大都会の下町・曙橋で過ごした、第二の実家「埴輪ハウス」での青春記|文・小指

著: 小指

 私はかつて、都営新宿線曙橋駅が最寄りの、一戸建ての二階部分を間借りして住んでいた。隣は新宿三丁目、しかも一戸建て、と言うと随分景気がいい奴だなと勘違いされてしまいそうだが、その家は築六十年のオンボロ木造家屋。風呂トイレはちゃんとついていて月5万円だった。

 この家は、いろんな意味で特殊な物件だった。というのも、古い上下で賃貸にしていて、その一階には知らない”おじいさん”が住んでいた。互いの生活圏は薄い板一枚で仕切られていたが、物音が筒抜けなので、おじいさんのところに電話が来るたび黒電話のジリリリリという音が警報器のように響き渡り、電話の声はおろか受話器の向こう側の相手の声まで聞こえてきて、しまいには夜に何回トイレに起きてるのかさえも把握できてしまうくらいプライバシーもへったくれもない家だった。

 もう一つ変わっているのが、この家の周りには何十体という「埴輪」が置かれていて、近所でも一際異彩を放っていた。そのために、我が家は友人たちから「埴輪ハウス」という俗称で呼ばれていた。


 「下のおじいさんはよっぽどの埴輪好きなんだなあ」そう思ってそれ以上深くは考えないようにしていたが、ある日、家の前で何やら材料を広げて熱心に何かを作っているおじいさんの姿を見つけた。そして、気になって手元を覗いてみて私は仰天した。
 なんと、これらの大量の埴輪は全ておじいさんの手作りだったのだ。

 おじいさんは、信じ難いほど器用な手つきでひとつ、またひとつと埴輪を作っていった。全てが手作業とは思えない精巧さで、思わず「すごいですね」と声をかけるとおじいさんは照れた。
 その日から、私は尊敬を込めて、この下階に住むおじいさんのことを「埴輪のじいさん」と心の中で呼ぶようになった。そこから私たちの友情が生まれることになるとは、この時は想像もしていなかったのだった。

 埴輪のじいさんとも次第に打ち解け、顔を合わすたび新作の埴輪を見せてくれたり、時には両足を四十カ所以上も蚊に刺されながら何時間も外で埴輪の作り方をレクチャーしてくれたりした。
 別れ際(と言っても同じ家に帰るのだが)になると、埴輪のじいさんはきまって声のトーンを落としてこう言った。
「新宿は物騒ですから、何か変な奴が来たら大声で叫んでくださいね。すぐにすっ飛んでいきますから。ここで何かあったら、私、お嬢さんの親御さんに顔向けできませんから……」と私の身を案じてくれるのだが、今の所このあたりでダントツ一位で目を引く変わり者は埴輪のじいさんに間違いなかった。


 これまでも色々な場所でフラフラと一人暮らしをしてきたが、この「曙橋」は、どこに住んでも根無し草にしかなれなかったが私が珍しく腰を落ち着けられた思い出深い場所だった。
 何より、とても便利だ。絵を描いている時に画材が切れてもすぐに自転車で新宿の世界堂へ買いに行けるし、昔からの喫茶店や定食屋が現役で活躍しているところも良いなと思う。懐かしさと新しさが絶妙な塩梅で共存していて、何年住んでも退屈することはなかった。住めば住むほど味のでる、スルメのような街なのだ。

 引越してきたばかりの頃、私は近所の偵察がてら目に留まった近くの喫茶店に入ってみることにした。中は品の良いアンティーク風な店内で、それだけでも充分興奮したのになんとソファの上にはお店で飼われている猫が寝そべって気持ちよさそうにくつろいでいた。その様子を目にした瞬間、私は「こんな素晴らしい店がある街なら、良い街にきまってる」と確信した。あの日の直感は、今思えば当たっていたと思う。そして何より、自分もこの街の一部になれたということが嬉しかった。そんな街だった。


多い時は週5で通っていた喫茶店。当時は猫が1匹だったが、今は2匹いる


大のお気に入りだった定食屋。店主のご夫婦が優しく、安くて量もてんこ盛りで最高だった。現在は閉店

 だが、ここで暮らしていた頃はのびのび好き放題生きていたように見えて、現実から逃げ回っていた時期でもあった。

 確かあの頃、ある雑誌から「漫画の連載をしないか」と誘われ、毎晩バイトの帰りに近所の喫茶店で夜遅くまで漫画のネームを描いていた。結局その話はうまくいかずに頓挫してしまったのだが、今思えばあの時、これまで自分の中にあった「私は何も頑張れない」というコンプレックスをどうにか変えたくて自分なりに必死だったのだと思う。

 だが、熱中している時は良いけれど、その反動で真っ暗な部屋に一人で帰ってくると急に背負いきれないような不安や寂しさによく駆られた。そういう時、私は床にピッタリと耳をつけ、下階で埴輪のじいさんが洗い物をしたりラジオを聞いたりしている生活音に耳をすませて心を落ち着けた。
 これだけ書くと私がじいさんのストーカーのようだが、勿論そんなわけはなくそうやって誰かの存在を感じていると、子どもの頃に実家で誰かの存在を感じながらぼんやりしていたことを思い出して寂しさはましになった。
 あの頃はあんなに実家から出たがっていたのに、人の記憶って不思議なものだなと思う。


 それでも寂しさに耐えられなくなった時は、自転車を走らせて「弁天湯」という近所の銭湯へよく行った。


 「弁天湯」のある通りは、うらぶれた雰囲気の小料理屋や飲み屋がまだ現役でぽつぽつとあって、そこだけ駅前の発展もどこ吹く風という感じでお気に入りの場所だった。日が暮れてそれらの店に灯りがともると、まるで私が生まれるずっと前からこの辺の暗闇に浮かんでいる行燈のようにも見えた。

 群れからはぐれた野良犬みたいな気持ちで弁天湯の暖簾をくぐると、入ってすぐの休憩所には湯上りしたばかりのくつろぐ人たちの姿があって、その様子を見るだけで私は少し安心した。深夜のタイムラインを見て「まだ起きてる人がいる」とほっとするのも、同じようなものかもしれない。

 脱衣所で丸裸になり浴場に入ると、仕事を終えて来たんだろうなという感じの女性や夜型の老女が湯船に浸かったり体を洗ったりしていて、私もその中へ当たり前という顔で入っていった。すっぽんぽんの姿で同じ湯に浸かっていると、不思議と何かから受け入れられたような気持ちになって段々と寂しさが和らいでいくのだった。

 浴場の脇には戸があり、そこをくぐると外に突き出した小さな露天風呂があった。露天へ出ると、外を走る車の音がよく聞こえてくる。周りは高い塀で囲まれているが、屋根と木の隙間から、いつも自転車に跨って見ているはずの新宿の夜空が見えた。
 ぼんやり星のない空を眺めていると、きまって「思えば遠くへ来たもんだ」といったようなしみじみとした感情になった。いつまでこんな無責任な生活が続けられるだろう。いつかは実家に帰って、「夢をもてる時期なんて一生のうちのほんの少しだったんだなあ」なんて気づくんだろうか。一人で考えだしたら一日引きずってしまいそうなそんな恐ろしいことも、湯に浸かっていると「まあ、みんなそんなもんだよな」と深く考えずにすんだ。

 湯船から上がると、脱衣所では女性たちが服も着ずに揃ってテレビの方を向いていた。私も一緒になってパンツ一丁でテレビを見ていると、そこに映っているのは年末年始の特番だった。
 その時初めて、「あっ、今日ってまさか…」と気づき、青ざめた。
 その日は、一年の最後の日だった。ここ何年かはバイトやら何やらで帰省できず、去年も家族から「お父さん寂しそうだったよ」と言われて反省していたのに今年においては大晦日の存在すら忘れていた。今頃私以外の家族が集まっている実家を想像し、「うわー……」と頭を抱えた。

 隣のおばあさんが、こちらをじっと見ているのに気がついた。目があって取り合えず会釈すると、いきなり「おたく、お正月帰らないの」と聞かれた。 
 私は動揺して、「そうですね、今年はここにいようと思って……」と言うと、おばあさんはニヤーっと嬉しそうに笑って、「私も」と言った。


 その後、何年かして我が家(埴輪ハウス)も取り壊しになり、私は曙橋から離れることになった。合計、七年もの間ここに住んでいた。
 実は今も時々、新宿へ行く用事があると、ついでに「埴輪ハウス」跡地を覗きに行ってしまう。今は全く知らない家が建っていて、あの日の面影はもうどこにもない。街が恋しいだけなら似たような安物件を探してまた引越して来れば良いのだが、やっぱり私はあの家が恋しい。

 もうあの埴輪もじいさんもいないとわかっていながら、ふとした時に「ああ、新宿(曙橋)に帰りたい」なんて、思ってしまう。でも、あの頃の思い出があるからこそ、私は私でいられるような気がする。


 街は少しずつ変わり、あの埴輪ハウスを筆頭に私の記憶の景色は失われつつある。だが、あけぼのばし通り商店街のバタ臭いアーケードは変わらず、私の遅い青春のシンボルといった風に今もそこに立っているのだった。

著者:小指

小指

漫画家、随筆家。
これまで自主出版にて「夢の本」「宇宙人の食卓」「旅の本」「人生」を刊行。現在、「小指の日々是発明」(TOKION)、「小指の偶偶放浪記」(白水社の本棚)など連載中。また、本名の「小林紗織」名義では画家としても活動。
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編集:ツドイ