わたしが詩人になることを沼津だけが知っていた

著: 水沢なお 

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 沼津は、わたしがうまれてはじめて暮らした街であり、うまれてはじめて書いた詩の名前だ。


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 十五歳から十八歳までのほとんどの時間を沼津で過ごした。隣町に住んでいたわたしは、沼津市内の高校へ電車と自転車を乗り継ぎ通学していた。海沿いの、芸術科のある高校だった。わたしはそこで、三年間美術を学んでいた。

 教室の窓からは松林が見えた。その奥では、空の色と溶け合いながら波が揺蕩っていた。朝、クラスメイトに挨拶をするときも、水晶体、とノートに書き写す生物の授業中も、窓の外に身体を乗り出しぽんぽんと黒板消しを叩いているときも、いつでも海が存在していることが不思議だった。

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沼津駅南口

 今年の一月、わたしは沼津駅に降り立った。駅のホームに踏み出した瞬間、あたたかい、と思った。その日はよく晴れていて、雲の少ない空からは絶えず透明な日差しが降り注いでいた。わたしは、静岡や沼津に降る雪をほとんど見たことがなかった。どうしてだろうと小学生のわたしが不思議に思っていると「富士山が冷たい風から守ってくれているんだよ」と同級生が教えてくれた。実際には、富士山だけではなく、様々な山に囲まれている地形がその要因のひとつになっているようだった。

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「沼津ラクーンよしもと劇場」が入居しているビル

 数年前からほとんど変化のない駅前の光景だが、吉本興業の常設劇場「沼津ラクーンよしもと劇場」の看板を見かけるたび、今でも新鮮な驚きを覚える。わたしが高校を卒業し沼津を離れた数カ月後、入れ替わるように劇場は、この街へとやってきた。

 中高生のころのわたしは、静岡から都内へ片道二時間半かけてお笑いライブを見に行くほどには、お笑いが好きだった。もし、高校生のころにこの劇場ができていたら、わたしの生活はどうなっていたのだろう。毎日劇場に足を運び、放課後は常に笑いころげていたのかもしれないし、逆に「いつでも見に行ける」という気の緩みがほどよい距離感をうみだしていたような気もする。

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井上靖の母子像

 通学によく利用していた南口のロータリーには、学生時代を沼津で過ごした作家・井上靖の母子像や、沼津機関区の碑が設置されていた。

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沼津駅南口に佇む細長い犬

 それらの傍らに、わたしは細長い犬のベンチを発見した。通学中、幾度もこの犬の前を通過したはずだが、まるで見覚えがなかった。ただ、この犬がずっとここにいたことはすぐにわかった。このいきものが、果たして本当に犬なのかは、定かではない。そして、この石像がベンチなのかどうかも、定かではない。ただ、犬の背に乗ってみたい、という欲望は誰しもが持ち得るものだ。決して成就することのないこの願いを、細長い犬は叶えてくれる。頭を撫でてみたい。できれば、一緒に川沿いを散歩したい。でもその願いは、細長い犬にとっては難しいことのように思えた。

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 沼津には細長い犬だけではなく、細長いパンがあることを、散歩しながらふと思い出した。沼津名物である「のっぽパン」は全長約34cmもあるコッペパンで、きりんが描かれたパッケージが特徴だ。「のっぽパン」は沼津でうまれ、今では静岡県のご当地グルメとして愛されている。幼いころ、起き抜けに眠い目をこすっていると「のっぽ食べる?」と母がその長いパンを手渡してくれた。わたしの記憶のなかの「のっぽパン」は、両端にかすかにだがクリームが行き渡っていない箇所があり、いつも中心部のクリームを薄く塗り広げて食べていた。豊富なフレーバーの中でも、一番のお気に入りは定番のクリーム味。どこか眠たげなきりんの瞳と見つめ合いながら、まどろむ朝の時間を過ごしていた。

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沼津仲見世商店街

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イルカの看板

 高校の部活終わりは、同じ美術部員である友人とよく仲見世商店街を訪れていた。アーケードの下にはサンリオのグッズを豊富に取りそろえた文房具屋さんや八百屋さん、家電屋さんなど、個人経営のお店がずらりと並んでいる。とはいえ、高校生のわたしたちは「マルサン書店」か「アニメイト」に直行するというのがお決まりのコースだった。

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マルサン書店

 夜七時に部活が終わると、仄暗い通学路を自転車で駆け抜けていく。そうしてたどり着いた「アニメイト」はわたしたちの楽園だった。新作のグッズを見て回り、ブラインドタイプのラバーキーホルダーを購入しては、友人と共に開封し、一喜一憂していた。漫画の品ぞろえも豊富だった。透明なビニールカバーがもらえることもあり、よく「アニメイト」の青いレジ袋をぶら下げながら家に帰った。

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 そして仲見世商店街のなかには「どんぐり」という甘味処がある。幼いころ、よく母に連れて行ってもらった。小さな川が店内を流れている。料理はその川の上をさらさらと流れてわたしたちのもとへやってくる。流しそうめんと回転寿司が合わさったようなシステムだ。

 座席には、「日本橋」や「小田原」など東海道五十三次に登場する宿場町の名前がついている。水面にタル舟を浮かべ、食券を挟んだバインダーを入れて流す。しばらくすると、自分の座席の地名が点灯する。どんぶらこ、どんぶらこと、舟に乗ったパフェやきしめんが、旅をしながら登場する。なんてまばゆい、面映いお店なんだろう……。子どものころは、沼津の商店街の近くを通るたびに「どんぐり」に連れて行ってもらえないかと、いつもどきどきしていた。

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狩野川と御成橋

 商店街から少し歩いたところに川が流れている。狩野川という名の大きな川だ。きれいに整備された階段堤に腰掛け、水鳥の羽のうねりでさざめく水面や、御成橋の上を走る車を眺めた。休日はよく、両親の運転する車で沼津へと出かけた。街中の至るところに橋が架かっていて、その上を渡る瞬間、車窓から見える川沿いの光景はなぜだか微かに橙がかっていた。まっすぐに流れる川、マンションの群れ、水色の橋、山脈の震える輪郭……。空にはいつも細かい光の粒がまぶされていた。街という言葉を口にする時、その車窓から見た沼津の街並みが思い浮かぶ。そして海を思うときは、千本浜の水平線が思い浮かんだ。

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千本浜から見える風景

 千本浜に辿り着くと、松林と富士山がよく見えた。防潮堤から浜へ降りていくと、砂の代わりに無数の丸い石が敷き詰められていた。踏みしめるたびに、こつこつとした石のなめらかさが足の裏を撫でた。

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 訪れたのが三が日だったこともあり、海岸はたくさんの人々でにぎわっていた。寄せては返すまろやかな波の音に耳を澄ませる人、階段に集まっていた鳩の喉の緑色を指さす人、竿や網を持って釣りをする人。凧揚げをする人の姿も多く見受けられた。鳥のかたちをした凧と、それによく似た鳥たちが、大きな羽を広げて青い空を滑空していた。

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 想像以上の人出に驚いていると、同行者である母が「休日はみんな海辺に集まってくるんだよ」と教えてくれた。わたしは平日の海しか知らなかった。放課後は、海と二人きりになることも多かった。

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千本浜公園

 海辺に連なる千本松原の風景は、歌人の若山牧水がこよなく愛したとされている。晩年は沼津に移り住み、千本松原や沼津の風景を詠んだ作品も多く残した。青く透けるような木漏れ日が射し込む松林の中には公園があり、牧水をはじめとする文人たちの文学碑が置かれている。海や街を想う言葉の数々、言葉そのもののような石の前にわたしは立ち尽くす。

 わたしも、いつかは石に詩を綴りたい。もしくは波で洗われ丸くなった石になり、千本浜の波打ち際で転がっていたい。

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 「沼津は、なおちゃんがうまれてはじめて暮らした街だから」

 千本浜の水面を眺めながら、母は言った。その瞬間、幼少期の自分が沼津で暮らしていたことを思い出した。街といえば沼津の風景が思い浮かぶのも、その経験から来ているのだろうか。

 沼津という街で過ごした時間が無かったら、わたしはおそらく詩を書いていないだろう。沼津は透明な水をたたえている街だ。さらさらと流れる川のように、さあさあと広がり続ける海のように、あらゆる出会いと繋がっている街だ。わたしが詩人になることを、この街だけが知っていた。

著者:水沢なお

水沢なお

1995年静岡県生まれ。武蔵野美術大学在学中より詩作をはじめる。2016年、第54回現代詩手帖賞受賞。2019年、第1詩集『美しいからだよ』(思潮社)を上梓。2020年、第25回中原中也賞を受賞。

 

編集:ツドイ