そこで出会った仲間と中1でバンドを組み、20歳の頃、GOING UNDER GROUNDという名前でCDを出し、バンドも今年で25年になる。
自然もあればスタジオもある。バンドキッズを育んだ景色
桶川市は都心から高崎線(現在は湘南新宿ラインですね)に乗れば1時間弱。田舎ではあるがド田舎ではない、所謂都心のベッドタウンで、駅前にはCDショップや古着屋、楽器屋、国道沿いにはゲーセン、ファミレスなどのお店がひと通り揃っていた。
ただ「暮らすには何不自由ない街だけど、これといった特色もない退屈な街」というのが、その頃に桶川で暮らしていた若者の共通した印象だったように思う。
僕が住んでいたのは、現在の「桶川加納IC」から更に奥まったあたりで、少し歩くと隣の市というような場所だった。家の周りは全て田んぼか畑で、夏になると一斉に鳴くカエルの声が煩いくらいだった。
家族が寝静まった真夜中、こっそりタバコを吸う時に使っていた北側の窓からは点滅する送電線や電波塔、隣の街のボヤけたネオンが見えた。
タバコの煙を燻らせながら見るその景色が当時からとても好きで、22歳の頃に「トワイライト」という曲にその景色を託した。
そんな僕の家と丁度中間にあったのがギターの中澤の家で、必然的にそこが、僕らの溜まり場になった。
僕らは毎日でもスタジオに入りたかったが、スタジオ代が1回4000円。中学生が捻出するにはとてもじゃないが現実的な値段ではなかった。どう頑張ってもスタジオに入れるのはよくて月2回程で、スタジオに入る日は、僕らにとっての一大イベントだった。
朝からスタジオに着て行く服を選び、頭から靴の先までバッチリオシャレして、途中にあったホカ弁で海苔唐揚げ弁当大盛りを買う。楽器を担ぎスタジオのあった太陽楽器まで自転車で向かうあの道のりの高揚感は、何にも変えられない。
音楽と共に佇んだ、荒川の河川敷
そんなバンドキッズだった僕らの日々の最重要課題は、バンド以外の時間をどうやり過ごすか?という事だった。
その頃は学校が終わると大抵、ギターの中澤寛規の家に集まり、柿ピーと甘いコーヒーを啜り、市立図書館で借りてきた古今東西ロックの名盤をテープにダビングし、録画してあるTHE BLUE HEARTSのTV出演番組や、「アコム」(NOT消費者金融)でレンタルしたPUNK ROCKのドキュメンタリー映画をビデオデッキが壊れるまで(実際本当に壊れた)観たり、自ら書いたリクエストハガキに自らで応え軽快なトークと共にお送りする架空のラジオ番組を制作して悦に入るのがお決まりの過ごし方だった。
それでも放課後を持て余した日には溜まり場から程近い「ヴィラ坂田山」(現在は住宅街になっている)という雑木林に、探検と称してエロ本を探しに行ったり、お金があれば近所のスーパーで安い肉を買い、それをアルミホイルに包んで焚き火に突っ込み食べるという遊びをしていた。一度近所の人に通報され、お巡りさんに滅茶苦茶に怒られた事を今思い出した。
高校生になるとメンバーとは別々の学校になった。僕が通った高校は市の端っこにあり、校則が理不尽に厳しかったり同級生のごたごたに巻き込まれたりの連続で心が折れ、高校生活を早々にドロップアウトした。
朝、行ってきますと家を出て学校へは行かず、荒川の河川敷にあった「ホンダエアポート」という小さな飛行場の土手に寝転がり停泊する飛行船を眺めながら、CDウォークマンでWEEZERやThe Smithsを聴いて時間を潰していた。その時のなんとも言えない感情を37歳の頃「Teenage Last」という曲に託した。
東京で疲弊して初めて知った「故郷」の意味
僕が桶川という自分の地元を本気で意識するようになったのは、それから5年後、東京で暮らし始めてからだ。進学や就職をしないなら20歳になった時点で家を出るというのが父親との約束だったからだ。バンドは、何となく転がり始めていたが、まだ喰うには至らずで、半ば急かされるように現在の妻と同棲という形で地元を出た。
東京での生活は、若さ故失敗の連続で、東京暮らしの理想と現実のギャップに、未熟な僕は段々と疲弊していった。
そんな中、唯一の心の拠り所がバンドだった。ライブ以外のバンド練習の日でさえ心待ちにしていた。
バンドの練習には、僕以外地元にいるメンバーとの中間をとって、戸田公園駅にある「スタジオパークサイド」という練習スタジオを使っていて、すぐ側には埼玉と東京を分ける荒川が流れていた。
練習を終えた夕暮れ時、大宮行きの埼京線に乗り込み桶川に帰るメンバーがいつも羨ましかった。
それまでの僕にとって、荒川は都心に向かうワクワク感の象徴だったが、桶川を離れ、東京で暮らし始めたことで、そこに郷愁という感情もプラスされた。
あの頃スタジオの行き帰りに、ため息混じりで見た荒川の景色を思い出すと、今でもちょっとだけ胸が苦しくなる。
そんなある日、金曜ロードショーでジブリの『耳をすませば』という映画が放映された。ビデオすら持っていなかった僕らは、その放映をとても楽しみにしていた。オリビア・ニュートン=ジョンが歌う「カントリー・ロード」から始まるその映画の中盤、主人公の2人が自作の歌詞をつけた「カントリー・ロード」を歌うシーンで、僕は号泣し嗚咽してしまった。妻は僕が壊れたと思ったらしい。
その日の真夜中、僕は「かよわきエナジー」という曲を書いた。
「暮らすには何不自由ない街だけど、これと言った特色もない退屈な街」の事を思いっきり歌にした。
そして初めて故郷という言葉に含まれる意味や距離を理解する事が出来た。
自分が育った桶川という街を離れて「あぁあれが僕の街だ」と初めて思えた。
衝動的に帰りたくなるほど恋しい故郷の味「娘娘」スタカレー
東京で暮らし始めて25年、今でもたまに衝動的に桶川に帰りたくなる時がある。その理由の一つに「娘娘」(現在は隣市の上尾に移転)という中華屋の存在がある。佇まいは普通の町中華なのだが、その店で出している「スタカレー」と言うメニューは、当時桶川で暮らした若者にとっては、何にも変えられない、故郷の味と言っても過言ではないと思う。
カレーと謳ってはいるが、それは形式上で、炊きたてのご飯に麻婆豆腐の豆腐抜きの中華餡がかかっている、安価でボリューム満点の逸品なのだ。
埼玉県にはこのスタカレーを出す店がいくつかあるが、その街の若者にとっては、自分の地元のスタカレーこそが一番であり、故郷の味なのだ。
初めて桶川駅西口にある「響の森 桶川市民ホール」でワンマンライブを行った時、どうしても「娘娘」のスタカレーをファンの方々にも食べてもらいたかった僕らは、意を決して娘娘のヒゲのマスターに出店を直談判しに行ったこともある。
自分たちのスタカレー愛を思いっきりマスターにぶつけ、それならばと快く引き受けてくれた時の嬉しさは今でも忘れられない。
最近はSNSやTVなどでも話題になり、当時から行列店だったが今ではとんでもない行列の町中華のお店になっている。
ヒゲのマスターももうご高齢だが、頼もしい息子さん2人も一緒にお店に立たれているので尚安心である。
この街で過ごせたからこそ書けた曲が山ほどある
現在、僕自身の実家は桶川ではなくなっている。
けれど、妻の実家は変わらず桶川にあるので、盆暮れ正月などは桶川で過ごすことが多い。
当時を知る僕からすると、桶川はとんでもなく便利な街になっている。
開発の中で、なくなってしまった建物や場所はいくつもあるが不思議と寂しさはない。
僕には多感な10代を、この街で過ごせたからこそ書けた曲が山ほどある。
歌い続ける限り、僕にとっての桶川はあの頃と何も変わらない。
秋口に電車が桶川に到着しドアが開くと、田んぼの野焼きのような懐かしい匂いがふっと香る時がある。
そんな時に「あぁ、桶川帰ってきたなぁ」と思い、なんとも言えない、いい気分になる。
そんな感覚をGOING UNDER GROUNDの音楽からも感じ取ってもらえたら嬉しい。
著者:松本素生
1978年生まれ。GOING UNDER GROUNDのボーカルギターであり、メインで作詞作曲を担当。同バンドは1992年に埼玉県桶川市で結成され、2023年でCDデビュー25周年を迎えた。2024年1月7日(日)に渋谷CLUB QUATTROでワンマンライブを控える。
X(旧Twitter):@sou_matsumoto
Instagram:sou_matsumoto
公式ウェブサイト:https://goingunderground.tokyo/
編集:かなめゆき / ピース株式会社