荒川区西尾久で生まれ育った友人に、小台銀座商店街周辺を案内をしてもらった

著: 玉置 標本

平田(現:新町)悠子さんの経歴は、なかなか波瀾万丈だ。

荒川区西尾久の家に四人きょうだいの末っ子として生まれ、西尾久で高校卒業まで過ごし、ラーメン屋の父が住んでいたフランスのパリに留学して映画を学び、日本に戻って映像制作の仕事に就いたが、その後なぜか佐渡島に渡って、さらに先輩を頼ってミャンマーへと飛び、現地で出会った日本人と結婚して、里帰り出産で実家に戻っている間にクーデーターが起こってしまい、現在は帰国した夫と四歳・一歳の子どもの四人で実家近くの賃貸マンションで暮らしている。

そんな情報量の多い平田さんから、街紹介とはあまり関係ない稀有(けう)な人生体験を聞きつつ、地元である西尾久周辺を、夫の新町さんと共に案内してもらった。

小台銀座商店街を歩く

平日である火曜日の午前10時半、JR田端駅から徒歩で北方へと向かい、平田さんとの待ち合わせ場所である旧小台通りの小台銀座商店街入口に到着。

今も両親が住む平田さんの実家は、この商店街のすぐ近くにあるそうだ。

田端駅から待ち合わせ場所を目指す

線路がいっぱいあってかっこいい。金網越しにスマホで撮影

平田さんに指定された場所は、駅からちょっと離れているし、道はかなり細いし、本当にここは商店街なのかなという場所だった。

だが平田さんが子どもの頃は、とても栄えていたのだという。

小台銀座商店街の南側入口。平日の午前中とはいえ、人出はあまりないようだ

商店街というだけあって、道沿いにある建物のほとんどが、なんらかの店舗になっている


JRの駅からは少し離れた場所にある。©Google

平田悠子さん(以下、平田):「ここが私が生まれ育った西尾久の小台銀座商店街です。実家がすぐ近くなんですよ。

平日の昼前なので人通りが少ないですけど、夕方とか土日だったら、もう少しくらいは賑やかかな。そこまででもないですけど」

――結構シャッターが降りていますね。

平田:「今はまさにシャッター商店街になっちゃったけど、私が子どもの頃は無茶苦茶混みあっていて、自転車で通れないくらい。ものすごい人だったんですよ。

当時は商店街の店に軒並み通っていました。お肉屋さん、お魚屋さん、八百屋さんはもちろん、隣のおばちゃんが誕生日の時はきょうだいで花屋さんに行ったり、サンリオショップで友達へのプレゼントを買ったり。

ここはまさに青春が詰まった場所ですね。初めてのCDもここだし、歯医者にも通ったし。そういえば『DAISUKI!』っていう番組もロケに来たんですよ」

――懐かしい。中山秀征、松本明子、飯島直子が出演していた伝説の番組ですよね。細かい内容は一切記憶にないですけど、雰囲気がものすごく好きでした。CMに入る前、女性が「ダイスキ!」って言うところは憶えています。

平田:「昔はそういうロケも多かったんですけどね。やっぱり継ぐ人がいないのか、だいぶお店がなくなっちゃいました。古本屋、布団屋、豆腐屋、おばあちゃんがすあまを買いに来ていた和菓子屋さんとか。

住まいと店が一緒になっているので、閉店した後も、なかなか店を貸せないんですよね」

人はまだ住んでいるけれど、もう店はやっていないという場所が多いようだ

平田:「住む人もいなくなったのか、取り壊されて、建売住宅になったところも多い。

昔はすぐ近くに大きな工場(昭和ゴム株式会社)があって、そこで働いていた人達が仕事帰りに商店街に寄るっていう流れがあったらしいんだけど、私が生まれた頃(昭和57年)にその工場が無くなって、田端スカイハイツっていう大きなマンションになったんですよ。

新しく住み始めた人が商店街を利用するかと思ったら、そうでもなかったらしくて。それが寂しくなってしまった一要因だと言われています」

――新しく引越してきた人は、商店街を利用するという習慣がなかったんでしょうね。便利なスーパーマーケットも増えてきた頃だろうし。

平田:「でも銭湯とか、美容院とか、中華料理屋とか、もんじゃ焼き屋とか、がんばってやっているところもまだまだたくさんあります。どうせなら、もう少し賑やかな土日に来てもらえばよかったですね。

それに最近は、シャッターが降りていた店を若い人に貸して、商店街を活性化させようみたいな動きもあるんですよ。ラーメン屋とか、ギャラリーとか、飲み屋とか、アクセサリーショップとか、結構いろいろオープンしました。

例えば三角八百屋と呼ばれていた店があった場所は、おぐセンターという食堂になりました。二階がレンタルスペースになっていて、ライブをやったりもしているんですよ。

そこの店長さんとちょっと知り合いなんだけど、地元の人じゃないのに『荒川区っていいよね!』ってこの街を気に入ってくれて、ここを借りてくれたみたいです」

三角八百屋と呼ばれていた八百屋さんの跡地にできたおぐセンター

おぐセンターでおいしいランチをいただいた。床が畳でとてもくつろげる空間だ

西尾久には路面電車が走っている

商店街を抜けた先には大きな交差点があり、当たり前のように路面電車(都電荒川線)が走っていた。小台停留所が目の前にあるのだ。

私は路面電車というものにまったく馴染みがないので、どこか遠くへ、なんなら海外へ旅行に来た気分になってしまう。あるいはドラマの世界のようだ。

路面電車を見ると興奮してしまう

この写真なんてほぼヨーロッパですよ。でもこれが住民にとっては日常の景色

平田:「そんなに珍しいですか。私にとっては都電なんて見慣れた光景なんですけどね。

東は三ノ輪橋、西は早稲田まで走っていて、どこまで乗っても一律料金(大人がICカード168円・現金170円)。三ノ輪橋停留所のちょっと先にある鷲神社の酉の市に行くときとか超便利ですよ」

――地元民にとっては、普通に生活の足なんですね。

平田:「東西に長く走っているから、いろんな路線に乗り換えられます。

そこの小台停留所から東側だと、熊野前停留所から日暮里・舎人ライナー、町屋駅前停留所が千代田線、三ノ輪橋停留所で日比谷線。

西側に行けば、王子駅前停留所で京浜東北線と南北線、新庚申塚停留所からちょっと歩けば三田線、大塚駅前停留所は山手線、東池袋四丁目が有楽町線、鬼子母神前なら副都心線に乗れる」

――すごい。普段使わないので、まったく知りませんでした。

平田:「ちなみに終点の早稲田停留所は、東西線の早稲田駅からちょっと離れているので、そこは気をつけてください」

――いつか都電を使いこなせる大人になれるよう、がんばります。

自動車教習所で習った路面電車用の信号を見つけて感動

荒川区の都電沿いにはバラが約140種、1万3千株も植栽されている

荒川車庫には都電おもいで広場があって、年末年始を除く土日祝に無料で入場できる

様々な路線が走る荒川区・北区は鉄道の町だったのだ

線路が倉庫に引き込まれていてかっこいい

倉庫から道路を横断して本線へと続いている。都電はいろいろなラッピングがあるのですね

たくさんある小さい踏切が全部かわいい

住民が語る荒川区の住みやすさ

――西尾久あたりの住み心地はどうですか。

平田:「いい感じですよ。私にとっては生まれ育った場所だし、今も実家があるっていうのがもちろん大きいですけど、わざわざ他の場所を選ぼうっていう考えは一切なかったですね。

荒川区は子育て支援的なものがしっかりしているし、治安もまあまあいいし。

それに街がコンパクトでいいんですよね。自転車があればだいたい間に合うくらいの規模。交通手段が豊富にあるから、どこに出かけるのにも困らないし」

――ほとんど初めて訪れたところですけど、確かに住みやすそうな街だと思いました。

平田:「どこも住めば都だとは思いますけど、荒川区の中でも、特に西尾久あたりは暮らしやすいんじゃないかな。子どもを遊ばせる場所がたくさんあるから、特に子育てしている人とかは。

きれいな図書館はできたし、公園はたくさんあるし、荒川じゃないけど川はあるし、東京で唯一の区営遊園地まである」

――最高じゃないですか。気軽に行ける遊園地があるっていうのは魅力的ですね。

川があったので荒川区だけに荒川かと思いきや、現在は川の名前が変わって隅田川とのこと。なんと荒川区には荒川が流れていないのである。土手にバッタのために草刈りをしない草地があった

新町智哉さん(以下、新町) :「私は出身が兵庫県明石市で、ミャンマーに行く前は新宿区とかに住んでいました。まだこっちに来て半年くらいですけど、落ち着いた感じがありますよね。

遊びたいなら新宿や渋谷に近い街がいいんでしょうけど、住むだけならこっちの方がいいかな。他所から来た人間なので、よく言われる東京都内のどの区がおしゃれみたいな、区ごとの上下関係とかは関係ないので」

――街になにを求めるかですよね。

地域コミュニティの場である尾久ふれあい館のリサイクル会で、チャイルドシートを譲り受けたそうだ

平田:「さっき通った商店街もまだまだ元気な店がたくさんあるし、スーパーも大手からローカルまで揃っている。だから、野菜はここ、肉はここ、魚はここって、買う店を決めて自転車でハシゴしています。

町屋あたりほどワイワイしていないし、荒川区じゃないけど谷根千みたいに観光地化もされていない。そういう意味では、最後の砦じゃないですけど、昔ながらの下町っていう感じの場所だと思う」

――なるほど。この街の雰囲気の源がわかってきた気がします。

平田:「下町なんで子どもを連れて歩いていると、結構話しかけられます。その辺はミャンマーみたいだけど、ミャンマーだと子どもを触ってきますからね」

ネットが速いしパン屋もあるし勉強する場所もあるので、老若男女が利用するという尾久図書館

図書館に隣接する宮前公園。「ローラー滑り台をぜひ体験してください!」と言われたが、残念ながら修理中だった

平田:「ご近所さんとの距離感も、私にとってはちょうどいい。実家だと、お隣に味噌の貸し借りするのが当然で、私が小さい頃なんか、隣のおばちゃんがよく家に来て、缶ピースを吸いながら何時間も井戸端会議をするっていうのが日常でした。

私もしょっちゅうその家で晩御飯を食べさせてもらっていましたね。週の半分くらい行っていたかも」

――昭和のドラマそのままの世界だ。もちろん荒川区でも、ちょっと特別な例だとは思いますが。

平田:「古くから住んでいる人が多いので、そういう部分で安心感はあるかな。かといって、新しい人に冷たいとかはない。

私たち家族が今住んでいるところも、ご近所さんとは仲良しですよ。お隣さんは家庭菜園をやっていて、私もやりたいっていったら、土とか鉢を用意してくれたり、これが育てやすいぞって苗をくれたり」

――それはここの土地柄というより、平田さんの人柄のような気もしますけど。

西尾久散歩

以下、案内してもらった場所をダイジェストでどうぞ。

隅田川を渡って足立区へと向かう日暮里・舎人ライナー。昔ながらの路面電車もあれば、最新の案内軌条式鉄道も走っているのだ

区営の遊園地、あらかわ遊園にやってきた。でもこの日は火曜日で休園日だったので外から景色として眺めるだけ

あらかわ遊園子どもプールが去年営業終了したことを知ってショックを受ける平田さん

荒川遊園地通りには子どもが喜びそうな店が並んでいるが、閉店してしまったところも多い。土日なら営業している店もいくつかあるはず

停留所からあらかわ遊園へと続く道は、イルミネーションがとてもきれいなので、たまに子どもと遊びに来るそうだ

ミールスという南インドの野菜定食がおいしいなんどり

たまたま通りがかった路地の先で、堂島ロールが直売していたので購入

公園の名前は誰も正式名称で呼ばないそうで、ここはイルカがいるからイルカ公園と呼ばれているとか

ラムネ工場(現在はスーパーのオリンピック西尾久店が建っている)の前にあったのでラムネ公園と呼ばれていた場所。今でもそう呼ばれているかは謎

JRの宇都宮線・高崎線が停車するJR尾久駅

駅前にあるトイレが『OKU』の文字になっていてかっこいい

尾久の読み方は、「おく」だったり「おぐ」だったりする

フランス、佐渡島、ミャンマーの話

最後に余談となるが、西尾久で生まれ育った平田さんの歴史が大変興味深かったので、せっかくなので記録しておく。

――平田さんってフランスに住んでいたことがあるんですか。

平田:「父がフランスのパリでラーメン屋をやっていたんですよ。『LAMEN HIGUMA』っていう」

――ヒグマ!

平田:「そもそもは叔父が始めた店で、そこに私が小学校に上がる前くらいから父が手伝いにいって。パリでは一番古いラーメン屋さんで、ヨーロッパでも相当古い方だと思います。

現地の小麦粉を生かした自家製麺の店で、カツ丼、焼きそば、餃子、天婦羅、なんでもあります。

――すごい。

平田:「そんな父親を追った訳でもないんですけど、高校を卒業してすぐ私もフランスに渡って、まず二年間語学学校でフランス語を学んで、現地の大学を受験して、パリ第八大学(Université Paris 8)で映画の勉強をしていました。父のラーメン屋でバイトをしながら。

さらに修士課程に進んで、そこは中退になっちゃったんですけど、合計8年間住んでいましたね。

日本に戻ってきてからは、ドラマや映画の制作部で一年、助監督を三年ほどやっていました。でもそれが結構大変で」

――助監督は厳しい世界と聞きますね。しかも当時の労働環境とか労働時間は、今とはまた違うだろうし。

平田:「なんだか疲れちゃって、もっといろんなものを吸収したいと思って、佐渡島に行きました。玉置さんと知り合ったのも佐渡ですよね」

――そうですけど、なんでまた佐渡島へ。

平田:「仲良くしてくれていた姉の友人が孫ターンで佐渡に住んでいて、二回くらい遊びに行ったことがあったんですよ。

その流れで佐渡に住んでみたんですけど、私は田舎というものがどういうものかわかっていなくて。住み始めたら田舎過ぎて笑いました」

――観光でちょっと行くのと、住むのはだいぶ違いますよね。しかも住んでいたのって、耕さんのドーナツ屋(『山間部の集落で一日にドーナツ100個を売ることから始める、シンプルな田舎暮らしが生み出した小さな地域活性化』参照)があるあたりですよね。そこでなにをして暮らしていたんですか。

平田:「柿もぎのアルバイトとか、無農薬のお米作りとか。あとは村の祭りに混ぜてもらって太鼓を叩いたり」

――最高のインプット期間だ。

この秋に私が訪れた佐渡島の柿畑

平田:「当時の佐渡には映画館が一軒もなかったので、クアテルメ佐渡っていう温泉の広間を借りて、毎月上映会をしたり。私が映画の前説をするんですよ。

結局一年半いたのかな。佐渡での生活はすごく良くて、このままずっといられるなと思ったんですけど、お金もなくなってきたし、次の刺激を求めてミャンマーへ行くことにしました」

――フランス、佐渡、そしてミャンマーですか。

突然のミャンマー。写真提供:新町智哉

平田:「次はアジアに行きたいなーと思っていて。タイや韓国は行ったことがあったけど、もっと東南アジアをよく知りたい。

日暮里にサルーっていうサルサが踊れるラテン酒場があって、高校の先輩で5歳上のおねえさんが、そこのヤンゴン支店で働いていたんです」

――ミャンマーに日本人経営のラテン酒場があるんだ。

平田:「SNSでその暮らしぶりを見ていて、その先輩に『行ってもいいですか?』って聞いたら、いいよって。

三カ月くらい実家に住んでバイトをして渡航費を作って、それでも足りなかったから兄にお金を借りて、一度も行ったことのないミャンマーに住み着いて。

サルーでバイトをしつつ、日本の汽船会社の駐在所の所長さんに気に入られて秘書みたいなことをやったり、自主制作映画を作って現地の映画祭に出したり、いろいろやっていましたね」

――生活適応力がすごい。

ミャンマーの国民食であるナマズ麺をテーマにした料理コメディ「一杯のモヒンガー」。脚本は平田さん、プロデューサーは後に夫となる新町さん。荒削りながら引き込まれる作品だった

第二作目はロックバンドの青春物語で、こちらは平田さんが監督も担当したそうだ。映像はもちろん、挿入歌がすごくよかった

撮影に立ち会う平田さん。写真提供:新町智哉

平田:「当時は民主化されたばかりでワイワイしていて、すごい楽しかったです。外資がワーって入ってきて、なんだか盛り上がっていた。

ミャンマーでなにかをやるって本当に大変なんですけど、その大変さをおもしろがれる人が当時はいっぱいいた。フランスで出会う日本人とは全然違うタイプの人。毎日楽しかったですね」

――旦那さんとは、現地で知り合って結婚したんですよね。

新町 :「ミャンマーが2011年に民主化されて、当時は東南アジアの不動産投資が流行っていたので、次はミャンマーだと日本からもたくさんの人が行っていたんですよ。

私も2014年にその関係で渡ったんですが、もうその頃になると投資系の話はダメになっていて。関連会社の一つにエンタメ系の会社があったので、それを引き継ぎました。

ミャンマーにも芸能人はいるんですが、大手の芸能事務所がなかったので、そういうのを作っていこうと。新人を育てるための俳優養成所を立ち上げたり、モデルとかダンサーをバックアップしたり」

――ミャンマーで芸能事務所ですか。ところでミャンマーってどんな国なんですか。

平田:「一言でいうと、多様性だよね」

新町:「うちの会社にミャンマー人が20人くらいいたけれど、南北に長い国だから、みんな肌の色も違うし宗教も違う。民族も136あると言われている」

――ミャンマーといっても、いろいろな人がいるんですね。

コロナ禍の首都ヤンゴン。写真提供:新町智哉

新町:「それで人間が無邪気。良いことも悪いことも。一緒に仕事をしようとすると本当に大変ですよ。もちろん卓越した能力の方もいらっしゃるんですけど、田舎からヤンゴンに仕事を求めてきている人とかだと、そこから教えなきゃいけないのっていうことも多い」

平田:「そういう笑える話はいっぱいあるよね。それの繰り返し。映画のオーディションで受かった子が撮影に来なくて、電話をしたら田舎のおばあちゃんの家にいたり。

でも大半は敬虔(けいけん)な仏教徒なんで、困っていたら助けてくれるし、自分たちが食べるものがなかったとしてもごはんをくれる。外国人だろうと助けてくれる。

あと子どもが超好き。子どもに対する愛情がすごいね」

――向こうの食事はどうでした。

平田:「私は好きです。ンガピっていう魚を発酵させた味噌みたいなのがあって、野菜をつけて食べるんですけど、これがキッツい。でも癖になる。

ただ駐在員が現地で食事をして、お腹を壊したっていう話はよく聞きましたね。私は一回も下したことがないですけど」

新町:「民族によって料理も全然違って、シャン族の料理が日本人には合うって言われています」

ミャンマーでの食事風景。ベースがごはんとおかずの組み合わせなので、日本人にも合いそうだ。写真提供:新町智哉

――いつ日本に帰ってきたんですか。

平田:「私はミャンマーに4年弱いたのかな。コロナ禍のときに妊娠をして、それで4年前の4月、私だけ里帰り出産のために日本へ一旦帰ったんですよ。

6月に子どもを無事産んで、コロナが落ち着いたら戻るつもりだったんだけど、まさかのクーデターが起きて、帰れるような状態ではなくなってしまった」

新町:「だから私は、その子が2歳の時に一時帰国するまではビデオ通話だけで一度も会えなかった。

あとは向こうの家はマンションの五階だったんですけど、デモ弾圧のための催涙弾を軍が部屋に撃ってきて、そのニュース映像が日本のテレビに流れたので、それを観てもらったくらい」

平田:「そうそう。子どもにテレビを見せながら、あれがお父さんだよって」

――催涙弾ってリアルガチでやばいやつじゃないですか。日本に住んでいると、クーデターがどんなものなのか、まったくピンときません。

新町:「向こうでもピンとはこなかったですよ。起こっていることが現実かどうかもわからない。でも夜は毎晩のように銃声とか爆発音がする。20時以降は外出するな、撃たれても文句は言えないぞって。本物の銃声は違いますよ」

――そんな状態でも、すぐには帰国しなかったんですね。家族が日本にいるのに。

新町:「ミャンマーの人も、ここは危ないから早く日本に帰れって言ってくれるんですけど、コロナの頃から次々と帰国する人を見送る彼らの目が、なんだか寂しそうなのをずっと見ていて。自分と関わっている人のために、少しでもできることがまだあるなら、できるだけ残りたいという思いはありましたね。

まだミャンマーでやりたいことがたくさんあるのですが、一旦仕事を整理させてもらって、2024年の5月に帰国しました」

新町さんと現地の方。写真提供:新町智哉

――久しぶりの日本はどうですか。

平田:「日本はやっぱり最高ですよ、マジで。向こうは空気も水も悪いから、めちゃくちゃ肌荒れしちゃって。日本に来たらすぐ治りました」

――まさに肌が合わなかったんだ。

平田:「すごく楽しかったんですけど、向こうはなにをやるにも大変でした。これまでインフラの整っていない国に住んだことがなかったので。

エアコンを取り付けるのにも一日じゃ終わらなくて、平気で何カ月も掛かったりするんですよ。ある意味、生命力を養われましたね。

日本の政治や社会には言いたいこともたくさんありますけど、こんなに幸せな国はないですよ。実家近くのパン屋で一緒に働いていたフランス人も、みんな日本が大好き。ごはんはおいしい、人は優しい、道はきれいって、すごく褒めてくれます」

――今後はしばらく日本にいるんですか。

平田:「私はフランスから来日した観光客の旅行ガイドを始めました。明治神宮、竹下通り、渋谷、上野、浅草あたりを案内するのですが、もっとコアに西尾久あたりを紹介できたらおもしろいかなと検討中です。

フランス人って河原とかを喜ぶんですよ。漫画とかアニメに出てくるらしくて」

――いいですね。ぜひ今日案内してもらったコースをフランス人と歩いてもらいたいです。

新町:「日本はミャンマー人がすごく増えているんですよ。2020年は約3万5千人だったのが、2023年には8万人以上になった。だから、ミャンマー人向けのサービスやビジネスを作るのもおもしろいよねって話をしています。

この辺もミャンマー人が多いんですよ。私たちは話し声とか格好で、すぐミャンマー人がわかるので」

 

こうして平田さんに荒川区の西尾久というエリアを案内してもらい、その街の良さがよくわかったのだが、それと同時に、平田さんみたいな生きる強さを持った人であれば、どんな街でも魅力を見つけて、そこでの暮らしを楽しめるのだろうなとも思った。

毎日を笑って生きるためには、「好きな町に住む」のと同じくらい、「住んだ町を好きになる」ことも大切なのだと学ばせてもらった一日だった。

【いろんな街で捕まえて食べる】 過去の記事 

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著者:玉置 標本

玉置標本

趣味は食材の採取とそれを使った冒険スペクタクル料理。週に一度はなにかを捕まえて食べるようにしている。最近は古い家庭用製麺機を使った麺づくりが趣味。同人誌『芸能一座と行くイタリア(ナポリ&ペルージャ)25泊29日の旅日記』、『伊勢うどんってなんですか?』、『出張ビジホ料理録』、『作ろう!南インドの定食ミールス』頒布中。

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