横浜、一回性の連続する街へと向けた視線の束|文・島口大樹

著: 島口大樹
大学進学を機に横浜でひとり暮らしを始め、四年に亘る学生生活のほとんどをそこで過ごした。よく、あてもなく街を散策していた。もう場所は忘れてしまったけれど、どこかの公園で行われていたフリーマーケットで中古のフィルムカメラを買ったことがきっかけだった。
なんとなく手に取ったNikonのそれはあまりに重たく、かなり年季が入っており使えるのかもわからず、ブルーシートを敷いただけの陳列棚に戻した時だった。隣に立ちこちらの手元をじろじろ見ていた客と思しきおじいさんが口を開いた。
「なに、兄ちゃん、これ買わないの?」「いや、もう少し回って考えようかと」「いつ戻って来るの?」「まだわからないですが……」「なんだよ、これすげえいいやつだよ。こんな値段なのあり得ないよ」「はあ……」「兄ちゃん今買わないなら、俺買っちゃうよ」
そんな調子で煽られ続け——その間、店主のおじいさんは何故か一言も喋らなかった——こちらも半ばむきになり、ますます財布を軽くしてしまった。

それからは授業などそっちのけで毎日のように街を歩き回っては写真を撮った。少し移動するだけで景観や雰囲気が変わるのが面白かったから、よく京浜東北線の沿線、横浜駅から石川町駅の辺りへ向かった。先輩から譲り受けた原付に乗ればすぐに行きたいところに辿り着く。適当な場所に停めてはひたすらにそぞろ歩く。知らない街を異邦人として歩くことの密やかな悦びを感じながら、同時に、覚束ない自分を、もう新しいとも言えなくなった生活に繋ぎ止めるための、よすがとなる何かを拾い上げようとしながら。時折、街中でも潮の香りがするのだった。
人を撮りたい訳でも、風景を撮りたい訳でもなかった。と言うより、両者が共にある様を撮りたかった。それ故か、コロナ禍に入ると途端に写真を撮らなくなってしまった。マスクは人と街との交感を阻むものに思え、一枚の映像においては表情以上の何かを欠落させていた。
いつの間にかカメラの調子は悪くなり、当時のデータもどこかに消えてしまった為、この文章に添える写真はスマホで撮ったものにする——どのみち、当時の写真が良かったとは思えないけれど。精彩を欠いたつまらぬ写真しか撮れなかったとしても、街に向けていた視線は束となり、何かと何かの記憶を結んでいるだろう。

横浜駅は「日本のサグラダ・ファミリア」と呼ばれるほど長きに亘って工事が行われてきた。何かが新設されれば今度はどこかで改修が始まる。駅近辺も同様に、整備された区画と大掛かりな手が加えられていないような区画がモザイク状に展開されている。また地図上で見てみると、駅自体はそれなりに幅のある河川に囲われるように存在しており、当然そこには橋が架かっているのだが、飽かずに写真を撮って回っていたのは、こうした条件にも因るのかもしれない。雑居ビルが犇(ひし)めく一角があれば、途端に視界の開けた橋がある。あまりに清潔な空間の先に突として現れる荒んだ鉄骨の骨組み。少し歩けば様変わりする後景、そこを行く老若男女——途方もないまでの一回性の連続、イメージの氾濫。

長く時間を過ごしたのは西口の方面だった。繫華街が南北に延びるように広がっており、よく友人と酒を飲んだし、バイトしていた居酒屋もあった。よく「キャッチしてきます」と言って外に出ては、誰に声を掛けることもなく見慣れた景色の中をふらつき、駐車場の隅に座り込んで本を読んでいた。その辺りでよく見かける路上生活者らしき人がいて、一度、煙草をねだられた。彼と言葉を交わしたのはその一度きりだった。緊急事態宣言が発令されると彼のことが脳裏を過ぎり、再び賑わいだした目抜き通りでその姿を見掛けた時にはどこかほっとしたのだけれど、それも欺瞞(ぎまん)に過ぎないのだろう。彼はどこにいたのか、どうやって過ごしていたのか。その都市のしずけさを、どのように捉えていたのか。今でも横浜駅に行くと、彼の姿を探している自分がいる。

横浜駅西口(相鉄口)の目抜き通りに架かる橋


その橋からの景色

桜木町は駅の東西で全く別の街になる。東側は世間一般の横浜のイメージでもあるみなとみらいだ。無機質なビル、瀟洒(しょうしゃ)な建物や店が並び、僕にとって居心地は良くなかったけれど、家族連れや恋人たち、そこにいる人々の多くからは充足感が溢れていた。そんな彼ら彼女らの世界に視線で割って入るのは躊躇(ためら)われあまり写真を撮らなかったが、僕のような人がいれば話は別だった。一部の人々の表情や所作には、怪我した足を庇うもう一方の足の運びのようなこわばりが滲んでおり、街並みとの齟齬が体を通して表れているようでどこか惹かれた。

西側は野毛で、飲み屋街が広がっている。夜は軒先から空腹を感じさせる匂いが煙と共に洩れ、どこかの喧噪がまたどこかへ伝播し、狭い街路にはまろやかな光が絡み合い、歩いているだけで誰かと酒を酌み交わすような気分になる。レンズを向けられていることに気が付くとひょうきんなポーズをとる酔いどれもいた。昼はやはり人気は少ないのだが、充分明るいにも拘わらずまだ寝呆けているような雰囲気が通りに漂い、ふっと心の栓が緩むのだった。

ジャズ喫茶「横浜ダウンビート」は先輩が働いていたこともあり、よくお世話になった。大音量で音楽を聴く体験は貴重だった。皮膚は顫(ふる)え、音波は内を伝い、心音が同期するように錯覚する。何故か自分がここにいるということを意識する体が気づけば小刻みに揺れている。本や映画、もちろん音楽好きのマスターやお客さんとちょっとした会話をするのも楽しみのひとつだった。その付近には野毛山動物園もあり、入園無料だったので気軽に足を運ぶことができた。柵や檻の前に立ち、普段の生活では目にしない動物たちを眺めながら思惟がよそへと逸れていき、気付けばざわめきに包まれている。近所から歩いて来たのか、たくさんの幼稚園生が嬉々とした声を上げながら列を為して通り過ぎていく。子供たちにはどんな景色が見えているのか、彼ら彼女らが目にしている光景を想像するのはありもしない記憶を思い返すようで、そこはかとない充実感が心を掠めた。


野毛の或る通り


或る小径


横浜ダウンビートの看板


店内


野毛山動物園入口


シマウマやキリン、ライオンやクマなど、比較的体の大きな動物も見ることができる

京浜東北線は南下するにつれ微かに湾曲し、関内は線路を挟んで北と南で別れる。北側には横浜スタジアムや赤レンガ倉庫があるのだが、よく散歩していたのは南側だった。商店街が長々と続き、そこには生活のにおいがある。街と人が互いを包み合うように存在していることが、人々の様子、どこか弛緩した手足の振りや投げやりだけれど決して冷淡ではない口調から察せられる。
或る時、商店街のベンチに座りカセットテープを聴いている中年の男性がいたのだが、イヤホンは外されたまま脇に置かれ、英語で歌われるブルースはプレーヤー本体から流されていた。彼に気付かれぬよう何度かシャッターを切り、けれど何故イヤホンを使わないのか、どういう料簡なのかと疑問が拭いきれず、「写真撮ってもいいですか?」と尋ねることで会話を持ち掛けた。驚いた表情を見せながらも「私でよければ」と零(こぼ)す彼に、次いで本命の質問を重ねてみると、見知らぬ若者に話す気恥ずかしさと、こだわりを語る誇らしさが混ざったような声音でこう言ったのだった。

「風が、風とかの音が、こう、うまい具合に被さるんです。イヤホンしてたらずっと同じだけど、こうして聞けば、毎回違う曲になる——」

そこで自分がどんな反応をしたのかあまり覚えていないし、何を言っているのかよくわからなかった気がする。けれど、彼の語ったそれは、僕が写真を撮るという行為を繰り返す中で見出したもののひとつではなかったか。人と街との一瞬の交錯、すぐに別のそれに押しやられるイメージ、簡単に言ってしまえばやはり一回性。彼はそれを、風とかの音、と名指したのではなかったか。その場にいる誰もが二度と同じように居合わせることはなく、その事実を特段慈しむでもないまま鳴らされる足音、自転車の、車の、微かに聞こえる風を切る音、犬が首元で鳴らす鈴の、どこかの工事の、その場へ届く一回限りの重奏と調和されるメロディを、彼は聴いていたのではなかったか。僕が見出したもののひとつ、と今では言えるそれは、果たして彼の話を聞く以前に、確かな輪郭を持って自分の中にあったものであろうか。

彼と出会った地点からそう遠くない所に、喫茶店「モンレオン」がある。週に一度は必ず訪れ、ナポリタンとアイスコーヒーを頂いた。注文のやり取り以外にマスターと何か話をするようなことはなかったが、いつからか店に入って眼が合うと和やかな笑みを浮かべてくれるようになり有難かった。先の商店街を十五分ほど歩くと黄金町に行きつき、そこには「シネマ・ジャック&ベティ」がある。よくレイトショーを見に行った。鑑賞後、考えを巡らせながら少し遠回りして帰る時の夜更けの風は殊更に気持ち良かった。


関内の商店街


先の商店街を曲がった所にある一角


モンレオンの外観


たまにメニューを見るけれど、結局同じものを注文してしまう


シネマ・ジャック&ベティの外観

石川町駅から北東の方角には横浜中華街や山下公園があったが観光客も多く、その振る舞いは端から出来合いの感じがあり、あまり惹かれなかった。その一方で、裏路地や閉店間際の店内にいる人の、露悪的にすら思える倦怠(けんたい)感の張りついた表情には虚をつかれ、心地よい困惑が生まれた。

駅の東側には元町があり、欧米文化との合流地点でもあった商店街が東西に伸びている。と言うのも、その南にある山手は開港時に外国人居留地として拓かれた土地だからだ。辺りには今でも異国情緒漂う街並みが残っており、歩いているうちに空気が体に馴染み、安直にも生活から切り離されていくようで、そんなどっちつかずの心身を弄ぶように、普段では撮らないような光景にもシャッターを切った。また山手の南東には、戦後米軍の接収地となった本牧があり、稀にそちらの方まで足を延ばした。これらの地域には輸入雑貨を扱うような店も多く、ミリタリー古着もよく目にした。一方、山手から坂を下って川を渡り、駅の西側に行くと寿町がある。一見変哲のない住宅街のようにも見えるが殺伐とした印象があり、ネットで調べてみるとかつては日雇い労働者が多く集まる街であったらしいとわかった。


元町の商店街。正式には横浜元町ショッピングストリートという名前らしい


山手の或る通りからの光景。近くには外国人墓地もある


本牧山頂公園内にある消火栓。米軍接収地であった頃に実際にこの場にあったものが保存されている

横浜に関する本や記事を読んではまた街に赴き、ものの十分歩けば変わる街並みや雰囲気に肌を添わす。そうしてひたすらに歩き続けながら感じていたのは、自分が踏む土地、路面の下で脈を搏つ歴史だった。今僕が詳らかに語ることは出来ないけれど、たとえば開港による外国人の、また戦後の米軍家族の移住の影響、みなとみらい開発の為に集まった労働者たちの行方——様々な場所で一個人のスケールを越えたうねりがあり、食や音楽など多くの文化が発展を遂げ、それぞれの街に色が落とされていった。決して華やかな色彩ばかりではかったが。(山崎洋子さんの『天使はブルースを歌う 横浜アウトサイド・ストーリー』、山田清機さんの『寿町のひとびと』の二冊くらいは名前を挙げておきたい。思えば、黒澤明の『天国と地獄』の舞台もまた横浜だった。)
ならば僕がしてきたことは、人と街が共にある様を映像に収めることは、表層を撫でまわすような行為に過ぎなかったのだろうか、とふと思い至る。けれど、一個人に見える景色には限界があるだろう。それに、それぞれの街には、そこにあるたったひとつの店にだって、固有の磁場がある。重なった時間が、歴史が支えるそれ。引き寄せられてか遠ざけられてか、絶えず一回性を帯びつつ人はどこかに集まり散っていく。すれ違う人同士にさえ引力や斥力は働く。自分の意志によるものだと信じて疑わぬ行動が、既に街の動線に、無数の人の足跡に絡まっていることだってあるだろう。知ろうとも知らずとも、人は現在の街を生きながら絶えず過去からの風を浴びている。

何の因果か、カメラを手にして歩き回った街についてこうして認めている。一人の見知らぬ人物があの場にいなかったら、僕はそれを買わなかったかもしれない。そうなれば横浜の歴史を知る機会もなかっただろうし、表現への端緒が開かれることもなく、作家になどならなかったかもしれない。この文章は、長い時間をかけて横浜という街が僕を通して書いている——妄想に過ぎぬそんな考えも、或る地点から見れば案外理に適っているだろうか。書ききれなかった時間や光景が視界に点るけれど、それらはあの街のどこかに、誰かの記憶の中に、沈んでもいるのだろう。

著者:島口大樹

島口大樹

島口大樹 (しまぐち・だいき)
1998年埼玉県生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2021年、「鳥がぼくらは祈り、」で第64回群像新人文学賞を受賞しデビュー。同作が第43回野間文芸新人賞候補となる。2022年、「オン・ザ・プラネット」が第166回芥川賞候補となる。最新刊は、『遠い指先が触れて』(講談社)。

編集:ツドイ