タレカツ、深夜ラジオ、薄荷の匂い。私が暮らした道東|文・せきしろ

写真・文: せきしろ

私は北海道出身である。

18歳まで北海道に、もう少し詳しくいうと北海道の「道東」と呼ばれる地域にいた。ざっくりいうと日本地図で北海道を見て右側の尖っている方だ。

当たり前だが道東にはいくつも町があり、そのうちの4カ所の町で私は暮らした。北海道出身というと北海道自体には食いつかれるがその4カ所の町について訊かれることはない。かといって自分から話すこともない。しかし話したくないわけでもなかった。

今回町について書く機会をいただいた。これは4つの町に触れるチャンスである。もしかしたらこれが最初で最後の機会かもしれない。朧気ながらもある部分だけはっきりとした解像度がバラバラの記憶を、私のライフワークでもある自由律俳句と共に記そうと思う。

なんでもあった町、訓子府

ストーブの横にスケート靴が置いてある団らん

せきしろ

私は1970年、昭和45年に訓子府で生まれた。「くんねっぷ」と読む。語源はアイヌ語である。

自分の中ではそんなに時間がたった気がしないのに、当時の写真を見ると予想以上に古ぼけていて驚く。その風景は「まるで戦後じゃないか!」と思うのだが、戦後で間違いない。

訓子府は小さな町である。しかし当時はそんなことを思うわけもなく、スーパーも本屋も駄菓子屋も玩具屋もボウリング場もパチンコ屋もある大きな町だと思っていた。父方の祖父母も母方の祖父母も、つまり祖父母全員が訓子府に住んでいた。親戚も住んでいて、同年代の従兄弟もいて、いつも遊んでいた。

幼い頃の記憶は数えられるくらいしかない。どれも古い昭和の光景だが、最近の昭和ブームの中には入れることができない昭和である。

思い起こせばまず木材が積み上げられている風景がある。林業が盛んな町だったのだろう。おがくずをもらって、クワガタの飼育ケースに入れた覚えがある。香りで記憶が呼び起こされるプルースト効果というものがあるが、木材の香りはいまだに私を郷愁でいっぱいにする。

当時は国鉄の池北線(のちの「ふるさと銀河線」)が通っていて訓子府駅があった。どこか行くには車か汽車(気動車)だった。平日の昼間は父親が仕事だったので必然的に移動は汽車になった。

ある日母親と汽車に乗って買い物に行き、キャラクターもの(たしか仮面ライダー)のハンカチを買ってもらったのだが、それを帰りの汽車の窓から出してはためかせて遊んでいたら手を離してしまい、ハンカチが遠くへ飛んでいってしまった。ふざけて失敗してしまった最初の体験だ。あの時のハンカチが小さくなっていくスピードは忘れていない。

特筆すべきは訓子府のカツ丼はタレカツ丼であるということだ。簡単に説明すればご飯の上に醤油ベースのタレがかかったトンカツが乗っているものである。一般的なカツ丼のように玉子でとじられていない。カツ丼といえば訓子府のタレカツ丼しか知らなかったので、上京するまで玉子のタイプは食べたことがなく、最初は食べるのに抵抗があったくらいだ。

今は玉子のものを好んで食べるようになっているが、たまに無性にタレカツ丼が食べたい時があって、かといって訓子府にそう簡単には行けず、そんな時は吉祥寺にある新潟のタレカツ丼を食べている。その時だけ吉祥寺の一角が故郷になるのだ。

瞰望岩と共にある町、遠軽

光る朝は雪を踏む音が鋭い

せきしろ

4歳の時に引越した。ふたつめの町、遠軽だ。「えんがる」と読み、こちらもアイヌ語が語源である。

旭川から網走を結ぶ石北本線の途中に遠軽駅があり、スイッチバックがある駅で有名である。スイッチバックというと急勾配を上るための仕組みのイメージが大きいかもしれないが、遠軽駅のスイッチバックは平面スイッチバックである。遠軽駅に停車した汽車は必ず前後を入れ替えてから出発するのだ。

停車すると乗客は立ち上がって一斉に座席を180度回転させる。私にとっては見慣れた風景なのだが初めて見ると驚くかもしれない。先日札幌から北見まで特急列車に乗った時、ボーッとしていたために慌てて椅子を回転させたら前方の座席の網のポケットに入れていた自分のスマホがあっという間に2座席後ろのポケットに入っていて、まるでマジックみたいだなと驚いた。

かつて遠軽駅では「かにめし弁当」が有名で汽車でどこかへ行く時はいつも買っていた。その頃のお茶はポリ茶瓶と呼ばれるものに入って売られていて、不安定な蓋を湯呑み茶碗代わりにして飲んだ。ポリ茶瓶を見たことない人には何のことだかわからないと思うが。

遠軽には瞰望岩(がんぼういわ)という約78mの岩が聳え(そびえ)立っている。町のシンボルであり、町民は毎日その岩を見て暮らしている。自殺が多いとか心霊スポットだとかマイナスの話がある場所でもあったのだが、すべてをひっくるめて生活の中に絶えずあり、なくてはならない存在であった。住んでいた頃は瞰望岩の上や下でよく遊んだものだ。

遠軽には小学4年生までいた。数えきれないほどさまざまなことがあったはずだが、小学4年生くらいまでは何も考えていない時期である。学校行って遊んで眠くなったら寝てという毎日が過ぎていった気がする。重要なのはブランコがどれくらいの角度まで漕げるかとか、そこから靴をどれくらい飛ばせるかとかだった。

そんな中で憶えているのは、小学3年生の時に住んでいた地区の少年野球チームに入った時のことだ。コーチに「おまえは下手だから来なくて良い」と言われ、確かに私は上手くなかったし、その頃はコーチの言うことは正しくて絶対だと思っていたので行かなくなった。中学生になって不意にそれを思い出し、コーチといっても近所の野球好きのおじさんだったわけで、あの人は小学生相手にただ威張っていただけではないかと考えたら怒りが湧いてきた。今度会ったら文句を言ってやろうと思っていたが、いつしか忘れて、気づけばあの頃のコーチよりも年上になっていた。あのコーチはまだ元気だろうか。

瞰望岩の下にグラウンドがあって秋になるとそこでお祭りがあった。さまざまな夜店が並び、その中に大きな風船を売っている店があり、弟がその風船が欲しいというので買った。風船の紐を持って、暗闇の中で原色を揺らしながら弟は歩いていた。

家の玄関前に着いた時、弟が風船の紐を離した。自由になった風船はすぐに浮かび上がり、やがて夜空に消えて見えなくなった。私は怒った。なぜ手を離したのかと咎めると「家に着いたから風船も空に帰してあげた」と言った。「せっかく買った風船なのに!」と私はさらに激怒したが、今考えると激怒することでもなく、そこには弟の感性もあったわけで、思い出すと自分が嫌になる。

世の中は昭和50年代。いまでは考えられないかもしれないが父親の煙草を買いに行くというおつかいをよくしていた。『ドラえもん』ののび太もやっていたので同じだなと思い、しかものび太のお父さんと同じ銘柄の煙草だったのでそれだけで嬉しかった。

父親の煙草は180円で、いつも200円渡されるから20円のお釣りがあった。その20円は駄賃となり自由に使って良く、店の前にガチャガチャがあったのでいつもそれに使った。コスモスという会社の赤いガチャガチャで、20円で一回まわせた。出てくるものはいろいろな意味で絶妙かつ微妙であったのだが、私は毎回楽しみだった。

その時得た景品、その多くは消しゴムであり消しゴムといいつつも消しゴムとしては使えないものばかりであったが、いまだに手元にある。

レコードに溺れた町、美幌

雪が斜めになって風を知る午後の教室

せきしろ

小学5年生の時に美幌(びほろ)に引越した。美幌もまたアイヌ語が由来の地名である。ここが3つめの町である。

この時私は初めて転校というものを味わう。始業式の前の日はとにかく緊張して行きたくなくて何か大事件が起こらないかと願っていたことを憶えている。

美幌小学校の校舎は遠軽小学校とは違って木造で古く、大変なところに来てしまったと思ったがすぐに慣れた。各教室に石炭ストーブがあって、石炭が置いてある小屋まで石炭を取りに行って教室に運ぶという遠軽小学校にはなかった係が存在していた。

美幌では多感な時期を過ごしたので、楽しいことも嫌なことも次々と起こった。喜怒哀楽が目まぐるしく変わり、遠軽の時のようになにも考えずに生活することはできない年齢になっていた。ちょうどヤンキー文化が全盛だったので、北海道の片隅にある町はスリリングであり、特に中学は荒れていた。

中学1年生の時に『キャプテン翼』の最新刊を買おうと歩いていたら、釧路ナンバーの見るからにヤンキーが乗っていそうな車が停まって、案の定ヤンキーが降りてきた。「お金を貸してくれ」と言われ、私は『キャプテン翼』を買うはずのお金を渡した。「ありがとう、土曜に返すよ」と言われて信じた。あれから何度土曜が来ただろうか。お金はまだ返してもらっていない。本当に返してくれたらそれだけで話を一本書けるのだが。もしもこれを読んでいたら連絡して欲しい。

美幌には4階建ての「びほろデパート」という名のデパートがあって、中でもおもちゃ売り場が記憶に残っている。おもちゃ売り場には当時一世を風靡したゲームウォッチやLSIゲーム(小型ゲーム機)が売っていて、その中のひとつを試しにプレイすることができた。高価なものであり、そう簡単には買ってもらえるものではなかったので放課後になるとおもちゃ売り場に行くのだが、そこにはいつも「ぬし」と呼ばれている年齢不詳の人がいて、その人がひたすらずっとやっていた。しかも上手だった。結局私は一度もやることができなかった。あの人も元気だろうか。

この頃から私はラジオを聞くようになった。深夜放送を頑張ってリアルタイムで聞いたり、寝てしまって聞き逃したりを繰り返し、やがて120分テープに録音することを覚えた。特に「中島みゆきのオールナイトニッポン」が好きで、そこから中島みゆきさんの曲を聞くようになった。いま考えると小学生には中島みゆきさんの歌詞は早すぎで意味もよくわかっていなかったのに聞いていた。町にはレコードが買える店が数軒あって、最終的に『miss M.』というアルバムまでせっせと買い揃えた。

この頃は洋楽ブームやヘビーメタルの流行などもあって、洋邦やジャンル問わず一気にな音楽に触れた。ある日買った「ザ・スターリン」というバンドのレコードからパンクを知り、すぐにハードコアにはまってしまい、良くも悪くも私の人生は大きく変わった。その時なぜザ・スターリンを買ったのかは思い出せない。ジャケットを含めた佇まいからどこか他とは違うものを感じていたのだろうか。そういえば修学旅行で札幌に行った時も自由行動の時間はタワーレコードでレコードを買うことに費やした。私は少しずつ音楽に浸食されていったのだ。

この頃から、私は漠然とどこか別のところに行きたいと思い始めていた。それは今なお続いている感情だ。ヤンキーも美幌も嫌いではなかったが、いつまでもここにいてはいけない気がして、別の町の高校に行くことにした。そのために割り切って勉強をした。

上京を決めた町、北見

雪解け汚れたバスに乗る制服が新しい

せきしろ

4つ目の町である北見は道東では比較的大きな町である。市町村でいえば「市」だ。訓子府とも遠軽とも美幌も「町」であったから、その頃の私には大都会であった。北見は今ではカーリングの町、あるいは焼肉の町であるが、私がいた当時は玉ねぎと薄荷(ハッカ)の町だった。そのため薄荷の香りを嗅ぐと北見にいた頃を思い出す。特に駅を思い出す。これもプルースト効果だ。

どこか別の場所に行きたかった私は北見の高校に通うことになり浮かれていた。高校1年生の時はまだ美幌に住んでいたので石北本線の汽車で通っていた。北海道の人にしかわからないと思うが通称「汽車通(きしゃつう)」である。高校2年の時に北見に引越して、汽車通から解放されて自転車通学になった。

当時北見にはデパートが3軒あった。きたみ東急百貨店、まるいいとう/通称“丸いデパート”(駅前プラザHOW)、丸正デパート。デパートとは違うが金市館というショッピングビルもあった。書店も大きくて、初めて見る雑誌がたくさんあった。そこにはさまざまなカルチャーの情報があって、初めて触れる情報に私は歓喜し、アンダーグラウンドのものからポップカルチャーまですべてを貪る(むさぼる)ように読んだ。

当時貸しレコード店が2店舗あって、そこでもレコードを借りまくってはカセットテープに録音して、国道沿いのホームセンターで買った聞いたことのないメーカーのカセットプレーヤーで聞いた。授業中以外はほぼ音楽を聞いていた気がする。ちなみに音楽といえば一つ上の学年にThe Birthdayのクハラカズユキさんがいて、会うと北見の話ばかりして飲んで、結果毎回かなり酔っている。

少しずつ学校をさぼるようになり、天気が良ければ北見を流れる無加川の堤防に座っていつも音楽を聞きながら川を見ていた。次はどこに行こうかと考えた。そんな時、仲の良かった友達が東京に行くと言ったので、その一言で良くも悪くも自分の人生がまた変わったのである。

以上が私の暮らした4つの町の話である。1989年、私は北海道を出た。昭和が終わり平成になった時だ。

道東を離れてからの時間が長くなるにつれ、私はだんだんと東京の中に道東を探すようになった。居酒屋の脇に積んである玉葱の段ボール箱に故郷の名前を見つけたり、電器店のプリンター売り場にあるプリント見本の景色に道東を探したり、シチューのCMに見入ったり、道東の天気予報を見るようになった。驚くことに砂利道にさえ望郷の念を抱くようになった。

歳をとった私はもはや今、郷愁だけで生きているといっても過言ではない。ただその郷愁が私に自由律俳句を作らせてくれる。

手袋履くと方言直らぬまま中老
日暮れて雪原青白くなる冷たさ
冬の西日はさよならが多い
毛糸の帽子の雪を取る手は母
故郷の最低気温を見て酒を飲んでいる

せきしろ

あの頃過ごした町が私の創作を助けてくれている。私はいまだあの時の4つの町に生かされているのである。

筆者: せきしろ

せきしろさん

1970年、北海道訓子府町生まれ。遠軽小学校、美幌小学校、美幌中学校を経て、北海道北見北斗高校卒。作家、俳人。『バスは北を進む』、『たとえる技術』、『去年ルノアールで』、『放哉の本を読まずに孤独』、『蕎麦湯が来ない』(又吉直樹氏共著)、『ダイオウイカは知らないでしょう』(西加奈子氏共著)ほか。BS よしもと『又吉・せきしろのなにもしない散歩』出演中。
X(旧Twitter):@sekishiro

編集:はてな編集部