家づくりに建築家のエゴはいらない。瀬戸内の自然と人に寄り添う建築家・大町知己さん【ここから生み出す私たち】

インタビューと文章: 榎並紀行(やじろべえ)


創作しながら暮らす場所として、あえて「東京」以外の場所を選んだクリエイターたち。その土地は彼、彼女らにとってどんな場所で、どのように作品とかかわってきたのでしょうか? クリエイター自身が「場所」と「創作」の関係について語る企画「ここから生み出す私たち」をお届けします。

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今回の「ここから生み出す私たち」に登場いただくのは、大町知己さん。広島県福山市を拠点に住宅の設計・施工を行う「kitokito」の創設者です。ハウスメーカー勤務などを経て、35歳で建築家としてのキャリアをスタート。10年後には世界的デザインコンペで受賞するなど、遅咲きながら地元で引く手あまたの建築家になりました。

全国からオファーが届く現在も、瀬戸内エリアに軸足を置く大町さん。そこには地元に対する愛着だけでなく、豊かな自然環境や腕利きの職人たちが多いことなど、さまざまな利点があるといいます。建築家として、大町さんが大切にしたいことをかなえられる、瀬戸内ならではの家づくりについて伺いました。

製鉄所の煙と活気のある街と心が安らぐ瀬戸内海

── 大町さんは広島県福山市で生まれ育ち、大分の大学に進学後、広島のハウスメーカーに就職したそうですね。地元に戻ってきたのは、やはり愛着があったからですか?

大町知己さん(以降、大町) いえ、そういうわけでもなく。学生のころはむしろ「福山って何もない街だな」と思っていて、都会への憧れが強かったです。だから、本当は大阪や京都の大学に行きたかったんですが、そのあたりは軒並み不合格で。そこで、大分の大学の建築学科に進みました。

2015年に大町さんが立ち上げた「kitokito」。地元・福山を中心に年間10軒ほどの家づくりを請け負う(写真:足袋井 竜也)

就職で地元に戻ったのも、特に深い考えがあったわけじゃありません。ほかの兄弟たちも他県に出ていて誰かが親のことを見ないといけなかったし、友達もいるから地元に戻ろうかなというくらいの考えでした。

ただ、社会に出てしばらくたつと、都会に出て行った同級生たちの多くが福山に帰ってくるようになったんです。当時は理由がわからなかったけど、やっぱりいい所なんですよね、福山。なんだかんだ言って、戻りたくなる。

── 子どものころは、地元の姿がどんなふうに映っていましたか?

大町 とにかくパワフルな街だなと。当時の福山は鉄鋼業の街で、日本最大級の製鉄所もあった。工場から出る煙の中で育った記憶がありますね(笑)。また、婚礼家具で有名な「府中家具」の職人たちもたくさんいて、夕方の飲み屋街はいつも、工場帰りの人や仕事終わりの職人たちであふれていました。街全体に活気がみなぎっていたように思います。

ただ、その後、スチール工場はどんどん縮小していき、婚礼家具の需要減とともに府中家具の職人たちも引退していきました。それにともなって飲み屋街の火も消えていって。今では「あのネオンはどこに消えちゃったんだろう?」と、少し寂しい気持ちにもなりますね。

あとは、やっぱり海や島で過ごした思い出が強く残っています。

── 福山市は瀬戸内海も近いですし、しまなみ海道や笠岡諸島にもアクセスしやすいですよね。

大町 そうですね。瀬戸内海は「日本のエーゲ海」なんて呼ばれたりもしますが、決して大げさではないと思います。夕日の美しさ、オリーブが育つくらい温暖な気候、そして、ここまで多くの島々に恵まれた海は世界のどこにもありません。東京から来た人は「雲がゆっくり動いている」とも言っていました。

それから、瀬戸内の海辺は山々に囲まれていて市街地の光が届かないので、夜は満点の星空を眺められます。波音も静かで、耳を澄ますとわずかに聞こえるくらい。ゆったりと心が安らぐ場所で、学生時代や社会人になってからも頻繁に訪れていました。

35歳、子ども3人、未経験から建築家に転身

── 大町さんが建築の道を志したきっかけを教えてください。

大町 高校生のころ、慕っていた先生に「もし教師になっていなかったら、どんな仕事をしたかったですか?」と聞いてみたことがありました。先生は「橋をつくりたかった」と言っていて、それが建築というものに関心を抱くきっかけでしたね。

また、同時期に通っていた塾の教室の壁には、建築のパネルがたくさん貼られていました。塾講師のパートナーの方が建築士で、インテリアとして飾られていたんです。それを見て、世の中には建築の仕事というものがあるんだなと。講師からは「建築家って女の子にモテるよ」なんて話も聞いていて、建築士いいかもと(笑)。不純な動機ですが、最初はそんな感じでした。

(写真:足袋井 竜也)

── 最初に就職したハウスメーカーで、建築士としてのキャリアをスタートさせたんですか?

大町 いえ、最初の会社ではまず6年が現場監督、その後は6年営業の仕事をしていました。そもそも、大学でもろくに勉強せず遊んでばかりで、成績も悪かった。課題でつくった建築模型がヒドすぎて先生に破壊されるくらい、どうしようもない学生でした。就職してからは、いつしか建築の仕事をしたいという気持ちも薄れていきましたね。

幸い、家を売る営業の仕事は向いていたみたいで、国内でトップセールスを取ったこともありました。ただ、その後にリーマンショックの影響で会社の業績が落ち、会社がお客さんの満足度よりも利益重視の方向性にシフトしはじめたんです。その方向性にどうしても従えなくて、会社を辞めました。その上司は「どうせなら、(新しい会社では)お前が好きなことをやったら?」と言ってくれて。そこで改めて、もともと建築の仕事がやりたかったことを思い出したんです。年齢も年齢だったんですけど、やってみようかなと。

25歳当時の現場監督時代

── その時点で、何歳になっていましたか?

大町 35歳でした。結婚して子どももいましたが、改めて勉強をし直そうと。新会社で営業として働きつつ、大阪や東京の著名な建築家が主催する建築塾へ通いました。仕事が終わってから、夜行バスで建築塾に行って学ぶ。そんな生活が4年ほど続きましたね。営業の仕事もおろそかにできませんし、けっこう大変でした。

── ちなみに、営業成績は?

大町 最初はなかなか大変でした。はじめの6カ月は知り合いの家を訪ねては、草むしりをしたりしてお小遣い程度のお礼をもらっていました。5年目になるとありがたいことに、順調に仕事が増えてきて。

ただ、当時の僕は本当にバカだったので、それで調子に乗ってしまって。「自分が仕事をとってきているんだ」というおごりが態度に現れていたと思います。会社の専務や現場の大工さんたちとも衝突し、最終的には見放されてしまいました。もう、お前がとってきた仕事はやらないと。その翌日から会社にも行かなくなり、自宅に引きこもるようになって。

── おっと。でも、ご家族は何事かと思いますよね。

大町 妻からは引きこもり3日目に「仕事どうなん?」って言われました。それで仕方なく、社内ベンチャーという形でkitokitoを立ち上げたんです。とはいえ、会社に居場所はない。最初は自宅やカフェで仕事をしていましたね。ですから、美しい起業ストーリーとかは全然ないんですよ。

── そのころは、すでに建築士としても仕事を始めていたんですか?

大町 設計の仕事のチャンスが巡ってきたのは、kitokitoを設立してしばらくたってからでした。どうしても手掛けたい案件があって、施主さんに「あなたの家をつくらせてください」と頭を下げました。図面も完成し、施主さんからもOKをいただいたものの、大工さんたちとはけんか別れをしているし、施工をお願いできる人がいない。そのときにはさすがに自分が悪かったと猛省していましたし、謝りたいとも思っていたのですが……。

初回の仕事で描いた図面のラフ

── 機会やタイミングを逃していたと。

大町 言い訳になりませんけどね。でも、そこで社長、つまり僕を新会社に誘ってくれた上司(Tamada工房社長 玉田浩氏)が手を差し伸べてくれました。専務や職人さんとの仲をとりもち、謝罪する機会を与えてくれたんです。専務からは「お前が自ら現場監督をするなら、サポートしてやる」と言われ、15年以上ぶりに現場へも復帰して、無事に完成させることができました。しかも、イタリアのデザインアワード「A'Design Award&Competition」でブロンズ賞を受賞できた。社長や専務、大工さんたちには心から感謝しています。

初めて設計した福山市の邸宅の建築が、世界的なデザインコンペで評価された。実は着工中も専務とは何度か対立したが、「良い家をつくりたい」という思いは最後まで共有できていたという/(撮影:足袋井 竜也)

家は「作品」ではなく「暮らしの箱」

── 現在もやはり、地元の家づくりが中心なのでしょうか?

大町 そうですね。瀬戸内エリアを中心に、年間10軒ほどの設計を請け負っています。

古くからの日本家屋や寺社の要素を取り入れ、豊かな庭と調和する空間をつくりあげた/(撮影:足袋井 竜也)

── 福山を拠点にお仕事をされていて良かったことはありますか?

大町 たくさんあります。先ほども言いましたが、この地域には「府中家具」の職人さんたちがいて、古くからものづくりの文化が根付いています。以前、僕がデザインした照明の台座を、引退した家具職人さんにつくっていただいたこともありました。完全に手作業なので普通の加工業者さんには頼めないようなことも引き受けてくれるんです。

最近は関東から九州の施主さんからのご依頼も請けていますし、求められるならどこへでも行きたいと思っています。

こちらの造園は世界を舞台に活躍する庭師・橋本善次郎さんの仕事。橋本さんも福山市の出身で、大町さんとは中学時代からの友人/(撮影:足袋井 竜也)

── 腕のある職人が近くにいるのは心強いですね。

大町 それから、福山市には建築における「デザインの価値」を理解している人が多いとも感じます。福山は省エネ住宅の先駆的建物で京都にある「聴竹居」をつくった藤井厚二さんを輩出した街であり、建築家の数も多い。街中には面白い建物がたくさんあって、普段からそうしたデザインに触れているからこそ「良いものにはお金を払うことが当たり前」という感覚が、一般の方々にまで根付いているように思います。

── ではkitokitoとして、家づくりのデザインで意識していることは?

大町 僕たちは決して「おしゃれな家」や「見栄えのする家」をつくろうとは考えていません。設計した建物を「作品」と捉える建築家もいますが、kitokitoのつくる家はそうではなく、あくまで「暮らしの箱」なんです。

暮らしの箱をつくるためには、そこに暮らす人に寄り添う必要があります。お客さんの話をたくさん聞いて、その言葉を尊重しつつ、建築家として最適解を考える。また、人だけでなくその土地の特徴を捉え、自然環境にも寄り添わなくてはいけません。「人と自然にやさしい家」「寄り添う家」というのがkitokitoの家づくりの大きな柱ですね。

窓からのぞくのは、この土地にもともとあった大木。当初の計画どおりに家を建てるにはこの木を切るか別の場所に動かす必要があったが、屋根に穴を開けることでうまく木をかわす方法を選択。「そこにもともとあった木を、勝手に家をつくっている僕らがどうこうするのは不条理だと思って」と大町さん/(撮影:足袋井 竜也)
こちらは福山市にある別のお宅。「大きな窓のある家に住みたかった」という施主の強い要望に応え、リビングダイニングの壁全面を大開口に/(撮影:足袋井 竜也)
晴れが多い瀬戸内の気候を活かし、光を巧みに取り入れた設計を心掛けているという/(撮影:足袋井 竜也)
季節によって変化する天井から差し込む光を楽しめる設計。階段には、地元の製鉄工場の職人につくってもらった建材を使用。こうしたものづくりのネットワークがある点も、福山で仕事をする理由の一つだという/(撮影:足袋井 竜也)

瀬戸内の人に寄り添えば、自然と「やさしい家」になる

── kitokitoのウェブサイトでも「自然とつながる暮らし」を掲げています。自然環境に恵まれた瀬戸内は、そのコンセプトを体現するのにもってこいの場所ですよね。

大町 そうですね。それに、この辺りは地震も少なく、大雨や大雪の心配もほとんどない。これが、例えば日本海側の豪雪地帯であれば、積載荷重がかかる緩い勾配の屋根はつくれません。そういう意味で、瀬戸内は建築でできることの幅が広いエリアだと思います。

(撮影:足袋井 竜也)

それから、なんとなく瀬戸内には穏やかな性格の人が多いように感じます。それはおそらく、普段から穏やかな気候、静かな海を見て過ごしているからではないかと。Kitokitoにご相談に来られるお客様もおっとりしていて、打ち合わせの際も喧々とした雰囲気にはなりません。そんなお客様に寄り添っているから、おのずと「やさしい家」になっていくのかもしれません。

── 最後に、大町さんが考える「家を建てる場所として理想の土地」を教えてください。

大町 例えば、建築の賞を取りにいくなら、やっぱりそれに適した土地の条件ってあるんです。周囲に電柱や電線がないとか、周辺の美観なんかも大事になってくる。でも、僕らは賞を取るために建築をやっているわけじゃないから、極端に言えば場所はどこでもよくて。それに、どんな土地にだって、必ず良さはあるはずですから。

僕の役割は、その良さをいかに際立たせるか。悪いところを隠そうとするのではなく、良いところを伸ばす。すると、不思議と悪い部分が見えなくなるんです。人だって、そうじゃないですか(笑)。

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お話を伺った人:大町 知己(おおまち ともみ)

1974年広島県福山市生まれ。日本文理大学建築学部卒業。 大手ハウスメーカーを経て、2009年「Tamada工房」 入社後、常務取締役として立ち上げに参画。2015年、社内ベンチャーとして「kitokito」を立ち上げ今に至る。三男の父。2021年にはイタリア国際コンペA'Design Award ブロンズを受賞。
Instagram:「@kitokito_life
Web:https://kitokito-life.com/

編集:はてな編集部
取材・文:榎並紀行(やじろべえ)