愛しさと切なさと後ろめたさと、多治見

著: 山田宗太朗 

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多治見について考える時はいつも、相反する感情が同時に湧き上がって胸が詰まり、言葉が重くなる。そこには自分の実家があり、今も両親が住んでいるのだが、自分自身は小学生の5年間を過ごしただけで、街のことはよく知らない。「地元」と呼んでいいのか、迷ってしまう。

静岡で生まれ、転勤族のような幼少期を過ごし、小学校2年生に上がる直前に、父の地元である岐阜県多治見市に引越した。家が建ったのは駅からバスで20分ほど離れた丘の上で、祖父に言わせれば「あんなとこ、昔は山ばっかやったわ」な場所。80年代から90年代前半にかけて山を削って開発された住宅地で、広い空と、草木や土の匂いに囲まれて育った。

小学校4年生になると、近所に住んでいたひとつ年上のI君の影響で、地域のミニバスケットボールクラブに入った。バスケは楽しかった。『スラムダンク』が漫画とアニメで大流行していたせいもあったのか、「高校生になったら自分も全国大会に出て活躍したい」と強く願うようになった。それが初めて抱いた夢らしい夢だった気がする。

当時は「多治見北高校」という市内随一の進学校がバスケ部も強く、県大会ではベスト4を狙える位置につけていたので、ミニバスの仲間たちと「将来、北高に行ってバスケやろうな」と目を輝かせていた。

将来の夢ややりたい仕事といった概念がほとんどなかった当時の自分にとって、「北高に行ってこいつらとバスケをやる」という思いだけが、未来へと続く道しるべだった。

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駅から徒歩30分、虎渓山にある永保寺は鎌倉時代に開創された禅寺。観音堂と開山堂は国宝に指定され、庭園は国の名勝に指定されている。近年はここで禅式結婚式を挙げることもできるそう

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虎渓山のふもとにあるカトリックの修道院。敷地内のぶどう園でつくられたワインが販売されている。多治見北高校はこの向かいにある

しかしその道は小学校を終えた時点で大きく外れてしまった。中学進学と同時に、ドイツのブレーメンに留学することになったから(正確には中学3年の夏に帰国、その秋の終わりに多治見の中学校に転校。卒業までの3カ月間だけ通っていた)。

そんなわけで、多治見が自分の地元だという実感が今でも薄い。自分には地元がないという感覚が強く、地元愛を嬉々として語る人や、地元の友人との結びつきに愛着を抱く人たちを羨ましく感じてきた。

Uターンする機会は何度かあったし、自分の居場所はあとからだっていくらでもつくれる。でもそうしなかった。したくなかった。多治見で暮らしている自分の姿がイメージできなかったし、いつからか多治見という街を好きではなくなってしまったから。

 あのころの多治見には「街」がなかった?

「街」に興味を持ち始めた中学生のころ、目の前にあったのは、のちに世界遺産に登録されるブレーメンの美しい街並みだった。日本の街については、先輩たちが日本から取り寄せる雑誌を通して知った。木村拓哉や広末涼子が表紙の『Hot-Dog Press』『MEN’S NON-NO』『COOL TRANS』『BOON』といった雑誌が舞台とする街とはつまり、東京の、おもに渋谷とか原宿エリアのこと。

それらと比べて自分の街はどうか? それまで自宅と小学校までの数キロメートルが世界のほとんどだったから、まだ多治見の街を知らなかった。ましてやインターネットのない時代である。街を知りたかった。

しかし、「街」なんてものが、90年代から00年代の多治見に本当にあったのだろうか?

長期休暇のために帰国した中学生の自分にとって、多治見の街には、求めていたものが何もなかった。おしゃれな服屋も、かっこいい音楽を教えてくれるCD屋も、ちょっと背伸びできる喫茶店も、カリスマ美容師のいる美容院も、仲間と遊べる施設もなかった。

目に映るのは何年も前に閉店した店の跡や汚れた低いビルだけだった。人もほとんど歩いていない多治見の中心部は、はっきり言って、終わった街に見えた。昭和から平成に移行できず取り残された老人の街。その街を山々が囲んでいた。ドイツのブレーメンや雑誌の中の東京と違いすぎて失望した。

この街には何もないかもしれない。自分の未来はここにはないのかもしれない。そんな思いが少しずつふくらんでいくのを感じながら、それでも地元を開拓したくて歩き回った。あまり収穫はなかった。

自分が求めていたような場所は、駅から徒歩5分のながせ商店街にある古着屋「イエローモンキー」しか見つけられなかった。ワンルームほどのスペースに所狭しと古着が並ぶ店。置いてある服も素敵だったが、お店に立っている髪の長いお兄さんがかっこよくて通った。多治見の街で初めて見たかっこいい大人だったから。

彼は、俳優・三上博史の兄だった。ドイツに留学している中学生の客、というのが珍しかったようで、興味を持っていろいろ聞いてくれたのが嬉しかった。大人になってから知ったことだが、彼は東京スカパラダイスオーケストラの初期メンバーでもあった。

 青春のはじまりの記憶

やがて街の方へ行くのはやめて、自転車で行ける近場をひとりでウロウロするようになった。チェーンの飲食店と薬局とパチンコ店と大型スーパーがだらっと続く地方のロードサイドを、車と競争するように全速力のクロスバイクで流す。歩行者はめったにいない。

30分か40分ほど走り続け、夢屋書店やTSUTAYAで立ち読みしながら汗まみれになった身体を冷まし、落ち着いたら、映画をVHSで5本まとめて借り(初めて借りたのはリュック・ベッソンの『レオン』)、X(当時はもうX JAPANに改名していたが、「オレは初期Xが好きだし、Xと呼ぶのがツウなんだぜ」という、しょうもない自我があった)やLUNA SEAのCDを買い集め(『BLUE BLOOD』で入門し『VANISHING VISION』で開眼、『限りなく透明に近いブルー』は村上龍ではなくRYUICHIの言葉として知った)、近くの薬局で話題の基礎化粧品などを買う(『smart』や『BiDaN』などの雑誌を参考にしていた)。そうしてまた自転車に乗り、汗まみれになって帰る。

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TSUTAYA多治見インター店。二階建てで、一階が書籍、二階がDVD。2021年現在は、同じ敷地内にユニクロやスタバがある。道を挟んだ向かいに夢屋書店という書店があったが、現在は総合リサイクルショップの買取王国に

仲の良い近所の友達とは時々カラオケに行った。あのころカラオケといえば、ジャパンレンタカーに併設された、外にコンテナが並んでいる昔ながらのタイプ。友達の前で歌うことが恥ずかしかった思春期のはじめ、誰もがモジモジしながら、週刊少年ジャンプよりも分厚いカラオケの目次本をめくっていた。

誰が最初に歌うか、それが問題だった。そんなガキどものしょうもない緊張を解いてくれたのはKだった。近所に住んでいたKとは小2で多治見に引越してからずっと仲が良く、互いの家をしょっちゅう行き来していた。サッカーが好きな細身の少年で、シャイだが人懐こいところもあり、「今日うち泊まらん?」と自分をよく家に泊めてくれようとした。「なんで?」と聞くと、「こういうのも、いつかいい思い出になるやん?」と言う。10代前半の少年にしてはやや大人びた、繊細な心を持った優しい男だった。

彼の部屋の壁には雑誌の切り抜きがたくさん貼ってあって、初期はSPEEDの上原多香子だった気がするが、やがて広末涼子と鈴木あみが増え、GLAYやL’Arc-en-Cielなどが混ざっていった。

そんなKがGLAYの『グロリアス』を歌い出した瞬間、その場にいた全員が目を合わせた。みんな同じことを感じていた。Kはひどい音痴だったのだ。でもそんなことまったく気にせず楽しそうに歌うKを見て、自分たちのくだらない自意識を恥じながら、マラカスとタンバリンを握ってアホのように騒いだ。こういうのが自分にとっての、青春のはじまりの記憶。ただのアホでいられた幸福な時期だ。

人が街を好きに/嫌いになる理由

中3の夏、留学先のドイツの学校が経営難で廃校になった。そのため11月の終わりに地元の中学に転校し、数カ月間だけ多治見で過ごすことになった。卒業後は千葉県の私立高でまた寮生活をすることが決まっていたがほんの少しの期間でも小学校時代の友達と同じ中学に通うことができて嬉しかった。しかし、中学生という人生でもっとも自分を見失う勘違いだらけの季節にあまりにも異なる環境で過ごしてしまったことが災いしたのか、周囲とほとんど話が合わなくなってしまっていた。

かつて仲が良かった友達は思ったよりも冷たく感じられた。そりゃそうだ、もう卒業するだけという時期にドイツからの転校生なんて、なかなか受け入れられるものではない。みんなと異なる人生を歩んでいることを痛感し、友達との断絶を感じた。それが街への失望とあいまって、「多治見は自分の居場所ではない」という思いが確信に変わった。

街を好きになったり嫌いになったりする理由はいくつかあるだろうが、「自分がその街の一部だと思えるかどうか」は、かなり重要な要素だと思う。自分の場合は、中学時代に街との断絶を感じてしまったことが多治見離れを決定的なものにした。千葉の寮で過ごした高校時代も、東京でひとり暮らしをした大学時代も、どうしても帰省しなければならない時以外は帰らなかった。多治見を地元だと認めたくなくて「地元はないけど、親の家は岐阜県にある」などと言っていた時期もある。そうしてかつての友達とも疎遠になっていった。

あれから20年以上の月日が経った。「イエローモンキー」はもうない。ジャパレンのコンテナ型カラオケボックスは駐車場に変わり、店内には普通のカラオケルームができた。

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多治見でカラオケといえば今でもジャパレン。右側の駐車場が昔はカラオケボックスだった

Kとは中3の冬にちょっとした言い合いをして、和解できないまま高校生になり、絶縁状態がしばらく続いた。成人式で再会するも、なんとなく気まずくてほとんど話せなかった。しかし「まあ、焦らなくてもいつかまた普通に話せるようになるだろうな」なんて高をくくっているうちに、二度と会えない人になった。

だから自分にとって多治見とは、子ども時代のもっとも幸せな一時期を過ごした街でありながら、そのころの友達と疎遠になってしまった街でもあり、思春期の自分を満たしてくれなかった退屈な街であり、そして、親友と絶交したまま二度と会えなくなってしまった街でもある。

多治見のことを考えるといつも、愛しさと切なさと後ろめたさが同時にこみ上げてくる。

好きと嫌いと無関心を越えて

ここから先は、ついこの間の話。仕事の都合で東海地方に行ったので、半日だけ多治見に寄った。その時に小学校時代の友人Nと会って、上に書いたような話の一部をした。Nとは本当に久しぶりの再会で、最後に会ったのがいつだったか互いに思い出せない。Nは高校卒業後、多治見の隣の可児市で就職した。住まいも可児に移していたが、多治見に建てた家に近々引越すらしかった。

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駅改良工事計画により2010年に橋上駅舎として完成した多治見駅。北口と南口をつなぐ通路が広い。2021年現在、多治見発のテレビアニメ『やくならマグカップも』のフラッグなどが街のあちこちにある

「俺らの世代で多治見に残っとる人は、ほぼおらんよ。多治見、何もないでね」と、Nは言った。えっ? と思った。「何もない」という言葉を地元の人から聞くとは思わなかったから。

「じゃあなんでずっとこのへんに住んでんの? 都会に出たいとは思わなかった?」
「思わんこともなかったけど、人が多いとこ苦手やし、別にここでも生活に不便ないもんでね」
「服とかどこで買ってんの」
「そういうのは名古屋やら。30分くらいで行けるもんで」
「Nから見て、多治見の街のいいとこって何だと思う?」
「えー何やろ。わからん。特にないんやない?」
「ない? じゃあちょっと質問を変えて、10代とか20代のころは、街のどこで遊んでた?」
「街で、遊ばんのやない? ていうか街ってどこお? 駅前のこと? 駅前、あんま使わんやら。名古屋に出る時以外、わざわざ行く必要もないで」
「は? じゃあどこで遊ぶのよ多治見の若者は」
「家、かなあ」
「家……」
Nが運転する車の助手席で言葉を失ってしまった。
「え、Nってさ、多治見のこと好きなん?」
「うーん、どうやろうね。好きとか嫌いとかやないんやない? ただここで生まれ育ったってだけで」

多治見には何もない、いいところは特にない、若者は街で遊ばない、だからといって嫌いでもない、好きとか嫌いとかじゃない……。想定していなかったNの言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。

なぜだか、地元に残っている人はみな熱狂的に地元が好きなのだと思い込んでいた。そうして必死に地元をアピールするものだと思い込んでいた。例えば、多治見の美濃焼やタイルはスゴいんだとか、日本一暑い街(2007年、当時国内最高気温の40.7℃を記録)なんだとか……。

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建築家・藤森照信による多治見モザイクタイルミュージアム。タイルの原料となる土を切り出す採土場を模したデザイン。2016年にオープン

美濃焼やタイルに興味はなかった。子どものころから、そんなのを無理やり市民に押し付けないでくれと思っていた。日本一の暑さなんてのも短所でしかない。住みにくさを強引に魅力へ転換しようとしている発想がダサすぎるとさえ思っていた。

そう感じていたのは自分だけではなかった。Nも自分と同じように感じていて、それでいて多治見を好きにも嫌いにもならず、ただ自分が育った街として受け入れていた。この違いはいったい何なのだろうと考えたが、答えは見つからなかった。

「でも最近は面白いお店がちょこちょこできとるよ。俺らの上の世代と、若い人らがいろいろやっとるみたい」

あたらしい多治見へ

Nと一緒に多治見駅の周辺を歩いた。駅の目の前にあった商業施設は建物ごとなくなって工事中で、ホテルとタワマンと新たな商業施設「TAJIMI SQUARE」が2022年12月に建つ予定らしかった。

「多治見にタワマン! 需要あんのかよ!」。反射的にそう言いそうになったが、考えてみれば、名古屋駅から多治見駅までは快速電車で35分。東京で考えると、中央線なら東京駅から吉祥寺駅までの所要時間と同じくらいだし、山手線なら半周分。こんなの普通に生活圏内だ。名古屋を拠点にするなら、家賃もおさえられてちょうどいい立地だと言える。

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多治見駅北口の様子。左のスペースに商業施設、ホテル、タワーマンションなどが建設予定

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ほとんど利用されていなかった多治見駅南口の旧国鉄用地は、2016年に虎渓用水広場として整備された。駅の目の前ながら水と緑に囲まれた空間は市民の憩いの場として利用されている。ビアガーデンや音楽イベントなどが開催され、2020年にはグッドデザイン賞特別賞を受賞

ながせ商店街に入っていく。昔はこの通りのどこかに三上博史の兄が経営する古着屋「イエローモンキー」があったが、場所はもう忘れてしまった。
「こことか、覚えとる? 宝石屋だったとこ」
「宝石屋なんか覚えてるわけ……」
と言いながら、ハワイ、ニューヨーク、ローマ、香港、多治見、それぞれの現在時刻が表示された世界時計が目に入った瞬間、たしかにここには宝石屋だか時計屋だかが入っていたことを思い出した。

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ながせ商店街の入り口に、この通りの顔としてあった世界時計。今も動いている

「リノベーションされて本屋とカフェが入ったんやて。イベントもようやっとるよ。入ってみる?」

Nに促されて入ると、中央に西洋風の大階段とシャンデリアがあり、その右側が本屋、左側がカフェになっていた。おしゃれで現代的で、文化を感じる空間。「いや下北沢かよ……」と声に出してしまっていた。こんなものは、自分が住んでいたころの多治見にはなかった。あとで調べると、かつて宝石時計眼鏡店だった空きビルをリノベーションして2019年にオープンした「ヒラクビル」という複合施設で、シェアオフィスやレンタルルームもあるという。

10分ほど歩いて土岐川にかかる昭和橋をわたり、川沿いのカフェに入る。これも最近できたカレーと天然酵母パンと雑貨の店で、理容室だった空き物件をリノベーションしたらしい。店のことはGEZANのマヒトゥ・ザ・ピーポーのSNSで知った。数年前、ここでソロライブをやると告知していたから。彼がライブをやるような場所は記憶の中の多治見にはないはずだった。だから意外に感じて名前を覚えていたのだった。店の名前は『CAFE NEU!』(カフェ・ノイ)という。Neuとはドイツ語で「あたらしい」を意味する(あるいは70年代に活躍したドイツのバンド名でもある)。

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古い理容室をDIYでリノベーションしたという『CAFE NEU!』。2012年にオープンするとあっという間に地元の人気店になった

レトロな雰囲気の内装と大きな窓、音質の良いスピーカーから流れる音楽、ヨーロッパの蚤の市で集めたというかわいい雑貨たち。地元のミュージシャンのCDやイベントのチラシ、ZINEなども置いてある。

奥の本棚を見ると、大橋裕之や諸星大二郎の漫画にトム・ウルフやロバート・キャパのノンフィクション、吉行淳之介のエッセイ、寺尾紗穂が自主制作で編集した『音楽のまわり』などが並んでいる。無意識のうちに「いや吉祥寺かよ……」と声に出していた。こんなものは、本当に、自分が住んでいたころの多治見にはなかったはずなのだ。

カウンターで飲み物と料理を注文し、奥のソファ席に座る。窓から土岐川が見える。夏になればこの川で花火大会がある。例えば夏の夜に、クラフトビールを飲みながら、この広い窓を通して花火を眺めたら最高だろうな、と思った。次の瞬間、そう思ったことに驚いていた。多治見の街で心地よく過ごす自分を想像できたのは初めてだったから。

人と街の関係は、子と親の関係に似ているかもしれない。子は親を選べない。それなのに、ほとんどの子どもは生まれつき無条件に親を愛す。物心がついてくると親の欠点が見えてくる。気に入らないことや許せないことが目に入るようになる。以前と同じように愛せなくなり、なかには関係性に決定的な亀裂が入ってしまって縁を切る人もいるだろう。やがて時間が経つと、親も自分と同じような、ただの不完全なひとりの人間だったのだと理解する時が訪れる。そうして自分と親との関係を再定義する。

ずっと多治見の街に対して抱いていた不満、愛しさと切なさと後ろめたさ、こうしたものは、単なる長い反抗期がもたらした副作用に過ぎなかったのだろうか? 自分が未成熟なだけだったのか? いや、そんなに単純なものではないはずだ。あのころの街は、人が集まるように設計されていなかった。街の呼吸と自分の人生のタイミングが合っていなかった。

しかしいま、変わりつつある多治見のあたらしい店のソファに腰を下ろして、目の前を流れる土岐川を眺めていると、もうこの世界にはいない、だが形而上の世界では永遠に生き続ける親友Kの、あの懐かしい、声変わりしきっていない明るい細い声が、たしかな重みをもって聞こえてくる気がする。

「こういうのも、いつかいい思い出になるやん?」

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著者:山田宗太朗

山田宗太朗

ライター。構成を担当した書籍に、渡辺美里『ココロ銀河〜革命の星座〜』、尾崎世界観『身のある話と、歯に詰まるワタシ』など。元バーテンダー。Twitter

写真:野田和裕

編集:小沢あや