「お笑いを続けられたのは大宮のおかげ」GAG福井俊太郎の、深くねっとりした大宮愛

編集: 小沢あや(ピース株式会社) 取材、構成: 山田宗太朗 撮影:小原聡太


埼玉県の大宮区にある「大宮ラクーンよしもと劇場」を拠点に活動するユニット「大宮セブン」が人気を集めています。その大宮セブンの「心臓部」と呼ばれるのは、お笑いトリオ・GAGの福井俊太郎さん。2014年に大阪から上京すると、大宮セブン立ち上げと同時に所属となり、現在に至るまで、中心人物として活躍し続けています。

「街の人たちも優しいし、大宮は自分たちに合っている」と語る福井さんの大宮への愛は深く、YouTubeの個人チャンネル「GAG福井のひくねとチャンネル」などでも街の魅力を発信し続けています。この10年の思い出や、大宮での活動を通した自身の変化について伺いました。


「大宮セブン」入りしたのは仕事がゼロだった頃

―― 福井さんは大宮セブンの一員として2014年から大宮で活動されています。大宮セブンがはじまった時のことは覚えていますか?

福井俊太郎さん(以下、福井):覚えてます。活動の場を大阪から東京に移した頃で、東京に来たものの、まったく仕事がなく、ゼロからスタートしようという時期でした。ちょうど大宮に吉本の劇場ができるということで、支配人が、都合良く動かしやすい暇な芸人を探していたんです。劇場は毎日公演するので、常駐できる人が必要だったんですね。

すでに幕張の劇場(よしもと幕張イオンモール劇場)で「幕張セブンスターズ」(ロシアンモンキー、グランジ、LLR、ジューシーズ、バイク川崎バイク、ライス、チョコレートプラネット)というユニットが活動していたので、それに倣って大宮でも7組の芸人たちを集めてユニットにしようとなり、僕らGAG(当時はGAG少年楽団)も誘っていただきました。

―― GAGが選ばれたのは、スケジュール的に動きやすかったからなんですか?

福井:本当に仕事がなかった頃ですし、そうだと思います。面白さではなく、動けるかどうか。肉塊を求めていたんだと思います。

―― ……肉塊?


福井:動く肉塊です。当時はまだ神保町に吉本の劇場がなく(神保町よしもと漫才劇場)、渋谷の∞(ヨシモト∞ホール)に出ているのは若手芸人だけで、若手の劇場を卒業した売れていない芸人はいちばん仕事がなかったんです。だからやめる人も多くて、ちょうどその世代で暇だった僕らとタモンズ、そしてマヂカルラブリーさんが、大宮セブンの肉塊要員として集められました。

他の4組、サカイストさん、ブロードキャスト!!さん、犬の心さん、えんにちさんは、すでに活躍されていて知名度もあって。お客さんを呼べる4組と肉塊要員3組でスタートしましたね。

―― ということは、当時の福井さんたちにとって大宮セブンの結成は、とてもありがたいことだったと。

福井:僕にとってはそうでした。ただ、東京に来て右も左もわからない頃だったので、そもそも大宮がどこにあるのかも知らなかったし、その大宮セブンというのが何をするものなのかもわかっていなくて。「こんなことをするよ」と最初から聞かされていたら、みんな大宮セブン入りを断っていたかもしれません。

―― そんなに過酷だったんですか?

福井:過酷というか、変わった営業が多かったんです。焼き鳥フェアでは煙のせいでお客さんからネタが全然見えなかったり、カレー屋でのイベントでは、ネタ中に従業員さんが目の前を通って行ったり。初期には劇場の宣伝のためにティッシュ配りもしていました。夜には、僕はあまり参加しませんでしたが、地元の青年団の飲み会に潜入して地域振興に携わることもありました。

大宮は、東京で受け入れられなかった人間も受け入れてくれた


―― 大宮で活動し始めた当初はどんな感じだったんですか?

福井:その頃には大宮が東京ではないとは理解していたんですけど、そうは言っても東京みたいなもんだろうと思っていたんです。やっぱり関西から出てきているので。でも劇場で活動を始めてすぐに「あれ? なんか……バカにされてないか?」と気付きました。お客さんからも、他の芸人からも、吉本の社員さんからも、鼻で笑われている感じだったんです。そういうのを見て悟りましたね、当時の吉本芸人にとって、大宮の劇場は島流しの先だったのだと。

―― 島流し……。

福井:なので、すでに人気のあったサカイストさんやブロードキャスト!!さん、犬の心さんは、自分たちで大宮セブンだと名乗っていなかった気がします。∞ホールなどで結果も残されていたので、大宮の匂いもなかったと思うんです。

えんにちさんは知名度があったにもかかわらず、大宮の最深部に行かれていました。常に最前線で新しいところに仕事を広げようと切り込んで、いつも傷付いて帰ってこられて(笑)。そうやって新しい仕事を取ってきてくれました。えんにちさんは徐々に肉塊部門に近付いていきましたね。

―― 大宮の街についてはどういう印象でしたか?

福井:当初は街を見て回る余裕もなくて、駅から劇場までの往復とティッシュ配りで毎日が終わっていました。ただ、劇場の近くにある「デリカチャオ」というお弁当屋さんにはずっとお世話になっていました。毎日必ず公演の合間にお弁当を買いに行って。「デリカチャオ」さんは、大宮芸人にとってなくてはならない場所で、もっとも重要な聖地のひとつです。

少し余裕ができて外に出かけるようになってからは、「普通の街じゃないぞ」と感じるようになりました。当時は、右に行けども左に行けどもネオン街。色っぽい街だと知って驚きました。

―― 大宮の街を歩けるようになったのはいつ頃からでしたか?

福井:2016年か2017年あたりですね。みんなが少しずつ賞レースで結果を残したり、テレビに出させてもらえるようになった頃です。その頃にだんだんと集客もできるようになってきて、ティッシュ配りも終わったんです。

―― 今では福井さんは、YouTubeの個人チャンネルにて大宮の街歩きを頻繁に発信していますよね。大宮への深い愛を感じますが、最初に面白いと感じたのはどのあたりですか?

福井:最初はネオン街ですね。でもその前から街自体はずっと好きだったんです。なんとなく、自分たちに合っている気がして。大宮は、東京で受け入れてもらえなかった人たちも受け入れてくれている感じがしたんです。街の人たちも、売れていない僕らに対して優しくて。

―― 街の人たちとも関わりがあったんですね。

福井:そうですね。公演とティッシュ配り以外でも、さっき話した青年団の飲み会などで、初期から交流はありました。たとえば大宮の由緒ある「清水園」という結婚式場の女将さんには初期から大宮セブンを応援していただいて、ことあるごとに数段仕立てのお重のお弁当を差し入れしてくれたり、密に関わってくれていました。

―― ちなみに、福井さんは青年団の飲み会にはあまり参加しなかったとおっしゃいましたが、何か理由があるんですか?

福井:それは劇場支配人の計らいですね。ネタを書く人は帰ってネタを書いてくれと。書かない人は「夜の部」として、そういった会に顔を出して仕事を取りに行きましょうと。商品開発部と営業部みたいな感じで分業していました。

―― では「昼の部」で印象的な大宮ならではの営業というと?

福井:そうですね……大盆栽まつりですかね。大宮は盆栽のメッカで国内外から注目されているんですけど、盆栽展や盆器(ぼんき)の即売会を中心としたお祭りが行われるんです。そこでは、立派な1本松のあるきらびやかな舞台でネタをやれるんです。

焼き鳥フェアやカレー屋さんなど、舞台が整っていない営業が多かった中、そこだけはちゃんとした舞台が整っていた。お客さんの座る席もあるし、テントもある。まともな営業があまりなかったせいで、まともすぎて逆に変というか、際立って印象的な営業だと思います。

―― 昔は劇場の集客も少なかったのでしょうか。

福井:めちゃくちゃ少なかったです。劇場としては毎日公演しないといけないので、肉塊部門を集めた「捨て公演」のような公演があったんですけど、2〜3人しか入らないこともありました。

ーーそれは結構コアなお笑いファンですよね。

福井:いや、なぜそこに来られてるのかわからない、目的のわからないお客さんがほとんどでした。熱心なお笑いファンでもなければ、誰かのファンでもないんです。もう本当に謎の2〜3人。

―― そういう人は、なかなか笑ってくれなさそうですよね……。

福井:笑わないですね。ほんと厳しい戦いでした……。たぶん暇つぶしで来ていた方だったと思うんです。僕は大阪にいた頃、通天閣の近くに住んでいたんですけど、あそこにはポルノ専門の映画館があるんです。昔ながらの雰囲気の、入れ替え制ではない映画館が。そこに来るお客さんに近いと感じていました。

―― そういう人の前でネタをやるのは、地獄ですね……。

福井:酔っ払いの方も多かったです。当時はそれが普通だったから麻痺していたけれど、今考えると、結構きついですね。

公演前には古着屋を巡り、合間にはカフェでネタを書く


―― 現在、プライベートで大宮を利用することはありますか?

福井:さすがに休みの日には行かないですけど、夕方から舞台がある日は、昼の12時頃に来て街を歩いたりしています。

―― そういう時は何をしに?

福井:大宮って古着屋さんがすごい充実しているんです。「古着屋通り」と僕が勝手に呼んでいる通りがあるんですが、そこは古着屋がたくさん並んでいて、すごく好きなので今でも通っています。

―― 「DUFF」さんや「DISCO」さんなど、たくさんYouTubeで紹介されているので覚えてしまいました。東京の古着屋とは何が違うんですか?

福井:まず、広いお店が多いです。東京であの広さは確保できないと思うんです。だからより快適に買い物ができる。それから、店員さんに過剰な商売っ気がないというか、不必要に話しかけられることがないんです。だから「買わないといけないかも」みたいなプレッシャーがだいぶ薄いです。

―― 福井さんのYouTubeを見ていると、行ってみたいなと興味を惹かれます。

福井:そういえば今年の『VIVA LA ROCK』に出た時、ロックバンド・夜の本気ダンスの米田貴紀さん(Vo. & Gt.)が、僕のYouTubeを見て興味を持ってくれたらしくて、「古着屋通りのDUFFさんに行ってきました」と実際に足を運んだらしいんです。ある種の人には刺さってくれているみたいでありがたいです。

―― 大宮のカフェにもよく行ってらっしゃいますよね。そこでネタを書いたりも?

福井:あ、あります。大宮のカフェは個人経営のお店含めだいぶ行ってるんですけど、いちばんよく利用しているのは、実は、劇場裏にあるベローチェなんです。ベローチェではたくさんネタを書きました。今は劇場の入っているビルの地下2階に従業員の休憩所ができたのでそこで書くようになってしまったんですけど。やっぱり移動が早いので。

―― ということは、出番の合間でネタを書いてるんですか?

福井:そうです。ずっとやってました。

―― でも合間ということは、その後また出番なわけですよね。切り替えるのが難しい気がするのですが……。

福井:でもみんなそうやって出番の合間にネタ書いてましたね。やっぱりみんな、なんとか結果を出すぞと頑張っていたので。僕以外にも、公演の合間にベローチェでネタを書いていた大宮芸人は多かったです。

大宮がなければ、本当に芸人をやめていたかもしれない


―― 大宮の良さってどんなところでしょうか?

福井:僕の大宮との関わりが特殊だからこう感じるのかもしれませんが、大宮は、成功していない人間でも、どんな人間でも受け入れてくれる街なんです。それがこの街の良さで、僕は大宮のそんな懐深いところにとても助けられました。この街で頑張ったり、再生したり、あるいは停滞したり、どんな人間も普通に存在できるんです。

―― 逆に、変わってほしいところは?

福井:ガラの悪さですね(笑)。どんな人でも受け入れてくれるからこそ、ガラの悪い人も集まってくる。ただ、話してみれば意外と優しかったりするんですよね。人情のある街だと思います。

―― なるほど。では、ずばり、福井さんにとって大宮とは?

福井:「お笑いを続けさせてくれた街」ですね。今でも僕が芸人でいられるのは、大宮があったからです。誰でも受け入れてくれる街だったことはもちろん、劇場があって、それに付随するお仕事があったことで、苦しい時期も続けられました。大宮がなければ、本当に芸人をやめていたかもしれません。いつか一度、住んでみたいと思っているくらいです。

―― 大宮での活動を通して、ご自身の笑いに対する考え方も変わったんでしょうか?

福井:変わりました。大阪のお笑いは「芸事」で、型というかルールがあるんです。でも大宮には、自分が面白いと思うことを好きにやっていい空気、「あなたの表現をしていい」という空気がありました。そうした考え方に良くも悪くも変わった気がします。

―― 「良くも悪くも」というのは?

福井:大阪にいた頃は、絶対にお客さんを笑わせないといけないと思っていたんです。でも大宮では、たとえお客さんが笑っていなくても、自分が面白いと思ったらやってもいい空気がありました。だから正直、スベることも増えたんですが……でも、より自由に自分のやりたいお笑いを追求できるようになったんです。お客さんが笑ってくれても自分たちが面白いと思っていなければしんどいですしね。

―― 大宮で、より自分らしい自分になれたんですね。

福井:そうですね、本当にそうだと思います。お笑いロボットが人間の心を持つようになったというか。GAGとしても、より自分たちらしいトリオになれたと思っています。

お話を伺った人:福井俊太郎さん(GAG)

2006年結成のお笑いトリオGAGのメンバーでネタ作りを担当。1980年兵庫県高砂市生まれ。「大宮ラクーンよしもと劇場」を拠点に活動するユニット「大宮セブン」として、大宮からお笑いを盛り上げている。
Twitter @shuntarofukui
Instagram @shuntarofukui
YouTube GAG福井の『ひくねとチャンネル』

編集:小沢あや(ピース)