前身は同潤会が最後に建てた集合住宅「江戸川アパートメント」
日本の集合住宅の歴史をひもとくとき、「同潤会」は不可欠な存在だ。
同潤会は、1923年(大正12年)の関東大震災の住宅復興を目的に設立された財団法人だった。同潤会アパートは、当時極めて珍しかった鉄筋コンクリート造の建物に、ガスや水道、水洗便所を備えた集合住宅で、それまでの日本にはなかった新しい住居様式を提示した。およそ10年間で東京と横浜、計16物件、総計約2800戸が供給されている。
それらはほぼ100年前の住宅であり、令和の現代においては一棟も現存していない。ただ、一部では建て替えでマンションとして再生されており、当時の面影を垣間見ることもできる。今回ご紹介する「アトラス江戸川アパートメント」もそのひとつだ。
同潤会によって1934年に建てられたときの物件名は「江戸川アパートメント」。同潤会が世に送り出した最後の集合住宅である。フランク・ロイド・ライト風とアール・デコ、モダニズムの建築様式が融合し、「東洋一のアパートメント」とも称された。
建て替えの検討が始まったのは1960年代に入ってからだった。敷地条件の制約があり、大幅な床面積の増加が見込めないことや、多数の区分所有者の存在から合意形成は難航したが、関係者の地道な努力によって、2003年に建て替えを決議。建て替えの検討開始から半世紀近くを経た2005年、アトラス江戸川アパートメントに生まれ変わった。
特徴は、先に述べたとおり、色濃く残る同潤会時代の空気感、雰囲気だ。江戸川アパートメントで使われていた素材や意匠を活かした共用部分や、従前の区分所有者の愛着が深かった中庭を回遊式の屋上庭園で再現するなど、同潤会の歴史と区分所有者の想いを反映したデザインが実現されている。
時の流れが一気に変わる空気感に魅せられた
今回取材したアトラス江戸川アパートメント管理組合理事長の小川功一さんも、このマンションならではの空気感に魅了されている。
「まず、集合エントランスを抜けた場所にあるコリドーの空気感です。大谷石に覆われた壁や柱、灯籠、ガラス越しの植栽が目に入り、一気に時間の流れがゆっくりになります。そこを抜けると今度は敷地内に伸びる小径。まっすぐではなくクランク状で、微妙に折れ曲がって続き、何とも言えない奥行きを感じます。視界に入ってくる変わらないたたずまいに『ああ、今日も帰ってきたな』とホッとします」
大規模修繕工事でも「変えないこと」にこだわる
小川さんが話す「変わらないたたずまい」は、ハードに対して綿密な修繕が継続されていることの証でもある。アトラス江戸川アパートメントでは、2020年1月~11月末まで、建て替え後初の大規模修繕工事を行った。工事の主要項目は一般的な大規模修繕と同じく、屋上や床防水、躯体補修、鉄部塗装などだったが、なかでも留意したのが外壁タイルの補修だったという。
「住宅棟、共用設備の外壁は、同潤会時代の意匠を継承した大谷石がふんだんに使われています。1枚1枚手焼きであり、傷んだ石を取り換える際、色味や風合いを合わせるのが大変でしたが、このマンションの魅力に直結する部分なので妥協はせず、できるだけ同じ仕様を選びました。コストもそれなりに嵩みましたし、工事期間中に外壁を覆った足場ネットの影に隠れて一部の植木が枯れてしまったなどのトラブルはありましたが、深刻なクレームや大きな問題は起きませんでした」
初めての大規模修繕だったうえ、コロナ禍によって在宅ワークが増えた時期にも重なったため、住人の皆さんには何かとご不便をかけたと思いますと小川さん。それでもとどこおりなく終えられたのは、多くの住人の気持ちが同じ方向に向いているからでは、と話す。
新旧住人の暮しが融合。新たなヒストリーを紡ぐ
「住人の合意を形成していくという点で、大きな役割を果たしているのが自治会です。全戸のおよそ4割にあたる賃貸にお住まいの方も含む全住人の交流を促し、楽しく住みやすい環境をつくるために、いろいろなイベント、行事を催していただいています。
具体的には、1月の餅つき大会、5月の消火訓練・炊き出し、6~7月の七夕飾り付け、8月のサマーパーティー、12月のクリスマスイルミネーション飾り付けなどですね。特にサマーパーティーは毎年小さな子どものいるファミリーやシニア世帯など幅広い住人が参加する一大イベント。同潤会時代の共用施設の名を受け継ぐ多目的スペース“社交室”や、敷地内の小径、中庭などにテントを立ててにぎやかに行います。ビールや焼きそば、子どもたちが楽しめるゲームなどで盛り上がります。
こうした催しはほかのマンションでも見られますが、ここの場合は、同潤会時代の空気感、歴史が色濃く残っている空間で行っていることが大きく異なる部分だと思っています。イベント、行事を通じて、建て替え前の同潤会アパート時代から暮している人と、私を含む建て替え後に住み始めた住人の融合が進み、互いに顔の見える関係が築けていると考えています。
マナーや共用施設の使い方など諸々の課題があることも確かですが、普段の交流を通じて親密な関係が育まれているおかげで、早い段階で課題を抽出して議論し、深刻化することを防げていると思います」
小川さんは、暮し始めた当初は、歴史を受け継ぎ、維持していこうということはあまり意識していませんでした、と言う。
「でも、理事会に入り、大規模修繕を経験し、イベント、行事に携わることで、同潤会の歴史を受け継ぐマンションでの暮しに向き合うようになりました。地元の新宿区が開くマンション管理に関する勉強会にも積極的に参加して、そこで得た知識をここの管理に活かす試みもしています。残る任期を全うして、次の人にしっかりバトンを手渡したいですね」
大規模再開発で誕生したマンションは、かつてその地で暮していた地権者と、新たな住人の融合によってつくられていくが、アトラス江戸川アパートメントの場合はその図式に「同潤会」という系譜も重なる。変わり続ける東京の都心にありながら変わらぬたたずまいと、成熟していくコミュニティ。この組み合わせが継承されていくことを望みたい。
※2021年のイベント開催は新型コロナウイルス感染症対策のため上記の通りではありません。今後の開催は未定です