著者:和久田善彦

編集者。出版社「和久田書房」代表。大阪で出版社に勤務し、月刊誌・隔週刊誌・MOOK・書籍など様々な媒体の編集に携わったのち、2025年夏に和久田書房を設立。レコード付き書籍『生活と音楽 三田村菅打団?「旅行/キネンジロー」』が発売中。https://wakudashobo.com
先日、一枚の絵を購入した。
画家・小川雅章さんによる「安治川水門」というタイトルの作品で、大阪市港区・安治川の河口にあるアーチ型の水門が描かれている。この水門は、1970年大阪万博の年に建設された国内初のアーチ型防潮水門で、この形状の水門は日本に三基しかない。しかし老朽化のため、近いうちにローラーゲート式の味気ない水門へと姿を変えることが決定している。
私はかつて、この水門から徒歩十数分の「安治川一丁目」という住所に住んでいた。エリアでいうと大阪市西区・九条である。

小川さんの絵は、岸政彦・柴崎友香『大阪』(河出書房新社)の装画で目にした人も多いだろう。また小川さんご夫婦は、かつて大阪のアメリカ村で「楽天食堂」という人気飲食店を営まれていたので、お店に思い出がある人もいるはずだ。私も高校生のころ、ここで「担々麺」というものをはじめて食べ、あまりの美味しさに衝撃を受けた。当時、この近くで会社員として働いていた柴崎さんも楽天食堂によく通っていたと伺っている。
小川さんが描くのは、数十年前の大阪市・此花区、港区、住之江区、大正区、西区といった西側の風景ばかりである。かつて大阪の湾岸地域は「東洋のマンチェスター」と呼ばれた工場地帯だったが、作品の中ではその多くが姿を消し、どこか寂しげな曇天に覆われている。どの絵の中にも、この地で引き取った愛犬・テツがどこかに描かれている。ただし、現実にはこれらと同じ景色はもう存在しない。そしてテツももうこの世にはいない。
こうした当時の景色は、自分にとって知るはずのないものだが、なぜか原風景として映るのである。社会人になってから二十代のすべてを過ごした土地だからだろうか。その後、無職になって明け方によくこの界隈を散歩していたからだろうか。今や大阪を離れて久しいこともあるが、私にとってはユニバーサル・スタジオ・ジャパンや2025年大阪万博の会場といったイメージと、その土地を結ぶことができない。

九条には七年半住んだ。数えてみると、その後に暮らしたどの町での生活よりも短い。しかし九条は自分にとって、今も「ホームタウン」と呼べる町だ。
勤めはじめて最初に住んだ町だった。どんな土地なのかよく知らなかったが、単純に梅田や難波といった繁華街や職場まで自転車で行けて、なおかつ家賃の安いエリアを選んだ結果である。住んでみると本当に心地よく、すぐに大好きな町になった。
この原稿の依頼があって、久々にこのあたりをひとりで歩いてみた。
まず弁天町駅から北に歩いて安治川水門方面へ向かう。ちなみに小川さんの絵と同じ角度で水門を見るには、国道43号線の安治川大橋の上から眺める必要がある。

そのまま左岸沿いの道を東へ進むと安治川トンネル(安治川隧道)がある。戦前、大型船の往来が多く川に橋をかけられなかったために作られた河底トンネルだ。
エレベーターで地下へ降り、真夏でもひんやりとした河底の通路を歩いて西区と此花区を横断することができる。ただし深夜はエレベーターが運転しないので、深さ約17メートルの地下まで階段を上り下りしなくてはならない。自転車の人には苦行でしかないが、地上を通ればかなりの遠回りになるので誰もが自転車をかかえ息を切らせて階段を歩く。

そういえばエレベーターには警備員……というか、行き先ボタン(といってもデパートなどと違って「1」と「B」しかないのだが)を押してくれるおじさんが常駐していたのだが、久々に訪れると、そんな人はもうどこにもいなかった。老後はこの仕事に就きたいと考えていたのだが。
此花区(西九条)側には、高架下を活用したOK19番街、通称「トンネル横丁」という小規模な飲み屋密集地があり何度も行った。今回立ち寄ってみると、老朽化と再開発により閉鎖されていて、灯のともらないネオン管の看板が静かに佇んでいた。

駅前には安くていい酒場がいくつもあったが、西区民であった私がしょっちゅう通っていたのは、自宅からほど近いSという居酒屋だった。飲み物は錫(すず)のチロリで提供される燗酒と瓶ビールのみ、旬の料理は何もかもが絶品だがメニューが存在しない。灰皿もなく、煙草の吸い殻はそのまま床に捨てる。最初にふらりと入った時は面食らったが、少しずつ季節ごとに頼むべきものを覚えた。最後に店主が巨大な算盤を高速で弾いてお会計をするのだが、毎度「今日はだいたいこれくらいかな?」と想像するよりも遥かに安かった。長らく行っていないが、店は二軒隣に移転し、今はメニューも灰皿もあるらしい。
そこからさらに東へ少し歩いたところに、かつてライブハウスがあった。後から気づいたことだが、この近辺には引っ越してくるよりもずっと前、十代のころに一度訪れたことがあったのだった。
当時、ダイナソーJr.というアメリカのロックバンドが好きで、彼らの来日公演を観に訪れたのが九条にある「モーダホール」というライブハウスだった。しかし自分が大阪のどこに行ったのか、まるで覚えておらず、後に九条に住むようになってからその場所を偶然に見つけてびっくりした(なんと家から徒歩一分の場所だった)。さらによく見ると、そのライブハウスの入った真っ白な建物の名は「ホワイトベース」と書かれており、会社名として「ジオン商事」という看板がかかっていて二度びっくりした(一応補足しておくとこれはアニメ「機動戦士ガンダム」の兵器と国家の名前)。ネタと思われそうだが本当である。証明したいが写真がない。撮っていなかったことをこれほど悔やんだことはない。
そのすぐ近く、安治川沿いの倉庫に紛れるように、私が住んでいたビルがあった。家の前をトラックが通るだけで部屋が揺れるような建物だったが、あのころとまったく同じ姿でそこにあった。私が暮らした部屋にも誰か住んでいるようだった。ひとしきり眺めて、外観だけでも……と写真を撮ろうとして、やめた。なにか自分がよくないことをしている気がした。
ここから南へ歩くと九条駅に辿り着く。民家がひしめく町並みの雰囲気はほとんど変わっていなかったが、お世話になった多くの店は姿を変えていた。九条には、東西に地下鉄が走る中央大通を挟んで、「ナインモール九条」「キララ九条商店街」という南北ふたつの大きな商店街がある。個人商店も多く、毎日のように利用したことを思い出す。この町で暮らす中でたくさんの出会いがあり、多くのことを学んだ。しかしもう、足繁く通ったほとんどの店はなくなってしまった。知っている人もいない。

そんな個人の感傷をよそに、町には活気ある新しい店も出来ている。そのひとつが「MoMoBooks」だ。住んでいた家から徒歩わずか二分、「こんな場所に?」と思うような、長屋がひしめく路地に佇む新刊書店である。小説や絵本、映画や音楽などのポップカルチャーから、フェミニズム、反戦、社会問題まで、多岐にわたるジャンルだが芯のある品揃えで、他では見かけないZINEの取り扱いも多く、トークイベントや展示企画も頻繁に行っている。当時こんな店があったら毎日のように通っただろう。サラリーマン家庭が住む典型的なベッドタウンの団地でインターネットもない時代に育った私は、近所にこんな店がある文化的享受を求めて、早く実家を出て暮らしたかったのだから。
実家のあたりは都会的で洗練された店もないが田舎というほどでもない、かといって下町的な触れ合いもない町だった(と、勝手に感じていた)。外食をした記憶もほとんどない。目に浮かぶ主な風景といえば、団地、学校、田んぼ、後は駅前のTSUTAYA。もちろんそれは、自分自身の視点と経験の乏しさゆえであり、「町を何も知らなかった」ことに他ならないのだが、地元愛の希薄だった自分にとって、九条ははじめて「ホームタウン」と呼べる場所だったのだろう。
ホームタウンは自ら選ぶことができるのだ。

2025年の今、私は神戸の海沿い、西に位置する塩屋という町に住んでいる。この町について書こうと思えば、いくらでも書けるくらい面白い場所である。もう九条での生活よりも長くここで暮らしていることになるが、それでもここをホームタウンと呼ぶには、まだまだ自分は余所者なのだという気持ちが消えない。生活の中で町を知り、関わるほどに、その土地や人々の歴史を深く感じることになる。二十代そこそこで移り住んだ九条は、私にとって何もかもが新鮮で、「どうだ、いいところに住んでいるだろう」と我がもの顔で闊歩していた。
生まれた町でずっと過ごすのはどういう感じなのだろう。まだ塩屋での暮らししか知らない小学一年生になる子どもは、私と違って立派な神戸弁を操るし、既に行きつけと呼べる飲食店が町内にいくつもある。近所の顔見知りは子どものことを赤ん坊のころから知っていて、商店街を歩けば誰かが名前を呼んで声をかけてくれる。ここでは子どもたちは町に育てられているのだと実感するが、同時にその生活を豊かで安心できるものにするのは、保護者が町とどのように関わっているかが重要なのだと思う。
ホームタウンは自ら選ぶことができる。
だから、彼もいつの日か、かつての私のように「はやくここを出たい」と思うようになるかもしれない。それでも私は、子どもがいずれこの町を、当たり前のものとして自分のホームタウンと呼べるよう、日々の生活を送っている気がしている。

