富士見台・中村橋・江古田、名付け得ぬ十年の都市生活|文・小野晃太朗

著者: 小野晃太朗

劇作家・ドラマトゥルクとして演劇の世界で活躍する小野晃太朗さん。大学入学時から10年以上暮らしてきたという、東京23区の北部、練馬区から中野区にかけての町、富士見台、中村橋、江古田について綴っていただきました。

緩やかな坂の町・貫井(ぬくい)

たぶん窪地に住んでいるのだと思う。

坂の途中にある集合住宅の入口を出て少し下ると、幅の広い真っすぐな道に出る。この道は目視ではわからない程の緩やかな下り坂になっていて、自転車に乗るとペダルを漕がなくても家までたどり着いてしまう。

高低差があり、付近の道は上りも下りも坂が多い。雨が降ると水が流れていく、小さな谷がある感じだ。坂には人の手が加わった形跡がある。斜面には年季の入った戸建住宅が、コンクリートで固めた土台の上には建売住宅が、平地のあちこちには巨大な集合住宅が立ち並ぶ。路地裏の空き地からは、土を盛ったのか切り崩したのかはわからないが、崖のような痕跡が見える。

線路高架下、そのすぐ傍らには坂の勾配をそのまま活かした公園があり、夏場はダンボールをそりにして滑って遊ぶ親子の姿をよく見かける。坂の上に向かってひとりでサッカーボールを蹴り続ける子どももいた。

住宅地を西武池袋線が貫いている。貫くといっても高架区間なので、電車は町の上を通過する。電車に乗り車窓から町を眺めると、平たい屋根のなかから時折背の高い建物が突き出ているのが見える。

ある日、自宅近くの道の真んなかで子どもたちが輪になって天を仰いでいたことがあった。この世の終わりかと思い足を止め、彼らの視線の先を追うと、青空を背景に電線に引っかかったナップザックが見える。

目線を地上に戻すと、ひとりの子どもが自分の靴を脱いで片手に持ち、大きく振りかぶっている。こういう時、どこに連絡して誰を呼べばいいんだっけ。そう思いながら振り返ると、警察官がなにやら叫びながら小走りで近づいてくるのが見えた。

そのまま、私はすぐに歩きはじめた。左手に持った、食材で大きく膨らんだ買い物袋が揺れる。細くねじれたビニールの持ち手が指に食い込んでいて、鈍い痛さが後からじわじわと襲ってくる。角を曲がると、浴槽に湯を張るときのような水の音が聞こえてくる。音はマンホールの蓋のなかから聞こえてくる。この音のことは、きっと、部屋のなかに入ると忘れてしまう。

10年の暮らし、出会い損ねたこと

町の区切りとしてはかなり大雑把なものだが、練馬高野台駅から富士見台駅までが「富士見台」、富士見台駅から中村橋駅が「貫井(ぬくい)」だ。中村橋駅のホームの端からは富士見台駅のホームが見える。二駅の距離はとても短い。

二つの駅の中間にあるこの家に、いつの間にか10年以上暮らしている。

大学生から大学職員になり、今は大学教員だ。物は増え、生活も変わった。でも、この土地のことはほとんど知らない。町内会に属しているわけでもないし、協同の必要がある出来事や行事もない。知るためにはなにをすればいいのかわからなかったが、それでもいいと思っていた。人も物も場所も、仲良くなろうと思ってなれるものではないし、「親しみを持つ」ことと「親しさ」は別物だ。

10年目の更新のとき、居住年数を理由に賃料の値下げを交渉した。秤にかけた年月を吟味すると、景観の記憶の豊かさに対し、地理・歴史に関しての知識、町に住む人との記憶は乏しい。一人の食事は作業で、移動は最短距離。目的が二つ以上ないと出かけることもない。

合理性と効率の重視。そこに精神的な貧しさを感じてしまった。いや、気付いていた。気付いていながら何度もふたをしていたのだ。そして10年を節目に重たいふたが勢いよくはじけ飛んだ。

耐えられなくなり、「練馬区 貫井 由来」と検索エンジンに叩き込む。数秒で結果はわかったものの喪失感は埋まらず、今まで逃してきたさまざまなことが脳裏によみがえる。いつか行こうと思っていた場所が、もう存在しない。出会い損ねた、間に合わなかったという感覚がそこにある。

町は代謝する。建物も住む人も変わっていく。入居時の隣人はすでにみな引越し、わたしはアパートの中で最も古株になってしまった。

同級生の長い相談を受けた時に腰かけていた空き地には三階建ての住居が建ち、隣家の木造住宅はモダンな二世帯住宅に姿を変え、お気に入りのラーメン屋は居抜きのまま別のラーメン屋になった。近所に住んでいた大学時代の先輩は引越していき、中学の頃からの友だちが近くに越してきた。よく夜中に飲み物を買いに行った自販機のある駐車場は保育施設に変わり、併設されていた小さな稲荷は地鎮祭の後に敷地内の別の場所に移築された。事件もなく静かな町だからこそ、印象に残っていることがある。

以前、110番にかけたことがある。外から「助けてください」という声が聞こえたのでバルコニーに出ると、「助けてください」という抑揚のない老人の声が聞こえた。声は近隣の高層住宅から響いてくるようだった。姿は見えない。電話口で自分の住居、起きていることについて伝えると「現場の確認後、部屋を訪ねてお話を伺うかもしれません」と言われたが、誰も私の部屋にくることはなかった。電話が終わると、助けを求める呼びかけに応える声が混じりはじめた。声は増えていく。やがて、警官を名乗る声と、鉄の戸を叩くような音が辺りに響いた。

その後のことはわからない。知ることはなく、その術もない。都市生活のなかでのことは、途中から途中までしか関わることができない。 

江古田 変わることと変わらないこと

2008年から2014年の春まで日本大学芸術学部に通い、演劇について学んでいた。在学当時は所沢と江古田の二箇所にキャンパスがあり、二年までの授業は所沢、三年からの授業は江古田で開講されていた(現在は、同学部のすべての機能は江古田キャンパスに統合されている)。

演劇学科の学生は一年生の頃からそれぞれの専門性を持ったコースに分かれていて、わたしは舞台の脚本である戯曲の執筆について学ぶ「劇作コース」に所属していた。あまりよくない学生だったので、ばったり会った同期や先輩と喫煙所で何時間も話し込んだり、講義に行かず映画を見に出かけたり、学外の演劇制作現場によく出入りをしていた。決まっていたことよりも偶然のほうが大事だった。江古田には稽古に授業となんべんも通い、毎晩のように飲み明かして終電を逃し、数人の友人と千川通りの夜桜を横目に歩いて帰ることもあった。一時間ほどかけて自宅にたどり着いたものの、電気を止められていたこともあった。

駅前の南口にあった小劇場(映画『Shall we ダンス?』のロケ地となった)の舞台に一度立ったことがある。この劇場は消防法の問題で業態が稽古場に変わり、さらにビルの建て替えによって姿を消した。一時休業となったマクドナルドの大きな看板がクレーンで取り外される瞬間、駅前の通りに野次馬の姿が次々と増えていったことも懐かしい。

「リトル下北沢」と呼ばれた面影が薄れていき、道路拡張工事と区画整理が進み景観が整いはじめた今でも、書籍の山で通路が狭まった古書店、接客に癖のある定食屋、投げやりなキャッチがやけくそのような呼び文句をかける風俗店など、曖昧で怪しい存在が雑多に同居している。こうした煩雑さのなかには、目的のない滞在が許される余白のようなものがあると思う。

駅前の広場にはいつも誰かがいて、しばらくそこに留まっている。世にあってもなくてもいいものを学んでいるせいか、そういう場所は心地よいと感じる。

中村橋駅まで歩く

ヴァージニア・ウルフは自身の回顧録のなかで「ときに私は歩きながら作品をつくりあげることがあるが、『燈台へ』もまたそんな風にして、ある日タヴィストック・スクエアを歩き回っているうちにできたものだ。(中略)アイデアや場面が私の頭から矢継ぎ早に現れて群れをなした。歩きながら、唇がひとりでに動いて言葉を発していたようだった。」と綴っている。このことはウルフ本人も「よくわからない」ようだ。

わたしも、文章のことで困るとよく歩く。部屋のなかから外に出ると、家の外観を見るようにものの見方が変わる。この変化は非常に有用で頼りにしているが、歩くことの作用はまた少し違うところにある。足を一歩ずつ前に運ぶと、第二の心臓が脳に血液を運ぶ。土地の形質から身体への負荷が記憶を呼び覚まし、回想と連想が同時に起こり、つながる。

外食や買い出しのため、中村橋まで歩いていくことが度々ある。高架沿いに坂を上りながら中村橋駅まで向かう。左手には第三小学校のグラウンドが見える。歩道は桜並木になっていて、春には満開の桜を楽しむことができる。

もうしばらく歩くと、左手に貫井図書館が見える。コロナ禍で大学の図書館が閉鎖された際、戦時中の劇場閉鎖にまつわるさまざまな史料を取り寄せて読むことができ、助けられた思い出がある。閲覧スペースは封鎖されていたので滞在できる場所ではなく、本を借りて返す場所になっていた。

図書館を過ぎるとすぐに、動物を模したカラフルなオブジェが設置された公園が見えてくる。ここは練馬区立美術館。近・現代美術を中心に、広い分野で刺激的な企画展が多く催されており、遠方からの来場者も多い。2022年開催の『生誕100年 朝倉摂展』は、朝倉が日本画家・舞台美術家・絵本作家として推移するキャリアと作品の変遷が丁寧に取り上げられていて、印象深かった。 

石神井川 町を歩くこと、見ること、書くこと

富士見台駅から高架沿いに商店街を抜け、練馬高野台駅まで向かうと、石神井川に突き当たる。小金井市のゴルフ場を水源とするこの川は、少しずつ水量を増やしながら豊島園の敷地を貫き、板橋区のほうに反れていき、隅田川に合流する。

劇作家やドラマトゥルク*として、地域のリサーチや滞在制作を伴う演劇作品の制作に関わりはじめた頃、町を歩くこと、見ること、書くことについて考えてみたくて、「都市と芸術の応答体」というプログラムに参加した。一年目の2020年には「土木と詩」にまつわるさまざまな事柄について議論を行い、短い映像を撮影したり、テキストを執筆しながら、土地の形質を変える人間の技と歴史について学んだ。

夏ごろ、豪雨の水の流れを追う短い映像をつくった。それをきっかけに、石神井川の水源付近から東京湾まで短いショットを積み重ねた映像作品と、これまで身近にあった川との関わりをまとめたテキストを執筆した。

文章は砂場のなかに水路を手で掘る話からはじまり、今までの居住地付近や旅先で印象に残った川を紹介しながら、人間が流れを切り、つなげ直した巨大な河川の話に触れ、想像力の話で結ばれている。この場合の想像力は、雨が降ると川の流量が増えることだったり、氾濫と治水工事の関係だったり、文明が発生する要件のことを指している。

*:舞台芸術における集団創作のなかで、決定権を持たないが発言を行う人。話し相手。

名付け得ぬもの

過去に二度、引越しをしようと思ったことがある。

以前、世田谷区の職場に勤めていた。一時間を超える通勤時間に挫けそうになっていたとき、よく道路と路線図を地図のアプリで見比べていた。世田谷区までの電車通勤は地図を見ると遠回りになっていて、西武池袋線から副都心線、東急東横線と直通運転で自由が丘で大井町線に乗り換えるルートだ。あるとき、免許を取得したことをきっかけに原付で環状八号線を通るルートを走ると、通勤時間が半分以下に短縮された。そのまま退職まで乗り続けた。

五年勤めた職場を退職した後、細い路地をはさんだ向かいの集合住宅が重機で取り壊されはじめた。その頃はリモートワークで在宅していたため、騒音と振動に悩まされることになった。収まったと思うとすぐ、隣家の取り壊しがはじまった。このあたりが潮時だろうか、そう思っていた矢先に母校から非常勤講師の話がきた。二つ返事で受けると、交通の便からそのまま住み続けることにした。

今の場所に長く住んでいると人に言ったとき、「なんで越さないの?」と聞かれることがある。そんなときは「気に入っている」と答えながら、夜の静けさのことを思い出す。そこから続くなにかを言い表わそうとしても、言葉は輪郭を持てず、焦点も合わない。一つひとつが具体的でとても近く、全体像がわからない。

でも、それでいいと思っている。最近ようやく地名の由来を知り、氏神の所在地を知った。これは、「話したことはないが毎日見かける人」に対し、ようやく挨拶ができるようになった感じなのかもしれない。

 

著者:小野晃太朗

劇作家・ドラマトゥルクをメインに活動。 1988年に福島県で生まれ、宮城県で育つ。 日本大学芸術学部演劇学科劇作コース卒業。 最近気になることは、治療と鎮痛の違い。 趣味は手仕事。人間の手にずっと興味がある。 2020年に『ねー』で第19回AAF戯曲賞大賞受賞。

X(旧Twitter):@ononokomarch
Instagram:@ononokomarch
HP:https://ononokomarch.tumblr.com/

編集:荒田もも(Huuuu)