うどんの流体力学者たち〜見えない丸亀を求めて

著者: 谷頭和希

丸亀と東京の二拠点生活が始まった

私は、チェーンストアや街、空間について書いたり、話したりしている。肩書はその時々によってライターだったり、作家だったり、批評家だったりする。とにかく、「場所」についてあれやこれややっている人間だ。

そんな私が、去年の11月から香川県・丸亀と東京での二拠点生活をはじめた。さまざまな事情が重なり、それまで続けていた仕事を辞めてフリーランスになったからだ。さまざまな事情、というのの大部分は親類の都合で、その親類がいるのが丸亀なのである。

最初のうちは、なんだか観光気分。丸亀といえば、日本一高い石垣を持つ丸亀城や、地元を代表するB級グルメ・骨付鳥が有名で、数日間はそれらをしっかり堪能した。

思いの外、高い丸亀城に興奮したり、

骨付鳥の名店『一鶴』で骨付鳥をたらふく食べたり

とはいえ、外せないのが、うどんだろう。丸亀を車で走っていると、あちらこちらにうどん屋がある。コンビニかのごとく、だ。最初はうどんばかり食べていたが、さすがに3日を超えると、飽きがくる。それでも、やっぱり週に数回は食べたくなるぐらいの美味しさで、実際にうどん屋はどこも地元の人で大賑わいだ。やはり香川はうどんの県だなあ、と思わされる。観光のための商品ではなく、地元に根付いているのだ。

それで、私がこれから書こうと思うのは、そんな丸亀の、たぶん普通に観光するだけでは見えてこない側面だ。

その話は、村上春樹から始まる。 

流体力学が作る「なかむらうどん」の絶品釜玉うどん

オーストラリアと日本とが何かの事情で国交断絶をして、小麦粉の輸入が全面的にストップし、うどんというものが一切なくなってしまったら、少なくとも香川県では人民革命が起こるのではないだろうか。(村上春樹『辺境・近境』<新潮文庫>内「讃岐・超ディープうどん紀行」より引用)

香川県でうどん取材旅行をした村上春樹は、こう書いた。果たして香川からうどんが無くなって革命が起きるかどうかはわからないけれど、私の中の「うどん史」に革命を起こすうどん屋が、丸亀にある。それが、このエッセイの中で村上春樹も訪れ、そのロケーションや味を絶賛した「なかむらうどん」だ。

住宅街にひっそりとたたずむ「なかむらうどん」

私がこのうどんに邂逅したのは、確か中学生ぐらいだったと思う。帰省したとき、親類に連れられて、食べたのである。この店の一押しは「釜玉うどん」。

まずは写真でどうぞ

釜で茹でた熱々の麺を、溶いた卵の中に放り込んで、そこにだし醤油をかける。ねぎを入れたら、あとはひたすらかき混ぜる。混ぜれば混ぜるほど、麺が卵と絡んでくる。初めて食べたときに驚いたのは、卵がほのかな甘味を持っていること。まるで、卵ケーキのような風味なのである。そこに、だし醤油が絡み、絶妙なあまじょっぱさが口の中を支配する。

さらに驚くのが、その食感。「なかむらうどん」のうどんは、「グミのよう」と言われるほど、不思議なコシを持っている。うどんを食べているとは思えないほど、ふわふわしているのだ。ちょうど、熱々の麺と絡んだ卵がメレンゲのようになっているのにもあいまって、全体的にどこか、この世のものとは思えないような、やわらかな食感に包まれる。いや、これは、もはや「食べ物」じゃないのでは?もしかして、飲み物?

もう一度どうぞ。「なかむらうどん」のうどんは、飲み物です

香川県人の親類から聞いたが、香川ではうどんを「飲む」。確かに彼らがうどんを食べるスピードはものすごく、飲んでいるといっても過言ではない。「なかむらうどん」のうどんも、もはや麺と卵とだし醤油が織りなす、一種のシェイクなのである。そういえば丸亀製麺が「シェイクうどん」なるものを売り出していたが、その原案はきっと「なかむらうどん」の釜玉うどんにあると思う(個人の見解です)。ちなみに、丸亀製麺は神戸の会社なので、丸亀にはない。

「釜玉なんて、卵にうどんをぶちこめば完成でしょ?」などと、のたまう人がいるかもしれない。しかし、それは断じて違う。最初は私もそう思って、家で何度か、「なかむらうどん」で売っているお土産用のうどんセットを使って釜玉作りにトライしてみた。でも、なぜか店で食べる味が出ないのだ。

「なかむらうどん」のうどんは、私にとって謎の物体Xだ。長年そのうどんを作り続けた人の妙技が作り上げる、個体と液体の中間にある、不思議なもの。こう言えるかもしれない。それは、液体中にある物体の動きについて研究する学問・流体力学の賜物である、とも。「なかむらうどん」のうどんは、「うどんの流体力学」が作り上げている。

うどん職人たちは、家族から、あるいは師匠から、この「流体力学」の秘伝を授けられてきた。優れたうどん職人は、優れた流体力学者でもあるのだ。

「水」と「風」を操ってきた丸亀の人々

何を言っているのかわからなくなってきた。でも、「うどんの流体力学」は、丸亀観光において、とても大事なのである。丸亀に2カ月住んできた、私の結論だ。

丸亀には、優れた流体力学者たちが住み続けてきた。

丸亀を車で走っていて気付くのは、ため池の多さだ。車でちょっと走っただけで、すぐに池のようなものが目に付く。丸亀に限らず、香川にため池が多いのは、気候的に雨が少ないからである。そのため、ため池に水を溜めておいて、それを農業用の水として使う。

香川でもっとも有名なため池である「満濃(まんのう)池」は、約1000年前の伝説的な僧侶・空海によって修復されたと伝わっている。中沢新一が、空海を「流体をあつかう土木技術者」だと書いていて(中沢新一『雪片曲線論』、p.18)、なるほど「水」という目に見えない流れを制御し、治水を行った空海もまた、一種の流体力学者であったのだ、とはっとさせられる。

ただ、空海が行ったのは満濃池の修復だけで、その後も香川には無数のため池が作られた。そんなため池を作ってきたのは、名もなき香川の人々であり、彼らもまた、歴史に名は残っていないが、優れた流体力学者たちだっただろう。

「水」という流体を操る人がいると思えば、一方で「風」を操る職人もいる。

それは「うちわ」だ。あまり知られていないが、丸亀は「うちわ」の生産が盛んで、なんと全国シェアの9割以上を占めている。うちわを作るのに必要な竹や和紙などが、近隣の藩に揃っているので、その生産が盛んになった。現在では国の伝統工芸品にも指定されて、丸亀には「丸亀うちわミュージアム」なるものもある。「風」という目に見えないものを操る工芸品が丸亀に生まれたのも、何かの因果なのだろうか。まさに「風」と関わりの深い流体力学者たちが、うちわ職人なのだ。

うちわを作るには47もの工程があり、それらの工程が繊細に組み合わさり、風を操る道具へと竹が変貌を遂げる

「水」を操るため池と、「風」を操るうちわ。そして、丸亀には「水」と「風」を巧みに読みとく、また別の流体力学者たちの集団がいた。

「塩飽水軍」という流体力学者

11月からの香川滞在で暇ができたので、船の免許を取ってみた。船舶免許は、集中講義を2日受けると取ることができて、香川県内にも船の教習所がある。なんで船の免許なんて……⁉︎、と聞かれるが、理由がある。私の本籍地は「佐栁島(さなぎじま)」という瀬戸内海の島で、船でそこに行ったら楽しいだろうな、と思っているからだ。

瀬戸内海。ここを船で周ってみたいのだ

佐栁島を含めた、瀬戸内海に浮かぶいくつかの島々は「塩飽(しわく)諸島」と呼ばれていて、かつてそこには「塩飽水軍」と呼ばれる人々が住んでいた。その中心地が「本島」という丸亀市に属する島である。

本島には、「塩飽水軍」をおさめる場所・「塩飽勤番所(しわくきんばんしょ)」もある

彼らは豊臣秀吉の天下統一に大きく貢献したといわれている。秀吉を感心させたのは、彼らの船を操る技術の高さだった。「塩飽諸島」は「潮、湧く」が語源になっている通り、海流の変化が著しい場所である。私も教習のときに船を運転したからわかるのだけれど、車の運転と船の運転が決定的に違うのは「風」と「水」の存在だ。それらは刻一刻と変化し、目に見えない。しかも、塩飽諸島ではなおさらだ。船をうまく運転するには、「風」や「水」の動きを読み取り、それを巧みに操らなければならない。

そうなのだ、まさに「風」や「水」といった「流体」を操る流体力学の技術にたけていたのが、彼ら塩飽水軍なのである。ここにも、巧みな流体力学者たちの姿が表れる。

ちなみに塩飽水軍だが、日本の開国後、はじめて太平洋を横断した咸臨丸の乗組員になった者も多い。瀬戸内海で鍛えられた操船技術を、太平洋でも活かしたのだ。

本島には咸臨丸の顕彰碑も

丸亀の流体力学者たちは、歴史の中にひっそりと表れる。それは、「目に見えないもの」を操る技術者たちである。

「目に見えないもの」を追いかけて

丸亀に住んでいると、東京との時間の流れ方があまりにも違うことに驚かされる。すべてが早く進む東京に比べて、丸亀での時間の流れはあまりにもゆったりしている。島なんて、もっともっと遅い。1日は長く、1週間前は遠い過去のようで、1カ月は永遠だ。

なぜ、東京での時間の流れは早いのか。それはみんなが何かに追われているからだ。何に追いかけられているのか、たぶんそれは「目に見えるもの」だと思う。毎月の給料額、記事のPV数、SNSのフォロワー数。ぜんぶぜんぶ目に見えるものだ。もちろん、それを気にするのも大事。でも、それを気にしすぎてみんなカリカリしている。

なんだか、丸亀に来ると、そんな目に見えるものが、どうでもよくなってくる(気がする)。そういえば、丸亀の流体力学者たちは「目に見えないもの」を巧みに操るのだった。

丸亀駅前。時間の流れ方はゆっくりで、のどかだ

丸亀にはかつて、「目に見えないもの」をありありと見た人がいた。長尾郁子だ。彼女が持つという「透視能力」が、明治末の日本を騒がせた。現・丸亀高校の当時の教頭が京都大学から研究者を呼び、その能力をテストさせたこともあるという。これら一連の事件は「千里眼事件」と呼ばれて話題になったが、その舞台の中心地の一つが丸亀だった。

それが嘘だったのか、本当だったのかについて、私は興味がない。それでも、この事件にどうしようもなく興味をそそられるのは、「目に見えないもの」を追い求めた人々が、この丸亀にいた、ということがわかるからだ。

「丸高」として知られる丸亀高校。かつての教頭が「千里眼事件」に大きく関わっていたことは、もはやほとんどの人が覚えていない

「批評家」という流体力学者

私は、物書きとして、食べていく。そのとき、この、丸亀の人々が持っていた「目に見えないもの」を扱う技術を継承したいと思う。文章のはじめに私は、自分の肩書きはその時々によって変わる、と書いた。でも、根本的に私は、自分のことを批評家だと思っている。批評ってなんだか小難しいと思う人が多いと思う。でも、それはとても単純。批評とは、全く関係がないものをあたかも関係があるように語ること、だと思う。バラバラの事象に見えない関係性を見つけ、つなげる。それが批評という行為。実は、この文章自体、とても批評的な文章だ。

だいたい、うどんとため池とうちわと、塩飽水軍と長尾郁子が同じはずがないじゃないか。たまたま丸亀という場所にあるだけで、本来それは別のものだ。でも、それらを「流体力学」や「目に見えないもの」という言葉で、あたかも必然的な関係があるように語ってみる。そんな、一種の言葉遊び的な、冗談みたいなものが、批評というものだ。批評家とは、バラバラの事物の間に、見えないつながりを見つけ出す、まさに見えないものを操る流体力学者なのだ。

私が丸亀に来たのは、たまたまだ。親類がそこにいたからに過ぎない。でも、私が批評家として活動するはじめに、この丸亀にいたことは、何か必然的なことだったのではないか、と思ってしまう。丸亀にいた流体力学者たちのように、私もまた、見えないものを操る、そんな仕事をしていきたいと、襟を正すのであった。

著者:谷頭和希

ライター・批評家。1997年生まれ。チェーンストアやテーマパークをテーマにした原稿を数多く執筆。平板に見える現代の都市空間を、独自の切り口で語る。「東洋経済オンライン」や「現代ビジネス」等、多くのメディアに寄稿。著書に『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社新書)『ブックオフから考える』(青弓社)。
X(旧Twitter):@impro_gashira

編集:友光だんご(Huuuu)