都内「区境」での暮らしは飽きることがない【杉並〜中野〜渋谷】

著: 森原優 

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招かれた客人のように笹塚に住む

「大学に入ったのだから勉強を頑張りなさい」。厳格な祖父の言葉に従い、勉強というか研究に没頭しすぎてしまった結果、私は西日本にある母校を休学という形で離れ、東京の研究機関にしばらく勤めていた。

当然、卒業は後ろ倒しになり、人より少し遅れて社会に出ることになった。大学の同期はとうに就職しており、「勉強を頑張りなさい」と言っていた祖父が、この後のくだりで多少怒りに打ち震えたと噂に聞いたが、私は二つ下の弟と「社会人同期」になった。

東京にいるあいだ、研究で何度か接したマスコミの世界に魅力を感じた私は、そのまま何も考えることなく“煌びやかな”マスコミ業界に入ることを決めた。会社は渋谷にあり、最初の数カ月は笹塚にある研修用のマンションに転がり込むことになった。そうして私は、笹塚という街に、招かれた客人のような態度で住み始めた。

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笹塚駅の乗降客数は近隣の駅と比べてもかなり多い。商店街が活気づいているのもその理由が大きいのではないか(参照:笹塚駅の乗降客数) 

研修期間が終わると、住む街を自由に選ぶことができる。私は、渋谷区でありながら下町の風情を十二分に感じられる笹塚の「十号通り商店街」に魅力を感じていたし、京王線・京王新線を有しており、渋谷や新宿、中野行きのバスが走っていることも便利だなと考えていた。京王バスの普通運賃は大人が210円均一で前払い。地方出身者でも焦ることなく乗車できる。ほかにも数多くの食事処や医療機関、紀伊國屋書店、サミットやライフ、クイーンズ伊勢丹などスーパーもいくつかあり、そのインフラの素晴らしさに感嘆するばかりであったので、そのままこの街に残ることに決めた。

紛れもなく中野区民だった私

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住宅街なので親子連れの憩いの場として公園がいくつもある。調べてみると徒歩8分圏内に6つの公園があった。小さいが、ジャングルジム併設の「中野区立八島公園」や規模の大きな「中野区立南台公園」などがある

私は高揚した気分が鎮火してしまうのを恐れ、すぐに笹塚の不動産会社に向かった。「この付近に住みたいのですが」と相談すると、書類の束の中からいくつかの選択肢を提示してくれた。そのなかで一番いい物件は、駅からは徒歩15分程度しか離れておらず、近くにコンビニもドラッグストアもクリーニング屋さんもスーパーも公園もホームセンターもピザハットもある静かな住宅街だった。その街は私の希望をすべて満たしており、不動産会社の方の「終電を逃しても、新宿から歩いて1時間もかかりません」「タクシーでも1,500円くらいです」という言葉が決め手となって賃貸契約を結んだ。

新築ではないが、庭があり、部屋も広く、バス・トイレはセパレート。そのうえ、大学時代に住んでいたマンションよりも家賃が安かったため、東京にもこのように素晴らしい物件があるものなのかと驚いた。

引越しの業者さんによって、大量のレコードや約3000冊の本、服、ゲームほか、日常生活に必要なものが運び込まれ、ようやく落ち着いたその日の夜。近くに何があるのかを調べようとスマホのGoogleマップを起動したところ、私の住まいは渋谷区ではなく、中野区にあることに気付いた。

さらに、最寄駅は笹塚のみだと思っていたが、徒歩8分圏内に方南町駅(杉並区)があった。思い返せば、物件紹介の段階で渡された紙にいろいろと書いてあった気がするのだが、「この街に住むことができる」と興奮していた私は上の空で記憶がない。改めて不動産会社から渡された書類を眺めてみると、私は紛れもなく、中野区民(になる予定)だった。

中野区の最南部「南台」と神田川

多くの人が思い浮かべる「中野」といえば、JR中野駅の近辺であり、有名な中野ブロードウェイや中野サンプラザ、明治大学などがある「あの中野」であるが、JR中野駅を中心に区切れば、北と南に分けられる。

北部は西武新宿線や都営大江戸線(南でも中野坂上駅から乗ることができる)が走り、新宿区や豊島区、練馬区、杉並区と近接している。街でいうと沼袋や野方、新井、江古田などがある。

一方、私の住む南部は、北側ほど面積が大きくないものの、芸能人が通うことで知られている堀越高校や、女子美の付属、東京工芸大学といった教育機関など、とにかく学校が多いという印象がある(※あくまで印象です)。

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タクシーで移動する際「南台交差点を越えますか?(越えて真っ直ぐ進みますか? の意)」とよく言われるので、目印の一つになっているらしい。「南台交差点」というバス停もある

中野通りと方南通りが交差する「南台交差点」の近くには、南部すこやか福祉センター・南中野地域事務所に併設されている「南部スポーツ・コミュニティプラザ」があり、中野区民なら体育館やプール、多目的ルームやトレーニングルームを格安で利用できる。特に個人利用の場合、トレーニングルームは大人(高校生以上)2時間200円、プールは2時間400円だ。何たる安さ。

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そろそろ桜のシーズンを迎える「神田川 四季の道」。神田川の静かな水音に耳を傾けながら、桜を横目にジョギングするのはとても気持ちがいい

また、この街には神田川が流れているため、「神田川 四季の道」と呼ばれる散歩道は春になるとジョギングをしている人たちが多く見られる。私も例に漏れず歩くのだが、対岸の桜に見惚れながらゆっくりと、街の醸し出す「風情」や「匂い」なるものを感じ取ることができる。

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自宅の近所。道路の右手には神田川が流れている。この近辺には、ホームセンター「島忠」、サミット、マツモトキヨシ、ミニストップ、ローソン、洋服の青山などなんでもある。最近スシローがオープンし、長蛇の列ができていた

そういえば、我が家の近くにも神田川が流れている。暖かい日は川沿いにベンチを置いて、水流の音を聞きながら読書をするのが楽しみの一つだ。私が住んでいるのはこの中野区の最南部にある、その名の通り「南台」という街である。ちなみに、最寄りに「中野」という名がつく駅はないので、本当に中野が遠い。

笹塚と方南町、それぞれの街で暮らすということ

7年以上同じ家に住んでいながらも、いまだに自分がどこ(の区に)に属しているのかを忘れてしまうことがあるのだが、それくらい、私の住んでいる家から見れば、中野区・渋谷区・杉並区の区境(境界)は曖昧だ。3分歩けば渋谷区、5分歩けば杉並区、家に帰れば中野区、である。

ふと、昔大学の講義で聴いたあるワードを思い出した。社会学という学問には「マージナル・マン」(境界人)という言葉があり、文化の異なる複数の社会(集団)に属しながら、そのいずれにも完全に所属しきれない者のことを指すらしいのだが、「これは、私のことだ」と思った。中野区民でありながらどの街にも完全に属しきれていない。しかしながら、住み始めてからずっと、私はこのマージナル・マンとしての生活を楽しんでいる。3つの区を自由自在に渡り歩くことができ、それぞれの良さを享受できる環境に、とても満足しているのである。

休日。朝起きてシャワーを浴び、庭で育てている花に水をやって、その後に洗濯を済ませてからクリーニング屋さんに衣類を預けに行き、私の1日は始まる。

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笹塚に来て、初めて連れて行ってもらったお店がこの「メゾン・ブルトンヌ・ガレット屋」だった。ガレットと一緒に頼むならワインもいいが、シードルもおすすめ

ある日は、十号坂商店街にある「メゾン・ブルトンヌ・ガレット屋」で、ランチの定番メニュー「ガレットコンプレット」(卵の目玉焼き、自家製ハム、グリュイエールチーズのガレット)を食べることもあれば、ドラマや映画などの撮影でたびたび登場する「福寿」でラーメンを食べることもある。

以前、タクシーで自宅に向かっているときだ。運転手さんが突然「福寿、まだ空いていますかね? お送りした後で行ってみます。あの昔ながらの味が忘れられなくて」と言っていたのが印象的で、お店はどうやら閉店していたようだったが、また別の日に赴いたのは想像に難くない。恐るべき福寿の引力。

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福寿の店内に入ってみると「あの作品で観た」ことのある景色を見ることができる。御品書きに記載されているのは、ラーメンとワンタンのみ。私は500円のラーメンや、510円のワンタンをオーダーすることが多い。価格は15年以上、据え置きとのこと

十号坂商店街を上っていくと、水道道路(正式名称は「東京都道431号角筈和泉町線」)に突き当たる。そのまま東に歩を進めると、創業50年を超えるイタリアン・レストランの名店「キャンティ本店」がある。名物料理の「ソフトシェルクラブの唐揚げ」はもちろんのこと、私が愛してやまない「ウニマルゲリータ」は一度食べれば舌鼓を打つほどで、一生忘れることのない出合いになるだろう。

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キャンティは看板横の大きな蟹が目印。さらに水道道路沿いには、インド料理の「アジアンダイニング&バー バラト」がある

水道道路を渡った先にある十号通り商店街では、「茶日」(残念ながら現在は閉業)というカフェに入り浸り、コーヒーを飲みながら仕事をすることもあれば、近所に住んでいた友人とお茶をすることもあった。当時勤めていた会社の偉い人に怒られたこともあったし、仕事の打ち合わせをすることもあった。閉業のショックは言語化できないので、ここでは書かない。あれほど素敵なカフェに、生きているうちに巡り合えるのだろうか。

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十号通り商店街近くにあって住民から愛されている銭湯「栄湯」。仕事が忙しすぎて家に帰る暇がないときは栄湯に行ってからそのまま職場に向かった。遠い昔の思い出話だ

ほかにも、広島風お好み焼きが食べられる「鉄板ベイビー 笹塚店」は生まれ故郷を思い出させてくれるし、2018年にオープンした「大衆酒場KoKoRo」は笹塚で一番の居酒屋だと思っている。締めのオムライスが絶品で(現在はメニューに表記されていないがお願いするとつくってもらえる)、コロナ禍以前に職場の同僚と行った際、美味しさのあまり彼らは言葉が出ていなかった。

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焼肉屋など中小商店が並ぶ通りに「竹花」もある。営業時間はホームページを要確認

笹塚駅周辺の一押しは……「笹塚ボウル」や「焼肉 もーとん」など挙げればきりがないものの、個人的に推したいのは「JAZZ BAR 竹花」だ。私にとって初めてのジャズバーは2014年、上司に連れられて入ったこのお店であり、その後、都内のジャズバーに通うようになったのは「竹花」で聴いた生演奏に心打たれたからである。特に現在、日本のジャズ・シーンで注目を集めているアルトサックス奏者、中島朱葉の表現力は当時から圧巻だった。8年前の竹花で、このプレイヤーと出会えたのは私にとって大きな財産だ。

そうそう、笹塚駅から南に向かえば、徒歩で20分もかからずに下北沢に行くことができる。自転車なら10分もかからない。ここにも素晴らしき利便性があるのだ。

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「秀文堂」は文具専門店と書店とがある。文具店は品ぞろえがいいのでノート類はいつもここで購入している。商店街のお店としては規模の大きな書店は1階に雑誌や書籍、新書、2階では絵本やライトノベル、漫画が販売されている。閉店時間が遅いので使い勝手がとてもよい

また別の日には、丸ノ内線の始発駅がある杉並区方南町まで歩いて行き、方南銀座商店街の方南中央通りにある個人経営の書店「秀文堂」で本を購入し、駅に向かうときもあれば、「リトルマーメイド方南町店」でパニーニや、塩バターバーガーを買って自宅で食べることもある。焼きたてのパンが次々と運ばれてくるので、そのなかにクリームパンがあれば必ず買うようにしている。あのホクホクのクリームパンの熱心なリピーターは私である。

夜は、近所に住んでいる仕事仲間とその日の仕事の打ち上げで、居酒屋「おふくろの味かわちゃん」(現在は閉業)のカウンターでハイボールを飲みながら、あるいは「串カツ田中 方南町店」で熱々のアスパラを食べながら仕事談義を交わすこともあれば、反省会をすることもよくあった。近場のスナックでお酒を飲みながら気兼ねなく話す、という日もよくあった。店内の別席でお酒を飲んでいた老年の客と笑い合ったあの日々が懐かしい。

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「東京のへそ」こと大宮八幡宮。東京都23区内とは思えないくらい木々や緑に囲まれている。森林浴もできそうだ 

私は散歩を日課としており、北は高円寺まで行くこともあれば、東は新宿まで行くこともある。東京都道318号環状七号を越え、さらに方南町駅を越えて方南通りを西に進んでいくと、約1000年の歴史を持つ「大宮八幡宮」まで辿り着く(創建したのは、河内源氏2代目棟梁だった源頼義)。東京の重心にあるため「東京のへそ」とも呼ばれているこの神社が、都内でも有数のパワースポットだということを最近になって知った。戌の日の安産祈願、縁結び、厄除開運にご利益があるようだ。

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大宮八幡宮からほど近い「和田堀公園」。こちらも緑が多い場所にある。写真撮影に行った日はちょうど子どもたちがサッカーの試合をしていた

近隣には「和田堀調節池 壁打ち庭球練習場」という、テニスの壁打ちができるスポットや、屋外にある和田堀公園プール、陸上競技場、テニスコート、サッカー・野球のグラウンドなど、スポーツのできる環境が完備されていて、私は夏になると壁打ち庭球練習場や和田堀公園プールを活用している。壁打ち庭球練習場は杉並区民でないのにもかかわらず無料、プールも2時間500円(杉並区民なら半額)と格安だ。

街の持つ引力に吸い寄せられて

中野区の最南部には何があるのか。以上がその答えのごくごく私的な一部であり、しかし、長年住んでいる私ですら、発見したスポットはほんの僅かにすぎない。だから、「もう少しここにいなさい」という「街の持つ引力」を感じるのも、気のせいではあるまい。

事実、4年ほど前に職場へのアクセスを考えて目黒区への引越しを検討していたタイミングで、長年煩わしいと感じていた丸ノ内線の「中野坂上での乗り換え」が、終点池袋駅までの直通便の完成によってクリアされた(すべての便が直通便になったわけではないものの)。それに、自転車があれば住まずとも目黒区や世田谷区ならば行き来できてしまうし、タクシーでもそんなにお金はかからないので、わざわざ引越す理由がないのだ。

住民票のうえでは、確かに私は中野区民であることに間違いはないが、右を向けば渋谷区笹塚があり、左を向けば杉並区方南町がある。これほどまでに恩恵を受けることのできる街が、ほかにいくつあるだろうか。

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令和元年、中野区弥生町(南台の隣)に開園した「中野区立広町みらい公園」。方南町駅からも近い。休日になると家族連れでにぎわっている

休日、家のドアを開けて考える。今日は中野を散歩しようか。それとも笹塚に行こうか。あるいは方南町に向かおうか。いや待て、自転車で方南通りを駆け抜けて、30分で新宿に行くのも悪くない。下北もすぐだ。

中野区の最南部だからこそできるこの選択は、昨日も今日も、明日も明後日も、私を飽きさせることはないだろう。だからおそらく、予想もつかない出来事が起きない限り、この街にずっとい続けるつもりだ。私の所属は中野であり、渋谷であり、杉並であって、どこも(気持ちのうえでは中野ですら)片足しか浸かってはいないが、それでいいのだ。これ以上過ごしやすい街をほかで探すのは、たいそう骨の折れる作業になるだろうから。

著者:森原優

森原優

西日本出身。データアナリスト/データサイエンティスト。趣味はレコード収集と登山、宅録、サーフィン、自作PC。

 


※記事公開時、「下北沢」の方角の説明に誤りがありました。3月25日(金)8:00ごろ修正しました。ご指摘ありがとうございました。

撮影:池田礼

編集:岡本尚之