「ここは私の居場所じゃない」。東京でやりなおした人生と、30年暮らした自由が丘が「自分を守ってくれる街」になるまで |相川七瀬さん【上京物語】

インタビューと文章: 古澤誠一郎 写真: 関口佳代


進学、就職、結婚、憧れ、変化の追求、夢の実現――。上京する理由は人それぞれで、きっとその一つ一つにドラマがあるはず。地方から東京に住まいを移した人たちにスポットライトを当てたインタビュー企画「上京物語」をお届けします。

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今回の「上京物語」に登場いただくのは、歌手の相川七瀬さんです。

明るくポップな楽曲がチャートを席巻していた1995年、ダークなロックをベースにした『夢見る少女じゃいられない』でデビューした相川さん。上京の際には、幼少期から抱えてきた「知らない人たちの生きる世界で、自分の人生をやりなおしたい」という強い思いがありました。

東京で最初に住んだ街である自由が丘に暮らしてもう30年。子育てを続ける中で地域との絆は深まり、自由が丘は相川さんの「地元」となり、「私のことを守ってくれる街」にもなりました。

そんな相川さんは、「上京したときと同じ気持ち」になるような新しい挑戦を始めています。東京の街とのかかわり、人とのかかわりが育み・支えてきた、相川さんの人生の「これまで」と「これから」を語ってもらいました。

知らない人の生きる街で、人生をやりなおしたかった少女時代

── 幼少期を過ごされた大阪市東淀川区はどんな場所で、どんな少女時代を過ごされたのでしょうか?

相川七瀬さん(以降、相川) 私が子どもの頃には公団住宅がたくさんあって、とにかく子どもが多い街でした。小学校は1学年12クラスもありましたから(笑)。

本を読んだりとか、家で遊ぶのが好きな子でしたね。意外とインドア派でした。

── 小学生の頃から歌手になる夢をもっていて、「今の街から出ていきたい」と思っていたそうですね。

相川 「ここは私の居場所じゃない」とか生意気なことを言っていましたね(笑)。でも当時の私には生きづらさがあって、周りから浮くような経験を何度もしていました。

── どんなところが周囲の子どもと違ったのでしょうか?

相川 少し大人びていたのかもしれないです。父と母が離婚して、母方の家に引き取られて暮らしていたこともあって、早い段階で「自分の居場所」が崩壊していました。転校先での学校生活もうまくいきませんでした。だから、「知らない人たちの生きる世界で、自分の人生をやりなおせたら幸せなんじゃないか」という思いが強烈にあったんだと思います。

そこで考えたのが、「歌手になって東京に行けばいいんじゃないか」ということでした。中1からオーディションを受けて、そこで私を見つけてくれて面白いと思ってくれたのが織田哲郎さん。織田さんは10代の私が初めて信じた大人だったと、今思い返しても思います。織田さんとの出会いから、私の人生が変わっていきました。

上京当時の自由が丘と周辺エリアの思い出


── 織田さんとの出会いを経て、歌手になるために上京した街が自由が丘だったわけですね。

相川 はい。「もう行っちゃえ」の精神で上京を決めたので、東京の住まい情報もなかったのですが、当時の織田さんの仕事部屋が近かったことと、治安の良さなどを考えて選んでくれました。

最初に住んだのは九品仏駅が最寄りの場所でした。どんな場所か聞いたら「家の下にコロッケ屋があるよ」と言われて、「へー、そうなんだ」って思ったくらいで、あとは何も知らずに引越してきました(笑)。それから30年くらい、ずっと自由が丘の周辺で暮らしていますね。

── 実際に暮らしてみていかがでしたか?

相川 最初は小さな商店街の中に住んでいましたが、すごく暮らしやすかったです。今でも周辺に友達が多いですし、その商店街にはよく行きますね。あと当時の自由が丘にはマルイがあって、これから新しい生活を始める感じの若いカップルが多かったのが印象的でした。当時は「子ども服の街」と言われるくらい、今以上に子ども服のお店が多かったです。

現在の自由が丘駅前

── 東京で遊ぶ場所はどこが多かったですか?

相川 その頃は渋谷ですね。当時は東横線の終点駅でしたし、自由が丘駅から電車に乗ってよく遊びに行きました。その頃はPASMOとかもなかったし、大阪から来た私には東京の路線は複雑だったので、よく切符を買い間違えて自動改札に引っかかっていましたね(笑)。

暮らしているうちに、近隣エリアの二子玉(ニコタマ/二子玉川)がどんどん活性化してきたので、最近は日常の用事は二子玉でぜんぶ完結しちゃいます。私が住みはじめた頃の二子玉なんて何もなくて、ナムコ・ワンダーエッグとか、私も免許を取った自動車教習所があったくらい。今はそこにライズ(二子玉川ライズ)が立っていますからね。


── 『恋心』(96年リリースの5thシングル)をリリースするまではワンルームのお部屋に住んでいたそうですね。

相川 そうだったっけな? (笑)でも、ちょろちょろと引越してましたね。

── 自由が丘エリアの中で何度も住まいを変えているんですか?

相川 えっと、1、2、3、4、5……8回くらい引越してるかな? 結婚して子どもが3人できて、真ん中の子どもがドラムをたたくようになった頃には、「マンションはもう無理!」と思って湘南に拠点をすべて移そうとしたこともありました。ですが、だんだんと仕事が忙しくなり、結局は一番下の娘も自由が丘で育てることになりました。やっぱり、この街から離れられませんでしたね。そして、何よりも自由が丘には自分がレコーディングをしているスタジオもあり、本当に便利なんです。

自由が丘は「私を守ってくれる街」


── 地域の人たちとのつながりが増えたきっかけは何だったのでしょうか?

相川 一番上の子どもが近所の幼稚園に通いはじめたことですね。その幼稚園を決めたのも、お子さんのいる近所の人と「幼稚園をどこにすればいいかわからないんです」と立ち話をしているときに、「じゃあ運動会とか一緒に見に行ってみる?!」と誘ってもらったのがきっかけでした。

息子たちが熊野神社(自由が丘熊野神社)や奥澤神社(世田谷区奥沢にある神社)のお祭りでおみこしを担がせてもらっているのも、地域に入っていくきっかけになりました。最初に担ぐようになったのも、ママ友から「一緒に担がない!?」と誘ってもらったのがきっかけなんですよね。それで今度は、ウチがまたほかのお家を誘って、お友達みんなでワイワイと。

── ママ友経由でいろんな情報も入ってくるし、新しい人間関係も生まれているんですね。

相川 そうですね。子ども同士の関わりをきっかけにご近所のお友達ができて、仲良くなっていけるのが楽しいです。「あそこに新しいレストランできたから行かない?」みたいに食事に誘ってもらって、新しいお店を知ることも多いですね。

私が手土産によく持っていく『黒船』のどらやきも、近所の友達が「『黒船』って知ってる? すごいおいしいお店ができたんだよ!」と買ってきてくれて、初めて食べておいしくて感動しました。それで私がいろんな場所で紹介するようになり、今ではお店の方ともすっかり仲良しになりました。

── ほかにご近所でお気に入りのお店はありますか?

自由が丘デパート

相川 駅前の自由が丘デパートに入っている味一(『味の一番』)ってトンカツ屋さんですね。丼物とかは子どもたちも大好きだし、座敷もあって、冬はすき焼きとかも食べられるんです。何家族かで一緒に食べに行くときに重宝していますね。おかみさんとご主人がベイスターズファンで、私もベイスターズファンなので、お店ではよく野球中継をつけてもらってます。

── お店の方もご近所さんも、相川さんが芸能人というのも気にせず付き合ってくれているんですね。

相川 まったく気にしてないですね。ご近所さんは「ライブ見に行きたいんだけど、どうしたらいい?」と自然に声をかけてくれますし、実際に普通に見に来てくれます。少し家を空ける時期も、「何かあったらケータイに連絡するね!」と言ってくれる人がいて、いろんな面でこの街の人には助けられています。

だから自由が丘って、私を守ってきてくれた街でもあるんです。

もう暮らして30年。顔なじみも増えて、私が「自由が丘に住んでます」と公言しても、近所を歩きづらくなることもないし、逆に地域の人たちがいろんなことを助けてくれる。長く住むほどに地域との絆が深くなっていく感覚があります。もう東京のほうが住んで長いんで、自由が丘が私の地元という感じになりました。

「このドアを開けたら相川七瀬」なんて気取ってられない子育てのカオス


── そうやって地域との絆を深められたのは、お子さんと家や近所で過ごす時間を長くとってきたから……というのも大きいと思います。音楽活動と子育ての時間配分は考えていましたか?

相川 考えてた時期もありましたけど、子どもが3人になった時点で「配分」とか気取ったことを言えなくなりました。まだ1人のときは「私はこのドアを開けたら相川七瀬になって……」みたいなことをインタビューでもしゃべってたと思うんですが、2人、3人になると、もうカオスです(笑)。

ライブ本番に出ていく直前に「ねえママ、明日ぞうきん持ってかなきゃいけないんだけど」とか「絵の具がなくてさぁ……」とか言ってくるし、ライブの次の日でも「明日7時10分に出なきゃいけないから、6時半に起こして~」とかしょっちゅうです。(笑)。だから切り替えなんかできないし、しなくていいのだと思うようになりました。

── お子さんと過ごす時間も本当に大事にされているんですね。

相川 私は3人の子どもが6つずつぐらい離れているのもあって、長男で得た経験を次男に活かし、次は次男の経験を長女に活かしてあげたいと思ってきました。子育てでは反省も後悔もたくさんあるし、振り返る時間が6年くらい空いていたことで、「もっともっと子どもと向き合う時間がほしい」と思わせてくれたのかなと思います。

あと心がけたのは、子どもとかかわる時間をつくるために、幼稚園や学校の行事にも積極的にかかわるようにすることでした。そうすることで、子どもの様子も見られるし、お友達もできるので良かったと思っています。そういう意味でも、自由が丘は子育てしやすい街ですね。

── そんなお忙しい中、2020年に國學院大學に進学をされたのはすごい決断だったと思います。

相川 ちょうど子ども3人が自分の手から離れるタイミングで、仕事以外でも自分のやりたいことをやってみようと思っていたんです。私は10年以上前から、お祭りを中心とした地方の活性化に関する活動に携わってきたので、その勉強ができる学校を選びました。

とてもありがたいことに、いま私は栃木県栃木市の文化政策フェローにも指名していただいていますが、以前は自分がそんな活動にかかわるなんて想像したこともありませんでした。人生には無数に扉があることに大学に行って気付かされました。勉強で得た知識だけでなく人生観もすごく深くなったと感じています。

── では今は歌手活動を続けながらも、自分の新しい可能性に目を向けて学びや挑戦を続けられているんですね。

相川 そうですね。「自分が70、80になった時に何をしているんだろう?」と考えたとき、せっかく織田さんに相川七瀬として世の中に出してもらい、ヒットソングをもらえたからこそ、今度は自分がこの名前で社会に還元できることは還元をしたいという思いが今はあります。「人間、40歳になると土を触りたくなる」みたいな話と一緒で、50歳も近くなると社会ともっとかかわりたい、何かに貢献したいという気持ちが出てきたりするんだなと。(笑)

今までは自分の仕事と家庭のことで人生がいっぱいいっぱいでしたけど、いざ子どもが巣立ちはじめると「何かで人の役に立ちたい」「人から必要とされたい」という気持ちが自然と湧いてきました。もちろん音楽は音楽でずっと続けていますが、今はそれを超えた人とのつながりが欲しいという気持ちが強くなってきました。

私が今、かかわっているお祭りや地域に携わる活動も、最終的に自分の歌の幅を広げたり、ステージを多様にするだろうという感覚もあります。そもそも芸能の発祥は「神楽(かぐら)」などの神事にありますし、そういう芸能の現代版として私は歌を歌っているのかもしれません。

今は上京したときのように「行っちゃえ!」と前に進むべきとき


── 相川さんは音楽活動においても、2013年の『今事記』、2023年の『中今』といった和の伝統をモチーフにした作品を発表されてきました。

相川 『今事記』は東日本大震災の後にリリースした作品で、今回の『中今』はパンデミックやウクライナの戦争など、世界が大きく変わっていく中でリリースをした作品でした。『中今』は、そんな時代に自分の内面を出した作品なので、ここに収録した歌はこの先、60、70、80になっても歌えるものです。ロックは体調的な問題も含めて歌えなくなる日が来るかもしれないな……と思うと、こういう激しいものだけではない、自分の内面を出しておくこともすごく大事な作業だと思っています。

── 将来のことも考えながら音楽活動を続けられているわけですね。では、70歳や80歳になった自分はこんな人生を送っていたい……というビジョンもあるのでしょうか?

相川 この先、自分はどこへ行くんだろう……と考えると、自分でも正直わからないんです。音楽を続けている自分は想像できますけど、地域にかかわる活動については、これからやるべきことがたくさんあるし、乗り越えなければいけない壁もあります。

それが私にできるのかと不安になることもあります。こういった悩みを友達に相談すると「あなたがやろうとすることには前例がないから不安になるんだよ。だからその前例をあなたはこれからつくるんだよ」と言ってくれて、「確かにそうなのかもしれない」と思うようになりました。

私は今、人生の折り返し地点にいますが、上京したときと同じように、「不安だし何が起こるかわからないけど、行っちゃえ!」と次のステージに進む時期に差し掛かっているとも感じます。そして未来の私がやることは、「今の私が知らない私」がやることです。だから「自分には無理だ」とかは思わず、今の私が未来の私にブレーキをかけないように、可能性の広がる道を進みたいと思っています。

お話を伺った人:相川七瀬(あいかわ ななせ)

1995 年「夢見る少女じゃいられない」でデビュー。毎年7月7日には、「七瀬の日」と題したLIVEを17年連続で開催中。音楽活動以外にも絵本の出版や小説「ダリア」、日本の聖地の旅エッセイ「神結び」「縁結び」「太陽と月の結び」などを執筆。岡山県総社市、長崎県対馬市、鹿児島県南種子町の「赤米大使」として伝承文化継承の活動をしている。毎年、岡山県総社市備中 国分寺前で「赤米フェスタ」と題した音楽フェスを主催している。2020年國學院大學 神道文化学部に入学。2021年にYouTubeにて「なないろ旅 -Nanase meets Japanese Culture-」と題した日本の文化を紹介するコンテンツを開始。2023年1月25日にNEW ALBUM「中今」をリリースした。

聞き手:古澤誠一郎(ふるさわ せいいちろう)

古澤さん

ライター。1983年埼玉県入間市生まれ。東京都新宿区在住。得意なジャンルは本、音楽、演劇、街歩きなど。『サイゾー』『週刊SPA!』『散歩の達人』『ダ・ヴィンチニュース』などに執筆中。
Twitter: @furuseiro
WEBサイト: https://furusawaseiichiro.com/

写真:関口佳代
編集・風景写真:はてな編集部