は違う地域だった近隣の町の情報が入って来やすくなった。特に、地域ごとのお祭りはとても沢山あり、いつか全制覇してみたいものだ。

私の育った細江町には、江戸時代に使われていた関所があって、そこへはお姫様が通ったということから「姫様道中」というお祭りが毎年春に開催されている。

小さな町のお祭りなので、規模はそんなに大きくないけれど、私は小学生の頃からこのお祭りでお囃子の笛を吹いたりしていたこともあり、とても懐かしく、できれば毎年姫様道中の時期に帰りたいほどである。

夏には「細江神社祇園祭」も開催される。この神社のご神体は、元々別の場所にあったものが、先述した明応地震の津波によってこの神社近くまで流れ着いたと言われているのだそう。

そのご神体を船に乗せ、浜名湖を渡る。そして元々あった場所まで行き、また神社まで帰ってくるというお祭りだ。最後はそれぞれの町の屋台が全て神社に集結して、競うように神社の階段を上がり、本殿の前でお囃子を演奏し続ける。


当日は神社がある商店街の前の道が歩行者天国になり、ずらっと食べ物などの屋台が並ぶ。私はお囃子をやっていたし、商店街の中には母方の実家の薬局があったので、買い食いしたりお祭りの雰囲気を家の中から感じたりするのが好きだった。数年前には東京の友人を連れて帰ったこともある。とても楽しい時間だった。

元々浜松市ではなかった町のお祭りが、今も沢山息付いている浜松。まだ私の知らないお祭りも数多くあるのだろう。

初子のお祝いが有名な「浜松まつり」

そしてなんといっても浜松といえば、やはりゴールデンウィークに行われる「浜松まつり」である。

私は、育った地域は当時浜松市でなかったけれど、父方の実家は街中にルーツがあったのもあり、浜松まつりにもたくさんの思い出がある。

私は幼い頃に「初子のお祝い」というのをしてもらったそうだ。子どもが生まれたことを、浜松まつりで凧をあげてお祝いしてもらうらしい。さすがに記憶はないのだけれど、その時のビデオが残っていて、何回か見たことがある。私の名前が書かれた大きな凧が実家にずっとあったのを覚えている。

少し大きくなってからは、毎年家族で浜松まつりに通うようになった。浜松の街中で催されるお祭りなので、駅前周辺がいつもよりずっと華やいで、しかも普段なら子どもはいられない夜まで街で過ごせる。喫茶店に入ったり、親戚のお店に行ったりするのは本当にワクワクする記憶として今でも残っている。まだ飲めないお酒や夜の街の気配が、今でもどこか懐かしく、惹かれるような気持ちを呼び起こすのかもしれない。

楽器が身近で世界各国の情緒が混ざり合う音楽の街

音楽がとても好きだ。日本を含めた様々な地域の民族音楽、クラシック、ジャズ、ポップスなど、とても広いジャンルの音楽を聴く。それも浜松で育ったことが関係しているように思う。

「細江神社祇園祭」のお囃子をやった経験は、雅楽やその他日本の音楽に興味を持つきっかけになった。そして浜松市はあのYAMAHAをはじめ、河合楽器製作所(カワイ)、ローランドと名だたる楽器メーカーが本社を構える地だからか、楽器が身近にあった。ピアノはもちろん、浜松市の名産として「ハーモニカ」も有名だ。我が家にも本格的なブルース・ハープ(ハーモニカの一種)がおもちゃ同然に置いてあった。

また、ブラジルやその他様々な地域から移り住んだ人が多く、街中や地域のラジオからサンバやボサノバなど世界の音楽を聴く機会も多かった。浜松まつりの時には「世界の縁日」という、各国の食べ物や雑貨などを売る縁日が催されていて、そこで海外の音楽が流れ、民族楽器に触れた記憶がある。

また、車社会であるが故に、移動中は常にカーステレオからラジオやカセットテープ、CDの音楽が流れていた。その時間が、音楽をより身近なものにしてくれたのだ。幼い頃、TRFのアルバム「WORLD GROOVE」をカセットテープに録音して車内で聴いていた記憶や、母が好きだった70年代のディスコソングが収録されたコンピレーションCDを車内で聴き、その中の曲を好きになったことなど、今でも鮮明に覚えている車内の瞬間がある。

思い出はそのままに、進化する浜松を愛している

今でも私は頻繁に浜松に帰っている。浜松駅までは東京から新幹線で1時間30分ほどだし、移動がそんなに大変でないというのもあるけど、やはり帰りたくなるのは、いつ行っても魅力や楽しいことが沢山あるからなんだと思う。

浜松に住む妹とそのパートナーには3人の子どもがいて、私はその子たちのことが大好きなので事あるごとに帰っているのもある。子どもたちは実に伸び伸びと育っているように私からは見える。これからもっと自由に、そして幸せに生きていってほしくて、私たち大人がそのためにできることをなんでもやっていこう!とまで思うほどなのだが、やはり浜松の伸び伸びとした雰囲気は、この子達を少しでも幸せにしてくれるのではないか、と私は思っている。

実際に、山も川も海も身近にあって、気候も険しくなく、日照時間が長く、空がいつでも広い。そんな場所で育ったことは私にとって、とても幸せなことだったと思う。

そして今でも帰るたびに様々なお店や施設が新しくできていて、東京とはまた違う楽しみが増え続けている。

例えばコストコは車で移動するのがデフォルトの浜松にぴったりのお店だ。家族や友達と色々買い込んでホームパーティをするのが楽しいし、大きな店内も東京の商業施設に行くのとはまた違う独特の雰囲気がある。広さも入っているお店も、見やすさも全然違うのだ。

一人でも気ままに楽しめることが沢山あるし、家族やいろんな世代の子どもと大人と、沢山で一緒にいるのにも楽しく、便利なところもとてもいい。

私が子どもの頃の浜松市とはだいぶ様子も変わったし、もう無いものも沢山ある。昔よく遊んだ商業施設も、父に連れて行ってもらった熱帯魚屋さんも、母と通った雑貨屋さんも、家のすぐ北にある山の頂上で飼っていた孔雀も、恐竜の形のゴミ箱も、もう全部無い。けれど、また新しく発見して、つくって、冒険して、あっという間にまた素敵な思い出ができる。そんな浜松をやっぱり私は愛している。

著: イシヅカユウ

編集:小沢あや(ピース株式会社