
寝屋川との出会いは最悪だった。
両親が離婚したため、約9年間住んだ枚方市という街から逃げるようにして、隣町の寝屋川市に引越した。ちょうど寝屋川の高校に入学したばかりの時期だった。
第一志望の学校に落ち、金銭的に私立に行くわけにもいかず、わたしが入学したのはヤンキー高校と噂された学校だった。
家庭のごたごた、引越し、入学したくなかった高校への入学。わたしの15歳の春は最悪だった。
悲観なんてしている間も無く新しい日常は始まる。
正直に言うと寝屋川に良いイメージはなかった。わたしにとって枚方が晴れだとしたら寝屋川は曇り。枚方に住めるのなら住みたかった。
寝屋川に住み始めてからすぐの休日だったか、とても晴れていて気持ちの良い気温の中、寝屋川(「River」のほうの川)沿いで自転車を漕いだ。
いろんなことが一気に起こってからわたしはやっとこの日、周りに目を向けることができた。
目に映った人々は、心に空いた穴に向き合う暇もなく今を一生懸命生きているように見えた。
そのとき初めて思った、いい街だなと。
そして街と心がフィットする感覚を知った。
街は生き物のよう。住んでいる人、一人ひとりが街に心を作るんだ。
そしていつの間にか自分にとって、寝屋川が居心地の良い場所になっていた。
結局のところヤンキー高校という噂は昔の話で、実際はちょっとしたヤンキーが全体の1〜2割いるだけで比較的平和な学校だった。
しかしそんなことを知らず入学前に完全に心を閉ざしたわたしは、最初から学校を楽しむことを諦めてしまっていた。
高校生の頃の思い出といえば、ほとんど学校の外にある。
とにかく学校をさぼりまくった。母にばれてめちゃくちゃ怒られたけど、それでもさぼった。
学校をさぼって仲の良い後輩とよく寝屋川の河川敷に行った。走馬灯みたいにしか思い出せないが、そこで弾き語りをしたし、変なポーズで写真を撮ったし、淀川のほうに夕陽が落ちていってわたしたちの体がオレンジ色に染まったのを覚えている。
ライブハウスにもよく行った。わたしが初めてポップパンクやメロコアの文化に触れたのは、寝屋川市駅からほど近い「寝屋川VINTAGE」というライブハウスだった気がする。
毎週毎週ライブハウスに通っていたからおのずとバンドマンにも顔が知れていた。そのころのわたしはただのファンだったが、"いつか絶対"とずっと心に思っていた。
そんな、学校をさぼった日々は今の自分にとって重要な時間だったなと思う。
学校をさぼっているくせに、ほとんどバイトをしなかったわたしはとにかくお金がなく、同級生の友達と寝屋川市駅前のTSUTAYA(現在は閉業)でファッション誌を立ち読みして、セカンドストリート寝屋川店で安い古着を買っていた。
お尻が隠れるくらいのオーバーサイズのシャツに、作業着みたいなでかいMA-1を羽織って薄手のタイツを履いて、靴はコンバース。これがその時のわたしの定番だった。
そんなこんなで、あと1日さぼったら留年するところまでさぼったけど無事に高校を卒業した。
卒業と同時に寝屋川で出会った寝屋川在住のベーシスト、ごっきんと「yonige」というバンドを結成し、寝屋川VINTAGEで初ライブを果たした。
VINTAGEの近くのベル大利商店街の中にある「てんま屋」という、お好み焼き・たこ焼き・たい焼きが食べられる店も当時からよく行っていて、今でもライブ前に立ち寄っている。
ライブ終わりによく行った「天下一品 寝屋川店」は、全国の天一の中でもまあまあ美味しいほうだったと思う。と思って今調べてみたら閉業になっていてショックを受けた。
楽器のことで何かあったら寝屋川市駅前の大東楽器に行っていたが、それも調べてみるとわたしがよく行っていたほうの大東楽器はなくなって、行っていなかったほうの大東楽器はまだあるようだ。
バンドを始めたのと同時に、わたしは好きな人と出会っていた。
出会いは心斎橋のライブハウスだった。かっこいい男性がいるなーと思っていたら、あちらから声をかけてくれた。話をしていると、同じ寝屋川に住んでいることがわかった。
一緒に電車で帰って、連絡先を交換して、その日は駅で別れたけど、そこから付き合うまでに時間はかからなかった。
彼は一人暮らしでわたしは実家暮らし。家と家は徒歩15分ほどの距離で、ほぼわたしが彼の家にいた。
食べることが大好きな彼だった。白米嫌いだったわたしを餃子の王将(寝屋川店)に連れて行ってくれて、餃子と白米を一緒に食べたら美味しいということを教えてくれたおかげで見事白米を克服した。
今は閉業してしまった「中華料理 金太郎」も彼が教えてくれたお店で、店内はめちゃくちゃ汚いけど、スタミナ丼が革命的に美味くて、よく二人で行っていた。
お昼ご飯は彼の家から徒歩2分のところにあるモスバーガーでよく食べていた。何故かモスバーガーを食べる時はじゃんけんに負けたほうが奢りで、いつもわたしが負けてお金がないのに奢っていた。それはほんとうにいつも嫌だった。
そんな、すこしの不満とある程度の幸せが詰まった日々がずっと続くと思っていた。
別れは突然だった。「好きな人ができた」と。
人生で初めての失恋だった。半年の短い付き合いだった。わたしの気持ちは最初から一貫して好き、むしろどんどん好きが膨らんでいたし、仲が悪くなったわけでもなかったから、受け入れられなかった。
彼の家から実家までの徒歩15分ほどの距離を、どれだけの時間をかけて帰ったかわからない。
途中でうずくまって歩けなくなったりもした。
家に着いたら、10年ぶりくらいにお母さんと一緒に寝た。
その代わり、曲はできた。
yonigeの「嘘つきBOY窓ぎわGIRL 」、「恋と退屈」、「アボカド」、「サイケデリックイエスタデイ」はそのとき書いた曲である。
それでもわたしは彼との関係を諦められずにずっとアプローチをしていた。彼と彼の好きな人は結ばれたけどそんなのお構いなしにアプローチを続けた。
しかしとうとう彼は寝屋川から出ていき、隣駅の萱島(といっても住所は寝屋川)に引越して彼女と同棲を始めた。
もうわたしが知っている範囲の街に、わたしが知っている彼はいない。
完全なる失恋だった。
しばらくしてわたしも寝屋川を出て、1年半大阪市内に住んで、また寝屋川に戻ったりなどした。
わたしは寝屋川の曲を作った。
タイトルは「our time city」。でたらめだけどしっくりくる英単語を並べた。
その曲が入っているE.Pには「Neyagawa city pop」なんて大袈裟なタイトルを付けた。だけど全曲寝屋川で過ごした日々の曲なのだ。
このE.Pを出して、わたしは上京した。
寝屋川という街はなんだったのだろう。目まぐるしい幻みたいな日々だった気がする。枚方よりも住んでいた期間は短いのに、自分の過去を思い返すとまっ先にこの街のことが浮かぶ。
今ではたまーに寝屋川に帰って、当時の行動範囲内の場所を歩いて、ここに書いたようなことを思い出している。
著者:牛丸ありさ
大阪寝屋川出身。2013年に同い年のベーシストごっきんとともにyonigeを結成。ギター&ボーカル、作詞作曲を行う。
Instagram:@usimaruc3
Twitter:@_yonige
公式ウェブサイト:YONIGE
編集:岡本尚之