23歳、千駄ヶ谷。初めての東京生活を支えた“気”の良い街|文・阿部栞

著: 阿部栞
「東京で初めて住む場所が千駄ヶ谷なんてかっこいいね。そこは東京を知り尽くした人が最後に選ぶ街だよ」

上京したての23歳、新卒1年目だった私は、二回りほど歳が離れているだろう男性の言葉にピンと来ず、「そうなんですかぁ」と適当に返事をした記憶がある。

生まれ故郷である宮城県・利府町から就職を機に上京し、初めての一人暮らしで住んだ街は千駄ヶ谷だった。入社した会社のオフィスが千駄ヶ谷にあり、近所なら家賃補助が出るという理由で、どこの街とも比較検討せずに決めた。

宮城の山の上から、いきなり渋谷にも新宿にも徒歩で行けるような場所に住む人間になれるなんて。ミーハー心を募らせて住み始めたが、千駄ヶ谷は想像していた「大都会」とは違っていた。

「都会は空気が汚い・緑が少ない・治安が悪い」と故郷の大人たちは声をそろえて言っていた。けれど、ここは新宿御苑や明治神宮の大自然と明るく澄んだ空気で満たされている。喧騒に囲まれているのに、ここだけが突然シンした静けさに包まれているのだ。

千駄ヶ谷1年目の私は、煌びやかな飲み屋街や大きな商業ビルなど「都会っぽいもの」がないことに少し残念な気持ちさえもち、「東京を知り尽くした人が最後に選ぶ街」の言葉にあまり共感できずにいた。

しかし、1年、2年と住めば住むほど千駄ヶ谷の魅力を実感し、最終的にはここ以上の街を見つけることができないまま...... 私は新卒から7年もの年月を千駄ヶ谷で過ごすこととなったのである。

徒歩圏内には新宿御苑を中心とした四季折々の風景が

宮城の実家は、目の前に山があり、休日になるとよく父が山菜を採ってきてくれた。夕飯に採れたての山菜で天ぷらを食べるような、自然が生活の一部に存在する日々を過ごしていた。そんな私を、都会なのに広大な緑地に溢れる千駄ヶ谷はスッと受け入れてくれた気がする。

千駄ヶ谷には新宿御苑がある。この広大で美しい国民公園の存在は、千駄ヶ谷を離れることができなかった大きな理由の一つとして大きい。ここがとにかく美しくいつ来ても多幸感に溢れるパワースポットなのだ。一歩踏み込めば都会のど真ん中にいることを忘れてしまうほど、どこを見渡しても花や木々に溢れる風景で視界がいっぱいになる。

特に春は、お花見目的の観光客で溢れ返る。しかし千駄ヶ谷住民必携の年間パスポート(たった2000円で買え、4回行けば元が取れる破格の値段である)があればお花見のシーズンも新宿御苑に行き放題。友達と桜を見ながらピクニックをしたり、御苑内のスターバックスからコーヒー片手に桜を1人で眺めたりして、しみじみと幸せを感じる時間が好きだった。

春以外にも、千駄ヶ谷には季節を感じる風景やイベントが多い。夏は「神宮外苑花火大会」があり、毎年のように浴衣の着付けとヘアセットを予約して浮き足立ちながら外苑前を歩いた。秋は千駄ヶ谷駅前の銀杏並木が圧巻だ。ふかふかの銀杏の絨毯を歩くことは、毎年の小さな楽しみだ。


東京っぽい場所が大体30分圏内の便利さ

初めての東京一人暮らしで、生活するだけでこんなにもお金がかかることを知った。家賃に光熱費に飲食費、新卒の給料では手元に大して残らない。そんななけなしのお金を使って、仕事を19時に終わらせた金曜日の夜に同期と外に繰り出し、「今日はタクシー乗っちゃう?」と乗り込む夜がキラキラとした思い出として強く残っている。

千駄ヶ谷を語るのに圧倒的な立地・交通の便の良さは欠かせない。タクシーに飛び乗れば、渋谷、表参道、代々木上原にだってすぐに行けてしまう距離だ。

使える路線は3つもある。JR総武線 千駄ケ谷駅、大江戸線 国立競技場駅、東京メトロ副都心線 北参道駅。渋谷・新宿・六本木に2駅で着いてしまうのだ。都心エリアの大体の場所は30分以内で行ける便利さに慣れてしまっては、なかなか引越しを考えることができなかった。

また、千駄ヶ谷から少し歩けば青山や明治神宮などのおしゃれなお店が立ち並ぶエリアにも行ける。天気の良い土日は足を延ばして、国立競技場方面の緑を眺めながらそちらまでランニングしたり、「ロンハーマンカフェ」まで歩いて少しお値段の張るサラダを食べたり。少し背伸びして、私が思う「おしゃれで優雅な東京の土日」を過ごす度に私のミーハー心が恥ずかしいくらいに満たされていくのを感じるのだった。

気取ってないけどハイセンスなグルメスポットたち

初めての東京と社会人生活は、毎日が目まぐるしく過ぎていった。

私は、誰も上京しないような東北の地方国立大の文学部を卒業し、周りが公務員や銀行員になっていく中でひとりITベンチャーに就職を決めた。学生時代の友人がほぼいない状態での新生活の始まりだったため、さまざまな人間関係がここ千駄ヶ谷でゼロから紡がれていくことになった。千駄ヶ谷で人と過ごした時間を振り返ると、その思い出の中にはいつも素敵な飲食店があった。

仕事で悩んだ時は、平日ランチに女の先輩を誘っていつも列が並ぶ人気店「タンタボッカ」へよく行った。いつものパスタランチセットを食べながら仕事や、人間関係についてゆっくり相談した。ランチセットについてくる燻製ホイップバターとパンのセットが、一度食べたら忘れられない絶品だ。

東京に慣れた頃、恋人ができたりお別れしたりもした。ちょっとした記念日ディナーに朝穫れの鮮魚をいただけるイタリアン「ボガマリ・クチーナ・マリナーラ」へ行くのが好きだった。ショーケースから気になる魚介を選び、どう調理してもらいたいかをその場でシェフにオーダーするスタイルはなんだか自分が特別な存在になれたような気持ちにさせた。

そういえば、千駄ヶ谷は原宿へ近いこともありアパレル関連のショールームやオフィスが密集していて「アパレルの街」とも呼ばれている。そのせいかセンスの良い人が集まり、ポツポツと並ぶカフェやちょっとしたビストロも、肩肘張らずに小慣れ感のある洗練された雰囲気のお店が多い。

ハイセンスな個人経営店ばかりだが、どのお店も不思議と都会っぽい冷たさは少なく、住民への繋がりや愛を感じる暖かい雰囲気もあるのが魅力だと思う。

飲食店を介した千駄ヶ谷住民のコミュニティ形成を一役買っているお店といえば、千駄ヶ谷で15年以上愛され続けているミルクティー専門店「モンマスティー」。

朝の7時から0時までの長い営業時間中、いつの時間帯も学生や地域の人、フラッと立ち寄る大人で賑わう。行けば誰かしらと軽く話せるような、長年愛されているお店にしか醸し出すことができないフレンドリーで唯一無二の空間だ。上司とちょっと外で歩きながら話したいとき、夕方のスーパーの買い物の帰りに通りがかったとき、一日中家に篭っていて誰かと話したいとき。いつ行っても変わらずに受け入れてくれて、濃厚なミルクティーを楽しめる空間は地元のような安心感に包まれていた。

隠れインテリアストリート in “ダガヤサンドウ”

千駄ヶ谷に住んで5年が経った頃、いわゆるコロナ禍で家にいる時間が増えたのをきっかけにインテリアにハマっていった。インテリアを好きになってから気がついたが、千駄ヶ谷〜北参道エリア、通称”ダガヤサンドウ”には都内でも随一のアンティーク家具ショップや、雑貨のセレクトショップが集まっている。多分、アパレル関連会社のスタイリストが撮影等で一点もののおしゃれな家具を利用するからだろう。

ヨーロッパから買い付けたアイテムが大量に展示されている「CEROTE ANTIQUES」はちょっとした異世界に来たような、秘密基地のような店内にいつも新鮮にワクワクする。お手頃価格の掘り出し物を見つけることもできるので、ここで自分だけのとっておきのアイテムを見つけては家まで持って帰ることができるのは千駄ヶ谷に住む楽しみの一つだ。

駅近くにある「GENERAL FURNISHINGS & CO.」も、いつ覗いても欲しいものが見つかるライフスタイルショップ。他のインテリアショップでは見ない品揃えで、この都会で一番センスのある人がこだわり抜いて商品をセレクトしているのだろう……と窺い知れるラインナップである。給料日や、仕事で成果を出せた日に自分へのご褒美としてここでちょっといい器やインテリア雑貨を買って家に帰るのが嬉しく、毎日の仕事のモチベーションとなっていた。

トレンドと歴史のバランスを紡ぐ文化施設

美しい自然とハイセンスな人・店が集まる千駄ヶ谷には、なんだか全体的に余裕や豊かさを感じる。それを形成するのは、たくさんの文化的施設の存在だと思う。決して大きくないこのエリアに、東京体育館・国立競技場・国立能楽堂・将棋会館とスポーツから芸術まであらゆる文化施設が並んでいるのだ。

文化施設をカジュアルに利用できることも、生活に豊かさを感じる。オリンピックにも使われた東京体育館は、トレーニングルームとプールの利用で月額7000円と、民間のジムと比較するとかなりお手頃だ。ダンスや球技などさまざまな大会が週末に行われているので、土日の朝、「今日は何をしようかなあ」と考えながらとりあえずここに来て、馴染みのないスポーツの大会をフラッと見に行く、なんて過ごし方をよくしていた。

また、能楽堂や将棋会館があることで、カルチャーを楽しむ余裕のある人が集まり、それが街全体の豊かさやゆとりのある空気感を生み出していると私は思う。

最先端トレンドが集まる一方で歴史や文化を感じる施設もある。この絶妙なバランスが千駄ヶ谷を醸成しているのだと、長く過ごす中で自分の中で腹落ちした。


最後に選ばれる、”気”の良い街。だけど最初に住めて良かった

初めての東京生活で住んだこの場所に、結局7年も住んでしまった。23歳以降の20代全てを千駄ヶ谷で過ごしたことになる。その間、転職をしたりライフスタイルが変わったり、自身の変化はたくさんあったが、この街から引越す理由を見つけることができなかった。それどころか、東京で良いモノや他の街を知れば知るほどに、このトレンドと自然と文化の調和の希少さを実感し、愛が深まるばかりだ。

今、私は別の街に住んでいる。この間、久しぶりに千駄ヶ谷駅に降り立つと「”気”が良い街」とふと頭に思い浮かんだ。よくよく地図を見てみると西に「明治神宮」、北に「新宿御苑」、東に「明治神宮外苑」の緑地に綺麗に囲まれ、さらにその中央には鳩森八幡神社が構える。それは”気”が良いと感じるはずだ。

「東京を知り尽くした人が最後に選ぶ街」この言葉に今は共感する。立地や文化や自然、いろいろな条件を並べても最後には結局、「なんとなく”気”が良い」。そんな直感が人を千駄ヶ谷に向かわせるのだと思う。

でも、私はむしろ初めて住んだ街が千駄ヶ谷で良かったと思っている。若い時期に住むには、ここは少し贅沢で豊かすぎる街なのかもしれない。だけど、ここに溢れる明るく豊かなエネルギーは慌ただしく余裕のない20代を支えてくれたし、自分が住んでいる街をこんなに愛せたことは自分の過ごす日々、ひいては自分の人生を丸ごと肯定してくれたと思う。

数年後はどこに住んで何をしているのか想像もできないけれど、自分も自分の住む街も丸ごと愛していると、自信をもって言えるような未来にいることを願っている。

書いた人:阿部栞(あべし)

1992年宮城県利府町生まれ。韓国ITスタートアップでPMとして従事。インテリアと料理と漫画と美容が好きなインターネットOL。
X(旧Twitter):@abeshi_official

編集:ピース株式会社(小沢あや)