青春と大人、あるいは上野と秋葉原の間で。モラトリアムと御徒町

著者: 淺野義弘

 

住んでいる場所を聞かれたとき、最寄りじゃない駅名で答えている。「御徒町」と言うより、「上野と秋葉原の間」と答えたほうが、相手に伝わりやすいからだ。3年前、不動産屋に連れられてやってきた僕にとっても、「御徒町」は正直言って、あまりピンとこない地名だった。

 

そもそも、2022年現在「御徒町」という住所は存在しない。1964年に行政上の区分が変更され、それまで「御徒町」と「仲御徒町」だった地名が「台東」や「上野」になったそうだ。だから、今となってはなんとなくこの辺かな?という認識をみんなが持ち合わせている、ふわっとしたエリアなのだ。

 

地名の由来は、江戸時代に下級武士である「御徒(おかち)」が住んでいたことにあるという。JR御徒町駅の東側には宝飾品店が並んでいるが、これは浅草寺をはじめとした寺院で扱う仏具や、吉原などの歓楽街で需要のある贈答品を作る職人が多くいたことの名残らしい。

路地につけられた「ダイヤモンドアベニュー」「珊瑚ストリート」なんて愛称には興味も湧くが、今の僕には宝石を贈る機会がないのが悔やまれる。

 

ファッションと飲食店でにぎわうアメヤ横丁と、きらびやかな宝飾街。駅の周辺はガヤガヤした印象だが、もう少し足を進めてみると、この街の違った顔が見えてくる。

 

我がいとしき「佐竹商店街」

JRの駅から東に5分ほど歩くと、地下鉄大江戸線とつくばエクスプレスの通る「新御徒町駅」に辿り着く。2000年に開業した比較的新しい駅の隣には、対照的にとても歴史の長い「佐竹商店街」が顔を並べている。

 

佐竹商店街は、全長300mほどのコンパクトなアーケード街。飲食店やスーパー、仏具店や昔ながらのブティックなど60店舗ほどが並んでいる。

 

その歴史は古く、サイズ感に不釣り合いなほど堂々とした垂れ幕には「佐竹商店街は日本で2番目に古い商店街です」とある。ちなみに、1番目に古いのは金沢の片町商店街。むこうは少なくとも垂れ幕ではアピールしていなかったので、この堂々たる「2番目」がすこし微笑ましく、いとおしい。

 

「THE・昭和」のような風景を求めて、佐竹商店街はテレビや映画のロケ地としてもよく使われている。近所に住んでいれば、年に何度かは撮影現場に出くわすだろう。

たしかに「古き良き商店街」という雰囲気は魅力的で、気の抜けたBGMや少しくすんだ色合いは居心地良く、何十年と続いていそうな「佐藤精肉店」のコロッケやはんぺんフライはしみじみと美味しい。

 

だが、意外にも商店街における店の新陳代謝は活発だ。コロナ禍を経て「白根屋」をはじめとした歴史ある店が営業を終えたかと思えば、入れ替わるように学習塾やギャラリー、カフェとヘアサロンを兼ねたスポットなどが新設された。

寂れたシャッター街にはならず、かといって歩けないほどぎゅうぎゅうにもならないのは、観光目的ではない、周囲に暮らす人々の「生活」が街に根付いているからだと思う。

 

平日のランチタイムには、スーツや作業服姿の人々がお腹を空かせて集まってくる。僕自身もリモートワークになってから、ここでランチを取るのが楽しみの一つになった。

 

「まこつ」のランチは、一尾まるごとの焼き魚がうれしい。山盛りのご飯はおかわりできて、サイドメニューの水菜サラダとマカロニをつけても800円。あこう鯛の粕漬けやサバの塩焼きは人気なので、確実に食べたかったら11時半に早々に向かうのがおすすめだ。

 

飲み屋としても盛況な「真澄」は、昼に行っても元気をもらえる場所だ。家族経営ならではのコンビネーションの良さで、着席して注文を伝え、前払いで800円を払うころには器が到着している。

全ての定食につく三種の小付けには、こっくりと美味しい惣菜が日替わりでよそわれる。たっぷりの漬物と具沢山の味噌汁もあり、昼から「たくさん食べたなぁ!」という満足感が味わえる。栄養バランスが気になる1人暮らしの身としては、品数の多さもうれしい。

 

そして佐竹商店街では、弁当の選択肢も豊富だ。財布に優しい350円からの中華「ホンフとくとく弁当」、たまに揚げ物をオマケしてくれる「菅原弁当」や、注文してから調理する焼き鳥や丁寧なつくねが絶品の「村井」。

孤独なリモートワークのなかでも生活を続けられたのは、拡張したキッチンのような感覚で、佐竹商店街のランチを楽しめたからだと思う。

 

ふわふわと流れ着いた先で

誰しも3年前には、こんな働き方になると思っていなかっただろうが、多分、僕は世の中の多くの人々より、もうちょっと適当だった。

大学院の修士課程が終わるころ、ろくに就活もしていなかった僕を気にしてか、当時の指導教官に声をかけられ、修了後に大学の研究員として横浜方面で勤務することが決まった。

 

もう一カ所、インターンのように働いていた東京の会社とも関わり続けるだろうと思っていたので、時折都内に出ることを考慮しながら住む場所を考えた。1時間くらいの通勤には慣れていたのと、知人の「一度くらい山手線圏内に住んでみたら?」というラフなアドバイスによって、辿り着いたのが御徒町だった。

 

「御徒町駅」には山手線と京浜東北線、「新御徒町駅」には大江戸線とつくばエクスプレス。「上野御徒町駅」にも大江戸線、「仲御徒町駅」には日比谷線、すぐ近所の「上野広小路駅」には銀座線が通っており、ちょっと五月蝿いくらいに御徒町周辺は交通の便が良い。

新宿や渋谷、横浜まで乗り換えなしで行ける利便性と、隣の千代田区よりは安い台東区の家賃が引越しの決め手となった。

 

御徒町での暮らしを始めたのは27歳のころだが、浪人と休学を挟んでの大学院修了、かつそのまま大学での勤務ということで、あまり社会人になったという気がしなかった。

周囲の友人は新卒で入った会社でプロジェクトをもったり、すでに2社目へ転職したりしており、自分は一周遅れになっているような感覚があった。学生時代から取り組んでいたライター業も副業として続けていたが、自分が何者なのかの説明はうまくできなかった。

 

そんな気持ちの緩みのせいか、引越し後早々に、都内の会社での仕事は終わりを迎えることになる。仕事はなんとなくでは続けられないし、主体性もなくただ「お世話になる」ような感覚ではいられないことを突きつけられた、手痛い失敗だった。反省も後悔も山ほどあるのだが、とにかく僕はこの時点で、御徒町に住む合理的な理由を一つ失ってしまったのだ。

 

凹んだ気持ちを抱えたまま、近所のコインランドリーで書いた日記を見返すと、「ぐるぐる回るコインランドリーの洗濯機は、見ていると落ち着くから好きだ。願わくは、この場所と時間が嫌いになりませんように」だなんて、まるで自分が被害者かのような現実逃避が綴られている。

深い考えもなしに他人の船に乗る選択をしたのは、ほかでもない自分だというのに。

 

場所と記憶は鮮明に紐づいてしまう。好きにやっていても許されていた学生時代の終わり。あるいは、だらしのない青春の終わりを、御徒町という街で迎えることになったのは、何かを象徴しているようでもあった。

 

上野と秋葉原の間を漂流する

出社する日が減った分、近所をうろうろする時間が増えた。

銭湯があちこちにあったのは、当時の僕にとって大きな救いになった。週に一度、「寿湯」のサウナと大きな露天風呂でボーッとする。朝6時から御徒町駅前の「燕湯」へ行き、寝起きの頭を覚ます。「日の出湯」で檜風呂の匂いに包まれたり、「三筋湯」の窓から見える鯉の群れにギョッとしたり。風呂が大きな家は借りられなかったが、その分、近くの銭湯で何も考えない時間をとれたのは幸運だった。

 

御徒町と上野をつなぐアメ横を通り過ぎるのは、良い気晴らしになった。コロナだろうがなんだろうがお構いなく、いつだって人でにぎわっている。

一人っきりでの仕事が板につき、かといって一人で飲みに行くほどには行動力のない自分も、いつかはここで気持ちよく酔っ払えるのだろうか? そんなことを思いながら、ただ人がたくさんいる活気を味わうために、何度も往来を通り抜けた。

 

少し時間はかかるが、御徒町から秋葉原は歩いて行ける距離にある。仕事柄、時折電子部品を調達する必要があったので、この近さは大きな魅力だった。

秋葉原の楽なところは、あまり人目を気にしなくて良いところだと思う。他人の目よりも自分の関心に従って動く人の群れにまぎれ、コンセプトカフェの客引きの格好のターゲットになる自分をなんだかなぁと思いながらも、雑多な街を流されるように歩くのはよい気晴らしになった。

 

たぶん、あのころの僕は、情報や人混みに揉まれて、ボーッとしていたかったのだと思う。

 

上野も秋葉原も、それぞれ個性がはっきりした街だ。芸術と飲食、サブカルチャーと電気。それらに興味を引かれながら、かといってどっぷり浸かりきることもなく、なんとなくその雰囲気だけを楽しむ。

社会的にフワフワした状況にいる自分と、特色ある街に囲まれた御徒町の様子が、なんとなく重なるように思えた。

 

暮らしを刻むと、その場所が好きになる

コロナが本格化し、いよいよリモートワークが板についた生活の中で、御徒町で過ごす時間が増えていった。月に数度訪れる横浜の職場とは「逆ベッドタウン」のような関係性になってしまったが、幸か不幸か、次第にこの街にしかない魅力に気がついていく。

 

御徒町と秋葉原の間にある「KIELO COFFEE」は、生まれて初めてできたお気に入りの喫茶店。初めて出会った浅煎りの北欧式コーヒーは、びっくりするほどすっきりしている。コーヒーを飲むと頭が痛くなることがあった自分だったが、まったくもって大丈夫だった。Wi-Fi と電源のある快適な店内で、さわやかで優しいモーニングコーヒーを飲みながら、小一時間ほど原稿を書くのが毎朝の習慣になった。

お店の居心地よさはもちろん、僕よりずっと若い経営者が熱っぽく語る Instagram の投稿に惹かれて、初めてコーヒー豆を自宅に取り寄せたりもした。

 

今、自宅で使っているコーヒーフィルターは「多慶屋」で買ったものだ。昭和通りと春日通りの交差点に鎮座する多慶屋は、日用品から家電・衣服までなんでもそろう店。紫のビジュアルもインパクトが強く、御徒町での生活には欠かせないシンボルのような存在だ。

僕も生活の要所で助けられており、地域の(多慶屋とは関係のなさそうな)店が割引になるメンバーズカードなどへの興味が高じ、ライターとして社長にインタビューできたのは、うれしい出来事だった。

 

御徒町駅の西側には「仲町通り」という歓楽街がある。自分には縁遠い場所だと思っていたが、密を避けるために街灯をテーブルとして活用する「ガイトウスタンド」の試みに興味をもち、友人と遊びに行った。

通りの左右で街灯の形が違うなど、その場に行かなければわからない発見が沢山あった。DIYで作っていることを知り、ものづくり系のWebメディアの企画として、オリジナルのガイトウスタンドをつくってもらう案を持ち込むと、主催者は喜んで受け入れてくれた。

 

秋葉原に通う中で、小型コンピュータで温度制御する変わったピザ屋や、中国から独特なガジェットを仕入れて売る店とも出会い、これまた取材に通った。

 

ほうぼうを歩く中で、自分の興味があるものと出会い、取材というフォーマットで話を聞きにいく。フワフワとした興味が、文章として形になり、世の中に放たれ、リアクションをもらえる。取材と執筆を通じて、何かに関われていることの実感が、あやふやな自分に少しずつ積み重なっていった。あぁ、こういうことを続けていきたいなと思えた。

 

理由はなくても、住んでいたい街

引越して2年半がたったころ、勤めていた大学での大きな仕事が終わり、退職を決意した。恩師に誘われて始めた仕事だったが、彼がいない場で自分には何ができるのか、試してみたくなったのだ。

誰かの母屋でゆるやかに過ごす淡い青春が終わり、自分で舵を取って判断していく大人へと、ようやく足を踏み入れる。まずは文章を書く仕事で、どこまでいけるか頑張ってみたい。

 

職場までの交通の便を気にしなくて良くなった今、なおさら御徒町に住む合理的な理由は無くなった。でも、今も好んで住み続けているし、しばらくはこの場所に居たいと思っている。

 

特色ある街に囲まれていることが、あるときはネガティブで不安定な自分と重なってしまったが、それは決して悪いことではない。むしろ、刺激に溢れた場所に行った後、ほっと落ち着ける「生活の拠点」として考えると、これほど居心地の良い場所はない。

曖昧だった自分の興味や得意なことは、ゆるやかでいられる御徒町だからこそ、なんとか見つけられたのかもしれない。あやふやな青春が終わり、1人の大人として自立するまでのモラトリアムを、この街で過ごせて良かったと、今では心の底から思えている。

 

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著者:淺野義弘

チョーヒカル

1992年生まれ。大学で3Dプリンタに出会いものづくりの楽しさを知り、研究員として勤務したのち独立。出身は長野市ですが、幼児期に引越したので記憶がうっすらしています。
Twitter: @asanoQm
Facebook: yoshihiro.asano.3954

 

編集:Huuuu