転勤族に育った私が唯一「故郷」と呼べる仙台へ。消えた景色のなかに、子どもの頃の自分を探しに行く|文・白央篤司

著者:白央篤司

白央篤司

フードライター、コラムニスト。1975年東京都生まれ。兵庫、宮城、埼玉で育つ。主な著書に「自炊力」(光文社新書)、「台所をひらく」(大和書房)、「はじめての胃もたれ」(太田出版)など。「CREA」「クロワッサン」のウェブサイト、「朝日新聞ウィズニュース」などでコラム連載中。旅、酒場、古い映画好き。
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仙台駅前の風景

転勤族の家に生まれ、生後4カ月ではじめての引越しを経験した。もちろん当時の記憶はないけれど、慌ただしい人生だと思う。困るのが出身地の欄で、「東京都」と書くのは毎度ためらわれる。4カ月しかいなかったのに、と。
東京から兵庫県に越して4年を過ごし、次は宮城県へ。ここでは、幼稚園から12歳までとわりに長く過ごすことができた。小学生時代のほぼすべてを仙台市で暮らせたから、勝手に「故郷」的なところと思っている。


仙台駅近くの並木道から

仙台は杜(もり)の都とよく呼ばれる。実際、木の多いまちだ。定禅寺通りと青葉通りという大きな並木通りがふたつ中心部にあり、緑ゆたかな公園も市街地に近い。今秋、久しぶりに仙台を訪ねたら街路樹の色づきが見事だった。道にはたくさん落ち葉が吹き溜まって、歩くとふかふかして気持ちいい。小さい頃、この葉を蹴り上げながら歩いて楽しくなった気持ちを懐かしく思い出した。


小学生の頃に住んでいたあたり。毎日通った道

仙台駅から北に歩いて15分ぐらい、宮町というエリアに住んでいた。そのまま北上すると神社の仙台東照宮があるから、「宮」町なんだろう。取材などで仙台に行くたび、時間をつくって「かつて住んでいた、私が育ったまち」を訪ねてしまう。

現在は完全に住宅街だが、昔は個人商店も多かった。精華園という町中華があって、夏はここから冷やし中華をよく取った。向かいにはケーキ屋さんがあって、その並びにはよろず屋さん(今でいうコンビニ的な、なんでも置いてあるお店)や酒屋さんも。この酒屋さんの前で、千円拾ったときの興奮が忘れられない。小学生だった私は瞬間的に「てんとう虫コミックスが3冊買える!」と思ったのだった。ちゃんと交番に届けたはずだが、その後もらえたのかどうかが思い出せない。

うちの近所には「あさひ」という名の蕎麦・うどんのお店があって、前を通ると鰹節のいい匂いがよく流れてきた。ここから親子丼なんかの店屋ものを取ることもしばしば。40年前ぐらいの日本人は忙しいときや急なお客さんのときなど、よく出前を取っていたなと思う。今でいえばウーバーだろうか。で、ここまで書いてきたお店はもうすべてなく、跡形すらない。ただ家々が並ぶだけの通りになって久しいが、それでもやっぱり私はこの辺りを訪ねたくなる。

老朽化が理由か、封鎖されてずいぶん経つ某銀行の社宅がある。小学校のとき一番仲の良かったケン君が住んでいたところで、前を通るたび「会いたいなあ」とよく思う。サッカーがうまくて、彼は毎日「ミロ」を飲んでいたはず。ちなみにこいつ、「サトウケン」という日本に一体何人いるんだというシンプルな名前で、検索しようもないのがさびしい。元気か、ケンよ。どうか元気でいてくれ。


仙台東照宮に向かう道。標識に書かれた南光台というまちにも住んでいたことがあった

かつて毎日歩いた道をたどりながら、生まれてからずっと同じところに住んでいるって、どんな感じなのだろうと想像する。でもどういうことなのかは全く想像できない。

私にとって仙台の宮町の「この道」は、いつ来ても感情が揺れる場所だ。今回は、イワサキ文具店がなくなっていてショックだった。当時の子どもに人気筋のアイテムががっつりと揃う店で、おこづかいが入ると同級生と訪ねては缶ペンケースとか鉛筆キャップ、ねり消しなんかを買って喜んでいた。

消しゴムの匂いや下じきに印刷されたキャラクターなんてのがどうでもよくなってくる、「おとなへの過渡期」を私は仙台で過ごすことができなかった。ずっと同じところに住んでいたら、イワサキに過剰な思い入れもなく育っていったのかもしれない。でもだから、私にとってイワサキはずっと懐かしい場所のままであり続けるんだろう。建物がなくなったとしても、このままずっと。


まなびやよ、さようなら

母校である小学校が建て替えられる、とは聞いていた。新校舎もかなりできていて、旧校舎がいよいよ取り壊し完了、の一歩手前を見ることができたのはうれしかった。明日にも瓦礫になるであろう窓をしばし眺める。見納め、と思えばもっとセンチメンタルになってもいいはずなのに、窓の近くにあった畑のさつまいもなんかが思い出されてくる。小学3年生のとき、みんなでさつまいもを育てていた。先生がふかしてくれて、「マヨネーズをつけるとうまいんだぞ」と教えてくれる。試してみたら……本当にうまい。こりゃうまいねと、みんなきゃあきゃあ喜んで食べた。さつまいもをふかすと、今でも私はマヨネーズを付けて食べたくなる。

小学校向かいのマンションが健在でうれしい。あそこにはスワ君とか和子ちゃんとか住んでいたな。いま会ったら分かるだろうかと想像して、いつも訪ねないまま帰る。そこまでの仲でもなかったし、向こうもいきなり来られたって困るだろう。ただ、思い出したいだけなのだ。数年おきぐらいに、定期的に。

角にあったデイリーヤマザキでは1日早く少年ジャンプが買えたこと。ブラスバンドの仲良かった先輩が「中学でまた一緒にやろう」と言ってくれたのに、転勤で行けなくなって悲しかったこと。ゴリラハウスなんて名前の本屋さんがあって、同級生のヨシダ君と一緒にエッチな雑誌を見てみようと思ってトライしたけど、結局勇気が出なくて笑いながら帰ってきたこと。他愛もないことだが、私の心にしまってある大事なものでもある。それらを箱から取り出して、まだ「ある」ことを確認し、再びしまうような作業をしたくて私は仙台に来るのかもしれない。
今回歩き回ってみたら、LUUP置き場ができていた。現地から働きに来ている人も多いのか、ベトナム食材店もできていて時代を感じる。私にとっては追憶のまちも、やはり現代と折り合いをつけつつ新陳代謝しているのだなと思ったら、急にまちが色付き出して見えてきた。小さなカフェまでオープンしていて、うれしくなる。ちょっとでも活気が戻ってくれるといいんだがな、とか思いながらそこでスムージーを飲んだ。


仙台の裏道に咲いていた、菊とコスモス

思い出話ばかりでも申し訳ないので、最後にちょっと飲食店のことなども。仙台へ観光に行かれたら、やっぱり魚介は食べて帰ってほしい。仙台駅および駅ビルには寿司店がいろいろあるのだけれど、私は駅ビル「エスパル」東館2階の「塩竃 しらはた」によく足が向く。こちらは立ち食いスタイル、サクッと食べたいときにもいい。お酒好きなら、特製の「海老みそ」軍艦を日本酒のアテにぜひ。

座ってじっくりなら、駅ビル「エスパル」本館地下1階の「塩竃 すし哲」もおすすめ。時間のないときは、駅ビル「エスパル」本館地下1階の「仙令平庄」で寿司パックを買って、新幹線で食べるのもよくやる。そのすぐそばにある「魚河し惣菜 仙」は地のものを使った魚介の総菜が豊富で、よくおみやげにする。青葉の頃ならほやの揚げたの、秋冬なら北寄貝の揚げたのなんて、ビールのつまみとしてべらぼうにいい。

駅ナカの「すし通り」もいいのだが、行列も多く時間の読めないのが難しいところ。行ってみたい人は、余裕をもってお訪ねください。仙台のおみやげといえば笹かまぼこが有名だが、メーカーもいろいろ。私が好きなのは「粟野蒲鉾店」と「白謙かまぼこ店」で、どちらも仙台駅内にショップあり。甘いものならずんだの類もいいが、くるみと白あんがおいしい「支倉焼」も試してみてほしい。

近年人気の「せり鍋」を食べてみたい人も多いかもしれない。私はシンプルなせりしゃぶが好きで、駅近くの「いな穂」によく行く。席数が少ないので必ず予約をしてからどうぞ 。


さて、そろそろ帰らないとだ。あと人生がどのくらい続くか分からないけれど、晩年というものを私は仙台で過ごしたいと思っている。この先何が起こって、どんな縁があるかは勿論分からない。でも、最後の住むところ ぐらい自分で決めたいと思うのだ。年をとると何もかも現実的にしか考えられなくなってくるが、大切にしたい私の夢のひとつである。

著: 白央篤司

編集:スーモ編集部