歳月をかけて住民が育む“森に還る家”

ヒルサイド久末の外観

物件名:
ヒルサイド久末
所在地:
神奈川県川崎市高津区
竣工年:
1985年
総戸数:
66戸

斜面開発で著名な建築家が生み出した市街地の“別荘”

植栽の緑豊かなマンションとひと口に言ってもスタイルはさまざまだ。端正な庭が整えられている物件もあれば、隣接する公園や緑道を借景として取り込んだ物件もある。

果たして、「ヒルサイド久末」はどんな緑に彩られているのか。想像を巡らせながら向かった先にあったのは“森”だった。3つの住居棟はあふれんばかりの樹木に囲まれ、その中にたたずめば木々の葉ずれと鳥のさえずりだけが耳に響く。18mもの高低差がある丘陵地に建つことから言えば、山の中と言ってもいい。

驚くのは、この環境が川崎市高津区の市街地で実現されているということである。一戸建てや県営住宅が立ち並ぶなか、この一角だけがあたかも別荘地のようだ。

ヒルサイド久末の森

住居棟も前面に広がる森。最上階まで届く木も

ヒルサイド久末の森の中の散策路

石段が道案内をする森のなかの散策路。勾配は山登りに近い

ヒルサイド久末の遠景

緑が茂る季節に撮影された遠景。建物の大半が樹木にすっぽりと覆われている(写真提供・サムデザイン)

「樹木の大半はマンションが立つ以前からこの地に根をはってきた既存樹。コナラ、クヌギ、ヤマザクラが多いですね」
そう教えてくれたのは、居住者の一人、「サムデザイン」の代表、井出敦史さんだ。実はこのマンションを手がけたのは、井出さんの父である建築家の故・井出共治氏。「斜面の魔術師」とも称される通り、丘陵地の高低差を活かした集合住宅を数多く設計しているが、「ヒルサイド久末」はその先駆けとなったマンションだという。

共治氏の斜面開発には一貫したコンセプトがある。それは“元の山に戻す”ということ。自然に溶け込むよう集合住宅をつくり、歳月を経るなかで生長する樹木と一体化させていく。そんなロングスパンのランドスケープがこのマンションにも導入されている。

ヒルサイド久末の航空写真

竣工時の航空写真(写真提供・サムデザイン)

日々変わる自然の景観に癒やされながら生活

息子である井出さんがここに住み始めたのは11年前。竣工時から伯父が住み、遊びに来るたびに『いつかここで暮らしたい』と思っていたそうだ。
そこで、まずは居住者の目線で、このマンションの魅力を訊ねてみた。

「一番は住戸の前に広がる自然の景色ですね。以前は品川区のマンションに住んでいて、部屋からは都心の景色が一望できました。それはそれで素晴らしかったのですが、都心の景観は変化が同じで飽きてきます。その点、自然の景色は毎日変わり、同じ季節でも年によって変化があり、見飽きることがありません」

ヒルサイド久末の住人の方の写真

お話を伺った井出さん。ご自身も建築家であり、個人住宅、医療施設、保育園などの設計を手掛けている

現在は6歳と1歳の姉妹の子育て中というが、この環境は子どもたちにとってもまたとないものと感じているそうだ。
「自然に恵まれた環境で育ってきた長女は季節の移り変わりに敏感ですね。『彼岸花が咲いたよ。秋だね〜』などとうれしそうに話します。鳥も多いですよ。メジロ、シジュウカラ、ヒヨドリとか。バルコニーにエサを置くと毎日来ます。夏夜にはカブトムシが窓にぶつかったりします、敷地内にはカブトムシの幼虫がゴロゴロしているので、娘と捕まえてきて一緒に育てているところです」

竣工時からここで暮らす女性にも住み心地を訊ねたところ、やはり真っ先に挙がったのは植栽だった。
「朝起きて、リビングに入ってきたときに、窓一面の緑をみると気持ちよく1日がスタートできるんです。高原に別荘を持っているのですが、ここに引越してきてから行く必要がなくなってしまいました」
話を聞くほどに羨ましさがこみあげてくる。

住戸をつなぐ階段と空中廊下。2層吹抜けのバルコニーは開放感満点

高低差18mという敷地であるゆえに、ランドプランも独創的だ。3つの住居棟は傾斜面に沿って階段状に造成して建てられている。

ヒルサイド久末の住居棟

階段状に連なる住居棟。防水性の高い切妻屋根が特徴だ(写真提供・サムデザイン)

駐車場は坂道を上りきったところにあり、管理室も上に置かれている。メインの出入口はこちらになるが、徒歩ならば下からも入ることができる。

住戸までの行き来に使うのが階段と空中廊下というのも珍しい。エレベーターはなく、分譲マンションにつきもののエントランスもない。共用施設も管理室の前にちょっとした集会室が設けられているだけだ。

ヒルサイド久末の1号棟と駐車場の入り口

地下の駐車場につながる道にはパーゴラを設置。写真・正面の1号棟に管理室と集会室がある

ヒルサイド久末の部屋につながる階段

住戸につながる階段はワンフロア2戸で共用。プライバシーも守られやすい

ヒルサイド久末の空中廊下

空中廊下と階段からも植栽を楽しめる

ヒルサイド久末の木に覆われた空中廊下

両脇に緑が迫る空中廊下。行き来する間にも森林浴ができる(写真提供・サムデザイン)

井出さんによれば、エレベーターやエントランスなどの共用施設が設けられなかった理由は大きく2つあるという。

「1つは、一戸建てのような集合住宅を実現するため。坂の上にある一戸建てと考えれば、エレベーターや共用施設はなくてもよいわけです。もう1つは、管理費や修繕積立金の負担を抑えるためです。マンションを販売する観点ではエレベーターや豪華なエントランスがあったほうがよいのでしょうが、父は住んでからのことを第一に考えていた。駐車場はすべて平置きなんですが、それも出し入れのしやすさだけでなく、機械式駐車場にかかるメンテナンス費を省きたいという理由からです」

居住者の暮らしを優先する設計者の思いは、住戸プランからも感じ取れる。平均130㎡とゆったりとした広さが確保され、厚肉床壁構造(薄肉ラーメン構造)のため柱や梁の出っ張りもない。家族構成や生活スタイルの変化に合わせてリノベーションもしやすく、長く住み続けられる。

もちろん、“目玉”はリビングから眺める緑だ。井出さんの母と妹が暮らす住戸はリビングダイニングに3つの窓があり、それぞれに絵画のような美しい景観が映し出されている。息を飲むというのはこの眺めを言うのだろう。

バルコニーにも目を見張らずにはいられない。奥行き2.5mと広いうえに、上下階と重ならないよう互い違いに配置されているため、庇の高さはたっぷり2層分。見上げれば空の色と樹木が見事に融合し、その開放感たるや......!

ヒルサイド久末の1室

リビングの前は植栽の緑のみ。カーテンをかける必要がないほどだ。床には厚さ1.5㎝の無垢材を採用するなどすべてが自然に寄り添っている

ヒルサイド久末のバルコニー

奥行きのあるバルコニーはテーブルや椅子を置いたり、植物を育てたりとさまざまに活用可能。ここでもアウトドア気分が十分、味わえる

ヒルサイド久末のバルコニーからの風景

2層分の高さがあるバルコニーは視界が広く、前面に迫る自然が満喫できる

「棟や階数によって景観は変わり、それぞれに魅力があります。例えば、3棟のなかで一番背の高い1号棟の上層階は緑を見下ろすようになりますが、代わりに富士山まで一望できます。マンションの値付けは一般的に低層階が安くて上層階は高く設定されますが、ここの場合、階数による価格差はなかったと聞いています」

ヒルサイド久末の別角度の外観

1号棟は7階建て。上層階からの見晴らしは抜群だ(写真提供・サムデザイン)

緑を配した広いドライエリアで開放できる窓を実現

さらにもう1つ、住戸プランには見逃せない特色がある。玄関側の居室に設けられた窓だ。一般のマンションにも玄関側に窓のあるプランは少なくないが、共用廊下に面しているため“開かずの窓”になりがちだ。その点、このマンションでは気兼ねなく開放でき、住戸内を風が抜ける心地よさを味わえる。

これを可能にしたのが最大4.5mに及ぶ広いドライエリアだ。
ドライエリアとは地下に光や風を取り込み、暗さや湿気を解消するための空間のこと。傾斜面を造成して建てたこの物件は、そそり立つ壁面と対峙するためドライエリアは不可欠だった。機能を満たすだけならさほど広いスペースは必要ないが、開放できる窓を設けるために4.5mもの距離が取られたというわけだ。

その空間にプラスされているのは、やはり緑だ。
「窓を開けたとき、前がコンクリートの壁では味気ないですよね。そこで緑を楽しむ手段として高速道路でよく見かける緑化ブロックを入れ、耐陰性のある植物を植えています」
剪定の仕方や植物の選び方など改善の余地はあるとのことだが、ここまで徹底して緑化をしている物件は珍しいだろう。

ヒルサイド久末のドライエリア

ドライエリアも一面の緑。植物は日陰でも育つシダ系が中心

住民自らが植栽の手入れに乗り出し、自然の景観を保全

森のような環境とそれを満喫できる住空間。自然を愛する人にとってはたまらない住まいだが、実際、どのような人たちが暮らしているのだろう。
井出さんに訊ねてみた。
「竣工以来、ずっと住んでいる方は多いですね。正確に数えたわけではありませんが、3分の1ぐらいはいるでしょうか。足が悪くなって階段の上り下りがきつくなったからと、マンション内の別の住戸に住み替えた方もいます。

正直、利便性は決してよいとはいえません。グリーンラインが開通して歩ける距離に駅ができたものの20分以上かかりますし、コンビニは車で行く距離にしかない。そんな不便を承知のうえで、『それでもここがいい』という人ばかりです」

そんな住民の愛着の表れこそが、森のように生い茂る樹木だ。植栽の管理は、毎年、理事会の一大テーマとなり、各期でさまざまな取り組みがなされてきたという。

「植栽を巡って意見が分かれることもありますが、それも大事に思うがゆえ。現在は、できるだけ自然に近い形で植栽を管理していく方針で進められています。例えば、ケヤキやコナラなどの高木に関しては、樹形を崩さないよう枝を間引くだけにしています。枝の密度を減らすだけでも、木を元気にすることができます。低木は上ばかりを剪定していると下が先祖返り(幹が太くなり過ぎてしまう)して枝の密度が上がり過ぎるので、下のほうも間引きます。下草については、在来の野花は残し、繁殖力の強い外来植物だけを刈り取る選択除草を行っています」

下草は太陽光を浴びた分だけ伸びてしまうため、ほどよい光と風通しを保つことが大切だという。下草の生長をコントロールするためにも、高木の間引きが重要になるわけだ。

さらに、管理組合ではクヌギやコナラなど既存樹の実生保護にも力を入れている。実生とは種から発芽したばかりの植物のこと。下草と混在するため、うっかり刈り取ってしまわないようマークをつけているそうだ。 ほかにも、既存樹木に番号をふり、どの木がどのくらい育っているかを調査するなど、植栽への思い入れは並大抵ではない。

しかも、そうした管理を住民主体で行っているというではないか。

「我々が考える管理方法をプロに依頼すると、通常よりも費用が嵩んでしまいます。それでは管理費がもたないので、棟ごとにグループをつくって、草刈りや低木の剪定などは居住者の手で行っています。取りまとめをする緑化委員会も立ち上げられています」

ヒルサイド久末の植栽保護活動の一環

種から芽を出し成長中のクヌギ。ロープを張って保護をしている

ヒルサイド久末の植栽管理の一部

間引き剪定で美しい樹形をキープ。人間の都合でなく自然の摂理に合わせた管理が遂行されている

ヒルサイド久末の植栽の番号札

生長を見守るために樹木に貼られた番号札

ヒルサイド久末の提供公園

提供公園は保全緑地として登録。管轄は川崎市になるが、マンションにとっては大事な緑地であることから、保全・管理は管理組合で行っている

植栽を囲んで住民コミュニティも円熟

こうした植栽保全の取り組みが、住み心地に反映されているのは先述の通りだ。加えて、目に見える成果として、2013年度「JIA25年賞」受賞という栄誉もある。これは日本建築家協会が制定する築25年以上の優れた建築物に与えられる賞だ。

「JIA25年賞はオフィスビルや美術館など施設の建築物が選ばれることが多く、マンションの受賞歴はわずか。それだけにとても意味のあることだと感じています。見栄えのしない小石を取り除くなど審査に向けて住民全員で準備をしたので、受賞が決まったときは大パーティーでした」

このエピソードからも分かるように、住民同士のコミュニティは極めて良好。持ち寄りのバーベキューや正月の餅つき大会といったイベントも開かれているそうだ。

「この環境が好きで集まった人たちばかりなので、修繕をする場合でも意見がまとまりやすいですね。木製の郵便受けが腐食したときには耐久性の高い金属製に交換する選択肢もありましたが、結局、木製に決まりました。マンション名を刻んだ館名板も2回ぐらい替えているのですが、木製で文字はグリーンというベースは竣工時から変わっていません」

ヒルサイド久末の郵便受け

リニューアルされた木製の郵便受け。木の風合いが自然にしっくり溶け込む

ヒルサイド久末の館名板

3代目(?)の館名板。次の写真を見ても分かるように、文字の色も継承されている

ヒルサイド久末の竣工時の様子

竣工時の様子。春になるとマンションを彩るサクラもまだ幼く頼りな気だ(写真提供・サムデザイン)

そうしたなかで、唯一、変化しているのが生長する樹木だ。幼木だった木々はすくすくと背丈を伸ばし、太い幹から大きく枝を広げている。

「竣工当時の植栽はあえて大きい木を植えていません。最初から樹木が茂っていたほうが見栄えはしますが、先々密生してよい環境は保てないからです。父が見据えていたのは20年、30年後。これからもますますよくなっていくはずです」

長い歳月を経て豊かに育った既存樹の森は、今、建物全体をやさしく包み込む。それはまさしく設計者が目指した、元の森に還った姿なのである。

ヒルサイド久末分譲時のパース

分譲時のパンフレットに載る水彩画のパース。設計者が思い描いたそのままの姿が生み出されている(写真提供・サムデザイン)

構成・取材・文/上島寿子 撮影/一井りょう

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