佐渡島の北の果てにある限界集落で、住職や漁師や農家や写真家やルポライターなどをしながら、かわいい柴犬と暮らしている話【いろんな街で捕まえて食べる】

著: 玉置 標本 

日本海にある大きな離島、佐渡島。その最北端に位置する鷲崎(わしざき)で、お寺の住職や漁師や写真家などをしつつ、かわいい柴犬のハナちゃんと暮らしている、梶井照陰さんにお会いしてきた。

梶井さんと私は共通の知り合いが多く、「あの人はおもしろいぞ」という評判を佐渡の方々で聞いており、とても気になっていた方である。

離島の北の果てでの忙しくも楽しそうな暮らしぶりに、少しだけ触れさせていただいた。ハナちゃんに吠えられながら。

佐渡島の最北端、鷲崎集落の現状

まずは佐渡島の鷲崎がどんな場所なのかを下の地図で確認していただきたい。ただでさえ本州から遠い場所である佐渡島の、その最北端であることがよくわかるだろう。


ここです!

佐渡島の玄関口である両津港(島の東部の凹んでいるあたり)から、海岸線沿いを北上すること30キロちょっと。現在はもちろん道が繋がっているので、車やバスで行くことができるが(たまに落石等で通行止めになっているけど)、鷲崎へは船でしかたどり着けなかった時代も長く、昭和46年までは松前丸という定期船も存在していたそうだ。

そんな鷲崎は環境省が選定する「日本の快水浴場百選」に選ばれた二ツ亀海水浴場や、トビシマカンゾウの群生地として有名な大野亀がある場所なので、私も観光で何度か来たことはあるものの、ここでの生活というのはまったくピンとこない。

佐渡島北部の海岸線は断崖絶壁と呼ぶにふさわしい場所が多いため、崖崩れなどで道路が封鎖されて大回りを余儀なくされることも。そんなときでも自分の船がある人はあまり困らないそうだ

2016年に訪れた二ツ亀海水浴場。この写真だとわかりにくいが、奥の島が二匹の亀みたいになっている

新潟県のサイトにある「佐渡市鷲崎地区の現状」という2019年3月の資料によれば、1980年には96世帯、283人が鷲崎集落に住んでいたが、2019年になると60世帯、129人まで減少しており、高齢化率(65歳以上の割合)は52.7%と限界集落(人口の50%以上が65歳以上)になっている。

そこから4年が経った現在は、一体どうなのだろうか。

――現在の鷲崎集落には、何人ぐらいが住んでるのですか。

梶井照陰さん(以下、梶井):「今は住民登録している数だと110人ほどですが、実際に暮らしている人数はずっと少ないのでは。すでに6割くらいが65歳以上という感じです。

2012年に私が撮影した集落の人たちの写真が公民館に飾られてるんですけど、まだ11年しか経っていないのに、半分くらいはお亡くなりになってしまいました」

――そんなにですか。

梶井:「空き家もすごく増えているし、年に何度かだけ帰ってくるような家も多い。ここからまた一気にいなくなると思うので、あと10年もしたら、本当に人が少なくなるんじゃないかな」

鷲崎集落の主な産業は漁業で、冬は高級魚のブリが水揚げされる。港を見下ろす位置にある立派な建物が、梶井さんが住職をしているお寺である

大謀網と呼ばれる大型定置網で多くの人が働いているが、鷲崎以外から来ている人の方が多いそうだ

港へとつながる道路には、巨大な岩をくりぬいたトンネルがあった

フェリーが発着する両津港と繋がるバス停

時刻表をみたら一日一便でびっくりしたが、近くにある「鷲崎」のバス停はもうちょっと本数が多く、仕事や通学で両津方面にバスで通うことも可能のようだ

鷲崎集落には、内海府小学校・中学校という立派な学校があるものの、令和四年度の資料(こちら)によれば、小学生5人、中学生4人だけ。それも鷲崎駐在所に赴任してきた駐在さんの家族、島外から来た離島留学生といった、鷲崎出身以外の子どもが過半数を占めているそうだ。

集落には保育園もあるのだが、必要とする子どもが一人もいなくなったため、この春から休園となった。

中学・高校を卒業後、進学や就職のために地元を離れ、そのまま戻ってこないという人が多く、結果として若者のいない集落になっていく。これは鷲崎だけの話でなく、日本各地の田舎でみられる一方通行だ。

立派な校舎の内海府小学校・中学校だが、このまま過疎化が進めば廃校となる可能性も

鷲崎集落唯一の商店である酒屋と元農協の生活センター。集落にはガソリンスタンド、消防署、郵便局、自動車屋、電気屋などもあるようだ

鷲崎集落と寶鷲山観音寺の歴史

梶井さんから鷲崎集落の歴史を教えてもらった。

元々は七軒百姓といって、七軒の農家しか住んでいなかった土地に、1589年の上杉景勝による佐渡侵攻によって両津を追われた落人の本間家と渋谷家が移り住み、田畑を開墾してこの集落をつくったそうだ。

その時代につくられたのが、高野山真言宗の寶鷲山観音寺。400年以上の歴史を誇る由緒あるお寺だ。当時からの本堂は戦時中(昭和15年)に火事で焼けてしまったため、昭和43年に建て直されている。

鷲崎集落からさらに北にある藻浦は、明治維新の後に開拓された集落。もう一つ先の願は、能登から移り住んできた人の集落と伝わっている。

鷲崎、藻浦、願という、ルーツの異なる三つの集落の住人が、寶鷲山観音寺の主な檀家さんだ。

高野山真言宗の寶鷲山観音寺が梶井さんのお寺

人見知りが激しいハナちゃん。梶井さんから「おやつをあげれば仲良くなれるかも」といただいたササミジャーキーを差し出してみたが、強い意志で拒絶されてしまった

鷲崎港を一望する観音寺からの眺め

住職であり、写真家であり、ルポライターでもある

クロモジの葉でつくったお茶をいただきながらお話を伺った

――梶井さんはおいくつですか。

梶井:「昭和51年7月生まれ、47歳です」

――じゃあ私と同じ学年ですね。このお寺がご実家なのですか。

梶井:「ここは父方の祖父母のお寺で、私は新潟で育ちました。昆虫採集に夢中な子どもでしたね。特に蝶が好きなんですが、意外と佐渡は種類が少ないんですよ。

小さいころから夏休みとお正月は毎年来ていて、お札配りを手伝ったりしていると、おじいちゃんや檀家さんから『将来はここを継ぐんだよ』みたいなことをよく言われていて。そんな感じでいつの間にか高野山大学の密教学科に入学していました」

――密教学科、初めて聞きました。仏教と密教は違うものなのですか。

梶井:「仏教の流派の中に真言密教があります。印を結んで、真言を唱えて、没入していくみたいな、ちょっと呪術的なものです。高野山にある宿坊に住み込みながら大学へ通っていました」

――印に真言。漫画の『孔雀王』で読んで、憧れていた世界です。

昆虫採集に夢中だった梶井少年は、殺して標本にするという行為に微妙な気持ちを覚え、中学生のころに写真に撮るという方法に切り替えた

梶井:「卒業論文を書くためにカンボジアとかベトナムとかを回って、アンコール・ワットをつくったクメール帝国のころの宗教を調査しました。当時の王によって、ヒンドゥー教だったり仏教だったり、同じ場所でも宗教が変わるんですよ。

卒業してからもアジア各地を少し回って、鷲崎には2000年に来ました。祖父が亡くなったのが2003年で、それまでにいろいろ教わったのですが、佐渡は太鼓をよく叩きます。高野山で習ったお経とはちょっと違いますね」

――太鼓ですか。

梶井:「佐渡はすごく太鼓が根付いてるところなので、佐渡の神々や集落・先祖の神々に対して、太鼓を叩いて祈るんです。本堂にもありますが、檀家さん一軒一軒にも太鼓があって、お正月になると春祈祷(はるぎとう)といって、各家でその太鼓を叩いて回ります」

――さすが佐渡。

本堂の様子。打楽器が多めかもしれない

佐渡では「鬼太鼓(おんでこ)」と呼ばれる、太鼓に合わせて鬼が踊る行事が各地の集落でおこなわれている。写真は佐渡南部のお祭りの様子。梶井さんがお経を唱えながら太鼓を叩くのも、その流れなのだろうか

先代住職である祖父。梶井家が代々住職をしている訳ではなく、佐渡北部の小野見出身の祖父が若いころに高野山で修行をしてお坊さんとなり、このお寺を継いだ

梶井さんが鷲崎に来た2000年はまだ限界集落ではなかったが、確実に近い将来の話ではあった。そこで2007年に日本各地の限界集落を回って、2008年にルポルタージュ『限界集落』を発刊。梶井さんが残さなければ、そのまま消えていった言葉や景色が詰まっている

――梶井さんは住職以外にもいろいろやっているそうですが、一日のスケジュールを教えてください。

梶井:「集落の人たちが朝の2時半ぐらいにもう漁へ出たりするので、その船の音で犬が起きます。それで3時ぐらいから散歩をしていますね」

――早い。

梶井:「今の時期なら4時ぐらいになると明るくなるので、船で漁に出たり、田んぼへ行ったりとか。 それから戻ってきて、お経を唱えます。

日によってですが、法事があったり、草刈りをしたり。新潟日報の記事なんかも書かせてもらっているので取材もあるし、個人的にずっと撮っている写真の撮影をしたり。

檀家さんが佐渡から新潟に引っ越していたりもするので、お経をあげに行くために出張することもあります」

――兼業農家ならぬ兼業住職、なかなか忙しそうですね。

梶井:「知り合いの住職はデイサービスセンターで働いています。佐渡の住職は、みんな農業をやりながらとか、役場で働きながらとか、兼業でやっている人がほとんどです。

檀家の数も減っているので、だんだんと跡継ぎのいない寺ばかりになってきました」

写真家でもある梶井さんの初写真集は2004年の『NAMI』。鷲崎に移り住んでから撮影したものだ

梶井さんが撮影した波の写真は、本の表紙や挿絵などにも多数使われている。バングラデシュのスラム街で長期取材をした『DIVE TO BANGLADESH』という写真集も強烈

見覚えのある岡村靖幸のCD。これは梶井さんの作品だったのか

――写真は昆虫採集の延長で始めたそうですが、なぜ波を撮ろうと思ったのですか。

梶井:「小さいころから、よく船で新潟から佐渡に来ていました。揺れる船で、遠くから見る俯瞰した波じゃなくて、目線の低い波、すごく近いところの波っていうのを感じていて、それを撮りたかった。

あとお経を唱えるときに太鼓を叩いて入り込んでいく感じが、なんとなく波に近いものがあるんじゃないかって。

お経はそっちに入り込みすぎてはいけなくて、どこか客観的に自分を見てるみたいなところがある。世阿弥の『風姿花伝』でも、演じてるときは自分を後ろから客観的に見ていなさいみたいなことが書いてあるんですけど。

この波もかなりギリギリの境界のところで撮影していて、一歩でも入り込みすぎると、体を持っていかれるかもしれない。 そういう境界線みたいなものを、写真で表現できたらっていうことですね。

佐渡北部の海は、水深が急に変わるような場所も多く、波の盛り上がり方が複雑で不規則なんです」

写真提供:梶井照陰

――海が大時化のときに、カメラを構えてシャッターチャンスを待つのですか。

梶井:「ずっと吹雪のときは、もう全然だめです。カメラもレンズもびしょぬれになっちゃうので。

冬の日本海側を衛星画像で見ると、縞状に雲が入っていることがあります。その雲のところは前が見えないくらいのすごい吹雪なのに、雲の切れ間は一気に空が晴れて明るくなったりする。その20分とか30分間隔の繰り返しの中で、吹雪が止まって晴れた瞬間に来る波を待って撮ったりします

――海が荒れているだけでなく、空が明るく晴れてないと、こういう写真にはならないんだ。まさに佐渡に住んでいないと撮れない写真なのですね。

自分で食べる米と野菜を自然農法で育てる

梶井さんは住職をしながら、できるだけ自給自足の生活をしている。

自分で食べる分を育てている畑と田んぼは、どちらも農薬や化学肥料を使わない自然農法。米づくりは去年から始めたばかりで、田んぼを貸してくれた集落の方から育て方を学びつつ、終わることのない修行のような草むしりに汗を流す日々を楽しんでいる。

「自然農法で草だらけだから、私以外はなにを植えてあるのかわからないんです。草とりがめんどくさいというのもありますが……」とつぶやく梶井さん

ナスやキュウリといった普通の野菜だけでなく、必須ではないけど食卓を豊かにしてくれる香草や、お茶にするための野草なども植えられていた。これはパクチーの花

おそらくタヌキに食べられてしまったキュウリ。こうした野生動物による食害は多少あるけれど、佐渡にはサルもイノシシもシカもアライグマもクマもいないので、本土に比べると野菜は育てやすそうだ

大昔に開墾された田んぼの一つを梶井さんも引き継いだ。初挑戦だった昨年は写真奥の一面から60キロの収穫があったそうだ。今年は手前の(草を抜いてるところ)より大きな田んぼも任されている

除草剤を一切使っていないので、一週間に一度は手作業で草を抜かなくてはいけない。夏場はアブに噛まれることも多いそうで、まさに修行のようである

今年は田植えをした時に回転除草機という年代物の機械で除草をしたので、去年よりはまだ楽だとか

梶井さんの田んぼの師匠である本間太郎さんは、昔からこの集落で自然農法をやっている方。海沿いの地域が伝統的に行ってきた、自分で肥料をつくるところから始める地産地消の米づくりを、今も真摯に続けている。

右が梶井さんが借りている田んぼの持ち主である本間太郎さん、左は農家仲間の木村さん

本間さん:「国中(くになか:佐渡中央部の平野)と比べると、この辺りは田んぼも小さいんで、やっぱり漁業と一緒にやるのがいい。水陸両用でいかないとダメだ。どっちかだけだと、漁のなかったときはどうするんだ、不作のときはどうするんだとなる。やはり両方兼ね備えた働きをしなきゃ。

私たちがやっている農業は、他所から持ってきた肥料を撒いて米や野菜を育てるのではなく、このエリアで使えるものから肥料をつくって作物を育てる、応用生態系循環型微生物共生農法のサイクル。

なにが大切かというと、この限られた生態系の中で、利用できるものを有効に利用して、そこから収穫したものを地元で消費するということ。

ここは海が近いから、魚の内臓とかワカメの残渣を使って肥料をつくる。畔で刈った草を集めて野菜を植えたときのマルチ(株元を覆うカバー)にする。無駄をゼロにはできないけれど、できるだけ減らすことはできる」

捨てられるはずの魚の内臓などが手間と時間をかけて肥料に加工され、田んぼや畑に撒かれている。海沿いの集落では昔からやられていた伝統農法だ

畔の草も自然分解されるマルチとして利用される

本間さん:「地産地消の本当の意味っていうのをわかっておらんと。1平方メートルあたり化学肥料をいくつ、化学農薬をいくつと指定通りに撒いていたら、本当の地産にはならん。その肥料はどこから来たのか。

稲作を『業』としてやるんなら、収量を増やすためにそういう風にせにゃならないのかもしれない。でも主食の米を安全なものにしたいとなれば、 苗箱も田んぼも消毒しない、化学肥料も使わないという方法になる。

佐渡は5割減減栽培(慣行方法より化学合成農薬5割減・化学肥料5割減とした栽培方法)で、トキと共生する田んぼになったというけれど、トンボやホタルはどうなのって。

化学肥料は海に流れていくから、それが魚にどう影響するかも考えないといけない。ここの田んぼは農薬が一切入ってない。ゼロです。土づくりのために自分の田んぼでとれた籾殻の燻炭が入っているだけ。だから自然に雑草が生えてくる。でもヤゴが羽化してトンボがたくさん飛ぶ。ホタルも飛ぶ」

魚の内臓などでつくった肥料を与えている本間さんの田んぼ

無農薬なのでトンボやカエルなどが本当にたくさんいる

こちらは5割減減栽培の田んぼ。雑草は生えてこないが、生き物の気配が薄い

本間さん:「言葉で言うのは簡単だけども、なかなかめんどくさくてできない。そりゃそうだよ、買ってきた化学肥料や農薬を撒くほうが楽だから。でも足元のちっちゃい自然を守る気持ちでやっていれば、わかる人にはわかってもらえる。

こういう話をすると聞こえがいいけど、肥料を買うお金がないから、自分でつくって、自給自足でやっているだけかもしらん」

梶井さんの話によれば、最近は肥料がすごく値上がりしているので、農家は肥料代を稼ぐために働いているみたいな感じになってしまうそうだ。

もちろん考え方は人それぞれだが、あまり収量にこだわらず、できるだけお金を使わず、本来の地産地消に近づけることを目標にしている人が鷲崎にはいる。

草むしりを放棄しているわが家の家庭菜園を思い出しながら、そのための手間をどれだけ厭わないかが実現するための鍵なのだろうなと腕を組んだ。

梶井さんが育てた玄米や野菜、目の前の海で捕った魚のご飯をいただいた。しみじみうまい

漁師の仕事に同行させていただいた

梶井さんは祖父から引き継いだ漁業権を持っているので、集落の方からいただいた二艘の船で、目の前の海へ漁にも出ている。季節に合わせて、サザエを捕ったり、ワカメを育てたり、ブリを釣ったり。

捕れた魚介は、売れるものは市場へ出荷して、値段がつきにくいものは自分や犬が食べる。

せっかくの機会なので、サザエ漁に同行させていただいた。以前、梶井さんのX(旧Twitter)に、サザエを網でとっている写真が載っていて、あれはどういう仕組みなのだろうとすごく気になっていたのだ。

自宅の窓から海の様子を確認するのが梶井さんの日課

鷲崎集落の先輩漁師から、使わなくなった船を譲り受けた

サザエをとるための網を仕掛けるために、少し沖へと船を出した

サザエ網は幅が約1.5メートルで、長さは250メートルもある

サザエを採っていいのは漁業権を持っている人だけで、サザエ網を仕掛けていい時期や場所は集落の取り決めで決まっている。ルールが資源を守っているのだ

網は片側に浮力のあるロープが、反対にはオモリがついているので、海底でフェンスのように立ち、歩いてきたサザエが網に絡む仕組み。船をバックさせながら網を流し入れていく

網の両端につけられたウキが目印

サザエ網を回収するのは翌朝。せっかく沖に出たので、一緒にルアー釣りをさせてもらった

海から観音寺が見えた。海側から眺めると平らな土地がほとんどないのがよくわかる

カサゴが釣れた!

オニカサゴも釣れた!

凪がよかったので、二ツ亀のほうまでクルージングしていただいた

二ツ亀の海水浴場まで降りていくジグザグのルートが懐かしい

海側から見る二ツ亀の裏側に興奮

岩マニアには堪らないであろう絶景だ

横から見る大野亀は怪獣みたいだった

二ツ亀と大野亀の間にある願の集落が見えた。この家々も梶井さんの檀家さんである

賽の河原霊場という餓鬼や水子の霊が祀られた場所も、梶井さんが管理している

そして翌朝、朝4時待ち合わせでサザエ網の回収にも同行させてもらった。少し雨が降っていたけれど、これくらいで漁は休めない

網の引き上げに動力を使う漁師も多いが、梶井さんは手作業。なかなかの重労働だ

本当にサザエが網で捕れるんだと感動。このように作業自体はほとんど一人で行うが、沖で困っていそうな船を見かけたら必ず声をかけるという、漁師同士の繋がりはとても強いそうだ

大きなキジハタやコウグリ(ウマヅラハギ)も網に絡まっていた。大きなブリやサメが掛かることもあるとか

網を上げたら終わりではなく、サザエや魚を外すという大変な仕事が待っている。うねりのある日だと海藻が網に絡まりまくり、何時間もかかってしまうそうだ

こういうのを一個ずつ外すのである。漁師って大変

これもまた修行のような作業である

すべての値段は相場次第。コロナの影響で佐渡島に来る観光客が激減したため、去年や一昨年はサザエがものすごく安かったそうだ。消費者の立場だと安いほうが嬉しいけど、生産者の現場を見ると高くないと申し訳なくなる

佐渡市民に人気の高いキジハタは、サイズや相場によってはサザエよりもお金になるので市場へと出す

自分の船を持って気ままに兼業漁師をする生活、すごく楽しそうだなと思っていたが、暗い海は何とも言えない怖さがあったし、手で引き上げるサザエ網は重そうだ。もし網が海底の岩に絡まって上がらなくなったらと、想像するだけで胃が痛くなる。

鷲崎は島の先端に位置するため、天気がとても変わりやすく、一気に海が時化ることも多い。一人で行う船の仕事は難破や落船のリスクも高いので、やっぱり簡単な仕事ではないのだろう。

漁業権のハードルがあって余所者は参入しづらい漁師という職業だが、最近はその担い手が減っているため、地域おこし協力隊として全国から研修生を募集したり、大謀網の求人をハローワークに出したりもしているそうだ。

またご飯をいただいた。噛みしめるほどに無農薬の玄米がうまい

太鼓を叩きながらのお経が凄かった

サザエ網を引き揚げた後、梶井さんは法衣に着替えた。漁師から法師への変身である。特に法事があったり来客がある訳でなくても、時間のある日はこうして勤行を行っているそうだ。

これが本当にすごかった。そういえば佐渡のお経は太鼓を叩くスタイルだと言っていたが、まさかここまで手数が多いとは。

波の写真について説明をしていただいたときに、お経と波が似ているといっていた意味がよくわかった。これは引き込まれる。


これが誰も見ていない本堂で、毎日のように行われているのである

――すごいものを見せていただき、本当にありがとうございます。このお経を聞いて育った檀家さんが、たとえ新潟に引っ越しても、このお経をあげてもらうために住職を呼ぶという気持ちがわかりました。

梶井:「祖父は、山居の池(佐渡北部の山奥にある池)にあるお寺に住んでいた木食上人(もくじきしょうにん:木の実や山菜だけを食べる修行僧)の最後の人から、 この太鼓の叩き方を教えてもらったそうです。

佐渡では他のお寺でも、太鼓を叩いてお経を唱えたりしますね。山形にある善宝寺さんとかも太鼓を叩くそうなので、各地に土着のお経がいろいろあるのだと思います」

――佐渡はお葬式もこんな感じなのでしょうか。

梶井:「僕がこっちに来た2000年ごろは、みんなお葬式を自宅でやっていて、お坊さんがいろんなところから7人くらい集まってきて、二箇法要(にかほうよう)とか四箇法要(しかほうよう)という、高野山でもあまりやらないような盛大なお葬式をしていました。途中でぐるぐる回りながら、散華といって花を散布する。

今のお葬式だと、ほとんどお坊さんは一人ですね。場所も自宅ではなく葬儀場でやることが多い」

――ほんの20年ちょっとで、お葬式の在り方が変わるものなのですね。私の田舎は長野ですが、言われてみれば子どものころに行った祖父のお葬式は自宅でした。お坊さんは一人でしたけど。


願集落の民家で行われた法事も見学させていただいた。とても立派な仏壇があり、その横には檀家ごとにあるという太鼓が鎮座していた。この日は正月の春祈祷ではないので叩かなかったが、こういうことかと納得

せっかく願集落まで来たので、賽の河原を見ていくことにした。ちなみに以前にも一度訪れている

海岸沿いの遊歩道を歩いていくと、胎動くぐりとも呼ばれる海蝕洞穴がある。ここもまた境界の一つ

昔は幼くして亡くなる子どもも多く、その供養のためにできた霊場で、江戸時代の絵図にも描かれている。この場所で行われる賽の河原祭りというイベントでも、梶井さんは太鼓を叩くそうだ

たくさんある謎の小さいお地蔵さんは、佐渡への団体旅行が流行っていたころに出回ったものだとか

限界集落で暮らすということ

梶井さんへの密着取材を踏まえて、いくつか質問をさせていただいた。

――佐渡島最北端の冬は相当厳しいですか。

梶井:「海岸沿いは風で雪が吹っ飛ばされるから、あまり積もりません。時化るとずっと風速30メートルとかなので。

毎年、冬はあっという間に終わっちゃう。もっと長い方がいいですね」

――冬がお好きなんですね。

梶井:「法事もだいたい冬だし、ブリも獲れる時期だし、なんかいろいろやることがあって。取材をするにも冬のほうがしやすいんです。あったかくなると田植えとかでみんな忙しいから」

――鷲崎の暮らしは不便ですか。

梶井:「いや、別に。なんでもあるので。私は街に出ることもたまにあるから、買い物はそのときにまとめてできるし、物々交換みたいなものも多い。生協の配達を頼んでいる人も多いですよ」

――なんでもスーパーやコンビニで買って暮らしてる人からすると不便なんでしょうけど、そうじゃなければ別にっていう感じなんですかね。両津までもそこまで遠くないし。

ハナちゃんは迷惑そうだったが、日課の散歩にもついていった

――田舎暮らしならではの煩わしさみたいなのあったりしますか。さっきからネガティブな質問ばかりですみません。梶井さんが飄々と楽しそうに暮らしているので、あえて聞いています。

梶井:「民俗学者の宮本常一も言っていますが、田舎は一つのことを決めるのに時間がかかるというのはあるかもしれない。民主主義といえば民主主義ですが、調整役の人は大変だと思います」

――集落の草刈りみたいな作業は多いのですか。

梶井:「道普請(みちぶしん=地域住民による協働活動)といって、年に3回ぐらいはあります。そういうのがないと、あっというまに集落が草ぼうぼうになっちゃうので。

必ず毎回参加しなければいけないという訳でもないですけど、誰かがやらないと集落が維持できない。田んぼの畔も草を刈らないとマムシが出てくるようになるし、害虫が増えて無農薬の稲がやられてしまう。草の生えるスピードが速すぎて、なかなか大変です。

90歳になる近所のおばあさんも、がんばって畑仕事をしています。田んぼで会った本間さんも、83歳で全然体力がないとかいいつつ、若い人たちよりもよく動いている」

――みんな元気そうですよね。

梶井:「とはいっても、あと10年経ったら、どうなってるんだろうっていうのはあります。この前も地元漁師の集まりで飲んだ時に、今はここに十数人いるけど、もうあと10年もしたら、3~4人しかいないだろうという話になりました。田んぼを引き継ぐ人もいないし」

2020年から飼っている、新潟のホームセンターで売れ残っていたというハナちゃん。二日目もまったく私に懐かなかった

――田舎暮らしをしていて楽しいのはどういうとこですか。

梶井:「その人によって全然違うと思うんですけど、自給自足をしてなんでもやっていけるところですか。漁業だけとか農業だけとかでは食べていけないっていう、極限の環境でどう生き残るかみたいなところを、結構楽しみながらやっています。

都会だったり、国中(佐渡の平野部)だったりと同じことやっていても、全然食べていけないので。おもしろいですよね」

――楽じゃないから楽しい。毎週草むしりをしないといけない田んぼもそうですけど、合理的じゃないようなことを修行として前向きに取り組んでいるように見えます。

梶井:「それに私の場合、撮りたい写真のテーマが集落や波で、それがここにはある。

よく田舎と都会で比べたりするけれど、どこかと比べるっていうよりは、今あるこの環境で、どう暮らしを楽しめるか。

みんないろんな仕事をやりながら暮らしています。漁師をやりながら電気屋さんをやっていたり、漁師と自動車整備場をやりつつ田んぼをやったり」

――いくつもの兼業が田舎暮らしの普通。みんながいろいろな仕事をやらないと、集落が機能していかないし。その中で梶井さんは住職という役割を担っている。

梶井:「島外から移住してきて、なんでも屋みたいなことをしてる人もいます。それなりに大工仕事とかができれば、需要はあるので引っ張りだこのようです。

もし移住を考えている方がいれば、急に決めたりしないで、いろいろな場所を見て、ゆっくりと検討するのがいいと思います。鷲崎に住んでイカ釣りを生きがいにしている人もいますし」

昨年に亡くなったおばあちゃんは認知症を患っていたが、犬が来たことでだいぶ元気を取り戻し、入院先の病院でもハナちゃんに会いたいといっていたそうだ

梶井さんの話を聞いていて、集落が人の住みやすい場所として機能し続けるためには、必要な役割というのがいくつもあることがわかった。

それは草刈りやお祭りの手伝いのような奉仕作業だけでなく、仕事として請け負うインフラや住環境の維持、文化的な活動(法事含む)の提供。ガソリンスタンドや自動車屋がなくなったらみんな困る。

それらを担当している人々が抜けたとき、集落は本当の限界を迎えることになる。佐渡島全体、そして日本全体の人口が減っているのだから、この流れを変えることは難しいのだろう。

最後まで懐かなかったハナちゃん。今度は犬用ちゅ~るでも持ってきてみようかな

梶井さんはお経を唱え、魚を捕り、田畑を耕し、写真を撮り、文章を書いている。他にもいろいろやっているのだろう。

「仕事」というものは、これと決めた一つのことを突き詰めることが正しいというイメージがどうしてもあるのだが、たくさんの仕事を積み重ねて生業とするのが正解の場合もある。

電力やガソリンを一切使わないという生活にまで戻る必要はないけれど、自給自足に近い暮らしであったり、なるべくお金に頼らない豊かな暮らしというのは、努力の方向次第で目指せるのかもしれない。もちろん向き不向きはあるだろうが。

鷲崎は秋になるとアオリイカがたくさん釣れるそうなので、稲穂が実りの重さで垂れるころにまた来たいなと思った。

梶井さんからのお知らせ


■2023年8月28日(月)にリトルモアブックスから『お寺のハナちゃん』が出版されます。詳しくはこちら

梶井照陰さんのX(旧Twitter)

【いろんな街で捕まえて食べる】 過去の記事 

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著者:玉置 標本

玉置標本

趣味は食材の採取とそれを使った冒険スペクタクル料理。週に一度はなにかを捕まえて食べるようにしている。最近は古い家庭用製麺機を使った麺づくりが趣味。同人誌『伊勢うどんってなんですか?』、『出張ビジホ料理録』、『作ろう!南インドの定食ミールス』頒布中。

Twitter:https://twitter.com/hyouhon ブログ:https://blog.hyouhon.com/