「下北太郎」と言われてたけど|文・シャラポア野口

著: シャラポア野口

手荷物二つで東京に来た。さかのぼること2016年の正月、友達の飲み屋のカウンターに立ちながら酔っ払いのおっさんと喋っている。

「お前今年、27歳になるんやろ? 27歳はいろんなロックスターが死んだ年や。カート・コバーン、ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソン、みーんな死んでる。お前も気をつけろよ。今年は確実に、なんかあるからな」

その通りになった。全くお金がないので、自分が所属しているバンドのツアーにかこつけて、京都から引越し。ライブが終われば僕だけ東京に残る、片道切符だ。

それから何年かの居候生活を経て、やっと東京での一人暮らしを計画することになった。

東京という街は、物流の回転が早く、掘り出し物に出合いやすい。拾いに拾った結果、いつの間にか部屋は古本とレコードで溢れていた。そのため、とにかく家賃が安くて、少しでも部屋が広いことを最優先事項に、家を探した。

引越しを手伝ってくれた友人がドン引きするほどの量の本とレコード

ある日、友達から、「5万で2部屋の物件があるぞ!」とのタレコミがあり、何もかもすっ飛ばして内見に向かい、その物件を押さえた。しかし直後、“あること”に気づく。

……え、下北やんここ。

たまに故郷の関西に帰れば、昔の友達との飲み会が楽しみになっている。大抵は僕が東京に行ってしまったことをいじるのが鉄板ネタだ。

「なんやお前、すかしてんな。なんやその青いジャケット!」

「いや、これ、そこの銭湯の前のフリマで買ったやつやねんけどな……」

「お前、ほんまに、下北太郎やな!」

激安物件を探しているうちに、冗談でよく話題にしていた街、下北沢の物件を押さえてしまった。だけどそのときの下北沢はちょうど、何かが大きく変わろうとしていた。

写真右が僕。京都ではずっと、こんな顔のノリで飲んだくれていた気がする

僕が関西にいたころ、下北沢にはライブツアーで時折立ち寄ったが、当時駅前にあった闇市みたいな雑多な場所は、徐々に解体されていき、ついになくなろうとしていた。

線路はいつの間にか地下に潜り、その跡地には何かを企もうとしている工事現場。下北沢の活気とセットだと思っていた踏切の喧騒も、いつの間にか消えていた。下北沢の駅の出入口でさえも、体感1カ月で変わっていく。

コロナ禍真っ只中の引越しだった。自分が働いている場所も、そんな社会情勢の中、部署ごとなくなってしまった。正直、かなり切羽詰まっていた。まさにそんなときに、下北沢にやって来た。

しかしこれ、ほんまに、「下北太郎」になってまうな…。

大変な磁場の「猫町」で、混迷を極める

まだ京都にいたときに、一緒にいた友達が撮った下北沢の写真。四叉路をそれぞれがそれぞれの目的でパラパラと動いているこの場所に、ものすごい磁場を感じた

下北沢には、方向が見通せないところがある。

居候をしているときから、西東京なら結構いろんなところを自転車で走った。昔から地理や方向感覚に自信のある僕は、街から街へと走り回るのが好きだ。しかし、下北沢エリアに入った途端、同じところをグルグル回ってしまう。

幹線道路である環七通りから下北沢方面へ、小道をぬってショートカットしようとする。こちらは確信を持って東へと進んでいるつもりが、実はぐるぐる回っている。その道の出口はなんと、同じ環七。山の奥深くで方角が見通せず、遭難したみたいになってる。

環七はすごい交通量だから脇道に逃げたくなるが、それが迷いのもとに……

住んでから知ったのだが、下北沢は萩原朔太郎の『猫町』の舞台だそうだ。彼もこの街で迷っては、打ちひしがれ、挙げ句の果てに行き交う人々がみな猫に見えてしまう。もしかしたらこれは、かなりリアルな描写かもしれない。

実は僕には、朔太郎が「猫の町」を見るきっかけになったと思われる地点に当てがある。緑道沿いの電波塔のそばに住んでいたとされる朔太郎は、鎌倉通りを進んで駅に向かったのだろう。すると、なんとも複雑なカーブに出会う。

そのカーブは、途中で踏切を挟んで、大きく方向を切り返し、そこそこの勾配で下りながら線路に沿って、また離れる。

一見、なんてことはない風景かもしれない。しかし、この四差路を初めて見たとき、何かゆんゆんとした磁場を感じてしまった。どの方向にも延びようとするこの四差路を朔太郎も歩き、これはもう、相当に狂わされたんじゃないか。

まぁ、そして僕もいろんな意味で、迷いの中にいるわけで……。

変貌する下北沢の街と、その「奥」

駅を出て南へ、茶沢通りを歩く。繁華街を抜け、都市化された今でも昔の貫禄を残している森厳寺を越える。すると、桜並木が続く緑道にぶつかる。僕をかくまってくれているアパートはこの辺りにある。下北沢と三茶のちょうど間にある『淡島』。駅前の様子からは想像できないほど、静かな場所だ。

緑道の小川沿いに生える草や野花は季節のちょっとした変化にも敏感で、2週間も経たない間にまるっきり入れ替わる。春になればツクシを摘んで、咲いてる菜花をちぎって食べた。

そんな草木生い茂る『奥下北沢(淡島)』から、今まさに変わろうとしている下北沢のど真ん中へ、仕事場となるカフェを探すのが日々のルーティンだ。

職場を追われ、それでも生きていくために手を出したフリーランスのライター業。所属先を持たないということは、働く場所を自由に選べるということでもある。

幸いにも、下北には『トロワ・シャンブル』のような洗練されたカフェから『こはぜ珈琲』のようなフランクなコーヒー屋まで、昔ながらの喫茶店がまだまだ残っている。

路地の隙間をジャックしたような『こはぜ珈琲』のオープンカフェ。安いながらとてもしっかりとしたコーヒーが味わえる。もはや家でも、ここの豆を挽いて飲んでます!

下北沢は個人でスコスコと文字を打っていく仕事をしてる身にとって十分自由を謳歌できる場所だ。先は何も見通せないわけだけれども、この街に身を任せて、とにかくなんでもやってみることにしようか。

どうなろうとも、懐の深さは変わらない

時とともに再開発は進み、この街はどんどんと変わっていく。駅前に至っては、どこに闇市があったのかさえ、もうわからなくなっている。

「再開発」というと、かつてあった街の風情が、チェーン店や商業ビルによって上書きされる、みたいなイメージを抱く人も多いと思う。けれど、下北沢では、案外懐の深いまちづくりをしているのではないだろうかと、施設ができるたびに思うようになった。

例えば、駅前から高架下に延びるパサージュのような複合施設、『ミカン下北』。僕はもっぱらここでベトナム、タイから韓国、台湾といった本格アジアン料理を安く、食べに食べ尽くしている。店横の階段には若者がだいたい何人かでウロウロと、安い缶チューハイを飲みながら「待ち合わせ」してる。うーん、ゆるい。こういうたまり場は大好きです。

たまり場といえば、小田急の線路跡に出現した商業施設『ボーナストラック』。このスペースは、「人が集まる」ということの楽しさと意義がしっかりと詰まった場所だ。

昨今の「本=オシャレ」ムーブメントにも配慮しながら、しっかりと愛のある選書に溢れる『B&B』。そして発酵食品の専門店として、コアな食文化を発信し続ける『発酵デパートメント』など、何かしら腹に一物抱えているんじゃないか、というお店ばかりだ。

土日になると、代わる代わるでさまざまなイベントが催されるが、総じて商売っけはあまりない。毎週異なる出店者が集まり、「マーケット」という形をとっかかりに面白い空間が繰り広げられる。

自分もそんなイベントにふらふらと出かけ、うだうだとお酒を飲み、ベロベロに酔っ払い、這っても帰れるぐらいのところを這い転がり、翌日には、そこで出合った方からしっかりと仕事の依頼が来ている。ありがとうございます。

先に紹介した四叉路も、電車が地下に移ったことで、もとの線路が道となり「五差路」に。その新しい道はボーナストラックにつながり、カーブと並走した線路は、若者と親子連れで憩う公園になった。

迷いの街、下北沢で

手荷物二つで東京に向かい、たどり着いた下北沢。

街が変わろうがどうなろうが、相変わらず酒を飲み、ぐだぐだとくだを巻いているつもりでいた。それでも最近は、昔の友達に会うと「なんやお前、顔が変わったな!」と言われることが多くなった。

「なんか、しっかりしたんちゃう?」

「いやいや、いろいろ戸惑って、身構えてるのが顔に出てるだけちゃうか?……まぁ、でもな。実は子どもが近々生まれるねん」

「ああ、そうなんや。ほんま、おめでとう!……しかし、それはもう、よっぽど下北太郎やな!」

迷いの街、下北沢で、僕自身も迷いながらとりあえず歩を進めてみる。

著者:シャラポア野口

ミュージシャン界隈に出没するものの、本人はGコードぐらいしか知らない。しかし弾き語りではその貧弱なボキャブラリーからのヤケクソパフォーマンスで幼児からのモッシュを受けることも。ドラマーとして「風の又サニー」や「さかゆめ」に参加してるときは、思ったより真面目に歌に寄り添っていると意外な顔をされたりする。
Twitter:https://twitter.com/ashiyuu
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編集:日向コイケ(Huuuu)