400年続く「イエ」、街道のまち今市に生まれて|文・上澤佑基

著者: 上澤佑基

みなさんこんにちは、はじめまして。上澤梅太郎商店(うわさわうめたろうしょうてん)の上澤佑基(うわさわゆうき)と申します。

ぼくが住んでいるまちは「今市(いまいち)」といいます。栃木県の北西部に位置していて、東京からの距離はおよそ120km、東武線の特急電車で100分・クルマだと150分。二荒山神社・輪王寺・日光東照宮の二社一寺、世界遺産まではおよそ10km、クルマで15分の位置にあります。



旧今市市の特徴をひと言で申し上げるならば、「街道の宿場町」ということになるでしょう。今市は、日光街道と会津西街道/例幣使街道(れいへいしかいどう)が交差するまちです。

日光街道は、言うまでもなく、江戸と日光とを結ぶ街道。会津西街道/例幣使街道は、会津若松を起点として中山道を経由して京都までを結ぶ街道。すなわち今市は、日光から江戸、会津から京都を結ぶ街道のハブになっていたのでした。現在でも、日光行きの電車と会津/鬼怒川温泉行きの電車は、ともに今市を経由しています。

2006年(平成18年)、旧今市市は、平成の大合併で日光市・藤原町・足尾町・栗山村と合併し、「日光市」の一部となりました。2市2町1村が合併した大きな日光市を、イギリスの正式名称とかけて「グレート日光市」と呼ぶ人もいます。

たしかにその面積はグレートで、栃木県の20%以上を占めています。その中で、旧今市市エリアは、西側を旧日光、北側を鬼怒川温泉(旧藤原町)、東側を宇都宮市、南側を鹿沼市と接しています。

やはりネームバリューとしての「日光」は途方もなく巨大なため、出身地を聞かれるとどうしても「日光」と答えがちになってしまいますが、しかし、旧日光出身の方の前では「日光の上澤です」と答えるのにはまだまだ躊躇(ちゅうちょ)があります。「日光?お前は今市の人間だろう?」と思ってしまいます。

「今市の出身です、」と言うと、日光の隣の知名度の低い場所、というイメージのためか、「今一つ」の略語とかけたダジャレを聞かされることが、これまで数億回はありました。すべての今市出身者が経験している事柄であろうと思います。

当然、そのような意味合いで地名が決まるはずもありません。室町時代に「今村」と呼ばれていた場所に街道が発展して、毎日「市」が立つようになったから「今市」と呼ばれるようになった、というのがほんとうの由来です。過去でもなく未来でもない。今・ここを生きるまち。もともと、街道を拠点とした、ダイナミックな流通経済の街だった歴史の厚みが、この地名の中に生きているわけです。

さて、現在「日光市」と呼ばれているエリアは、江戸期には、おおむね「神領」、すなわち、日光山(輪王寺・二荒山神社・東照宮の集合体)の直轄地であり、この地に住む人々は、日光山に年貢米を納めていました。ひとくちに年貢のお米を納めるといっても、そのためには実際にお米を集積するための穀倉が必用となります。

この穀倉がつくられたのは、日光の門前町ではなく、実は今市でした。「今市御蔵(いまいちおくら)」という巨大な米蔵が、鎮守の瀧尾神社の近くにつくられたのです。これもおそらく、「市」としてのまちの機能のおかげだったのでしょう。この穀倉に集積されたお米から日光山の神職や行政官への俸禄が供給されたあと、余剰分は民間に払い下げられ、あらためて市中で流通しました。

そんな今市にある、わが家「上澤梅太郎商店」の創業は、1600年代の初頭と伝えられています。先述の、日光山のお米を預かる「今市御蔵」を管理する蔵業として創業しました。そして、江戸中後期に味噌醤油醸造卸業になり、第二次世界大戦後に味噌醤油の製造技術を活かした漬物「たまり漬」の製造小売にシフトしていきました。とくに、高度経済成長期に「たまり漬」が人気を博したことで 、観光ブームの中で地域名産品化し、商品自体も、当店も、大きく成長することができました。

ちょうど1970年代の中ごろ、宇都宮と日光を結ぶ自動車専用道路、日光宇都宮道路ができました。そして、日光宇都宮道路の今市I.C.から鬼怒川温泉に向かうバイパスが、わが家の前を大きく削りながら開通しました。

このときの道路工事によって、古い家屋や蔵などの施設・設備はすべて失われました。そして、代わりに、現在のかたちの蔵と店が建ちました。もともと日光街道に面していた当店は、さらに国道121号(会津西街道/例幣使街道)のバイパスにも面する交差点の店となり、さらに多くのお客様に恵まれることとなります。

「交差点のお店」として、ありがたいことに、当店を、一つの今市のランドマークと認識してくださっている方も多いかと思います。

1985年生まれの自分にとって、地元のイメージは、すでにこの建物が建ったあとの情景になります。

 

「老舗のあとつぎ」として、下駄を履いて

幼稚園のとき、みなさんは、将来の夢を聞かれて何と答えましたか?古い記憶をたどると、同級生たちの多くは、女子ならお花屋さんかケーキ屋さん、男子なら警察官、というのが多かった気がします。警察官?冗談じゃない。ぼくは「あとつぎ」と本気で答えて、周囲の爆笑を得ることができました。

でも、当時、ぼくは、なぜ笑われているのかわからなかったのです。なぜならば、生まれてからそのときまでの数年間、周囲の大人たちに、陰に日なたに、「お前はあとつぎである」とずっとずっとずっと言われ続けてきたからです。

地域社会は、人間社会が濃密です。それを是と捉えるか、非と捉えるかは、人それぞれの価値判断ですから、なかなかこれといった答えはでないわけですが、ともかく、祖父母・曽祖父母の代からの知り合いなどあたりまえ。道を歩いていて、こちらは向こうのことを知らなくても、向こうは自分のことを知っている。鼻をたらして三輪車に乗っているような子どもが、突然、知らないご老人から「お前が上澤のあとつぎか」「自分はお前の祖父の友人である」というようなことを言われ続ける幼少期。まちの人々の見守りといえばありがたいですが、当時の自分にとっては恐怖に近い感情さえ抱くことがありました。まったく、スケルトンハウスに住んでいるようなものです。

生まれてから小学校までは地元で過ごしましたが、中学校からは東京にある「自由学園」での寮生活に入りました。12歳の春、東京に向けて出発する電車を見送りにきてくれた友達のお父さんに、「これまでは今市で『上澤』といえば誰しもが知っていて下駄を履かせてくれた。これから東京ではそうはいかないぞ」とはなむけの言葉をもらいました。今、それ、言う??? もちろん、おもんぱかってくれての言葉だとは思うのですが、そんなにおごった人間に見られていたのかと、当時は悲しくなりました。でも、たしかに下駄を履かされてきたのもまた事実の一端なのだから仕方ありません。少なくとも、幼稚園児にして、与えられた役割を内面化する程度には。

東京での寮生活については割とハードめなエピソードもたくさんあるのですが、今回のお題とは外れるので割愛します。そこから東京暮らしが続き、卒業後は、国内の大手漬物メーカーで修業をさせていただきました。修業中のエピソード、とくに中国の漬物工場への駐在経験についてもとりあえず割愛します。

そんなこんなで、今市の実家に戻ってきたのが27歳のときです。現在38歳。0歳から12歳が今市、12歳から27歳がよそでの暮らし、また27歳から38歳が今市ということで、自分の中では、ようやく地元での暮らしのほうが長くなってきたという実感があります。

車を少し走らせれば、すぐに田畑と山の風景が見えてきます

地元に戻ってきた自分が感じているのは、非常な焦りです。

一つ目の焦りは、学生時代を地元で過ごしていない分、地元の友達とはほとんど音信不通になっています。われわれが小学生の時分は携帯電話もなかったし、SNSなんていわずもがな。どうやって連絡を取り合うというのでしょうか。40人学級で3クラスあった小学校の同級生たちも、地元に残っている人はほんとうにわずかです。家業の商売を継いでいる人たちは、ちょっと上の年代まではいるような気がするのですが、われわれくらいの世代からぱったりと減っています。

地元消防団に入ったことで、ようやく地域のつながりが持てた感覚はありますが、その消防団さえ、新規団員の獲得に四苦八苦しています。日光東照宮を擁して、国際的にも高い知名度を誇る日光市ですが、現在少子化・高齢化・過疎化が進行し、「消滅可能性都市」と名指しされてしまっているのも、また事実なのです。それは地元民がいちばん肌感覚でわかっているところかと思います。

二つめの焦りは、商売上のはなし。総務省統計や、各種の家計データを参照すると、そもそも漬物・味噌・醤油という、当店が製造している商品の市場自体が激しく縮小しています。そもそもお米を食べる量が減っており、当然の理として和食材もなかなか手にとっていただけない現状があります。そのような環境下で、いかに漬物・味噌・醤油の価値をみとめていただけるのでしょうか。

社会においても、商売においても、非常な閉塞感を感じているのが現状で、これらに対して、どのように取り組んでいけばいいのか、必死になっていた10年だったようにも思います。

漬物・味噌・醤油をもっと日常に取り入れていただくためにどうすればよいだろうと、なんとかしてアレンジレシピをひねり出せないか考えていたこともありました。が、2015年を境に、それはきっぱりとやめました。代わりに、ごはん・味噌汁・漬物、いわゆる「汁飯香(しる・めし・こう)」がそろう、一汁一菜型の食卓、なかんずく「朝ごはん」の価値を高らかに宣言することで、家庭の食事が本来もっていた温かみ、親密さ、誠実で、自由で、簡素で、健全な価値観をもっともっと表現していきたいと考えるようになりました。

2016年には土井善晴『一汁一菜でよいという提案』という本が大ブームとなりました。家庭料理研究の第一人者である土井善晴先生が、肩肘張らず、生活の糧はごはん・味噌汁・漬物でいいじゃないか、と真正面から言ってくれたことで、われわれの目指していた方向性はまちがっていなかったのだと思えるようになりました。 

2020年には、店舗の隣にある、曽祖父まで住んでいた旧宅を改装して、朝ごはん専門店「汁飯香の店 隠居うわさわ(しる・めし・こうのみせ いんきょうわさわ)」を開業しました。

日光を訪れる海外出身の観光客の皆さんに、日光というロケーションで、築150年の伝統家屋で、畳の上で、日本庭園をながめながら、地元のお米を土鍋で炊いたごはん・季節の野菜をふんだんに使ったお味噌汁、そして仕込みたての当店のお漬物を召し上がっていただけたら、日本の食文化の体験としてどれだけいいことだろうと思っていました。

また、朝ごはんに特化した切り口の飲食店は日光市内にはまだまだ少なく、競合に対する優位点になるのではないかというスケベ心もありました。また、何といっても、観光時間帯をずらし、朝の時間帯を有効に使えるような提案をしていくことで、今市を拠点として日光や鬼怒川温泉をバウンディングしていくような旅のスタイルが提案できるのではないか、そのことによって、オーバーツーリズムの問題に当店なりにアプローチして、地域の観光価値をさらに増大させることができるのではないだろうか、と考えたのです。

そして、コロナ禍がやってきました。

2020年の1月、「武漢で新型コロナウイルスの感染症が流行しています」というニュースを見て、修業時代を中国で過ごした自分は、心を痛めていました。
2月、集団感染が発生したダイヤモンド・プリンセス号が横浜港に着いた、というニュースを、ぼくは、百貨店催事のため出張していた東京の、滞在先のサウナの中のテレビで知りました。空気が重苦しくなったのは、熱さのためだけではありませんでした。

程なくして、日光の、というよりも、全世界の、往来が止まりました。

お客様の増減に一喜一憂しながら過ごした最初の数カ月は、「大事をとって旅行はキャンセルしました」というお客様からのお声もたくさんあり、ルーティンどおりのことができないもどかしさを感じていました。

それと同時に、混乱しつつも、なんとか事業を継続しなければならない、仕入れも止めず、生産者のみなさんにもきちんと支払いを滞りなく進めなければならないという思いで、アイデアをひねり出さなければならないとずっと考えていました。不安と同時に、どこか非常時の興奮がありました。何より、始めたばかりの飲食店事業をなんとか軌道にのせなければなりません。

このような状況になって得られた気づきがありました。それは、当店の商売は、独力でここまできたのではなく、お客様を連れてきてくれる日光や鬼怒川温泉あってのものだったということです。地域全体の盛り上がりがなければ、当店も存続し得ない。そんな当たり前のことに、危機に際してやっと気づくことができた。遅すぎるだろうといわれればお恥ずかしい限りなのですが、災害にひんして謙虚になることができた、というのが実情です。

 

本当の「繁華」とはなんなのだろうか

街のエラい方々にフックアップしていただき、というよりも、自分にとっては過分な下駄を履かせていただき、自分はいま、いくつかの公職にも就いています。道の駅日光のオーナー会社で、商店連合体である「オアシス今市」の取締役と、日光商工会議所の議員です。なんとかまちのために力を出したいというよりは、周りの方々に鍛えていただいているといったほうが正確かもしれません。

このような中で、自分には何ができるのだろう……と、ちょっと望洋としています。そもそも、自分の身の丈に、ブランドの規模が見合ってないんです。

自分が初代であれば、自分の身の丈以上の成長はあり得ません。継業の場合は、地盤・看板・カバンの3バンを引き継ぐことができると周囲から思われがちですが、これらを適切に使いこなす実力が足りないのだから仕方がありません。だんだんそれがバレてきているとも思う。それは仕方ない。だから、泥縄でいくしかないと思って、日々自分を奮い立たせています。 

日光東照宮の平成の大改修が完成し、道の駅日光ができたことによって、表通りは活気にあふれています。いっぽうで、日光市の人口は8万人を割りました。後継者の不在によって廃業するお店が後を絶ちません。とくに、飲食店。今市の街並みは、表通りに商店、裏通りに飲食店、とくに飲み屋さんやスナックなどの、いわゆる「夜のお店」が立ち並んでいることが大きな特徴の一つになっています。

コロナ禍のときには、風俗営業をしている店はやり玉に挙げられてしまっていましたが、裏通りにも光があるのが、真の「繁華」だと思いませんか?  表通りだけではなく、裏通りにもこうこうと明かりのともる今市をつくっていくことが、活気のあるまちづくりには必要不可欠だと思っています。

そこで近年おもしろいなあと思っているのが、民泊者の増加です。今市のまちには、いま、民泊が急増しているのです。観光地のまん真ん中ではないかもしれないが、しかし、JR今市駅と東武下今市駅は徒歩での乗り換えが可能で、東武下今市駅をハブとして日光行き・鬼怒川温泉行きの鉄道は分岐しています。ですから、インバウンド客は今市に宿泊することで、東照宮にも行ける、温泉にも行ける、東京からは新幹線に乗れば2時間弱という地の利を得られます。それはひとえにairbnbのような最新技術/サービスが、宿場町としての今市の機能を再発見させたのだと思っています。

われわれが立っている、いま・ここの場所の地層が、最新技術によってますます再評価されつつあることが、非常に面白い現象です。願わくば、われわれの仕事もまた、そういった地層の再評価の流れの中で、重要な役割を果たすことができるよう願ってやみません。

今市を楽しむコースガイド

 最後に、今市の町を楽しみ尽くすためのコースをご紹介いたしたく思います。

日光を訪れるのにベストなシーズンは、個人的には新緑の美しい春から初夏にかけて。5月の連休明けから6月上旬くらいまでがオススメです。

錦秋のころも勿論いいのですが、ぼくがいちばん好きなのはやはり新緑です。『ノルウェイの森』のキャラクターで一番好きなのは、本屋さんの娘のミドリちゃん。それはどうでもいいのですが、日光の新緑は、多種多様な緑色が見られる上、気候もいい。凱風快晴(がいふうかいせい)に気持ちも晴れ晴れとするものです。

松尾芭蕉が「おくのほそ道」で日光を訪れた際の一句。

 

あらたふと 青葉若葉の 日の光

 

松尾芭蕉も、すでに200年前から、新緑が日光のベストシーズンといっているんです!(これは単に旅程の問題だけかもしれませんが)

ということで、新緑シーズン、できれば混雑をさけてGW後に旅程を定めたら、次は交通手段です。

先述のとおり、今市までの公共交通機関は、JR日光線あるいは東武日光線があります。JR線だと、東京駅から東北新幹線で宇都宮まで約45分、そこから在来線で今市駅まで約35分の合計80分(ただし在来線の乗り換え待ちで30分ほど待つこともあるので要注意です)。東武線ですと、特急に乗って浅草(あるいは北千住)から下今市駅まで約100分。

乗り換えの手間や料金を考慮すると、地元の人間が首都圏を行き来する場合は、圧倒的に東武線ユーザーが多いように思います。特急には日光行きと鬼怒川温泉(会津若松)行きがあり、これが分岐するのが下今市駅なので、日光や鬼怒川温泉よりも特急の発着数が多いのが下今市駅ということになります。

電車で下今市まで来たら、レンタカーを手配しましょう。もちろん、出発前にネットで予約しておくのが万全。レンタカー屋さんは下今市駅の近くにあります。

 

今市での宿泊は、松本民藝家具の宿・あたみ館が最高だといえましょう。
昔ながらの旅籠(はたご)スタイルのお宿で、お布団の上げ下ろしはセルフだし、お風呂も共同ですが、とにかく居心地がいいんです。そしてメシがうまい。

その他、ビジネスホテルスタイルのお宿も複数軒ありますし、民泊スタイルのお宿もたくさんあります。Airbnbなどで検索してみてください。

食事をするなら、下今市駅周辺の、町場の飲食店に行きましょう。いわゆる観光地にはない、地元の人が通う居酒屋やスナック、町中華、洋食屋、そば屋、定食屋、ラーメン屋、すし屋、うなぎ屋、とんかつ屋、どのチェーンにも属さないインディーズのファミレスから、東京にあったら確実に星を取っているレベルのフレンチ、本格派の料亭など、A級B級C級と幅広いラインナップのお店があります。

ふつう「町おこし」というと、表通りの、日が当たる場所に、華々しいコンセプトで、清く正しく明るい未来を思い描くというようなものが多いような気がします。明朗快活なコンセプトでなければなかなかコンセンサスを得づらいのも理解はできるのですが、ものごとには何事もオモテウラがあるもの。裏側の通りにも、同様の繁栄がもたらされなければ、トータルの意味での「まちづくり」にならないような気がしています。

「繁華街」ということばの「繁」は人、「華」はいかがわしさ、と言った人がいました。そのような意味で、今市の裏通りには、まだまだ良い意味での「いかがわしさ」が残っているように思っています。ぜひお楽しみいただければと思います。

上記を勘案して、1泊2日の理想の観光コースを提案いたします。

・5月の連休明けの週末を狙って、
・熱海館の予約を1泊朝食付きで取る。
・前乗りで今市に入る。交通手段は電車でも自家用車でも。お土産はこのタイミングで買ってしまいましょう。 

 

今市には、酒蔵が2軒あります。1軒は、まちの中心地まん真ん中にある「渡辺佐平商店」さん、創業182年。「清開」「日光誉」の銘柄で、マイルドでやさしいお酒をつくられています。もう1軒は、こちらから徒歩で10分ほど鬼怒川方面に下った場所にある「片山酒造」さん、創業144年。「柏盛」の銘柄で、猛々しさの中に柔和さのあるお酒をつくられています。おつまみには、ぜひ、当店の「日光みそのたまり漬」をよろしくお願いいたします。

夕食は町場の飲食店で。居酒屋さんで心をほぐしてから二軒目の居酒屋さんに行くもよし、洋食屋さんでグラタンなどつまみにカクテルをやるもよし、町中華で焼酎を飲むもよし。3軒目があるとしたら名物スナックで。

翌朝一番で、黒川沿いの秘境・小来川(おころがわ)エリアをドライブする。川と森、山と谷のロケーションで、「何もない」というぜいたくを楽しむことができます。

季節によっては川あそびや渓流釣りも楽しむことができます。河川敷でバーベキューをやっている人もよく見かけますよ。

小来川エリアには、この地区の代官屋敷だった建物で営業している洗練された日本料理屋さん、こだわりのそば屋さん、古い登山口に建てられたログハウスのカフェなどもあり、非常に充実しています。

栃木県に来るので、宇都宮餃子を食べたいというリクエストもあるでしょう。地元民的には、宇都宮名物が餃子といわれると、ややせつない気持ちになります。宇都宮の餃子は、当時の宇都宮市職員が、「やまだかつてないテレビ」に売り込みをかけてつくられた、いわば「つくられた伝統」だからです。 

 しかし、現実に餃子はうまい。しかし宇都宮でたべる宇都宮餃子はどこもかしこも激混みです。なので、ここは小来川からまっすぐ隣町・鹿沼をめざし、宇都宮餃子の名店「正嗣」の鹿沼支店で餃子をつまみましょう。冷凍餃子もお土産に買うことができますよ。


・そして、鹿沼の日帰り温泉で汗を流し、

・夕方、日が暮れる前に自宅に帰る。

これが、今市を存分に楽しむため最高の勝ちパターンです。

 

こんなローカル旅行、いかがでしょうか?もちろん、王道の日光山めぐりも。その場合は、かならず、日光殿堂案内協会にコンタクトをとりましょう。江戸時代から続く公式ガイドさんが、隅々までくまなく案内してくれますよ。

鬼怒川温泉も最高、カヤッキングやSUPも楽しめます。奥鬼怒の秘湯エリアもいいですし、中禅寺湖畔でのんびり過ごすのは最高の贅沢。というわけで、1回の旅行では足りないですね!

ながながと失礼になりました。くめどつきぬ魅力のある日光。修学旅行のイメージのある方も多いとは思いますが、大人になったいま、ぜひまた訪れてみてください。末筆になりましたが、みなさん、どうかお元気で。お風邪など召されませんよう。

 

2024年4月26日 上澤佑基

著者:上澤佑基

1985年、今市市(現・日光市)に生まれる。今市市立今市小学校卒。中学校から、「自労自治」を掲げる少人数制一貫教育校「私立自由学園」に進学、寮生活をおくる。自由学園最高学部(大学相当)卒。国際基督教大学大学院 比較文化研究科 博士課程入学。栃木県内の大手漬物メーカーに就職。原料係に配属後、海外事業部に異動し中国工場に駐在。2013年より、家業である上澤梅太郎商店に勤務。

https://www.tamarizuke.co.jp/

 

編集:乾隼人(Huuuu)