初めて人のやさしさに触れた街なんです。怪優・伊藤えん魔を救った「千里ニュータウン」【関西 私の好きな街】

取材・執筆: 吉村 智樹

 

関西に住み、住んでいる街のことが好きだという方々にその街の魅力を伺うインタビュー企画「関西 私の好きな街」をお届けします。

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千里ニュータウンで過ごした日々は、大げさではなく、人生で最も自由を謳歌した時期でした。いまだに千里ニュータウンで暮らしていたころの夢をよくみるんです。団地が立ち並ぶこの街には、楽しかった想い出しかない。街への感謝の気持ちでいっぱいなんです」

そう語るのは、およそ30年にわたり演劇界をにぎわせ続ける俳優・演出家の伊藤えん魔さん。舞台のみならずドラマや映画、怪談の語り部として、幅広く活躍しています。

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演劇人の美意識に大きく影響を与えた「千里ニュータウン」

身長182センチ。体重120キロ。「怪優」として名を馳せる巨漢、えん魔さん。大きな身体はその名のとおり、魔界からやってきた使者のよう。地底から響き渡るかに聴こえる低音ヴォイスも魅力。去る2021年3月27日(土)、28日(日)には1年半ぶりのプロデュース公演「アビー」(近鉄アート館)を成功させました。

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伊藤えん魔(以下:えん魔):「新型コロナウイルスの影響で3度も延期になった公演です。緊急事態宣言と緊急事態宣言の隙間を縫うように、やっと公演ができました。あと一カ月ずれていたら、もう延期ではなく中止になっていたでしょう。一昨年前から今年2021年の3月まで、まるまる一年半、演劇の世界へ戻れずにいたんです。今回の公演は、演劇の神様がやらせてくれたのかな。正直に言って、あまりにも出口が見えなくて、廃業すら考えていましたから……

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廃業まで覚悟するほど思いつめ、幾多の危機を乗り越えて上演された、架空の戦闘国家を描いたファンタジー「アビー」。一貫して「異世界」を表現し続けるえん魔さん独特の美意識は、幼少期に住み暮らした「千里ニュータウン」の団地の光景が、大きく影響しているのだそう。

えん魔:「子ども心に『千里ニュータウンって、美しいな』、そう感じていました。風景が現実離れしているんです。同じかたちの団地がずらっと並んでいる。行けども行けども団地で、光景が変わらない。大阪のなかでも、ちょっと珍しい街じゃないでしょうか。例えるなら『AKIRA』に登場するネオ東京。昼の千里ニュータウンもいいですが、夜に眺めると、最高にカッコイイんです」

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開拓地に誕生したマンモス都市は「団地っ子」の楽園だった

えん魔さんのサイバーパンク感覚を育んだ「千里ニュータウン」とは、大阪・千里の丘を開拓した、昭和生まれの「新しい街」。膨大な数の団地(集合住宅)が特徴です。

吹田市と豊中市をまたぐ千里ニュータウンは昭和37年(1962)年から順次入居受付がスタート。昭和45年(1970)に全域が完成しました。

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すぐ目の前では「EXPO’70 日本万国博覧会」、通称「大阪万博」が開幕。千里ニュータウンは本邦初の大規模ニュータウンとして注目され(しかも万博開催地が徒歩圏内!)、関西はもとより日本中から憧れのまなざしを注がれたのです。

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そんな千里ニュータウンは阪急千里線、北大阪急行、大阪モノレールが縦横に乗り入れており、都心部へのアクセスのよさから現在も変わらぬ人気を誇ります。

えん魔:「僕が住んでいたのは高野台エリア(吹田市)。11階建ての団地の4階でした。生まれはお隣りの豊中市。昭和40年(1965)に抽選で当選し、3歳のときに入居したんです。典型的な『ニュータウンっ子』ですよね。その後、幼稚園から中学校を卒業するまでおよそ12年、この団地で暮らしました。千里ニュータウンは僕の少年期、思春期のすべてでしたね

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伊藤えん魔さんが入居した当時の千里ニュータウン(高野台エリア)

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転入当時、幼少の伊藤えん魔さん

千里ニュータウンは約13万人もの人々が一気に流入したマンモス都市。ひとつの街に13万に及ぶ人々がわずか数年で移住してきた例は、海外でも極めて珍しいのだそう。千里ニュータウンは、世界から見ても画期的な大事業でした。

えん魔:「とにかく“人口が多い街”でした。小学校や中学校がいくつも立ち並び、しかもどの学校も児童は千人規模。街には子どもがいっぱい。しかも9割が『団地っ子』。そういう時代だったんです」

第二次ベビーブームと同時期に誕生した活気あふれる千里ニュータウンは、さながらチビッ子天国。丘陵地を切り拓いてできたため、悪ガキたちのアドベンチャー魂をくすぐる起伏に富んでいたのです。

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えん魔さんが近所の友達と連れ立って、特によく遊んだのが、こちら。

えん魔:「勝手に『やまとだに』と呼んでいた場所です。団地と団地のあいだにある土手でね。僕らのヒミツの遊び場でした。まず土手と土手の両側に分かれます。次にガチャガチャのカプセルに土を詰め、爆竹を仕込み、手りゅう弾のように投げあうんです。言わば戦争ごっこ。トーチカのように隠れられる場所があって、白熱しました。小学校時代の“ベスト遊び”でしたね」

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かつて子どもたちが「やまとだに」と呼んで遊んだ場所。造成が進み、現在は傾斜にのみ往時の面影が残る。かつてはここに南千里市民プールもあった
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かつての千里ニュータウンは現在よりも地形が起伏に富み、子どもたちの冒険心をくすぐった

一緒に遊んだ同級生には格闘家の佐竹雅昭さんがいたのだそう。えん魔さんとは身長の高さで1位、2位を争い、クラスメイトからは「二大怪獣」と呼ばれていたとのこと。そんな二人の遊びはもう「ごっこ」どころじゃない、マジ戦場ですよね。


ベランダからオカンたちの呼び声がこだまする日常

千里ニュータウンには、人口の多さのみならず、もう一つの大きな特徴がありました。それは「核家族」を募集の対象としていた点。ここでいう核家族とは「母と父と未婚の子ども」がいる家族を指します。つまり往時に団地に住んでいた人々は、入居時はほぼ同じ家族構成だったのです。

えん魔:「みんな驚くほど家族のシチュエーションが似ているんです。どの家も、オカンが家で内職をしていて、オトンは普通のサラリーマン。クラスメイトの家へ遊びに行くと、たいてい友達のオカンがラジオのトランジスタをはんだ付けしていました。内職しているオカンの横でトランプしたり、テレビを観ていたりした憶えがありますよ。『あんたら、うるさい。静かにし!』って怒られながらね。どの団地のどの家へ行っても、似たような雰囲気でしたね」


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新しい街へとやってきた、当時「中流」と呼ばれたの人々。ニュータウンと呼ばれる街でも、住むのは慎ましく暮らす庶民です。まるで下町のような昭和の情景がそこにありました。

えん魔:「日が暮れはじめると、団地の窓のあちこちから晩ごはんの支度をするいい香りがただよってくるんです。そしてオカンたちの『もうすぐごはんやで~。はよ帰っておいでや~』という、子どもたちを呼ぶ声がベランダから響き渡る。遊んでいた子どもたちはその声を聴いて、夕焼けを背に家に帰る。それがニュータウンっ子たちのライフスタイルだったんです」

なんと、ほほえましい日々のいとなみでしょう。

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典型的なニュータウンっ子の身の上に起きた複雑な事情

しかし……「典型的なニュータウンっ子」だったえん魔さんの家庭にある日、典型的とは言い難い変動が訪れます。

えん魔:「小学4年生のとき、母に新しい恋人ができましてね。母は家を出ていってしまったんです。親父はもともと年に2、3回しか家へ寄りつかない人でした。たまに帰ってきても酒を飲んで暴れ、お膳をひっくり返すだけ。なので小学4年生から中学3年生までのおよそ6年間、実の姉貴と僕だけの二人暮らしやったんです」

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両親が家を出てしまったため、中学生だった姉と二人暮らしをする事態となった

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両親の離別により、6年もの間、しかも多感な少年時代に、姉と二人暮らしをする事態に。まず心配なのは生活費。いったいどうやって工面していたのでしょう。

えん魔:「生活費は父方の祖母が出してくれました。親父は家にいない。おふくろはどこかへ消えてしまった。祖母なりに『孫に申し訳ない』と思ったんでしょうね。残された小学生の僕と中学生のお姉ちゃんが飢えないよう、生活費と食材を持ってきてくれていたんです。冷蔵庫に材料を入れて、『お腹すいたら焼きそばにして食べや』って」

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空腹をおぼえれば自炊をし、公共料金は「電気」「ガス」「NHK」と封筒に小分けにしてあり、集金人が来れば各封筒から支払う仕組みだったのだそう。それにしても、周囲の家庭がほのぼのと団らんのひとときを過ごすなか、小中学生だけの二人暮らしは過酷だったのでは。

えん魔:「う~ん、違うんです。こんな話をすると、もしかして“かわいそうな少年時代”みたいに伝わってしまうのかな。反対なんです。十代で自立心が芽生えたし、『ライフラインには、いくらかかるのか』を幼いながらに理解できました。お金の大切さが肌身に沁みてわかった。大学時代から今日まで劇団を運営し続けてこれたのは、姉との二人暮らしの時代があったからこそです。それになんといっても、僕には『自由』が嬉しかった」

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「自由」。えん魔少年の家には「ごはんやで~。はよ帰っておいでや~」と声をかけてくれる親はいません。その代わり、存分に想像の翼を広げることができた。そう言います。そうしてえん魔さんは千里ニュータウンでほぼ毎夜、ある一人遊びに夢中になるのです。

えん魔:「徘徊です。サイクリング自転車の荷台にラジカセを置き、ゴム紐でぐるぐる巻きに固定しましてね。ラジオから流れてくる音楽を聴きながら夜の千里ニュータウンを走るんです。夜になると車が通る台数も少なくなり、団地の窓から漏れる灯りだけがずーっと続いている。そんな夜の風景が音楽に合うんですよ。本当に楽しかった。なんせ、予備の電池まで持って走っていましたから。音楽を聴きながら自転車で駆け抜け、想像に耽る。たまらなく好きな時間でした。そういったオツな少年時代を過ごしていたんです」

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ウオークマンがまだない時代。音楽を楽しめて持ち運びができるツールといえば、ポータブルラジオかラジカセでした。団地から漏れる家庭の蛍光灯も、たくさん集まれば、えん魔少年の目にはBGMとマッチした素敵なイルミネーションに見えたでしょう。

とはいえ子どもの夜の自転車徘徊は安全面に不安があります。事故や誘拐などの危険も考えられ、決して推奨できる遊びではありません。

えん魔:「そうですよね。確かに、よく、おまわりさんから声をかけられました。『きみ、はよ帰りや』『ご家族が心配するで』って」

もう四十年以上も前のお話。お読みの皆様、少年の無茶を、なにとぞご海容ください。

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団地の住民たちは少年の寂しさを察していた

そして一つわかったのは、複雑な家庭環境下にあったえん魔さんを、団地の住民たちはやはり「心配していた」という事実。

えん魔:「心配かけていたと思います。友だちの家で、よくごはんを食べさせてもらっていたんです。団地の皆さん、僕の家にオカンとかオトンがいないのを知っているから、『晩ごはん食べにおいで』と声をかけてくださる。自分の家には、おばあちゃんが置いていった食材があるんです。けれども、自分でつくって一人で食べても、おいしくないんですよ。なので、友達のご家族と一緒に晩ごはんをいただいていました。食後に『ありがとう。ごちそうさまでした。おいしかった!』とお礼を言うと、『ごはん、つくり甲斐があるわ~』『またおいでな』『あんた、うちの子になったらええのに』とおっしゃってくださる。そういうあたたかく迎えてくれるご家庭が何軒もあって、厚かましいんですが、2週間ほどのローテーションを組んでいました(苦笑)」

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同じ地域で暮らす子どもが困っているからと「ごはんを食べにおいで」と声をかける親御さんたち。その背景には、ストレートに「いい話」では済ませられない家庭環境があり、社会問題をはらんでいます。

けれども、やはり胸を打たれるエピソードに違いありません。このように自由奔放に日々を過ごしたえん魔さんは、千里ニュータウン住人たちに見守られながら成長していったのです。

えん魔:「千里ニュータウンの皆さんには本当によくしていただきました。むかし、団地の最寄りである阪急『南千里』駅の高架下に『八角』という炉端焼き屋さんがあったんです。そして団地に住む常連のおっちゃんたちが、僕を心配してしょっちゅう声をかけてくれるんですよ。夜に自転車で駅前を走りまわっていると、のれんの向こうから『おい坊主! こんな時間になにしてんねん。晩メシ、食うたんか?』と声をかけてくる。夜遅くに一人でいる僕を見て、家庭の事情を察してくださったのでしょう。『焼鳥、食うか?』って、お店に入れてもらって。知らんおっちゃんたちに囲まれながら焼鳥をいただいてね」

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伊藤えん魔さんが立つ阪急「南千里」駅の高架には以前は炉端焼きの居酒屋があり、住民の交流の場となっていた

食べ盛りの時期、すきっ腹につまむ焼鳥は、さぞおいしかったでしょう。ここで僕は、とても無粋な質問を投げかけてしまいました。「自由を謳歌した」という少年時代、それでもやっぱり内心は「寂しかったのでは?」と。

えん魔:「両親が家にいるのが当たり前だなんて思わない。それが必ずしもいい家庭だとは限らないし、そうでありたいと考えた経験もないです。親がいない人生があったっていい。けれども……ふと思い返すんです。『赤の他人の僕に、なんでみんなあんなに優しくしてくれたんやろ』って。オムライスとナポリタンがおいしい喫茶店がありましてね。ケチャップたっぷりのやつです。おっちゃんたちが『ぼく、おなかすいてるやろ。食べや』と言って、ごちそうしてくれた。心配してくれていたんでしょうね。いまでも皆さんにお会いして、お礼を言いたい。でも大昔のできごとで、どこの誰だか、お名前がわからない。頭に浮かんでくるのは、うまそうにごはんを食べる僕を見て笑っている、おばちゃんや、おっちゃんたちの姿です。あのころを思いだすと、涙が出てくるんですよ。自分には両親はいませんでしたが、育ててくれた人たちがいたんだなって」

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そう、言葉を詰まらせながら語る、えん魔さん。団地やニュータウンと聞けば、ともすれば「無機質なコンクリートジャングル」といった固定観念にとらわれがちです。しかしえん魔さんのお話を聴くと、印象は大きく変わります。

えん魔:「団地って、横にも縦にも並ぶ長屋なんじゃないかな。住む人はだいたいみんな同じ収入で、それぞれの家が同じような悩みを抱えている。だから助け合う。自分の家の子だけではなく、地域に住む子どもはみんな我が子のようにかわいがる。そういう気風がありました。近所のおばちゃんたち、駅前の酔っぱらいのおっちゃんたちに、かけてもらった情を忘れるなんてできません。育てていただいた。しつけていただいた。あたたかい情をいっぱいもらって少年期を過ごした。千里ニュータウン時代は僕の人生にとって、すごいお宝なんです」

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親子同然な、あたたかな人情に触れた、忘れられない千里ニュータウン。けれども、えん魔さんは中学卒業とともに、この愛すべき街とお別れをする運びとなります。

えん魔:「高校進学と同じ時期に引き取られ、他県に建てられた新築の一戸建てへ移住しました。生まれて初めて自分の部屋を与えられましたね。普通なら個室って憧れるでしょう。けれども僕には窮屈でした。息が詰まるように感じてしまって」

校区が変われば、街の雰囲気もまた変わります。近所づきあいがなく、戦地に見立てられるスリリングな土手もない。同じノリで遊べる友人ができず、ただぼんやりと時間が過ぎていったのだそう。

そうして、えん魔さんはこの鬱屈した時期のフラストレーションを爆発させるがごとく、近畿大学への進学後、在学中に関西小演劇界異色のニューカマーとして頭角をあらわすのです。

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30年の演劇人生を支えた千里ニュータウン

演劇界デビューから、およそ30年の月日が経ちました。新型コロナウイルス禍で開催が危ぶまれた1年半ぶりのプロデュース公演「アビー」。舞台を終え、改めて「自分は人の情によって生かされている」、そう感じたのだそう。

えん魔:「最後まで公演を中止するべきか、悩みました。新規感染拡大防止のため、お客様の見送りはなし。ロビーで握手もできない。公演後はまるで急き立てるように、会場からの退出をお願いしました。すごいシビアな条件にもかかわらずお越しいただき、心苦しいですよ。それなのに『公演してくれてありがとう』『よかったです』『応援しています』と熱い声援をたくさんいただいた。演劇人としてモチベーションをつなげることができた。ありがたいです。感謝するとともに『自分はいま、こんなにも無心で誰かを応援できるだろうか』と顧みました」

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今回の公演で演劇人としての原点に立ち返った、えん魔さん。その瞬間、千里ニュータウンで過ごした日々がオーバーラップした、そう言います。

えん魔:「赤の他人で集まって劇団をつくって、家族のように助け合う。これがどれほどありがたい環境なのかを、僕は千里ニュータウンで学びました。もしも自分にあの時代がなかったら、果たして劇団を続けられていたのだろうか。本当にそう思うんです」

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著者:吉村 智樹

吉村智樹

京都在住の放送作家兼フリーライター。街歩きと路上観察をライフワークとし、街で撮ったヘンな看板などを集めた関西版VOW三部作(宝島社)を上梓。新刊は『恐怖電視台』(竹書房)『ジワジワ来る関西』(扶桑社)。テレビは『LIFE夢のカタチ』(朝日放送)『京都浪漫 美と伝統を訪ねる』(KBS京都/BS11)『おとなの秘密基地』(テレビ愛知)に参加。

Twitter:@tomokiy Facebook:吉村 智樹 

 


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