小岩のイトーヨーカドーで教わった、自分が大人になったこと|文・古賀及子

写真・文: 古賀及子

埼玉の実家から東京の短大に通っていた私は、入学半年ほどで通学に音を上げた。

実家は大宮とか川口といった東京に近い都市ではない、もっとずっと奥、本気の埼玉だ。学校へは片道2時間。通えなくはない、でも正直かなり遠い。実家の最寄駅を走る路線の電車の本数が少ないのにも参った。帰宅時、うっかり1本逃がすと家に着くのが1時間遅くなってしまう。

幸いにして父方の祖父母が東京に暮らしていた。まだ元気だった祖父母は喜んで私を居候として受け入れると言ってくれたから、すぐに実家を出て転がり込んだ。品川区の街だった。

祖父母にかわいがられ、すっかり居心地よくぼんやり暮らしているうちに気づけば短大の卒業はすぐそこにやってきた。短大では軽音サークルに所属していた私は、本格的に音楽活動に打ち込むのだという先輩たちに流されて、なんと就職しなかった。先輩方と違い、私はバンドにも楽器にも本気で取り組んではいない。何をするあてもない、純粋な無職として手ぶらで世の中に飛び出した。

私が就職をせずに卒業しても、祖父母は何一つ言わずに見守ってくれた。家にいると、祖母が朝食と昼食と夕食の時間に優しく声をかけてくれる。10時と15時には祖父がおやつに呼んでくれた。居間の掘りごたつに座って、一日中つけっぱなしのテレビでNHKのニュースを眺めていると、祖父が大きな缶の箱からおせんべいを出して渡してくれる。

ここにいればどっぷり安心で、気分はずっと優しくて、肌はいつも守られている。ある日いつものようにざらめのついたせんべいを笑顔の祖父から受け取った。かじると甘じょっぱい。ぱらぱら落ちるざらめがテーブルに敷いたティッシュペーパーの上に落ちるさまが、スローモーションみたいにゆっくり見えた。こたつも日差しも温かく、時間があまりにもゆっくり穏やかだ。

急に、「あれ、もしかして、これじゃだめなんじゃないか」と気がついた。

私のこれからのことは、バンド活動に懸けるサークルの先輩たちに合わせて決めることでは一切ないし、祖父母がわかることでもない。私が自力で考えて行動せねば何も起きないのだとざらめのせんべいと一緒にやっと飲み込んだ。ぎょっとした。

焦った私はできる仕事を探し出す。喫茶店のホールや料理屋のお燗番(おかんばん)のアルバイトを経て、短大で少しだけ勉強したことがあった、ウェブサイトの制作をする会社に潜り込んだ。

そうしてしばらく働くうちに会社の先輩が、自分の住んでいる賃貸マンションに空き部屋がある、家賃は格安でかまわないから短期で住まないかと誘ってくれたのだ。

先輩の親戚が所有するそのマンションは今後取り壊すことが決まっているという。新規の入居者の募集はもうやめており、先輩が暮らす部屋のほかはほとんど空き部屋らしい。取り壊しの時期は未定だけれど、おそらく半年から1年は住めるということだった。

そのころの私はまだ、少ない生活費を渡すだけ渡して生活の大部分を祖父母の世話になっていた。仕事を持ったら次は1人で暮らして、うそでもいいから、さも自立したかのような生活を送りたいと思っていた。

祖父母も喜んで送り出してくれて引越した。その街が東京都江戸川区の小岩だ。

知らなかった街が、どんどん自分の街になっていく

マンションは3階建てで、3階に先輩が住んでいたから私は2階を選んだ。先輩はご飯に誘ってくれたり、大家である親戚の方との交流を取り持ってくれたり気にかけつつも、適度に距離を取って私のおぼつかない一人暮しを見守ってくれた。

小岩の駅周辺はにぎやかだ。南口を出ると放射状に3つの商店街が走る。北口には目の前にどーんと大きなイトーヨーカドーがあって、周辺をドラッグストアや小さくて良い意味でクセの強い商店がどこかぎらぎら野性的に並ぶ。

家賃を考えられないくらいの激安価格にしてもらっているとはいえ、先々のことを考えてまずはお金をためたい。意気込んで、外食は禁止ということにした。

飲食店を開拓する必要がないとなると行動範囲は暮らしたマンションのある北口にほとんど絞られる。

JRの総武線という乗降客数が多い路線にある小岩駅は北口だけでもなにしろたくさん店がある。これまで埼玉の奥地にある1時間に1本しか電車のこない駅や、東京でも私鉄の各駅停車しか止まらない駅周辺にしか住んだことがない。北口を使いこなすだけで精一杯だったともいえる。

北口の小道を入ったところにとにかく安い八百屋さんがあって助かった。八百屋さんの並びにあったディスカウントショップではたまに食パンを1斤10円で売ることがあって飛び付いた。

このころ、私はやっとちゃんとお化粧をはじめた。肌が弱く乾燥肌でもあったから、合わない化粧品によく悩まされて、イトーヨーカドーの化粧品売場に何度も駆け込んでお世話になった。おそらく少し年上くらいだろう優しい店員さんがいて、肌にも予算にも合う化粧品を丁寧に一緒に探してくれた。

緊張する私の顔にファンデーションを塗ってみせながら、「私も研修でちゃんと勉強するまでメイクはぜんぜん自信なかったんですよ」と笑って安心させてくれたのを覚えている。仕事をする人の優しさがうれしい。店員さんは塗った化粧品がみんなぴたっと肌に吸着したような、きれいなお化粧をしていつもきりっとしていた。

家電はみんな部屋の近くにあった小さなリサイクルショップで買った。引越してすぐはガスコンロだけでしのいでいたけれど、やっぱり電子レンジが欲しい。お金はあまりないんですと素直に相談すると店主らしいおじいさんが、店の奥からぼろぼろの電子レンジを探して持ってきた。これだったら安く譲れると、雑巾でごしごし磨き出す。

通電して水を張った湯呑を庫内に入れてチンして「ほら、あったかい。使える使える」と店主が温まった湯呑を差し出した。店員なのか店主の友人なのかよくわからない、そこらに座る数人の老人たちが「ボロなんだから、あげちゃいなよ」と盛り上げてくれて、ほとんどタダみたいな値段で持って帰った。なぜか湯呑もくれた。

知らない街が、寝て朝起きてを繰り返すたびにどんどん私の街になっていく。

江戸川の花火大会を見に埼玉から妹が来た日、八百屋さんのとなりにあった焼鳥の屋台ではじめて焼鳥を買った。私や妹よりも少しだけ年長だろうお兄さんが焼きながら「花火行くんでしょう」と何本かサービスしてくれた。

土手で湿った芝生の上にじかに座って食べる冷めかけの焼鳥はおいしくて、暗い空に花火はどんどん上がる。打ち上げの場所から遠いところを選んだから、地元の人たちがちらほらいるくらいで空いていて、花火大会なのに混んだところに出かけて混んだ電車で帰らなくてもいい。

ここに私は暮らしているんだ。

私は何にも困っていない

ある日、部屋を掃除をしていて、押し入れの上の天袋に覚えのない何かが入っているのに気がついた。ひっぱり出すと、脚を折りたたむことができるちゃぶ台だ。大家さんに聞いてみると私が引越してくる前に部屋に住んでいた人のものではないかという。連絡を取ってくれた。

やはり前の住人が引越しの際に忘れてしまった物らしい。1人暮しの高齢の女性だそうで、重いものを運ぶことが難しく、もしできれば引越し先へ持ってきてもらえないかとのこと。教えてもらった引越し先はすぐ近くだ。ちゃぶ台は自転車に覆いかぶせるようにビニールのひもでくくりつけ、支えながらそろそろと押して歩いて運んでいった。

おばあさんの新居は古いアパートの1階の角部屋だった。アパートの周りはつつじが小さく刈り込まれ植わっており、地域猫のためらしい、水飲み用のアルミのお皿がいくつか置かれている。

ちゃぶ台を忘れたこと、ぜんぜん気付かなかったのよ、だからもういらないかなと思ったのだけど、置いたままでもご迷惑でしょうし、ソファに座ったときの足置きにしようと思って。

白髪をひっつめにした、体の小さい、いかにもおばあさんらしいおばあさんが迎えてくれた。

「ねえ、あなた、どこか悪いところない?」と私をのぞき込むように言うから、つい警戒もせず「膀胱炎にかかりやすいです」と答える。「それならこれ!」と、小さくて透明なジッパーバッグに入った白い粉をくれた。

はっとして、社会的にだめなやつか!? と、瞬間思うが、ちゃぶ台を運ぶ力もない、しかも信頼する会社の先輩の親戚のマンションに長年住んだ店子(たなこ)さんだ。そんなとんでもないものを所持するわけない。

「あのう、なんでしょう、これは」

「塩」

塩!

韓国でつくられた竹塩と呼ばれる特別な塩だそうで「なんにでも効くからまずは料理に入れてみて」とおばあさんは生き生きとして言う。見知った塩よりもずっと粒子が細かく、袋の上から押すと、粉雪みたいにぎゅっと固まった。帰ってなめたら普通にしょっぱい。

私の住む部屋ではこのあとも変わったことが起きた。

仕事を終えて帰宅すると、隣の空き家の扉にビニール袋が下がっている。誰も住んでいないのにと、中を確認するとりんごとフルーツゼリーが入っていた。

大家さんに電話すると、かつての住人の友人がよくお菓子や飲み物を届けていたそう。連絡を取ってもらって、今度はその届け主に返しに行くことになった。大家さんによると60代くらいの女の人だそうだ。

教えられた部屋はこれもすぐ近所の花屋さんの2階だった。訪ねていくと、痩せて静かで、服装もおとなしくまとめたおばさんが出てきた。引越したことを忘れていつものように届けてしまったのだそう。「よかったら、これはあなたが受け取って」と、返すはずのりんごとゼリーを、遠慮する間もなく持たされてしまった。

町会の役員をしているというおばさんは、「あなた、困ったことはない?」と心配してくれる。このころ私はかすかすの失恋をして頬がこけるほど痩せていた。そんな様相を見て、お金に困って食べられていないのではないかと、気の毒に感じたのかもしれない。けれど、困ったことはとくに何もない。

「ええと、今は仕事もありますし……大丈夫です」

そうか、そういえば私には困りごとがないな。1人で暮らして、満足している。漠然と携え続けたこれからへの焦りと不安が薄まるのを感じる。私はちょっと、いい気になった人の顔をした。

帰って、水出しの麦茶を湯呑に入れてレンジで温めた。畳の部屋で正座してすする。

かつてマンションに暮らした人たちや取り巻く人たちの確固たる存在に触れた。暮らすことで、その場所の過去の時間が味わえるとは思わなかった。

塩のおばあさんや、花屋さんの2階のおばさんが差し入れを続けたもういない隣人のように、私も、人と場所と暮らしている。生きれば生きるほど、場所には時間の層ができる。人が塗り重なっていく。じんわりとした、時間を過ごして生きていく実感がある。

あの日、花火が上がった空だ

先日、24年ぶりに小岩を訪れた。私が暮らした当時からあった、改札の前の力士像はしっかり健在で、「火災予防運動」と赤字で書かれたたすきをかけて今日も土俵入りしている。

「シャポー小岩」内にある「こいわ生鮮市場」

高架下のショッピングセンターは最近リニューアルしたばかりだそう。「こいわ生鮮市場」と掲げられたサインが光る辺りは上品な生鮮食品の店が並び、果物や野菜がぴかぴかに光って高級感がまぶしい。

イトーヨーカドーが今も営業中であることは事前に調べて知っていたが、建物は思った以上にそのままだ。屋上に掲げられたロゴこそ「セブン&アイ・ホールディングス」のロゴに変わったものの、店内にぶら下がる「化粧室」の案内板のレトロな文字はおそらく同じものだ。

驚いたことに、化粧品売場も2階の、記憶どおりであれば当時とまったく同じ場所にあった。

私があのとき手にとった、大手メーカーの敏感肌用のラインも変わらないデザインで並んでいて、一瞬、何が起きているのかわからなくなってしまう。店員さんが、杖をついた白髪のお客さんを静かに接客しているのが見えた。

通った八百屋さんと隣の焼鳥の屋台は見つからなくて、でもイトーヨーカドーの横に低く並ぶ衣類やCDの店はまさかのほとんど当時のまま。"良い意味でクセの強い商店がどこかぎらぎら野性的に並ぶ"、かつて感じた雰囲気が、店の変貌はありながらも保存されている。

私だけが年を取ってしまったようで、ずいぶん長い間離れてしまったことが急に惜しくなった。

イトーヨーカドーの裏は再開発をしているらしく工事中で、街を歩くとタワーマンションの販売営業所がいくつかあった。もしかしたら、大きく変わるのはこれからなのかもしれない。

蔵前橋通りを千葉方面にとことこ歩いて行く。江戸川の土手へ出ると視界が一気に開けた。あの日、花火が上がった空だ。

河川敷は野球場になっていて、川の上を総武線と京成本線の線路がまたいでいく。江戸川は思った以上に川幅があって、橋を歩いてみたのだけど、なかなか向こう岸へ着かない。

風が強い日で、晴天の乾いた空気がびゅうびゅう髪を吹き上げた。黒い頭を押さえながら、小岩に住んでいたころは髪色を明るく脱色していたのを思い出す。将来の輪郭はまだまるきり縁取られず、目の前に今ある景色だけを真に受けて必死で解釈していた。

千葉の地面を踏むだけ踏んで、また東京に戻る。

住まわせてもらったマンションの跡には、きれいな店舗兼マンションが立っていた。

引越して1年を経てもマンションが取り壊される気配はなく、私は結局、2年弱お世話になった。ずいぶん慣れて好きになった街だから、そのまま近くに越してもよかったのだけど、体調を崩して入院していた祖父が退院して自宅療養すると父から聞いたのだ。少しは手伝いたいと、祖父母の家に戻ることにした。小岩に戻ってくることはなかった。

当時は気付かなかったけれど、マンションの近くは学校や幼稚園も多く、子どもの姿をたくさん見かけた。雰囲気もまちまちの公園があちこちにあって、放課後の小学生たちが歓声を上げて走っていく。

筆者:古賀及子(こがちかこ)

ライター・エッセイスト。著書に日記エッセイ集『おくれ毛で風を切れ』『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』(素粒社)、エッセイ集『気づいたこと、気づかないままのこと』(シカク出版)がある。
X(旧Twitter):@eatmorecakes

編集:はてな編集部