著者: 小野裕之
40歳になる今年、僕は12年間住んだ、愛する浜田山を離れる。

京王井の頭線の各駅停車で、渋谷まで約20分、吉祥寺まで約10分という浜田山の知名度は、すぐ近くの永福町や明大前ほど高くない。けれど実際には、明大前で京王線に乗り換えれば新宿まで約20分。さらには、都営新宿線に乗り換えれば神保町や秋葉原といった東京の東側にも出やすい好立地のベッドタウンなのである。
しかも、ここ最近はだいぶチェーン店が増えてきたとはいえ、個人店とチェーン店のバランスもいい。スーパーはコモディイイダ、24時間営業の西友、成城石井とお手頃から高級路線までフルラインナップが徒歩圏内にあり、カルディまである。毎日の買い物の時間である16時から18時は、駅前の商店街が歩行者天国になる。まさに都市生活者にとってのパラダイス。

ところで僕の家探しは、きまって職場へのアクセスを考慮しつつ、まずは目ぼしい駅や沿線、エリアの候補を絞り込んだら、該当する全ての駅で降りて、歩いてみることから始める。浜田山のときもそうだった。まち歩きが趣味なので特に苦にもならず、趣味と実益を兼ねる、ということなんだろう。
駅前がバス通りや国道など大きな道路に面しておらず、小さな通りを歩いている人たちの雰囲気が幸せそうで、大きめの公園があって、個人店とチェーン店のバランスがよいかは必須の条件である。ちなみに、浜田山に住む前は学芸大学に大きめの家を借りて、友だち4人で住んでいた。

浜田山の愛するお店たち
そんなお気に入りの、12年間暮らした浜田山を40歳になる今年、僕は離れる。
20代後半から40歳までの12年間は、青年の終わりからおじさんの始まりまで、という感じだった。その間に仕事も変わり、結婚して、子どもが出来て、コロナも来て、その度にまちとの関係性も変わっていった。

飲むのが好きな僕は毎晩のように、まちへ出た。駅前の立ち飲み屋「ふみきり」、自分の親世代のご夫婦が営むもつ焼き屋の「和田屋」(現在は代替り)、寡黙で細身の店長がいる焼き鳥屋「またたび家」(現在は閉店)、カウンターが魅力的なイタリアンの「ピッツァピアッツァ」、飲み屋としても優秀なラーメン屋の「華月」。その日の気分に合わせて、日替わりで通った。
週末のランチは、茶そばの「いな垣」で昼から一杯、というスタイルもあり得る。同じ蕎麦屋だと「大橋屋」もなかなかいい雰囲気だ。浜田山は高級なイメージもあると聞くけど、少しつまんで飲んで、お会計は2000円いかない日も多かった。どのお店にもそれぞれの個性があったけど、ほどよい距離感で付き合ってくれるお店が多くて、居心地がよかった。
お客さん同士の会話が程よいBGMとなるなかで、ダラダラとSNSをチェックしたり、溜まったメールを返したり、思いついたことをメモするのが日課だった。僕はこういう時間がないとうまく仕事ができないし、なんなら生きてる心地さえしない。

少しちゃんとした食事を取るときは、薄焼きピザが美味しい「ヴィヴァーチェ」、これぞ町中華という「しむら」、あの叙々苑から唯一暖簾分けを受けたお店と噂の(真相は不明です)焼肉屋「叙々苑」、連日行列のラーメン屋「たんたん亭」、モンキーバイクを乗り回すイケおじマスターがいる焼き鳥屋「ファンキーチキン」、最近ワンちゃんフレンドリーなお店に転身したベトナム料理の「NEW シクロCafe」、地元客で賑わうお好み焼きの「金のキャベツ」(現在は閉店)、昔ながらの寿司屋「勘六」と、選択肢にはこと欠かない。
そう、何を隠そう、僕は正真正銘の食いしん坊であり、呑んべえだ。妻ともよく、二人が好きなランブルスコ(スパークリングの赤ワイン)を飲んだ。たくさん飲んだ。

子どもができて気づいた、浜田山のよさ
そんな僕たちも、2020年にコロナがきて、娘が生まれて、しばらく続いていた飲み歩き生活から、遅ればせながら一変した。そんな一変した新米パパママの生活にとっても、浜田山は最高だった。
まず杉並区の保育園は、なぜか浜田山に集中しているので、徒歩圏の通園で選べる保育園がたくさんあった。それから、浜田山駅から南に歩けば旧日本興業銀行グランド跡地を改修した、巨大な芝生広場、プレーパーク、簡単なランニングコースが広がる柏の宮公園がある。園庭の小さな保育園は、だいたいここにお散歩にやってくるし、週末にレジャーシートを広げて、お弁当とビールを持って過ごすブランチは楽園だ。
柏の宮公園の近くには、じゃぶじゃぶ池(※1)のある塚山公園もある。ちなみにこのあたりは縄文時代から住宅地だったようで、園内にポツンとひとつ、竪穴式住居のレプリカと蝋人形が飾ってあり、近寄るといきなり照明が点灯するので、初回は必ずギョッとする。
※1 幼児から低学年の児童までが利用可能な水深10~20cmくらいの徒渉池

塚山公園の近くには「下高井戸八幡神社」があり、うちの娘はここで生まれて初めてのお祭りを経験し、浅漬けの一本きゅうりをかじりながらお神輿を見た。新興住宅地のイメージも強い浜田山で、土着的な何かを感じられる数少ない機会だった。
一方、浜田山駅から北側に向けて15分ほど歩けば、善福寺川沿いに緑地が広がり、全長4kmほどにわたって、散歩やサイクリングを楽しむことができる。その途中には、『孤独のグルメ』にも登場した釣り堀「武蔵野園」があったり、いろいろな遊具や乗り物に乗りながら交通ルールを学べる「杉並児童交通公園」もある。
さらに東隣の西永福駅方面に向かえば、東京都のど真ん中にあり、東京のへそとも言われる「大宮八幡宮」があり、初詣のころには毎年、初詣客と屋台でごった返す。大宮八幡宮には写真館も併設されていて、ここがなかなか味わい深い、昭和感あふれる写真館なので、ご興味のある方は検索してみていただきたい。

娘ができて、すっかり飲み歩けなくなった我が家ではあったけど、浜田山は個人店だけでなくチェーン店も豊富だった。「大阪王将」「築地銀だこ」「牛角」(現在は閉店)「むさしの森珈琲」「藍屋」「サイゼリヤ」「マクドナルド」が徒歩圏内にあった。さらに、子育て世帯には嬉しい「西松屋」「Seria」「DAISO」「無印良品」もある。しかも無印良品は、このあたりじゃ一番大きい店舗だという。
そうそう。個性的な飲み屋さんと安定のチェーン店だけなく、記念日に使えるケーキ屋「VOISIN」もレベルが高いし、韓国人がオーナーさんのパン屋「CAFE ACHIM」もセンスのよいパンばかりだったことも付け加えておかなければならない。

浜田山の再開発に、まちを想う
そんな、いいことづくめの浜田山(褒めすぎ?そんなことはありません)にここ半年、少し気になる流れが突如として表れた。そう、再開発ラッシュである。
僕もまちづくりや店舗経営に携わる端くれとして、再開発は一定自然の流れだと思う一方で、駅前を中心に、明らかにチェーン店が増えてきたことには少し不安を覚えているのが正直なところ。
築古のビルが新しいビルに建て変わると、そのビルだけでなく当然、周辺の家賃も上がっていく。そのタイミングで、1階にかつて入っていた個人店がチェーン店に置き換わる。まだ開発の余地がある東京の少し外れたエリアでは、非常によくある光景だ。そして、浜田山もついにこの抗うことのできない不動産開発、資本主義経済の大きな流れに飲み込まれつつあることはおそらく間違いない。

話は少し変わるけど、僕は仕事で下北沢にしばらく関わっている。下北沢もここ10年ほど、小田急線が地下化されたことにともなって、線路跡地が「下北線路街」として歩道化、緑化され、全長2km弱の跡地に商業施設からホテル、学生寮まで、さまざまな施設が建設された。
もちろん賛否両論はあるけれど、ある程度、整然と統一感をもって整備された大きな歩道、緑地といった新しい開発と、いわゆる下北らしい、わい雑さや路地裏感が上書きされ続けたこれまでの開発が、ギリギリのバランスで共存することができた、と評価していただくこともある。

僕の仕事は新しい開発全体のディレクションとはほど遠く、あくまである施設運営の一翼を担っているに過ぎない。けれど、この開発の過程を間近で見てきたひとりとして、下北沢周辺に暮らし、お店を営んできた方たちの、まちに対する感度の高さ、関心の強さを感じてきた。
きれいごとだけではまとめられない状況に陥って、事態が膠着する場面も多々あったと聞くけれど、一緒に業務を推進していた鉄道会社の方からは「(上から目線では決してなく)下北沢の住民や商店主たちの主体性の高さに驚いた」という言葉が出た。地元の方たちが、口だけでなく、行動もするし、リスクも取るよ、と。この一件に、下北沢の底力を感じた。


当時は開発への意見を主張するデモや集会などもあったため、事情を知らない人からは単に地元の方たちが「ごねている」ようにも見えたかもしれない。ただ内側の実態としては、どの立場や意見にも一理あるけれど利害が一致しきらない懸案事項をひとつひとつ、辛抱強く話して、歩いてまとめていった、とてもリアルな過程があった。
正直に言えば僕自身、あまりうまくいっていないタイミングの住民説明会に参加したのは初めての経験で、何度か激しい意見のぶつかり合いがあり、最初は面を食らった。ただ、もう少し注意深く観察してみると、住民説明会のように開かれた、その一方でどうしても劇場型になりがちなプロセスだけではない、大人同士の本気の話し合い、時間の共有が垣間見えてきた。
少し陳腐な言い方にはなってしまうけれど、いま振り返ってみればこの過程は時間をかけるべき、ひとつのまちを取り巻くさまざまな利害関係者たちが、それぞれの強みを生かし、餅は餅屋に、と任せ合うことのできる信頼関係をつくるためには不可避な衝突だったのではないかと思う。

話を愛する浜田山に戻すと、僕がこれまで暮らしてきた時期は、たまたま大きな開発の波に飲み込まれることのなかったタイミングに偶然居合わせただけなのではないかと感じる。そして、10年そこそこ住んでいた僕には計り知れない、新旧がぶつかり合って、時間をかけて混ざり合ってきた場面が、おそらくこれまでも何度となくあったんだろうと思う。
いいまちの定義は、本当に人それぞれだし、それがゆえに住んでいるまち、好きなまちは、その人自身の価値観や人格、スタイル、ライフステージを映し出しているようにも感じる。僕にとって浜田山は間違いなく、30代を丸っと捧げるにふさわしいまちだった。
興味があれば一度、駅裏の「しむら」や「和田屋」で、平日の夕方あたりからちょっとつまみながら一杯飲んで、まちやお客さんをぼんやり眺めてみてほしい。そして、よければその感想を僕に教えてほしい。
そんな浜田山から、僕は今年離れる。
仕事だけでは得られない、人生に必要なもの

40歳も近くなったこの数年、僕は仕事を頑張る・結果を出す、ということが、仕事だけ頑張れば叶えられるわけではないことを痛感する出来事にたくさん出くわしてきた。仕事を偏重することで、人として大切な人間性のようなものがうまく育っていかない感覚だ。
不老不死が少し科学の行き過ぎた発想で、それを願うことが必ずしも幸せにはつながらないように、うまく年を重ねていく、年齢なりに成熟していく、というかある部分はちゃんと枯れていく、そのやり方は仕事だけでは身につかないような気がしている。
浜田山での暮らしはこれまで書いてきたようにとても気に入ってはいたけれど、どこか短期的かつ常時、仕事を最優先した選択であったことは否めない。仕事の一部として暮らしがあるのではないし、決して仕事の手を抜くということでもなく、当然、暮らしの一部として仕事があるべき年齢に差し掛かっていることを感じた結果、家族と子どものことや、都心では得られない自分自身の心地よさを求め、両親や姉夫婦の近く、西湘エリアを次なる生活の場として選んだ。
それでも都心には大した乗り換えもなく、新幹線や飛行機でないとアクセスしづらい場所まで飛び出すところにまで至らなかったことについては、内心自分らしいなと笑ってしまっている。

子どもは保育園で兄弟のようにじゃれ合う友だちができ、僕たちもコロナが落ち着いたことで交流が増えたパパママ友との別れは辛かったけど、浜田山での暮らしをやり尽くした感もあり、離れることを決断した。
これまで小さな会社をいくつか立ち上げ、仕事で未知なるアクションをしたことは何度もあるけれど、住む場所を(僕にとって)大きく変えるのは、25歳で実家を出て以来15年ぶりだ。まさに不安半分、楽しみ半分。でもその半分半分の感覚が、本当の意味で個人的に挑戦しているということの証なんだろう。逆に、局面局面では必死だったことは間違いないけど、本当にその感覚を仕事で味わえていただろうかと、しばらく反芻してみている。
それでも新しい土地での新生活。家族が増えてからの引越しがこんなに大変なものとは認識できていなかったし、不安や出費はかさんでいくけれど、これまでとは違う環境、違うペースで、いろいろと深刻になり過ぎず、楽しんでみようと思う。そして、しばらくしてみて、どんな風に家族や自分自身が変わっていくのかを観察してみるとしよう。
著者:小野裕之(おの・ひろゆき)

まちづくりプロデューサー。1984年岡山県生まれ。ベンチャー企業を経て2012年、ソーシャルデザインをテーマにしたウェブマガジン「greenz.jp」を運営するNPO法人グリーンズを共同創業。2020年春には、マスターリース運営会社として株式会社散歩社を創業し、現代版商店街「BONUS TRACK」を下北線路街にて開業。
編集:友光だんご(Huuuu)
