地元を離れ、北東京へ|文・Meta Flower

著: Meta Flower

故郷の藤沢市には数多くの思い出はあるが、自分の性格にある「難」がひとしきり凶と出たため、向き合い直す意味も含めて21歳のときに1人上京した。

最初は三ノ輪の竜泉で男4人。荷物は雑魚ラジカセとターンテーブルに段ボール1箱分のレコード。10畳のリビングに机を4台並べ、6畳の寝室には2段ベッドを並べて生活していた。立て付けが悪く窓は閉まらず、エアコンはリビングのみ。紙のように薄い布団で眠れば2段ベッドの網の形にアザができ、天井には屋上の配管が破裂して漏れた排水で、カビの天の川ができていた。

当時住んでいた家。築年も古く、大型トラックが近くの国道を走ると、通りに面してもいないのに震度2くらいはよく揺れた

風俗店、簡易宿泊所などに挟まれたその土地は、シャンプーやおしぼりの香りとともに、あちらこちらから安酒と体臭のにおいがした。そんな下町に来たもんだから、同居していた建築学生はスクラップ&ビルドをテーマに論文を書いていたし、1980年代前半にこの街で起きた騒動なんかにも詳しくなった。

家の近所には、かの有名な「駒寿司」があった。朝5時に寒さで起き、向かいの「大倉屋」でけんちん汁を食ってから学校に行っていたのを覚えている。

彫刻がわからなくなったあのとき

一年生のときに作った作品

三浪という時間をかけ、期待で胸を膨らませて入った東京藝術大学は、全員がアーティストを目指すという志はなく、自分の思っていた世界とはかけ離れた部分があった。

しかし教授の制作現場や、国際展を見て芸術に対しての考えがガラリと変わり、それまでデッサンや受験美術的な彫刻を作ってばかりで、歴史文脈を学ばずおろそかにしていた自分を呪った。

一年生のときにまじめにやった分、単位は人一倍多く取れていた。卒業にもそんなに苦労しないことがわかるとグレるのにそう時間はかからず、昔から仲の良かった世田谷区のラップグループ「LSBOYZ」の連中とよく付き合った。

LSBOYS

当時、自分以外はみんな三軒茶屋に住んでいたので、彼らが北東京に来ることはめったになかった。なので自分だけ良い意味でも違う景色をラップしていることや、感覚とノリが少し違うことに気付いていたし、それが心地よかった。

上野近辺はいわゆる下町で、江戸っ子人情のある強気なおっさんや、自分の地元・藤沢市にもよくあるような安い居酒屋がたくさんあった。その中でも特に通い詰めていたのが、町屋にある「阿波屋」である。

よわい80は過ぎているおじいさんが営んでいる小さなお店で、カウンターは6席のみ。営業時間は深夜24時から朝7時までとされているが、特に看板やちょうちんはなく、外にぶら下がった裸電球が開店の目印。当時自分はビアパブで深夜バイトをしていたため、帰りにその店に寄るのが楽しみだった。

漫画『深夜食堂』のモデルとなったと言われている

店に入ると「おぉ……」と小さな声を漏らすだけで、2人でいても会話は特になかった。ちくわぶの煮込みが好きなのを知っていて、その日メニューになくても急いで作ってくれた。

一応「おにぎり屋」をうたっていたものの、多種多様なメニューがあった。キクラゲと玉ねぎをだしで煮て、カレー粉を溶いた「汁(じる)」。生ハムに火が通って結局ただのハムになった「生ハム目玉」。「本日の刺身」に「クサヤ」、「ニラ玉」は油に浸かってんのかくらい、濃ゆくてうまかった。

ドリンクは瓶ビールもあるけれど、人気なのはそば茶割り。キャバクラのネーちゃんからもらったという欠けたグラスに8分目まで大五郎、残りのスペースに濃いめの蕎麦茶を入れてくれる。筋太郎もひっくり返るレベルでカッチカチ。

それでもってメニューに金額がないからオヤジのさじ加減で会計が決まる。一度卵焼きと蕎麦茶割り1杯で2000円取られたことがあったけど、一言だけ「この前は悪かったな、今日はいいよ」って言われ、次はタダにしてくれた。

缶ピースをむせながら吸っていつも黙っていた親父だが、最後は自転車でコケてけがのため、閉店。突然あっけなく終わってしまったもんだから寂しくもあったが、あの無口な親父らしい終わり方のような気がする。

BGMは深夜のNHKラジオから流れる映画のサウンドトラック。今でも思い出すようにチャンネルを合わせることがある。町屋のこの話は便所のハードボイルド詩で締めくくりたいと思う。「惚れた涙とトイレの水は一度流せばよし」。

第二の地元 -東十条ホルモン泰平- 

大学3年生にあがったころ、北区に移り住んだ。渋谷や新宿などの繁華街ではなく、知り合いもいない街を選んだのは、大学の近くで山手線で、家賃が安いというのが理由。

今はなきクラブ「池袋bed」の最終イベントに遊び行った際に、とある規格外の“オッサン”に出会う。東十条で「ホルモン泰平」という焼肉屋を経営しているオッサンは、なんとも顔が怖く、全身は傷だらけ。柔術の使い手で、体が大きいうえに、どうなってるんだってくらい声もデカい。

そんな恐怖の塊のような人だが、後輩の面倒見がよく、誰からも慕われるような人だった。焼肉なんか到底食える身分じゃないころからずいぶん安く食わせてもらったので、今でも足しげく通っている。

東京に来てから「先輩!」と呼べる熱い漢(おとこ)に出会えておらず、その人を最初に先輩と呼んだ。そんなオッサンに鍛えられ、東京の喧騒の中で少しずつ「漢磨き」みたいなものをした気がする。彼がいたおかげでラップにも本腰入れて前を向けたし、人として成長させてもらった。

ホルモン泰平は、店名に“ホルモン”とつくものの、ハラミやカルビなんかもおいしくて、この数年、焼肉をするときは、この店以外候補に挙がらない。

いい焼酎や旬の季節野菜なんかもあるので、人を連れて行っても喜んでもらえる。奥の部屋でレコードをかけたり、店の前のベンチでゆっくりしたり、地元の人たちのたまり場にもなっている。天さんいつもありがとう。

YOSHIとの記憶 

ホルモン泰平に通い出したころ、1人の少年に出会った。「YOSHI」と名乗る彼は、当時思春期真っ盛りの生意気な子で、誰にも敬語を使わず、初対面の人間には名前を聞くよりも「夢」を語らせようとしてくる。当時は「まったくとんだ金持ちの芸能坊っちゃんが」と感じていたが、今思えばただねたんでいただけなのかもしれない。

「レーベルは?アーティスト?彫刻って職人でしょ?」なんて言ってくるもんだから、なおさらカチンときた記憶がある。向こうも最初は自分を怖い人間だと感じていたらしく、ずっと初対面の記憶がお互いズレている。

彼がアートに興味を持ったり、自分が音楽に詳しいことから質問が増え、作品の説明をしたり、作った曲を聴かせているうちに仲良くなった。お互いに人を紹介しあってよく二人で行動をともにした。

俺のバイト先だった根津の街中華に行ったら、食事直後に火事になって最後の客となってしまったり、人の展示に連れて行くといつもヒヤッとするようなことをしたり。とにかくいろんなことがあった。

YOSHIは地元が大好きで、「金星湯」という銭湯によく行った。地下90mから井戸水を引いていて、肌が弱い彼も体に合うようだった。番頭さんもYOSHIのことを気に入っていて、行くといつもトーストを焼いてくれる。創業から50年以上経っている銭湯なので、古き良き間取りで居心地がいい。

サウナは壊れているため女湯にしかないが、その代わり男湯の温度は45度前後はある熱湯で、初見の人々に洗礼を浴びせる。10分も浸かると目まいがしてくるので水風呂に入るのだが、なかなか冷たくて、調子いい。

YOSHIと出会ってから4年ほど経ったころ、彼はとあるオーディションに合格し、芸能界復帰のチャンスを握った。だが、カリフォルニアへの武者修行から帰国した直後、交通事故に遭い、帰らぬ人となってしまった。

彼の葬儀では、一緒にアトリエで作った絵画を並べ、未完成の作品についての弔辞を読んだ。後に気づいたのだが、そのパネル絵画の側面には「悲しい時は、みんなで手を取り合って協力して」と書いてあった。遺作としてのメッセージとも取れる内容で鳥肌が立ったのを覚えている。

自分の何かが亡くなったある日

YOSHIがいなくなった当日は、ある展示の最終日だった。

とあるお寺にギャラリーが併設されていて、そこで3週間ほど展示をした。お寺といっても外観はビルで、各階に本堂や納骨堂などのスペースが振り分けられている。

最終日はわがままを言って、その本堂で撮影をさせていただけることになった。誰もいない本堂でしばらく作品を眺めていると、神秘的な空間に淡い光で照らされ、力強くも静かに黙っているように見えた。その姿は、いなくなった大親友の悲報に、自分の心が「個」であることを意味していた。

寂しい意味での「個」であるか、新しいディケードの入口に立つ「個」であるか。今でも長い時間をかけて自分に伝わってきているように思う。

撮影が終わり、搬出作業を済ませてトラックでアトリエに戻ろうとしたとき、展示に誘ってくださったキュレーターさんが、一冊の本を手渡してくれた。世界平和をうたい、銃殺されたアーティストの未亡人が書いた詩集だった。しばらくは本棚に置き去りにされていたのだが、YOSHIの葬儀が終わり、ふと読んでみると、お礼の手紙とともに一枚のメモ用紙が挟まっていた。

そこには、「転居通知を出しなさい。あなたが死ぬたびに」と書かれていた。

住めば都の北東京生活は自分にとって目まぐるしく変わるドラマの連続であった。最近もご近所の音楽家たちと次のアルバムを作っている。まだまだこの街を離れられそうにない。

 

<Meta Flowerのプレイリスト>

当時の懐かしい記憶をたどりながら、夏の静かな夜に聞きたいプレイリストにしました。

著者:Meta Flower

ラッパー、彫刻家として東京をベースに日本各地でのライブや展示会を開催。2023年5月に1st Solo Album「The Priest」リリース。 彫刻では文字をテーマにした作品や、爆薬にて衝撃波を起こし形成する「衝撃波彫刻」を制作している。
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編集:日向コイケ(Huuuu)