著者: 広岡ジョーキ
住んでいる場所を聞かれて「赤羽です」と答えると、90%以上の人が「酒」に絡めて反応する。海外の人ですら「せんべろ」という単語を知っていたりする。まあそうだよな、と思う。以前の私なら、口角を上げて「いい酒場があるんですよ」と答えるところだが、その「いい酒場」はもう思い出の中にしかない。
かつて私には行きつけのスナックと居酒屋が一軒ずつあり、それぞれ黒霧島と鏡月をボトルキープして入り浸っていた。どちらもママ/マスターの高齢を理由に閉店してしまい、行きつけの酒場が消えたことで酒を飲む理由がわからなくなった。あれから7年ほど経つが、文字通り一滴も口にしていない。「アルコールが違法になりませんように」と願ってやまなかった人間として我ながら信じがたいが、酒に対する欲望は跡形もなく蒸発してしまった。
赤羽には、「パブリックハウス・マリア(以下「マリア」)」そして「巴」という最高の酒場があった。「マリア」だった場所は別のお店になり、「巴」だった場所も一時期は別のお店になっていたが今は空き物件だ。
「店」とはいったい何なんだろう、と今さらながら不思議に思う。不動産というどっしりしたものの上に一時的に立ち現れる、はかない幻のようなもの。私をそこに引きつけていたのは、酒よりも圧倒的に「場」の力だった。
赤羽に住み始めて10年以上になる。ここは、私にとって「やり直し」の町だ。大学進学を機に上京した私は、30歳を目前に意を決して帰郷した。しかしあらゆることがうまくいかず、私の人生は暗礁に乗り上げた。
ここで経緯を詳細に語る余裕はないが、精神病院の閉鎖病棟への医療保護入院を経験し、退院後も泥のような生活が続いた。当時の私は、端的に言って「廃人」だった。いくら待っても快方には向かわず、見るに見かねた妻の提案で二度目の上京が決まり、妻が選んでくれた赤羽のアパートに引越すことになった。それからは必死に「人間」をやっているようなフリをしていたが、内面的には主体性のかけらもない毎日で、救いようのない空虚感を抱え込んでいた。かろうじて仕事をしては赤羽駅前のTSUTAYA(今はもうない)でレンタルした適当なDVDを無表情で眺め、「本当に東京に出てきて正解だったのかなあ」と思い続けていたのを憶えている。やがてその空虚感に全身を飲み込まれ、私は精神科の主治医に「ロボットになった気分です」と打ち明けるようになっていた。
ある年の「赤羽馬鹿祭り」の日に転機が訪れた。「馬鹿祭り」は、地元の商店が中心となって立ち上げた60年以上続く祭りである( https://bakamatsuri.com/ )。その日、私は隣町の十条から「馬鹿祭り」に遊びに来ていた友人に誘われて、初めて「マリア」を訪れた。
一目で「ママ」とわかる謎の説得力を秘めた瞳のママと、明らかに常連のこなれた雰囲気を醸し出す人々の姿が視界に入る。緊張したが、誘ってくれた友人がもともと「マリア」の常連だったおかげで、私はヌルッとその場に入っていくことに成功した。しばらくするとカラオケの時間が始まり、初めての私も打ち解けるために何か歌ったほうがよさそうな空気になってくる。選んだのは、南佳孝の『モンロー・ウォーク』だった。
『モンロー・ウォーク』は、私が精神病院の閉鎖病棟に入院していた頃に覚えた歌だ。閉鎖病棟には、何もない空白の暇を埋めるための「カラオケ療法」の時間があった(「療法」とついているのは、もちろん入院患者たちの皮肉である)。私は、そこで患者仲間からカラオケの何たるかを学んだ。自分の胸の内を、他人がつくった歌に乗せて声にする。恥ずかしかろうが何だろうが、「どうせ自分が書いた言葉/メロディじゃないし」という逃げ道が常に存在する安心感。そうやって責任を一部転嫁しながら、選曲して歌う行為を通じて他者との接点を探る営みが「カラオケ」だ。『モンロー・ウォーク』のメンタリティは自分とはかけ離れているのだが、そのおめでたい享楽的な軽さに救いがある。逃げ場のない病棟で、光を求めながらヤケクソで歌っていた日々を思い出してマイクを握った。
「馬鹿祭り」の日だったことも大いに影響していたと思う。私の中で、「もういいや」と吹っ切れる感覚があった。
私はそのまま「マリア」に黒霧島のボトルをキープし、お店がなくなるまで数年間『モンロー・ウォーク』を歌い続けることになる。
商店街の外れにあった「巴」に通うようになったのは、「マリア」で飲んだ後にハシゴしたのがきっかけだったと思う。朝まで営業していたので、飲み足りないときの止まり木として非常にありがたかった。かつてホテルマンだったマスターのホスピタリティは一級品で、なぜこんな中心街から外れた場所でお店をやっているんだろう……? と疑問に思うほど品のある方だった。クセの強いお客さんもマスターの前では控え目になるので、実はマスターが一番クセ者なんじゃないかと飲み友達と言い合ったものである。「巴」の窮屈なカウンターで鏡月を緑茶で割りながら、私は隣に座った気の合わない相手とも肩を並べて話す術を身につけた。おそらく、あそこに通っていなかったら今の私はもっと心が狭い人間になっていたはずだ。閉店の際にキープしていた鏡月のボトルを引き取ったが、名残惜しくて中身がなかなかなくならなかった。結局、私はその年のうちに酒をやめた。「よくやめられたね」と言われるのだが、なぜ突然すっぱりやめられたのか、自分でもよくわからない。
* * *
酒を飲んでいた頃、自分にとっての赤羽は圧倒的に赤羽駅の東口側だった。赤羽一番街とLaLaガーデンの二つの商店街があるにぎやかなエリアで、「マリア」も「巴」も東口側にあった。それが今では、主に西口側のほうに魅力を感じている。
全体的に高台になっているこちらは地形的に起伏が激しいエリアで、歩き回るといい運動になるし、緑の多いスポットも散在していて風景の移ろいが楽しい。本格的に西口側にはまったのは、酒をやめて1年と少しが経過した頃にやってきたコロナ禍のタイミングだった。
2020年、未知のウイルスにびびりまくった私は、最初の緊急事態宣言が発出されてからの約3カ月間ほとんど外に出ずに妻と二人で生活した。おそらく、周りではちょっと珍しいくらい感染症対策に神経質になっていた自覚がある。酒をやめた頃から徐々に朝型生活にシフトしていた私は、パンデミックの状況下でさらに規則正しい生活を徹底するようになった。毎朝4時に起きて21時に床に就き、自分で決めた日課を決まった時間に行う。外に出るのは必要最低限の買い物と散歩のときくらい。当初はお店もほとんど閉まっていたので、自ずと散歩に本気を出すようになっていった。
決定打になったのは、コロナワクチン接種のために東京北医療センターに行ったときだった。それまで西口側は駅の近くしか行ったことがなかった私は、少し離れると公園がたくさんあることを知った。大きくぐるっと回ってみると、赤羽自然観察公園にはほとんど「森」に近い自然保護区域まであるのだった。のちに私は森林セラピーにのめり込むことになるのだが、思えばこのときすでにその種はまかれていたように思う。目的もなく、特に何をするでもなく、ただただ緑の中に佇むのがこんなにも心地よいとはまったく思ってもみなかった。
日々の散歩の時間、毎回それまで入ったことのなかった小道に入り、西口側のいたるところを文字通りくまなく歩き回った。その結果「行きつけの場所」がいくつもできて、人に会わなくても何かと共にあることは可能だと思うようになった。中でも、勝手に「道祖神」と呼んでパワースポット扱いしている物体があり、行き詰まったときには必ず訪れて佇んでいる(団地の広場にあるただの遊具なのだが、周辺の風景とあいまって異界から飛来した何かに見える)。コロナ禍から日常へ戻ったあとも、西口側の散歩は私の習慣として欠かせないものとなっている。
精神科医の中井久夫は、「微視的群れ論」という文章(ちくま学芸文庫『精神科医がものを書くとき』収録)の中で、「それぞれの町によって、自分が変身する、群れの中で自分が変身していく」と書いている。そして、人が町に溶け込むにはその土地固有のリズムや時間、感覚にうまく乗ることが必要だと述べる。
つい昨年ひょんなことからこの文章を読んだ私は、赤羽に引越してくる前の自分と、行きつけの酒場ができて人付き合いを覚えた自分、それから酒をやめて西口側へ向かった自分の変遷に思いを馳せた。一つの駅の東側と西側でさえ町は大きく表情を変え、私もそのときどきによって「変身」しながら生活してきた。はたして赤羽のリズムにうまく乗れているかどうかはわからないが、生まれ故郷でも経験したことのなかった「町への溶け込み」をここでは感じられているのも確かだ。
「二度目の上京で、もし別の町に住んでいたら?」と考えることがたまにある。それはそれでまったく違う「変身」をすることになっていたとは思うが、そのまま引越さずに10年以上住み続けたかどうかは疑わしい。赤羽には、何度でもやり直していいと思えるような懐の深さがある。
著者: 広岡ジョーキ
「サウナ×人」を掘り下げるインタビューZINE『トトノイ人』( https://bccks.jp/store/totonoibito )の編集発行人。デザイン業、韓日文芸翻訳業にも従事。下北沢BONUS TRACKで毎週オープンダイアローグ的対話実践の会( https://bit.ly/3SM6gfd )を開いている。
編集:荒田もも(Huuuu)