どこにでもあるようで、私だけの青春をくれた愛しい地元・三重|文・でか美ちゃん

著: でか美ちゃん

でか美ちゃんの43.75%は東京で出来ているけれど

上京して早14年、現在32歳。つまり19歳になる年、高校を卒業してすぐに東京にやってきた。数値化すると人生の43.75%東京で暮らしていることになる。きっとこのまま住み続けたら自分の人生のほとんどは東京で暮らしたということになるだろう。

そんなことにふと気付いた時、もっと自分の出自を伝えなくては、と思った。最近では隙あらば自分がどこから来た人間なのか、わかりやすく伝えるようにしている。

例えば田舎あるあるのとき。「私も三重県出身なんでイオンばっか行ってました!nobodyknows+が来た時はお祭りでした」「地元が三重県なんですけど、コンビニ行く時は家族全員に相談して行きたい人を募ってから車で行かないと怒られるんですよ」といった風に。自虐が混じってでも、とにかく三重県が故郷なんだと伝えたくなった。

あんなに憧れてた東京に出てきて、人生の43.75%が東京の人になったのに、どういうわけだか三重が56.25%の人になっているわけではない。何をどうしたって自分は三重100%の人なんだよなーと感じる。

豊かな観光資源と名産があるのに「何もねーなー」と思っていたあの頃。


三重県にはめちゃくちゃ観光地がある。北部寄りだったら「ナガシマスパーランド」に「鈴鹿サーキット」。南部寄りだったら「伊勢神宮(毎年欠かさず参拝している)」に「鳥羽水族館」、熊野の花火大会も最高だ。

お祭りも多いし、山もあれば東側には海も広がっている。松阪牛に伊勢海老なんかは誰でも知っている名産物だろう。赤福も有名だ。

でも、あの頃。正直に言うと、ここには何もねーなーと思って過ごしていた。
モーニング娘。とポケビが大好きな小学生を経て、浜崎あゆみや倖田來未に憧れる中学生になり、中学3年生あたりからロックやパンクにも興味を持った。

高校生になるとまたハロプロにハマり人生で初めて「推しメン」が出来ると同時に、軽音部に入り自分もステージに立って歌うようになった。(基本的にはコピーバンドだったけど)ジャンル問わずに音楽をとにかく聴きまくっていた高校生の私にとって、三重県は刺激が少なかった。

刺激を求めて通い詰めた県内のライブハウスで、アトエニがくれたもの

刺激を求めた結果、ライブハウスにたくさん行くようになった。津の「BASS1(ベースワン)」や、四日市の「Club Chaos(クラブケイオス)」も思い入れがあるが、とくに入り浸っていたライブハウスは松阪の「M'AXA(マクサ)」だ。高校3年間で行った数は100をくだらないと思う。

GOOD 4 NOTHINGもHEY-SMITHもthe telephonesもTOTALFATもBIGMAMAもM'AXAで観た。県外からいろんなバンドが来てくれるのも嬉しかったし、お目当てのバンドを観に行って、また新たに好きなバンドが増えるのも楽しかった。

中でも大好きだったのが、三重県を中心に活動しているat Anytime! 通称アトエニ。先にあげた様々なバンドがM'AXAに来てくれるのは箱の魅力はもちろん、アトエニの存在が大きかったように思う。アトエニの大名曲『YOU and ME』を聴くと、私はいつでも高校生の自分に戻れる。

とある日の放課後、少し疲れた体を引きずってやはり私はM'AXAに行っていた。何で疲れてたのかももはや覚えてないが、ちょっと鬱っぽくなり始めた時期だったような記憶がある。

いつもなら楽しいライブがなんとなく耳に体に入ってこなくて、トリ前に出演していた当時大人気だったスカパンクバンドの途中で抜け、ライブハウスの入り口を出てすぐのところでしゃがみ込んでしまった。

「大丈夫か?」

声をかけてくれたのはアトエニのボーカル、Naoyaさんだった。どんなにライブに通っても高校生だった自分は打ち上げに参加することも勿論ないし、物販を買う時に少しお話させてもらう程度だった。

急にめちゃくちゃ好きな人に話しかけられてびっくりしすぎた私は「大丈夫なんやけど、何か今日は……う〜ん」と馬鹿正直にモゴモゴと答えてしまった。

「何か嫌やなぁってな。俺にもあるよ。音楽は好きな時に好きなようにな! もしよかったら最後まで見てってな」

Naoyaさんはそう言うと、パッと立ち上がり去っていった。好きな人とお話してしまった高揚感と、今かけられた言葉の優しさに心が温かくなって、大トリのアトエニまでしっかり観て帰宅した。

Naoyaさんは多分全く覚えてないやり取りだと思うし、自分にとってもほんの一瞬の出来事だったけど、刺激を求めて音楽に縋るようにライブハウスへ足を運んでいた1人の高校生を確実に救った言葉だった。大好きな音楽をもっと自由に楽しもうと思えた。

この日のアトエニは特に楽しくてかっこよくて、ライブを観に行くという行為も、この時以降からもっと好きになった。

at Anytimeは今でも松阪M'AXAでライブを続けている。毎年夏には『三重祭』なるアトエニ主催のイベントを打っている。地元を大切にするかっこよさを、私はアトエニから学んだ。松阪M'AXAでライブをすることは、私の夢の一つ。

どこの地方都市にもあるイオンにあった私だけの青春


松阪M'AXAで音楽に触れる一方で、等身大の学生もちゃんとやっていた。
冒頭でも書いたようにイオンにもかなり行っていた。たまに違うとこに行くかと思ったら、イオンの違う店舗に行くという気分転換だった。

わかりやすいので当時の名称で呼ぼう。一番遊びに行ったのは、やはり松ヶ崎のショッピングセンター、「マーム」。M'AXAからも近かった。友達と自転車で行くには遠いが、電車を使って各停で何駅か乗るとプリクラも撮れるし、可愛い文房具や部活ごとのストラップが売っているファンシーショップもあった。セレクトショップにはCOCOLULUも置いてあったし(中学生には高くてたまにしか買えない)、長居できるサイゼリヤも、セブンティーンアイスもあった。

親友とプリクラを撮りに行くと、クラスメイトも隣のクラスにいる部活が同じ子も、怖い先輩も、塾で一緒の他校の子もみんなそこにいた。そこにいる人たちで組み合わせを変えてプリクラを撮るのがめちゃくちゃ楽しくて、一回のマームでのプリクラ代はなかなかの金額だった。

家から遠いため車でしか行けなかったのは明和のジャスコ。通称「明ジャ」(明ジャス派もいた)。家族とよく行っていた。

明ジャは革命だった。まず、ありえないくらい広い。駐車場もありえないくらい広いのに、停めるところを探すのに一苦労するくらい人が集まる。一階には家電量販店がドカンと入っているし、二階にはゲームセンターがあり勿論プリクラも撮れるし、何よりも映画館があった。『木更津キャッツアイ』とかを観た気がする。

今は違う店舗になってしまったが、イタリアンのビュッフェレストランがあり、わが家のお気に入りだった。お母さんがホットコーヒーの上にソフトクリームを乗せてきて「これめっちゃ美味しいで」と言ったあの日から、熱いと冷たいが同居しているスイーツ全般が好きになった。

高校生の時には一度だけ、好きだった先輩と一緒に学校をサボって明ジャで遊んだ。私服校だったので、学校に行くふりをして二人で明和まで行った。電車を乗り継ぎ、バスに乗り、初めて車以外の手段で辿り着いた。

親はいつもこんなに遠い道のりを運転してくれていたのか、と感謝の念が湧き上がったけど、学校サボってるのがバレたらおしまいなので言えなかった。

津の「SATY」には高校の時、軽音部のバンドメンバーで行った思い出が一番強い。ギターを担当していた同級生の男子が「仲井(私の本名)のセンスでトリプル作ってきて!」とサーティーワンアイスのチョイスを任せてきた。

めっちゃウケるだろうなー、と思ってバニラ・バニラ・バニラで持って帰ったときの、あいつの表情は今でも忘れられない。他メンバーの爆笑もありめちゃくちゃコントラストが強まっていた。同窓会や軽音部の集まりで会うといまだにバニラ・バニラ・バニラ事件のことを言われる。ごめん……。

そんな思い出いっぱいのイオンたち。実は、イオンの発祥は三重県なのだ。私も大人になってから知り、「もしかしてDNAレベルでイオンが好きなのか!」とびっくりしたものだ。

松阪M'AXAの他に、もう一つライブをしたい夢の場所がある。それがイオンなのだ。全国のイオンでライブをする営業ツアーがやりたい。エスカレーターの前とかで。

自分の今のタレントと歌手としてのバランスや、仕事の目標に「大衆的でありながら、自分が本当に好きなこともやり続けたい」というものがある。まさにイオンとライブハウスを合わせたみたいな人に私はなりたいのだ。

青春も夢も思い出も、今の目標も、やっぱり三重県で見つけていた。やっぱり自分は三重県100%の人なんだと思う。何もねーなーと過ごしてたけれど、そこには自分の全てがあった。

著者:でか美ちゃん

1991年5月3日、三重県生まれ。三重県立津高等学校卒業後、音楽の道を夢見て専門学校進学のために上京。多方面から評価される的確なコメント力を武器に、場所を選ばず大活躍。自身の楽曲の作詞作曲やライブ活動、楽曲提供、グラビア、映画出演、コラム執筆などジャンルやメディアにとらわれず活動中。

編集:小沢あや(ピース)