自由という名のもとに。凹凸地形と呼応する喧騒と静寂の町「自由が丘」

著: 皆川典久(東京スリバチ学会 会長)
自由が丘駅黄昏時の自由が丘駅前

その名のウカレた印象から苦手だった町・自由が丘。

群馬の田舎から上京した当初は、何となく近づき難いハイソな山の手の町に思えたのだ。しかし、それは偏見に過ぎなかったと今は思う。

実際に訪れてみると、自由が丘は地形的に非常に面白く、私にとって住みたくなる町の代表的な存在だったからだ。

※編集部注:本記事は3月初旬に企画し、取材は緊急事態宣言が発出される前に行われました

谷の中の喧騒と、丘の上の静寂

私は東京スリバチ学会の会長として、その土地特有の微地形*1に着目し、町の魅力を発掘する活動をしている。

町の発展や歴史には、立地と微地形が深く関係してるが、自分の場合はそのなかでも特にスリバチ状の谷間や窪地に関心を寄せている。「東京にそんな場所があるの?」と疑問を抱く方も多いと思うが、渋谷・四ツ谷・市ヶ谷・谷中など「谷」のつく地名の多さが物語るように、東京はまさに「谷の町」なのである。

谷は湧き出た清水がつくった特有の地形であり、今でも探せば湧水スポットを見出すことができる。そして、水辺の傍らには水の神・弁財天が祀(まつ)られていたりする。歩きながら、そんな発見をしていくのがたまらなく楽しいのだ。

自由が丘駅2019年11月発売『東京スリバチ地形散歩:都市新発見編・路地大冒険編』(洋泉社)

今回はそんな「谷」を偏愛する私が、東京・山の手の町「自由が丘」を紹介したい。

自由が丘は、名前に「丘」とつきはするものの、地形的な観点で言えば実は谷の町なのである。東急東横線と大井町線が交差する自由が丘駅は谷底の近くに位置し、人が行き交う商店街も実は広大な谷の中にあるのだ。

自由が丘駅自由が丘周辺の凹凸地形図(カシミール3Dを使って作成)

実際に少し歩いてみれば、自由が丘周辺が上り坂に囲まれていることに気付くだろう。上った先には、駅周辺の商業地を囲むように緑が丘/宮前/八雲、そして田園調布など、高級住宅地が立地している。

谷の中の喧騒と丘の上の静寂。にぎやかな商店街と閑静な山の手の住宅地。そんな具合に、自由が丘は凹凸地形と呼応するように町の性格が変わるところが面白いのである。

ちなみに自由が丘と同様の都市構造をもつ町は、山の手にいくつか存在する。例えば、中目黒や大井町、大塚のほか、代表的な存在と言えば渋谷だ。渋谷の坂道を上ってゆくと、松濤/神山町/鉢山町/代官山町など、駅周辺の喧騒と対照的な住宅街が控えているのをご存じの方も多いだろう。

自由が丘駅駅から離れると、自由が丘も坂の多い町であることを知ることができる

谷の町なのに、なぜ「自由が丘」なのか?

ただ、ここで一つ疑問が出てくる。「谷の町なのに、なぜ故『自由が丘』という名称になったのか?」ということだ。

もともと自由が丘駅一帯は、江戸時代から昭和の初期まで衾村(ふすまむら)の大字谷畑(おおあざやばた)と呼ばれる地域。現在の駅周辺には湿潤な地勢を活かした水田があり、坂を上った台地面には竹やぶや大根畑などが広がっていたという。

自由が丘駅迅速図(明治19年)に地形表現を加えた地形図(カシミール3Dを使って作成)

そんな農村が現代のような繁華街として発展する契機となったのは、1927(昭和2)年の東横線(渋谷 ‐ 丸子多摩川間)の開通だった。名刹・浄真寺の近くだったこともあり、当初の駅名は「九品仏」。

しかし、1929(昭和4)年の大井町線の開通に伴い、より浄真寺に近い場所に駅ができることになったため、早々に駅名の改称が必要となった。そこで採用されたのが、地元で好んで使われていた「自由ヶ丘」(1966年に「自由が丘」と改称)。

九品仏浄真寺自由が丘から徒歩で行ける名刹・九品仏浄真寺

この言葉、実は1927年に設立された「自由ヶ丘学園」に端を発する。自由ヶ丘学園とは、自由主義教育の提唱者・手塚岸衛(てづか・きしえ)が、自らの理想を体現するために設立した学校だ。

大正デモクラシーのなか設立されたこの学校の影響力は大きく、「自由ヶ丘」という言葉は文化人を中心に支持を得て、住民の間でも急速に広まっていった。その後、駅名に採用されたのを皮切りに、1932年には町の名前も正式に「自由ヶ丘」に決定となった。

自由とは、英語で言えば「freedom」と「liberty」という単語が思い当たる。「freedom」が単に制約のない状態を言うのに対し、「liberty」には闘い・運動を通じて手に入れた自由という意味があり、思想や政治の用語としても知られている。

冒頭で私は「なんとなく苦手」などと書いてしまったが、自由が丘という地名には、この地に住む人たちの「liberty」への崇高なる思いが込められているのだ。失礼を赦してほしい。

自由が丘駅駅前広場を見つめる自由が丘の女神像「あおぞら」

ちなみに、駅前の商店街を通る道は、今でこそ暗渠(あんきょ)化され緑道として整備されているが、かつては九品仏川(くほんぶつがわ)と呼ばれる河川が流れていた。

この九品仏川には面白い話があり、あるとき谷沢川という肉食系河川に水の流れを横取りされてしまったと言われている。九品仏川の流れを横取りした谷沢川は、一気に水量を増し、その侵食力で渓谷を刻む。そうして生まれたのが等々力渓谷だ。こうした川の作用は谷頭侵食(こくとうしんしょく)と呼ばれるが、興味のある人は以下の流れを見てみてほしい。

自由が丘駅
谷頭侵食の概念図(カシミール3Dを使って作成)
フェイズ1:崖線*2にはいくつもの湧水スポット(点線の赤丸)が存在し、
九品仏川は丘の上を悠々とながれていた
自由が丘駅
谷頭侵食の概念図(カシミール3Dを使って作成)
フェイズ2:湧水スポットはその湧出力によって、上流側へと移動してゆく(谷頭侵食)。
そのうちの一つ(谷沢川)が、九品仏川に到達してしまった
自由が丘駅
谷頭侵食の概念図(カシミール3Dを使って作成)
フェイズ3:九品仏川の水が谷沢川へと流れ込み、大量の水による侵食作用で深い谷が刻まれた
自由が丘駅
都市にありながらも渓谷美を誇る等々力渓谷。自由が丘駅からは3駅の距離

自由が丘の精神を感じさせる駅前広場

それでは前置きが長くなってしまったが、いつものように地形に注目しながら自由が丘の町を歩いていこう。

冒頭で「苦手だった町」と告白したが、上京後、敬遠していたこの町を最初に紹介してくれたのは、カイシャの先輩だった。「あなた、東京のこと知りたいんでしょ?」と、吉祥寺や下北沢、自由が丘など、田舎もんが一人では訪れにくい山の手の町を連れ歩いてくれたのだった。「東京の谷間が好き!」なんて公言する、ヘンタイ的な趣味にはしる前の若かりしころのことだ。

さて、自由が丘駅の正面口改札をくぐると、商店が取り囲む駅前広場が迎えてくれる。休日だったので、駅前はさまざまな世代の人たちが行き交っていた。再会を喜ぶ場面を垣間見れたりして、何だかほっこりする。

自由が丘駅自由が丘駅前

駅前広場には土地の傾斜を活かしたベンチが置かれており、人が優雅に談笑するさまはなんだかヨーロッパの広場を思わせる。

広場の片隅には女神のブロンズ像「蒼穹(あおぞら)」がたたずむ。「自由が丘の女神像」の愛称で親しまれている像の足元には、「自由が丘駅前広場の生い立ち」を記したプレートがあり、そこには駅前広場誕生の経緯が紹介されている。

それによると、戦争で焼け野原になった駅前の復興について、当時は大論争があったという。既存商店を中心とした整備を望む人と、駅前広場をつくるべきとする人たちの間で激しい話し合いが行われたのだ。しかし結果として、地元住民・東急電鉄・目黒区の三者が費用を負担し合ってこの駅前広場は生まれたそう。

自由が丘の住民の進取の精神を感じるエピソードだ。解説のプレートでも「先進的な考えを持っていた自由が丘の人々の気質が垣間見れる」と結んでいる。

広場の歴史に思いを馳せたあとは、駅前にある「亀屋万年堂 自由が丘駅前店」の2階にある和風喫茶へ寄ってみた。その昔、先輩に連れられて自由が丘へ来た際、行ってみたい!とリクエストした「亀屋万年堂」だ。かつて「ナボナはお菓子のホームラン王です」というCMで名を馳せ、東京のお菓子の代表だった(と自分は思っていた)ナボナ。その本店は自由が丘にある。

自由が丘駅亀屋万年堂の2階喫茶で頼んだお抹茶(生菓子付)

2階の和風喫茶で抹茶を頼み、静かな店内を見渡す。自分以外の客は、祖母とお孫さん、あるいは母と娘さん、といった二人組。和菓子やぜんざいなどをつまみ、談笑する様子は何とも上品で山の手らしい。やはりここは群馬とは違うのだ。

下階で購入したナボナのパッケージを眺めていたら、名前にまつわるエピソードが紹介されていた。なんでもイタリアの菓子文化に感銘を受けた創業者が、ローマの「ナヴォーナ広場」に因んで命名したという。ナヴォーナ広場と言えば、東京スリバチ学会として初めて海外遠征した時の集合場所だ。不思議な縁を感じてしまう。

自由が丘駅開かずの踏切も都会ならではの風景

店を出ると東急大井町線踏切の警報音が響いていた。絶え間なく行き交う大井町線の金属音と、響き合う踏切の警報音、その喧騒からも都会らしさを感じる。カエルの声が田圃に響き渡る自分の故郷とはエライ違いだ。

町歩きの醍醐味(だいごみ)は、その町特有の音を味わったり、お店から漂ってくる美味しそうな匂いを楽しんだり、道端から漂ってくる花の香に気づくことにあると思う。町が持っている空気感みたいなものはなかなか紙面では感じ取れない。書を捨て谷に出ようだ。

踏切を渡り、左手に見えてくるマリ・クレールストリートを横目にさらに坂を下ってゆくと、九品仏川の川跡でもある九品仏川緑道が待っている。

自由が丘駅九品仏川を暗渠化して生まれた緑道は自由が丘の貴重なオープンスペース

緑道の両側には、雑貨屋やカフェ、ブティックなどオシャレなお店が立ち並ぶ。ベンチには語り合う男女や、一人本を読みふける人などがいるほか、犬を連れて談笑している人たちもおり、実に都会的な風景だ。

自由が丘駅九品仏川緑道にはベンチが置かれ、自由が丘の憩いの場となっている

以前、谷間には猫が多いと紹介したけれど、居心地のよい場所には犬だって集まるのだ。ただし集まっているのは大型犬。坂の上の住宅地から散歩でやってきたのだろう。大型犬を指差し、「あの犬、絶対あたしたちより賢いよ」と先輩が言ったのを思い出した。

町にせり出した「お店の顔」

そんなふうに谷の底で繰り広がられる微笑ましい光景を眺めていたら、長身のマダムに声をかけられた。

「あれ、後輩くんじゃない? 久しぶりね。この間、TVで見かけたからすぐに分かったよ」

驚くべき偶然! なんと自由が丘の町を30年前に紹介してくれたカイシャの先輩だったのだ。そのキラキラとした笑顔から、記憶をたどらずともすぐに分かった。

「久しぶりですね〜。懐かしいです! この辺にお住まいだったんスか?」

「うん。この先の坂を上った町だよ。そういえばTVでは『地形の専門家』みたいに紹介されていたけど、それってブラタモリみたいなやつ? だったら自由が丘をTV番組みたいに案内してよ。あっ、その前にちょっとだけ買い物につき合ってくれない?」

相変わらず強引なもの言いだったが、30年前のお礼も兼ねて、先輩をスリバチ学会的な地形散歩にお連れすることにした。まあ自由が丘は一人で歩くより二人の方が楽しいしね。

自由が丘駅石畳の歩行者天国が続く自由が丘の繁華街。ぶらぶら歩くのも心地よい

駅前広場を横切り、坂を上ってゆく。自由が丘駅周辺は石畳の道が整備されており、車の進入も制限されているため、歩くにはちょうどよい。

やはり、ここでもヨーロッパの町並みが思い出される。ヨーロッパの中心市街地や歴史街区では車両の進入が制限されている場合が多いのだ。しかも、お店の顔(ショップフロント・ショップファサード)が路上と一体になっていたり、路上へ店舗がはみ出していたりするところも似ているかもしれない。

自由が丘駅ローマの中心市街地。街路に広がる飲食店が街のにぎわいをつくっている
自由が丘駅
カフェなどの路面店が街を彩るパリのまちかど

自由が丘のショップフロントも個性を競うよう色とりどり。

街路に対してオープンなだけでなく、ちょっとしたくつろぎスペースを用意しているところも多く、そうした町への貢献が自由が丘という町並みの魅力を高めていると思う。

自由が丘駅個性的な店が街路を彩る自由が丘

サンセットアレイという小路へ出た。自由が丘には雑貨店が星の数ほどあるが、この通りにある「私の部屋」はなかでも老舗に属するだろう。30年前、先輩に連れられてきたときは、自分の田舎には決してなかったオシャレさ、新鮮さに感激した。興奮気味の自分を見て先輩は、「じゃあ次回は『私の部屋』で待ち合わせよ」と笑った。一瞬ドキッとしたことを告白しよう。

当時の面影を残した先輩の買い物につき合い、ショップを何軒か巡る。どのお店も個性的でオシャレ。流行のお店と昔ながらの老舗が軒を並べる様子も自由が丘ならでは。通りの名も、すずかけストリートやメイプル通り、そして自由通りや緑小通りなど新旧混在が面白い。

自由が丘駅老舗の雑貨店「私の部屋」
自由が丘駅店先の展示が自由が丘の町並みを形成している

当の先輩はと言えば、相変わらず「カワイイ」を連発していた。

山の手の町を二人で巡った若かりし過去を振り返る。先輩に連れられて歩く初めての山の手の町は、見るものすべて新鮮で驚きに満ちていた。しかし、一度「あなたはイイ人よ」と誉めてくれたと思ったら、以後あまり誘ってくれなくなった。女性というものは、よく分からない。

いにしえの道から弁財天にたどり着く

散々歩き回り、再び戻ってきたサンセットアレイには夕陽が沈みかけていた。ふと、道の先がわずかではあるが下っていることに気付き、思わず足早に歩を進める。

「どこへ行くの?」という声が後ろから聞こえてきたが、ろくに答えもせず、サンセットアレイに並行する北側の道(ヒルサイドストリート)を目指す。西側を望むと、想像どおり下り坂になっているのが分かった。サンセットアレイよりも急な坂道だ。

「近くに熊野神社があるから行ってみませんか?」

自由が丘駅
階段を上った先に祀られた熊野神社。台地の突端に建立されている神社は多い

たどり着いた熊野神社の境内は、繁華街のにぎわいが嘘のように森閑(しんかん)としていた。歩きながら、参道が自由が丘の街路構成と若干ずれていることに気付いた。

「神社にお参りに来るなんて、私たちもそういう歳なのかもね」

最近は若い人でも神社へ参拝に訪れる人は多いという。ミーハーだった自分たちは、当時あまり関心がなかった。

しかし、今は違う。地形マニアとして神社には必ず立ち寄ることにしている。神社の立地は地形と深く関係しているからだ。

諸説あるようだが、熊野神社を極楽浄土と見立て、この地に分霊を祀ったのは江戸時代だと言われている。そのころはどんな風景が広がり、どんな地形だったのか? 古い歴史をもつ神社は、台地の突端や岬状の地形の場所に建立されていることが多い。言い方を変えると、神社の周囲は谷に囲まれていることが多いのだ。近くには弁財天があるかもしれない。

境内の木立越しに、周辺の地形を感じようと試みる。参道は駅前の谷間から伸びているから、境内の両側には小さな谷筋が存在するかもしれない。今来た道を思い返す。サンセットアレイ、ヒルサイドストリートの先がおそらく西側の谷筋だろう。隠していた地図を広げる。

自由が丘駅熊野神社周辺の街路図(カシミール3Dを使って作成)

その通りの名は「学園通り」。比較的、碁盤目状に整えられた自由が丘の町の中で、この通りの軸だけ若干ずれていることが分かった。そして、そのズレは熊野神社の参道とほぼ並行していることも地図から読み取れた。このような周囲の法則から外れる通りは、区画が整理される前から存在していた「いにしえの道」であることを示していることが多い。

もう一方の東側の谷筋は、並行に存在する「自由通り」と見て間違いないだろう。谷間の存在を確信し、鳥居をくぐって神社の東側へと回り込む。先輩はしぶしぶ付いてくる。

「自由通りの商店街ね。あなたの好きな亀屋万年堂の総本店もあるわよ」

自分の過去を覚えていてくれた先輩をさしおき、周辺を見渡しながら、自由通りの坂を北へ上ってゆく。

自由が丘駅自由通りの風景

「亀屋万年堂には寄らないの? 本店ならではの限定品もあるのに」

先輩の声はもはや耳には入らなかった。足早に坂の先の交差点を目指す。

到着すると、左から交差する道は上り坂だが、右側の道は予想に反し、ほぼ平坦だ。不思議に思い、そのまま平坦な緑小通りを歩き、東横線のガードの手前に差し掛かると、道の片隅に小さな案内板が立っていることに気づいた。近づいてみると「谷畑弁財天」と書いてある。ここに弁財天があるということは、やはり自由通りは谷筋に間違いなかったのだ。

自由が丘駅道路右側に立つのが谷畑弁財天への案内看板

案内板が立つ路地へと進む。路地は20mほどでドンツキだったが、その右側に赤い鳥居が見えてきた。鳥居の先に小さな池があり、池に架かった太鼓橋の先に弁財天が祀られていた。

自由が丘駅かつての湧水スポットに祀られた谷畑弁財天。弁財天は水の神として水辺に祀られることが多い

解説板には「このあたりは碑衾村大字衾谷畑と呼ばれたころ、清泉が湧き出ていた」とあった。恩恵を受けた当時の村民が、「水の神」をこの地に祀ったのだろう。ここから発した水は、九品仏川に注いでいたに違いない。

冒頭に谷間を歩くと湧水スポットや祀られた弁財天に出会うことが多いと書いたが、「丘の町」否「谷の町」ならではの出会いに心惹かれてしまった。地形町歩きの面白さは、こうした歴史の発見や出会いにこそある。満足気に後ろを振り返る。

「あなた、32年ぶりに再会した時よりも興奮してるわよね」

ガードを渡る東横線の騒音が、二人の沈黙をかき消してくれた。

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著者:皆川典久(東京スリバチ学会 会長)

皆川典久

2003年に東京スリバチ学会を設立し、凹凸地形に着目したフィールドワークを開催、観察と記録を続けている。2012年に『凹凸を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩』(洋泉社)を上梓、翌年には続編を刊行。地形マニアとして、タモリ倶楽部やブラタモリなどのTV番組に出演。町の魅力を再発見する手法が評価され2014年には東京スリバチ学会としてグッドデザイン賞を受賞した。2017年12月には『凹凸を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩・多摩武蔵野編』(洋泉社)を共著で刊行。合言葉は「下を向いて歩こう」。

編集:はてな編集部

*1:地形図上には明瞭に表現しにくいほど小規模で微細な起伏をもつ地形

*2:湧き水の影響などでできた崖地が連なったもの