東京でブーイングを浴び続けたプロレスラーが、「社長」というビッグカムバックを果たすまで|棚橋弘至さん【上京物語】

インタビューと文章: 榎並紀行(やじろべえ) 写真: 小野奈那子


進学、就職、結婚、憧れ、変化の追求、夢の実現――。上京する理由は人それぞれで、きっとその一つひとつにドラマがあるはず。地方から東京に住まいを移した人たちにスポットライトを当てたインタビュー企画「上京物語」をお届けします。

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今回の「上京物語」に登場いただくのは、プロレスラーの棚橋弘至さんです。

2023年12月、新日本プロレスリングの11代目代表取締役社長に就任した棚橋選手。創設者のアントニオ猪木さん、二代目の坂口征二さん、三代目の藤波辰爾さん以来、19年ぶりの「プロレスラー社長」として話題を集めています。

プロレスと出合ったのは、岐阜県大垣市で過ごしていた中学時代。大学で学生プロレスにのめり込み、ついには上京して、世田谷区野毛にある新日本プロレスの門をたたきます。

「上京してから辛いこともたくさんあった」という棚橋選手。しかし、必死で受け身をとり続け、ビッグカムバック*1を狙い続けてきました。岐阜の野球少年だった棚橋選手がプロレスと出合い、上京し、トッププロレスラーになるまでの日々を振り返っていただきます。

エースを目指し「肩が外れるほど」練習した少年時代

── 新日本プロレス社長就任、おめでとうございます。

棚橋選手(以降、棚橋) ありがとうございます、社長です(ソファに深く腰を沈めながら)。

── さっきまで紳士だったのに急にふんぞり返らないでください(笑)。さて、棚橋選手は岐阜県大垣市のご出身ですが、少年時代から活発だったのでしょうか?

棚橋 そうですね。自然の中で遊び回っていました。夏場は、実家のそばを流れる揖斐川でよく泳いでいましたね。愛犬のレオと一緒に川へ飛び込んで。風邪をひいた記憶もなくて、小学校、中学校は皆勤賞だったと思います。

小学生の頃の棚橋選手

── 身体が大きくなったのは、いつ頃からですか?

棚橋 中学に入ってからですね。野球を始めて、身体を大きくするためにひたすら食べまくりました。給食の牛乳を飲まない人からもらって、1日1リットルくらい飲んでましたし、ご飯もかなりの量を。漫画みたいに、口いっぱいにご飯を詰め込む食べ方に、なぜかハマっていました。その結果なのか、入学時に153cmだった身長が、卒業する頃には175cmになっていました。

── 当時から筋トレもしていたと。

棚橋 チームのエースになりたかったので、ジムにも通っていましたし、柱にくくりつけた自転車のチューブでシャドーピッチングをする『巨人の星』みたいな練習も取り入れていました。普通に肩が外れましたけどね。あとは、砲丸投げの球を家の前の田んぼに向かってひたすら投げ込んだり。ただ、それでもエースにはなれなくて、ずっとライトで8番でした。

高校時代は甲子園を目指していた棚橋選手

プロレスと出合い、人生が1000倍楽しく

── プロレスを好きになったきっかけは覚えていますか?

棚橋 中学生のときなんですけど、2つ下の弟が夜中にこっそりテレビを見ていたんですよ。見ていたのはプロレスの試合で、それがとにかく面白くて、一緒に見るようになりました。VHSのビデオに録画した試合を繰り返し見たりと、一気にハマりましたね。

1992年くらいなので、ちょうど新日本プロレスの「闘魂三銃士(武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也)」が駆け上がっていく時代でした。特に、武藤敬司さんがかっこ良かった。全日本プロレスでは、小橋建太さんのファンでした。武藤さんも小橋さんもオレンジのタイツを履いていて、ムーンサルトを使うところ、華があるところも共通していましたね。

── プロレスのどんなところに魅せられたのでしょうか?

棚橋 こちらの想像を、軽く超えてくるところですね。最初にそれを感じたのは、全日本プロレスの小橋さんとスティーブ・ウィリアムスの一戦(1993年8月31日、豊橋市総合体育館)です。小橋さんがウィリアムスの垂直落下式バックドロップを何発もくらって、さすがにもう立てないだろうと思っても、そのたびに立ち上がって。30分くらい戦って最後は小橋さんが負けるんですけど、鳥肌が立つくらい感動しました。

── ちなみに、初めて生でプロレスを観戦したのは?

棚橋 高校3年生の時ですね。地元の岐阜に全日本プロレスが巡業にきて、同級生と見に行きました。メインイベントは6人タッグマッチで、小橋さんや三沢光晴さん、川田利明さんが出場していました。渕正信さんの異常な身体の大きさ、厚みに衝撃を受けたのを覚えています。「人間じゃねえな」と。

ただ、高校時代に生観戦したのはその1回きりで、本格的に追いかけるようになったのは高校を出て立命館大学に入ってからです。関西を中心に新日本、全日本、大日本プロレスの大会、藤波辰爾さんが設立した「無我」の旗揚げ戦も見に行きました。

それから、新日本プロレスの1.4東京ドーム大会にも毎年行っていましたし、1998年4月4日の猪木さんの引退試合も観戦しています。


── すごい。かなり熱心なプロレスファンだったんですね。

棚橋 僕はプロレスと出合ってから、生きるのが1,000倍楽しくなったんですよ。世の中にこんなに面白いものがあるのかと。自分がプロレスラーになってプロモーションを頑張れるのも、かつての僕のように、これからプロレスに熱中してくれる人がいるはずだと信じているからです。

── ちなみに、当時、生観戦した中で最も印象に残っている試合を挙げるとしたら?

棚橋 1995年に東京ドームで開催された、新日本プロレスとUWFインターナショナルの対抗戦。そのメインだった武藤さんと高田延彦さんの一戦ですね。最後は武藤さんが四の字固めで勝つんですけど、あれほど会場が一体になって盛り上がった試合はなかった。学生の時に観客として聴いたあの歓声は、今も強烈に覚えています。僕自身がプロレスラーになってからは、あのときの会場で感じた爆発的な熱狂を超えることが一つの目標になりましたね。

学生プロレスとバイトに明け暮れた大学生活

── 自分もプロレスラーになりたいという気持ちは、いつ頃に芽生えましたか?

棚橋 大学に入って、身体が一気に大きくなってからですね。高校時代は68kgだった体重が80kgを超えてきて、このまま成長していけば自分もやれるかもしれないと。大学はプロ野球を取材する記者になろうと思って入ったんですけど、身体が大きくなるにつれてプロレスラーになりたいという気持ちが膨らんでいきました。

クラスメイトへの自己紹介のときも、みんなが弁護士や司法書士の夢を語っている中、「将来の夢はプロレスラーです」って宣言して。こいつはやばいと思われたのか、しばらく誰も話しかけてきませんでした。

── 入学後すぐ、学生プロレスも始めたんですよね。

大学時代の棚橋選手 Ⓒ新日本プロレス

棚橋 新入生を勧誘するサークルのブースがたくさんある中で、一番目立っていたのがプロレス同好会でした。そこで当時の会長に「出身者で、プロレスラーになった人っているんですか?」って聞いたら「おるぞ」と。すげえ、プロレスラーになれるんだと思って、そのまま入りました。でも、実際にはそれまでにプロになった人はいなくて、まんまとだまされましたね。

── それまでは外から見るだけだったリングに、自分が上がってみてどうでしたか?

棚橋 プロがリングでやるようなことは、何もできなかったですね。そこで、まずはチョップから鍛えようと、ひたすら壁をチョップして手がパンパンになりました。それでも、プロレス好きな連中とワチャワチャやっているのが楽しかったです。

実況から「いま果敢に攻めているあの選手ですが、じつは全く単位がとれていません」みたいな煽りが入って笑いが起こったり。そういう感じの雰囲気でした。ただ、そこで人に見られる喜びや、盛り上がったときの快感みたいなものは感じていて。それが僕のレスラーとしての原風景ですね。

── ちなみに、プロレス以外の、一般的な大学生らしい思い出はありますか?

棚橋 河原町や三条、四条などには、よく古着を買いに行っていました。学生プロレスでの活動以外は、わりと普通の大学生だったんじゃないかと。3年生からは祇園のクラブでアルバイトを始めて、蝶ネクタイ姿で水割りのセットを運んでいました。チーママがかわいがってくれて、仕事終わりにおいしいものを食べさせてくれましたね。普通のバイトより時給も良かったんですけど、ほとんどプロレスの身体づくりための食費に消えました。

3回目の入門テストでようやく合格

── 初めて新日本プロレスの入門テストを受けたのが、大学2年生のときだったと。

棚橋 1回目の入門テストのとき、初めて世田谷区野毛にある新日本プロレスの道場を訪れました。ずっと憧れていた聖地に緊張しつつも「こんなに住宅街のど真ん中にあるんだ」と驚きましたね。

野毛にある新日本プロレス道場

テストの試験官は橋本真也さんで、志願者は35人くらいいたと思います。全員並んでスクワットしたり、ブリッジしたり。でも、その時は合格者が一人も出なかった。僕が合格したのは、大学3年生の1月に受けた3回目のテストです。

── 2回の不合格で、心が折れることはなかったですか?

棚橋 それはなかったですね。体調さえ万全なら絶対に合格できるはずだと思っていましたし、それだけの準備もしていましたから。本番のテストがスクワット500回なら、1000回は軽くできるようにしておこうと。結果的に、その年の合格者5名のうちの1名になることができた。テストが終わった後に、長州力さんがかけてくれた「よし、今年(の合格者)はこの5人だな」という言葉は、今でも鮮明に覚えています。


── ちなみに、就職活動はしていましたか?

棚橋 してなかったし、プロテストに合格したら大学もやめるつもりでした。1日も早くデビューしたかったので。でも、長州さんから「1年待ってやるから、大学だけは卒業してから来い」と言われて。とりあえず、就職課に行き内定先に「新日本プロレスリング株式会社」と書いて提出しました。同学年では“内定第一号”だったと思います。

ちなみに、大学4年生になった時点で足りない単位が58もありました。必死に勉強し、なんとか卒業できました。

── 普通、入門テストに合格してから1年以上も待ってもらえるものなのでしょうか?

棚橋 いや、あまりないことだと思います。普通は「来年、もう一度受けにこい」と言われるので。

── それが棚橋選手の場合だけ、どうして待ってもらえたのだと思いますか?

棚橋 いやーわかんないですけど、光るものがあったんでしょうね(笑)。

── さすがです。

棚橋 でも、僕から言わせたら、のちに「100年に一人の逸材」「エース」と呼ばれる人間を2回も落とすなよと。もし3回目も落とされていたら、今の新日本はないですからね(笑)。

入門直後の棚橋選手 Ⓒ新日本プロレス

厳しくも楽しかった青春の「ヤングライオン時代」

── 大学卒業後の1999年4月に棚橋選手は上京し、野毛にある新日本プロレスの寮に入ります。デビューまでは外出禁止で、かなり厳しい生活だったそうですね。

棚橋 起床は朝8時。寮や道場を掃除して、10時から昼過ぎまで練習。その後は洗濯や「ちゃんこ番」と呼ばれる食事の準備などがあり、大変は大変でした。ただ、うれしいこともあって、道場の冷蔵庫にあるものは基本的に全て食べ放題なんです。入門当時は身体をつくるために1日6食くらい食べていて、入門時に90kgだった体重が、半年後のデビュー時には103kgに増えました。

道場から徒歩圏内の等々力駅前に「紅蘭」という中華屋さんがあって、当時はよく通っていましたね(現在閉店)。おいしくて量も半端なく食べられて。当時の僕の身体をつくってくれたお店でした。

今は身体づくりだけに費やす時間はないけど、許されるならまた筋トレと食事だけの生活を送ってみたいですね。

── 道場での練習は、厳しくも楽しいという感じだったのでしょうか?

棚橋 いや、楽しくはなかったです。でも、1日も早くデビューしてやろうという野心しかなかったので、誰よりも声を出し、必死で練習メニューをこなしました。先輩たちの信頼を得るために受け身の練習にも積極的に参加し、どんどん投げてもらって。そこで、「こいつはできるな。もう試合してもけがをしないな」という信頼を、練習を通して勝ち取っていったという感じですね。

── では、寮生活はどうでしたか? 先輩からの厳しいご指導などもありそうなイメージですが。

棚橋 いや、楽しかったですよ。寮には同期の鈴木健三さんもいましたし、当時の寮長だった真壁刀義さんも(練習以外のときは)本当に優しかった。真壁さんはきっぷのいい先輩で、しょっちゅうお小遣いを渡してくれては「コンビニで好きなもの買ってこいよ」と。そのお金で、みんなでよくスイーツを食べました。そのときから、すでに「スイーツ真壁」でしたね。年齢が近い人も多くて、柴田勝頼さんとはファッションの趣味が合ったので、デビュー後はよく裏原宿まで一緒に買い物へ行きました。

── 青春ですね。ちなみに棚橋選手はヤングライオン時代(新日本プロレスに所属する若手選手の通称)、武藤さんと長州さん、お二人の付き人を同時にしていた時期があったそうですが、本当ですか?

棚橋 本当です。いや、大変でしたね。当時は、柴田さんが藤波辰爾さん、井上亘さんが佐々木健介さん、鈴木健三さんが橋本真也さんについていたんですけど、どうやりくりしても若手の人数が足りないんですよ。そこで、僕が長州さんと武藤さんのお二人につくことになった。一人でも無理なくらいなのに、よりによって長州力と武藤敬司ですからね。

一度、先に武藤さんと食事に行くことが決まっていた日に、長州さんから「おい棚橋、メシ行くぞ!」と誘われたことがあるんです。そこで、「すみません! 今日は先に武藤さんにお誘いいただいてまして……」と言ったら、長州さんは「お前、断ったら次はないからな」と。

── 恐ろしい……。

棚橋 それ以来、武藤さんから誘われる前に、必ず長州さんにお伺いを立てるようになりました。僕からすればどちらも大先輩なんですが、その中でもキャリアの順番がありますから。

── ある意味、処世術を学んだと。

棚橋 社会人経験がないままプロレスの世界へ飛び込んでいるので、一つひとつが学びです。先輩方からは、本当にいろいろなことを教えていただきましたね。

ブーイングが「棚橋コール」に変わった瞬間

── 棚橋選手がデビューした1999年から2000年代は、総合格闘技のブームもあってプロレスに逆風が吹いていた時代かと思います。新日本プロレスからも武藤さんをはじめ多くのレスラーが抜けましたし、棚橋選手も他団体への移籍を勧められていたそうですが、それでも新日本にとどまった理由は何だったのでしょうか?

棚橋 それはもう、「新日本プロレスが好きだから」という以外の理由はありません。確かに、当時は総合格闘技が大ブームになっていました。でも、僕はプロレスを好きになってから人生がより楽しくなった。きっと、同じように思ってくれる人もいるはずだと信じていましたし、「プロレスの面白さをもっと多くの人に知ってもらいたい。そうすればお客さんは必ず増えるはずだ」という確信があったんです。

── プロレス全体に逆風が吹いていただけでなく、棚橋選手もブーイングを浴び続けるなど厳しい時期だったと思います。ご自身に対するプロレスファンの反応は、どのように受け止めていましたか?

棚橋 ブーイングはデビュー7年目の2006年くらいから始まったんですけど、正直、戸惑いましたね。僕は生まれてから「人に嫌われた」と感じる経験がなかったし、何なら「みんな僕のこと好きでしょ」と思っていたので。だから、突然のブーイングにどう対処していいかわからず、ただただへこんでいました。

でも、ブーイングを浴びているうちに気づいたんですよ。僕がブーイングを浴びるということは、対戦相手には逆に声援が飛ぶ。つまり、僕がブーイングを浴びれば浴びるほど、試合が盛り上がるんです。それに気づいてからは、あえてチャラいキャラクターを強めて、より多くのブーイングをもらうようにしました。応援ではないけど、このブーイングは僕がファンのみなさんから勝ち取っているリアクションなんだと考えるようにしたんです。

── そうしたブーイングが歓声に変わった、ターニングポイントはあったのでしょうか?

棚橋 2009年6月20日の大阪大会ですね。チャンピオンの中西学さんに挑んだ試合でした。中西さんは京都出身で、地元ファンの声援がすごくて。逆に、僕は大阪のファンからいつも以上のブーイングを受けていました。

中西コールとブーイングが入り混じる中で始まった試合でしたが、チャラい風貌の僕がチャンピオンに一生懸命立ち向かっていくうちに、ファンの方が認めてくれたのか、「中西コール」と「棚橋コール」が少しずつ交錯し始めて。最後、僕が勝った瞬間にドワーッと盛り上がったんです。ブーイングで始まったのに、みんな僕が勝って喜んでるじゃんと。その日を境に少しずつブーイングが減っていき、どの会場へ行っても歓声をもらえるようになりましたね。「棚橋はチャラいだけじゃなく、一生懸命プロレスに取り組んでいるんだな」と、ファンの方が認めてくれたのだと思います。

ターニングポイントとなった2009年6月20日の試合に勝利 Ⓒ新日本プロレス

── 信念を貫きとおして、ついにブーイングを歓声に変えてしまったと。でも、普通はつぶれてしまってもおかしくないですよね。

棚橋 ブーイングはね、今の新日本のトップレスラーである内藤哲也なんかも受けていた時期があるんですけど、僕の場合は特に長かったですね。でも、僕には信念があって。なんなら「僕の良さがわからないやつがダメなんだ」くらいに思っていました。当時のファンのみなさま、すみません。もう10年以上前のことなので許してください。

戦いの傷を癒やす、世田谷での穏やかな暮らし

──2007年にご結婚を発表されていますが、住環境や暮らしぶりに変化はありましたか?

棚橋 結婚当初は新日本プロレスの道場のすぐ近くに住んでいましたが、長女が生まれた時に同じ世田谷区内の中町というところへ引っ越しました。そこには2年くらい住み、長男が生まれて家が手狭になったタイミングで、道場から坂道を上ったところにある等々力の賃貸マンションへ移って。わりと長く住んだ後に、同じ区内に現在のマンションを買いました。だから、世田谷区内で3回引越していますね。

──道場に近いこと以外に、ずっと世田谷区内にとどまっている理由はありますか?

棚橋 やっぱり静かですし、治安も安定しているし、生活も子育てもしやすいですよね。なので、世田谷区には他のレスラーも住んでいて、家族同士のつながりもありますね。同じくレスラーを夫にもつママ友もたくさんいるので妻もお気に入りの場所だと思います。

近所を歩いていても静かに会釈してくれるくらいの距離感で暮らしやすいです。

ちなみに、家族でよく行っていたのは駒沢にある「バワリー・キッチン」というおしゃれなカフェです。フレンチトーストがすごくおいしくて。

──では、これからもずっと世田谷に住み続けたいと。

棚橋 いい街なので長く住みたいですね。でも、いつかは地元の岐阜に帰りたいかな。

社長としてプロレスラーとして、棚橋弘至が目指すもの

── 上京のご経験や東京での暮らしは、プロレスラー棚橋弘至に何をもたらしましたか?

棚橋 東京に出てくる時は、とにかく「一旗揚げるぞ」という気持ちでした。プロレスラーとして有名になって、地元へ凱旋(がいせん)するんだという野心をもっていた。でも、そこで入門テストに落ちたり、東京での厳しい生活が待っていたり、ひとりぼっちの寂しさを味わったり。いろんな困難に直面して。

そんな経験を経てわかったのは、人生には必ず良い時期と悪い時期が、繰り返し訪れるということ。最終的に亡くなるときに平均したら、だいたいトントンになっているんじゃないかと。

僕自身、上京してから辛いこともたくさんありました。でも、いつしか「今はダメだけど、そのぶん、これから良いことしか起きないわ」と思えるようになりました。プロレス的に言うと、「受け身をとりながら生きていく」ってことですね。そうすれば、どっかでビッグカムバックがやってくるはずです。

Ⓒ新日本プロレス

── 棚橋選手の場合、特に若手の頃は「受け身をとる時期」が長かった。

棚橋 リングで受け身をとり、私生活でも受け身をとり。いまだに受け身しかとっていない。だからこそ、これからものすごいビッグカムバックがあるんじゃないかと思ってますよ。

── それこそ社長としてプロレスラーとして、多くのファンがこれからのご活躍を期待されています。

棚橋 ありがとうございます。社長としては、まず「プロレスを楽しんでもらえる状況」をつくり直したい。2020年にコロナが流行するまでは、プロレス界全体が本当に盛り上がっていました。地方遠征や海外遠征も多く、どの会場も満員で。

コロナ以降、少しずつ人が集まれる状況になりつつありますが、まだプロレス会場まで足を運ぶのは怖いという人も多いと思います。新日本プロレスとしては、できる対策を全てやりながら、テレビやインターネットを通じて会場が盛り上がっている様子を届けていきたい。そして、また安心してプロレスを観にきてくれる人を増やしていければいいなと思います。それまで、新日本プロレスとしてのクオリティを保ち続けたいなと。

── その中にはもちろん、現役プロレスラーとしての棚橋選手もいる。

棚橋 そうですね。個人の目標としては、IWGP世界ヘビー級王座の戴冠です。その先も連続防衛しながら日本全国を回って、もう一度レスラーとしてV字回復したいですね。

お話を伺った人:棚橋弘至(たなはしひろし)

棚橋弘至

1976年生まれ、岐阜県大垣市出身。立命館大学を卒業後、1999年に新日本プロレスに入門し、同年10月にデビュー。“100年に一人の逸材”としてリング内外で活躍し、低迷していた新日本プロレスをV字回復に導いた立役者。2023年12月より新日本プロレスリング株式会社の代表取締役社長に就任。
X(旧Twitter):@tanahashi1_100

文:榎並紀行(やじろべえ)
写真:小野奈那子
編集:はてな編集部

*1:ファンからたたかれ続けたプロレスラーが、ある試合を機にヒーローに転じるなど、それまでの流れを大きく覆すような展開のこと