ずっと一員になりたかったまち、新潟市・古町

著者: 金澤李花子

新旧入り混じる新潟県新潟市、古町エリア

10年前、私が新潟市で高校生だったころ。下校途中に上古町商店街というエリアを歩くのが好きだった。そこには、アメカジに全身を取り憑かれた古着屋オーナーや、売れる気配のない時計と会話する術を身につけた老人店主、タウン誌のスナップ隊に撮られたい学生たち…といった個性が豊かに生きていて、みな、まちを舞台に踊っているようだった。また、個人的なことにはあまり踏み込まないという適度な人情を備える彼らの生き様は、とてもクールで羨ましく思えた。

そのころからずっと、私もこのまちの人になりたい、この灯りの一つになりたい、と妄想していた。雑誌をつくろうか、バーを開くか、なんて考えてはしっくりと来ないまま、新潟市を離れて10年が過ぎた。 

 

古町との出会い

上古町商店街(以降、カミフル)にどっぷり浸った高校時代。新潟市内の一般的な進学校だが、知的で曲者の友人たちがそろっていて、私はその中で埋もれないよう必死だった。高校からの帰り道に寄り道するカミフルには『CHOKi CHOKi』や『Zipper』を参考に、摩訶不思議なコーディネートを考えるのにぴったりな古着屋が多く立ち並んでいた。カミフルは、新潟駅前や万代といった大型商業施設やデパートのある華やかなメインカルチャーエリアに比べて、個人商店が密やかに個性を爆発させているのが特徴。東京に例えるなら、高円寺に近いかもしれない。(大学進学から上京して、初めて一人暮らしをしたのも高円寺だった。なぜかそういう場所に吸い寄せられる。)

当時、古町には「ラフォーレ原宿・新潟」が君臨していて(2016年1月閉店)若者の集い場となっていた。そして、その地下には「西堀ローサ」という地下街が続き、老舗洋服店やカフェが並んでいた。当時は一応進学校の生徒らしく、ラフォーレのスタバで参考書を開いてみたり、友人と一緒に勉強をしてみたりが日常だった。今思えば華やかなラフォーレに居座りたかっただけで、頭には入っていない気がしているが。

奥のトンガリが「ラフォーレ原宿・新潟」のあったビル。現在は新潟中央区役所になっている

実家が古町に近かったのをいいことに、大抵、学校帰りの寄り道は古町だった。駅前や万代は、他校のイケイケなギャルたちがいて少し怖かったし、古町のほうが自分に寄り添ってくれる感じがしていたから。それに、好きな雑誌を立ち読みするのに人が少なく好都合な書店が多かった。なかでも、北光社(2010年閉店)や萬松堂といった老舗書店は、薄暗い雰囲気と何時間居ても良さそうな店員さんの空気感が大好きで、立ち寄っては本を貪った。(多分、マークされてた。立ち読みばかりでごめんなさい。)書店→古着屋→たまに喫茶店のゴールデンルートは、いつも私の時間割に組み込まれていた。そうやって、雑誌にぼんやり憧れる女子高生が生成された。

北光社なき今、がんばれ萬松堂…!

カミフルとは、江戸時代から続く新潟市中央区に位置する「古町商店街」の一部を指す。一番町から十三番町までの長い一本道で、なかでも一番町から四番町が「上古町(かみふるまち)」、対して八番町以降は「下古町(しもふるまち)」という。「カミ」と「シモ」は、一番町の先にある白山神社を「カミ」として数えることに由来していて、カミの方は若者(ショッピング・カフェ)エリア、シモの方は大人(料亭・飲み屋街)エリアとターゲットが分かれている。

大学入学を機に上京してから、新潟に帰省して遊びに行くのは下古町の方になった。

先述の通り、上古町は高円寺や中野に少し似ている。それに満足していたところもあったのだろう。東京では高円寺や中野で暮らし、完全にまちの一部になった実感があった。雑誌編集の職に就き、充実した毎日。高校時代に抱いた上古町への気持ちは薄れ、だんだんと新潟の存在感が小さくなっていった。

古町を離れて10年

ステイホームを共にした清澄白河の邸宅を去る前、スカイツリーに別れを告げる私

 2020年、未曾有の混乱により、想定よりも早くリモートワークが定着した。古町を離れて10年。盆暮正月程度の希薄な関係になっていた私と古町の、蜜月が再び訪れた。

しかし、時間とは恐ろしい。

「もう、このまちでは踊れないカモ」先に切り出したのは私のほうだった。…情緒不安定な言葉たちは本件の味噌なので、もう少しの胃もたれをご容赦いただきたい。私と古町の間に訪れたのは紛れもない、倦怠期。このまちの何に惚れたのか、見失った。あのころの高揚感がなかった。それでも、諦めきれず毎晩考えた。古町に足りないこと、古町にできること、古町の未来に必要なこと。たくさん考えて、出した結論はこうだ。

「私が、人が、このまちで踊れる空間をつくる」。

誰しもが自己表現できる場所を、守り続けようと思った。古町はずっと、誰かの踊り場なのだから。

こうして、古町で育った元女子高生の妄想は、大人の野望となる。「いつかこのまちの一員になりたい」と、小さく踊り場計画が産声を上げたのは、2020年12月のことだった。

 

2021年、山が動く

手始めに「こんな場所がほしい」という思いを、A4のフリーペーパーにして、友人たちに披露した。「実際、こういうのあったらどう?」とか「こんなショップやろうよ!」とか、趣味の延長でつくったのをいいことに妄想に妄想の天丼を繰り返して…。そうこうしているうちに、新潟・沼垂地区のBooks f3店主にもフリーペーパーを見てもらう機会ができた。それが運命大きく動かすとわかるのは、数日先のことだった。

突如、上古町商店街の理事長で、デザイン会社と雑貨店などを営む迫一成さんのインスタグラムに、フリーペーパーが現れたのだ。驚いた。新潟市内の数カ所に、ゲリラ的にフリーペーパーを置かせてもらっていたので、見ず知らずの方から連絡をいただくことはあった。でも、この迫さんという人は全く別ものだった。正直いうとあと5年後くらいに、もう少し踊り場計画が具体的になったら、挑みにいきたい存在だった。

20年前に上古町で何でも屋のような商店を開き、「上古町」を明るい方へ引っ張っていったらしいのだが、実際にどんな人かはよく知らなかった。インスタで「いいものを見つけた」という投稿があったので「これはもう、会いにいくしかない!」と思い、2021年3月、初対面を果たした。

この投稿から1年後の2021年12月3日、一緒に店を開くことになるんだが…?

東京でのピリっとした仕事に体が慣れきっていた私は「デザイナー」「代表」「プロデュース」という迫さんの肩書に身構えていた。これまで初対面のクリエイターと仕事をする度に、心臓も睡眠時間も削られていたし、正直どんな有名クリエイターと仕事をしても、あんまりいい思いはしていない。だから、驚いた。実際に会う迫さんは、なんというか、非常にマイルドで周りくどくなく、話がとんでもなく早かった。双方の自己紹介を終えたころには「金澤さん、ここで一緒に始めよう」となっていた。

石橋はまず入念にたたくタイプの私は、ひとまずその話を持ち帰ることにした。そして、迫さんと繋がりのあるあらゆる知人に評判を聞いて回った。地方の特徴として、いい噂は広まりづらく、悪い噂は尾ヒレをつけて広まる。周りを頼ってリサーチした結果、「どうやら悪い人ではなさそう」という結論に至った。それから、すぐに「やります!」とお返事し、立ち上げ準備が始まった。

東京での仕事も残っていたので、遠隔で入居メンバーや設計チームとの打ち合わせをした、並行してなんの準備もしていなかった。独立して食べていくための仕事の工面、東京生活でやり残したことを全て実現している間に光の速さで時間が進み、あっという間に新潟市民としての生活が始まった。例のフリーペーパーをつくってからここまで、8カ月の出来事。フリーランス になるつもりは1mmもなかったが、幸いなことに家と仕事があった。そしてなにより、上古町で店を持つというキラキラした目標があった。

2021年9月に移住が完了してからは、毎日を上古町で過ごした。やがて、特に名前のなかったこのプロジェクトにも名前がついた。「SAN」だ。最初の候補は「SUN(太陽)」で、上古町を明るく照らす意味を込めた。その後「古町三番町にある」「みんなが参加できるような場所にしたい」「白山神社の山道」「三方よし」、そして迫さんの手掛けるお店「hickory03travelers」などの由来から「SAN」となった。そして、元の構想にあった「踊り場」は「文化商店 踊り場」としてSANの企画や館内のポップアップを行うことを主としつつ、私はSAN全体の運営を担うという位置づけになり、副館長という立派な名前をいただくことになった。

 

踊り場計画から1年後

2021年12月3日。1年前に私の妄想を詰め込んだ一枚の設計図から、SANと踊り場が始まった。設計図をつくってから、ちょうど一年後のことだ。この1年、完全に強運と追い風が吹いていた。寿命が縮むほどありがたいクラウドファンディングや、まちの人からの温かい応援があった。

毎日、SANに通いながら噛み締める。なんて楽しいまちなんだ!と。

子どもから老人まで安心して過ごせる、血の通ったコミュニケーションがあったり、やったりとったりの物々交換が好きで、どこか見守られている安心感があったり。逆に気は抜けないし、他人の倒れた自転車を直しておこうという気持ちは、東京では一度も生まれなかったことだ。派手なイベントがなくっても、日本海に沈む夕陽を眺めるだけで幸福感が湧いてくる。あと、これは全然理解してもらえないが、一日がうまくいかなかった理由をその日の天気のせいにできるようになった。

SANをつくる前、商店街に対して「なんか普通だな〜、もの足りないな〜」と生意気に思っていたことは、間違いだったような気さえする。日常がそこにあり続けてくれるありがたみを感じられるようになり、今日までこの商店街を続けてきてくれた先人たちに頭が下がる。

晴れて商店街の中で過ごすことになって、まちは輪廻なんだな、とつくづく思う。何代も続く商店もあれば時代ごとに店が生まれ、そこには人が出入りする。それを絶えず繰り返していくことで、まち自体が続いているからだ。

SANの館内。オープン数カ月目にして、気持ちはホーム

最近では、オープン景気で地元メディアのインタビューを受けることがある。大抵「東京から戻った20代の女性が、寂れた商店街のまちづくりを云々」という文脈だ。そのたび、めちゃくちゃムカついている。だって、上古町は今、寂れてなんかないのだから。しかも、私はまちを「つくって」なんかいない。私が高校時代に古着屋をめぐっていたころより、商店街には専門学校が増え、古着屋やカフェがにぎわっている。平日も休日も、それなりに人通りがある。それぞれ個人商店ががんばってきた結果が、この上古町商店街なのだ。

とはいえ、外から見たら、まだまだ伝わりきっていない部分もあるだろう。私自身も、まだ商店街初心者。なによりも、SANをこの輪廻の中で続けていくこと。それが、かつてこのまちに憧れた者の喜ばしい役目なのだと、今思う。

 

SAN:https://san-kamifuru.jp/

 

著者:金澤李花子

上古町の百年長屋SAN 副館長/上古町編集室 編集長。20代前半より雑誌『TOKYO GRAFFITI』編集・ディレクションをはじめ、企業や自治体の広告制作業務に携わる。2020年9月から東京と新潟の二拠点生活を開始。1年後、複合文化施設「上古町の百年長屋SAN」を立ち上げるため新潟市へ完全移住。移住を機にフリーランスとなり、リモートで各地の編集業務を行いながら、SANの企画運営やポップアップ企画を行う〈文化商店 踊り場〉を担当。大盛の飯と酒と人間を愛す。
Instagram:@odoriba_furumachi

編集:Huuuu inc.