変な夢さえ見なければみんな地元で暮らしていける|名古屋在住のラッパー・呂布カルマさん【ここから生み出す私たち】

インタビューと文章: 古澤誠一郎

呂布カルマさんトップ写真

創作しながら暮らす場所として、あえて「東京」以外の場所を選んだクリエイターたち。その土地は彼・彼女らにとってどんな場所で、どのように作品とかかわってきたのでしょうか? クリエイター自身が「場所」と「創作」の関係について語る企画「ここから生み出す私たち」をお届けします。

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今回の「ここから生み出す私たち」に登場するのは、ラッパーの呂布カルマさん。オールバックに柄シャツという強烈なビジュアルや、ウェイトの乗った強烈なディスを次々と繰り出すMCバトルのスタイル、Twitterでの歯に衣着せぬ言動など、その独特の存在感に魅力を感じる人も多いと思います。

呂布さんは、中学時代に引越してきた愛知県名古屋市に今も在住。毎週末のように東京や全国各地にライブに出向く日々を送りながら、活動・生活の拠点を名古屋に置き続け、つい先日はマイホームも購入したといいます。「自分が名古屋に住んで活動をしているということに意味がある」と話す音楽活動と地元の関連や、「変な夢さえ見なければみんな地元で暮らしていける」と語るその地元観について話を伺いました。

※取材はリモートで実施しました

「風呂って当たり前に家にあるんだな」と名古屋に来て気づいた

――呂布さんは大阪育ちで、中学時代に名古屋に引越してきたんですよね。当時、名古屋の街にはどんな印象を持ちましたか?

呂布カルマさん(以下、呂布):自分が越してきたのは繁華街から少し離れたエリアで、子育て世帯が多く住む場所だったので、「大阪より名古屋のほうが裕福な人が多いな」と感じました。12歳まで住んでいたのが大阪市の東淀川区で、家に風呂がなくて銭湯通いの友達も結構いたんですけど、名古屋にはそんなやつ1人もいなくて。「風呂って家に当たり前にあるんだな」と名古屋に来てから知りました。

呂布カルマさんインタビュー写真1

――そのギャップには驚いたでしょうね。名古屋ではどんな場所で遊んでいましたか?

呂布:名古屋だと栄や名駅のあたりが代表的な繁華街ですけど、そういう場所に繰り出して遊ぶよりは、友達の家があった覚王山という街とか。あとは牧野ヶ池緑地公園というデカい緑地があるんですけど、そこには今も昔もよく行ってますね。

呂布カルマさんライブ写真1 早朝の牧野ヶ池 @ryoffkarmaより

――大学は名古屋芸術大学の美術学部に進学をされて、その後もずっと名古屋市にお住まいなんですよね。

呂布:名古屋に越してきたときは、「自由になったら大阪に帰ろう」と思っていましたけど、いざ名古屋で育って大きくなると、その気持は全然なくなっていて。「住めば都」じゃないですけど、周りには友達もいるし、大学も家から通える範囲だったので、そのまま何となく居着いてきました。

――東京に出ようと考えたことはなかったのでしょうか?

呂布:まったくなかったですね。

――大学の入学・卒業の前後では、「東京に出たい」という友達も多かったと思います。

呂布:実際に出た友達も多かったです。ただ、今もそう思うんですけど、漠然とした気持ちで東京に出るのって、僕は意味がないと思っていて。特別に「東京には出ない」と決めていたわけではないですけど、これまで出るタイミングもなければ、必要性も感じてきませんでした。

漫画家を目指してフリーターになるも、2カ月で気持ちはラップへ

――大学生のころからは、クラブによく行くようになったそうですね。何かきっかけはあったんでしょうか。

呂布:HIPHOPをすごく聞くようになって、単純に「ライブが見たい」と思ったからです。だから、お酒を飲んで女の子ひっかけて……という、いわゆるクラブ遊びというよりは、普通にライブハウスにライブを見にいく感覚でした。なので1人で行くことも多かったです。

――当時は、どんなアーティストのライブを見ていたんでしょうか。

呂布:当時は名古屋を拠点に活動していたTOKONA-X【1】というラッパーの全盛期で、彼の在籍したM.O.S.A.D.というグループのパーティにはよく行っていました。あとは東京から来るゲストのライブを見ていた感じですね。当時なら妄走族【2】とか、NITRO MICROPHONE UNDERGROUND【3】のメンバーが各々で組んでいるグループとか。

※1 愛知県を拠点に活動したヒップホップMC。刃頭とのユニットのILLMARIACHIや、M.O.S.A.D.のメンバーとして活躍し、名古屋弁を全面に押し出したラップで人気を博すも、2004年11月22日に26歳で急逝。なお名前は自身の住んだ愛知県常滑市に由来

※2 1998年に結成された東京・世田谷を拠点にするHIPHOPユニット。後に「フリースタイルダンジョン」にラスボスとして出演する般若も主要メンバーとして在籍していた。2015年に解散

※3 BIGZAM、DABO、DELI、GORE TEX、MACKA-CHIN、SUIKEN、S-WORD、XBSの8名から成るHIPHOPグループ。90年代後半から活動を開始。息の合ったマイク・リレーが高く評価され、個々のメンバーのソロ活動も人気を博す。2019年から7年ぶりの再始動を果たした

――錚々たる名前が上がっていて、当時のシーンのにぎわいが伝わってきます。

呂布:当時は名古屋のHIPHOPも一番元気だったころだと思いますね。日本のHIPHOPも今よりゴリッとしたものが流行っていたので、今と客層もぜんぜん違って。スキンヘッドで、入れ墨が入っていて、首が太くて……みたいな人たちが演者にもお客さんにも多かったので、クラブも少し緊張して行くような場所でした。

――そうやってクラブに通う中で、「自分もステージでラップをしたい」という気持ちが芽生えてきたのでしょうか。

呂布:初めて現場で生のライブを見たときに、前座で名古屋の若手がたくさん出ていたんですけど、そのライブのクオリティが低かったんですよ。見た目はすごく怖いんですけど(笑)。音源だけをたくさん聴いていた時期は、「自分がステージに立てる」とは全然思えなかったんですけど、ライブを見たことで「俺にもやれそうだな」と。

ただ、大学を卒業した後は、まだ漫画家を目指してフリーターをしていたので、ラップは息抜きでやっている感覚でしたね。

――それがだんだんとラップのほうに情熱が傾いていったんですね。

呂布:そうですね。漫画は家で1人で黙々と描くものですけど、ラップはいきなり現場に出て、人前で披露できるんですよね。それがもう面白くて、卒業して2カ月もたたないうちに、ソッコーで漫画を描かなくなりました。当時は「ラップで食っていこう」とは思っていなかったですけど、徐々にライブで手応えも出てきたので、また次もやろう……と続けていった感じです。

呂布カルマさんライブ写真2
初期のライブ風景

――ご自身がステージに立つようになったころの名古屋のシーンはどんな感じでしたか?

呂布:僕が大学4年生のときに、名古屋のアイコン的な存在だったTOKONA-Xが亡くなるんですよ。そこからシーンは急速にしぼんでいって、日本語ラップ全体でも一時のバブルが終わり、冬の時代と呼ばれるような時期になっていきました。

だからフラストレーションは、めちゃくちゃあったですね。あと当時はB-BOY全盛期で、みんながオーバーサイズのバスケシャツとかを着ていたんですが、自分は今とほぼ変わらないカッコでした。その点で、見た目で差別されているとも感じていました。

――それでも、東京に出ようとは思いませんでしたか?

呂布:そうですね。フラストレーションはありながらも、名古屋では出られるイベントが常にありましたし。あと僕が活動をはじめたころは、THA BLUE HERB【4】が全盛期でした。THA BLUE HERBは札幌にいながら、東京を仮想敵に据えたような音楽活動をしていたので、その影響は受けていたかもしれないです。彼の曲(『天下二分の計』)に「東京に出て音楽なんて古いんだ 地元も仕切れずになに歌う気だ」という有名なリリックがあるんですが、同じことを考えている人は各地方にいたと思います。

※4 北海道札幌市を本拠地として活動を続ける日本のヒップホップグループ。BOSS THE MCの強いメッセージ性のあるリリックで人気を集める

――その後、2009年にご自身のレーベル「JET CITY PEOPLE」【5】を立ち上げます。

呂布:JET CITY PEOPLEは僕とDJの鷹の目の2人で始めたんですけど、彼がレコーディングもエンジニアリングも全部できたので、作品をつくることに不便はありませんでした。当時は、ラップで飯を食えている人はほとんどいなかったので、フリーターとしてバイトをして、週末はライブをして、自分のライブがないときは友達のイベントで遊んで……という感じで毎日過ごしていました。

※5 呂布カルマが代表を務めるレーベルで、自身の作品や地元在住のラッパーらの作品を多くリリース。レーベル名はメンバーが愛知県名古屋市出身のBLANKEY JET CITYから

地方で文化的な仕事をしている人は本当のプロフェッショナル

――その後は音源やバトルが評判を呼び、東京や日本の各地でライブをする機会も増えたと思います。昼間は学習塾の仕事などを続けられていたそうですが、やめられたのはいつごろですか?

呂布:5年くらい前ですね。平日はフルタイムで仕事、週末は地方でライブという生活をそれまで続けていたんですけど、そのころに週末のライブのギャラが平日の仕事の給料を超えたんです。同時期には職場で転勤の話も出たので、「転勤してまで続けていきたい仕事でもないし、なら音楽一本に絞ってもいいのかな」と思って辞めました。

――そのころには結婚もされていたんですよね。

呂布:はい。もう子どももいました。

――お子さんが生まれてから、より地元への意識が強まった感覚はありますか?

呂布:「長く暮らしてきたこの街で子育てしたいな」とは思いましたね。僕らみたいな田舎者にはコンプレックスというか、「東京で子育てするなんて!」みたいな恐怖感もありました。今では東京に行く機会も増えて、街のいろいろな面が見えてきましたけど、ライブで呼ばれ始めたころは渋谷、新宿、池袋みたいな街しか知らなかったので、「人が住む街じゃねえな」「こんなところで子どもを育てたら絶対に不良になっちゃうよ」みたいな誤解はありました(笑)。

――では、名古屋に留まることに音楽活動上のメリットは何か感じていますか?

呂布:日本中のいろんな場所でライブをするようになって、名古屋という街の大きさは改めて感じてますね。特にHIP HOPみたいな文化が成立するには、やっぱり最低限の街のサイズが必要な部分もあって。地方でライブをすると、「この街で活動を続けていくのは難しいな」と感じる場所はありますけど、名古屋は全くそんなことはない。「ここを手放すのはもったいないな」とも感じます。東京には新幹線で1時間半で出られるし、大阪にアクセスしやすいところも便利だなと感じています。

呂布カルマさん写真 名古屋の繁華街・栄

――名古屋の街の文化として、ほかの街と違う特徴は何か感じますか?

呂布:自分のイメージでは「ツッパっている人が多い」という印象ですね。見栄っ張りというか、空気がピリッとしていて緩くないんです。

あと名古屋のような地方で文化的な仕事をしている人は、本当のプロフェッショナルが多いと感じます。東京だと文化的な仕事をしている人でも、物凄く高いレベルの人から、学生に毛が生えたレベルの人までピンキリじゃないですか。「こんなレベルの仕事をしてるのに、こんな場所に事務所を持っとるんか」みたいな人も結構いるし。仕事の数自体が多いせいか、セミプロがセミプロ向けに仕事をしているような現場もあるなと。

――地方だと、より実力がないと食べていけないわけですね。

呂布:そうですね。だから地方に留まって文化的な仕事が続けられるというのは、すごく贅沢なことだとも感じます。

交通費の負担も惜しむ仕事依頼しか来ない人は、東京に出ても意味がない

――今も定期的に出演されている名古屋のクラブはどこですか?

呂布:新栄にある「club buddha」では「日乃丸」という唯一のレギュラーイベントを14年ほど続けています。あとは栄の「club JB'S」ですね。僕が活動をはじめた2010年代の初めごろは、栄の女子大小路のあたりにクラブが密集していて、そこがHIPHOPのメッカだったんですけど、その周辺のクラブは風営法の締め付け以降はかなり厳しい状況になりました。

今は住吉や錦にデカい資本を持つハコがボンボンできて、若い子はそっちに移動している感じだと思います。僕は週末は地方でライブをしていることが多いので、地元の若い子たちの状況には実はうとかったりするんですが。

club buddhaのライブ風景 club buddha 日本で一番古いクラブ。
昭和61年「DJをフィーチャーする店を!」というスローガンでオープン!!

――名古屋で暮らすことには「面倒くさいいろんなことから距離を置けるのがいいところ」とも以前のインタビューで話されていましたね。

呂布:HIPHOPの世界は現場のつながりが大きいので、「東京にいると出たくもない場所に呼ばれる機会が多そうだな」とは見ていて感じますね。その点、自分は名古屋にいるので、おかしな仕事の依頼はあまり届きません。東京の仕事には新幹線の往復で2万円の交通費がかかるし、宿代がかかることもありますから。

――その負担をできないような仕事の依頼は来ない、ということですね。

呂布:そうですね。その額を惜しむレベルの依頼が届いているうちは、実力がまだ足りないということだし、東京に出ても目立った活動はできないと思います。今は交通費も宿代も出してくれて、きちんとお金を持ち帰れる仕事を受けられているので、「やっぱり東京に出る必要はないな」と。

――新型コロナウイルスの感染拡大前は、どの程度のペースで東京に行かれていましたか?

呂布:月に4~10回ぐらいですかね。

――そのたびに新幹線で往復をして……。

呂布:そうですね。ライブは自分とバックDJの2人で行くので、交通費や滞在費も倍かかります。その毎月の費用の総額を考えると、「地元でメチャクチャいい家に住めるな」とは思いますよ(笑)。ただ、HIPHOPでは、「その人がどこの街の人間なのか」というのは一つ重要な要素で、自分と街との関係が、自分の価値にも乗っかってくる。だから名古屋から東京に出たら全てがいいことだらけかというと、それは違うかなと思います。

変な夢さえ見なければみんな地元で暮らしていける

――現在はどんな環境でリリックを書かれているんでしょうか。

呂布:昔、車で外回りをする仕事をしていた時期は、トラックでビートを流しながらリリックを少しずつメモして仕上げていました。今は家のリビングで、嫁と子どもが寝た後で夜な夜な書いている感じですね。

――新型コロナウイルスの拡大後は、地方での仕事の機会も減り、家にいる時間も増えたかと思います。地元で過ごす時間のあり方や、地元への意識が変わった感覚はありますか?

呂布:あまり普段と変わらないですね。ただ、家族と過ごす時間は増えたと思います。名古屋で音楽をやっている人たちの大半は別の仕事もしているので、昼間は自分だけが暇で。だから子どもと過ごす時間をたっぷり持てています。

下の子が1月のケツに生まれたばかりなんですけど、1人目が生まれたとき僕まだサラリーマンで、塾が終わって帰ってきたら子どもは寝ている……という生活で。今は昼間から濃密にかかわり合いながら過ごせているので楽しいです。

呂布カルマさんインタビュー写真2

――アーティストとして音楽活動と、家庭での生活と、その両方を大事にしているんですね。

呂布:もちろんです。その2つは自然にあるものというか、両立するのがそんなに難しいものではないと思います。

――以前に呂布さんのTwitterを見ていて、「変な夢さえ見なければみんな地元で暮らしていける」という言葉が印象に残っていたんですが、どんな意味を込めた言葉だったんでしょうか?

呂布:自分たちの両親も若いころは、「自分が親になったらどんな子どもに育てようか」「どこで仕事をしていこうか」といったことを考えて、住む街を決めて、人生設計をしたと思うんです。そうやって両親が家を持って、子どもを育てた街には、それだけの価値があったはずだと僕は思います。

でも変な夢を見た人は、「どこかで東京に出ていかなきゃ」「もっと都会で暮らさなきゃ」みたいに考えて、地元の街を離れてしまう。もちろん、都会と全く同じやり方だと難しい部分もあるのかもしれませんが、僕は「東京に出なきゃ叶わないんじゃないか」と思っている夢の多くは、地方でも叶えられるものだと思います。

――そうした地元への考え方は、いつごろ持つようになったのでしょうか。

呂布:自分が親になってからですね。全国のいろんな場所にライブに行くと、地元で子育てをして、昼間は別の仕事をしながらラッパーとして活動している人が日本中にいるんです。やっぱり子どもがいる者同士、そういう地元での生活の話をすることが多いんですけど、どの街にもそうした普通の生活があるし、そこで生きてきた人たちの青春があるんですよね。僕はそのままの状態で全然いいと思うし、その普通の暮らしは逆に「そこにしかないもの」とも言えると思うので、すごく価値があるなと思います。


お話を伺った人:呂布カルマ

呂布カルマさんプロフィール写真

日本のヒップホップMC。愛知県名古屋市を拠点に活動している。JET CITY PEOPLE代表。幼少期を大阪府で過ごした後、中学生時代から愛知県名古屋市で暮らす。名古屋芸術大学美術学部卒業後も、フリーターを続けながら小学生からの夢であったプロの漫画家を目指すも挫折し、本格的にラップを始める。MCバトルでも無類の強さを誇り、『フリースタイルダンジョン』(テレビ朝日)では2代目モンスターを務めた。最新アルバムは5thアルバムの『SUPERSALT』。

Twitter:@Yakamashiwa

聞き手:古澤誠一郎(ふるさわせいいちろう)

古澤誠一郎さんのアイコン

ライター。1983年埼玉県入間市生まれ。東京都新宿区在住。得意なジャンルは本、音楽、演劇、街歩きなど。『サイゾー』『週刊SPA!』『散歩の達人』『ダ・ヴィンチニュース』などに執筆中。

Twitter:@furuseiro

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編集:はてな編集部