震災から8カ月が経った能登半島を訪ねてきた

2024年の元日、能登半島の南西から北東を震源とする「令和6年能登半島地震」が襲った。あの日から半年以上が経ち、報道されることも少なくなったが、最大震度7、M7.6を記録した大きな震災だ。解体が必要な建物の見込み数は、当初の想定から1万棟近く増えて3万棟を超える。

これまで能登には何度か訪れており、当サイトでも『能登半島先端の「珠洲(すず)」という名前にピンと来て、街を見る前から移住を決めて無事に四年目ってどういうことだ』『能登半島の海と過ごした最高の夏休み。石川県志賀町に1軒の古民家を買った男は、集落の未来も買おうとしていた』という記事を書かせてもらったこともあり、ずっと気にはなっていた。

そこで8月の後半、能登で出会った人々と土地が現在どうなっているのか、夏休みの観光を兼ねて訪ねてきた。

※上記の記事に目を通してから、以下を読んでいただけると幸いです。
※記事中で紹介しているのは2024年9月に被災地を襲った豪雨災害前の情報です。

能登空港(のと里山空港)から珠洲市へ

今回は車ではなく、羽田空港から一日一往復だけ運航しているANAの飛行機で能登空港(のと里山空港)へと向かった。「能登復旧支援割」という割引制度によって、2024年10月26日まで平日なら片道1万円ちょっとで航空券が購入できるのだ。

地震の影響で滑走路が若干ガタついているような気もしたが、特に問題なく久しぶりの能登へと着陸。

前日に到着していたTOGISOの佐藤正樹さんに車で迎えに来てもらい、被害の大きかった場所を案内してもらいつつ、珠洲市で待ち合わせている北澤晋太郎さんの元へと向かった。

飛行機だと羽田空港からあっという間に到着する。空港から奥能登への移動はふるさとタクシーが安くて便利。私も帰りは利用させてもらった

TOGISOオーナーの佐藤さんと珠洲へと向かう。調整豆乳バッグがかっこいい

道路状況が心配だったのだが、幹線道路の修復はかなり進んでおり、多少凸凹している部分はあるものの、問題なく対面走行ができる状態になっていた。

ただ珠洲市から輪島市へと向かう一部の道路など、未だに通行止めの箇所もあるようだ。詳しくは「石川みち情報ネット」などで確認できる。

ガソリンスタンドやコンビニ、道の駅などは通常営業に戻っているところが多いものの、震災の被害を受けた家々や崩れた崖が次々と目に飛び込んでくる。

もともとは二階建てだったはずが、一階が潰れて平屋状態となっている家も多い。わかってはいたことだが、実際に見るとかなりの衝撃である。だがこの現状を知るために能登へと来たのだ。

※ここから先は被災した住宅などの写真が掲載されています。

空港から珠洲市へと向かう道路は、多少波打ってはいたものの渋滞しているところはなかった

コンビニ、ガソリンスタンド、ドラッグストアなどの多くは通常営業している。もう観光目的で行くことが迷惑になるという段階ではないだろう

被災した民家がいくつも見受けられた。一階が潰れてしまった家も多い

地震の影響なのか、山肌をあらわにした斜面も目に付く

津波を受けた能登町白丸地区では、その爪痕が今もくっきりと残っていた

テレビやパソコンのモニタ越しに見ていた遠い地の景色を、ようやく目の当たりにした。

何十年と積み重ねて作られてきた街並みが、地震によって一日で大きく崩れ、それは半年やそこらでは戻らない打撃なのだと今更ながら理解する。

このあたりを震災後に何度も訪れている佐藤さんによれば、それでも少しずつ解体や整備が進んでいるそうで、すでに入居している仮設住宅もかなり見られた。

入居が始まっている仮設住宅と思われる建物

建設中の仮設住宅もたくさんあった

どうにか津波が届かなかった「イカの駅つくモール」は、縮小しながら営業中

みんなもイカキングのカラストンビ(口)になろう

遊覧船のイカす丸が復活したら乗りに来たい

イカ漁の歴史が学べるイカマニア感涙のスポット

震災の影響で少し商品が減ったかもしれないが、たくさんの能登土産が揃う場所だ

船上で冷凍することで鮮度を保っている「船凍イカ」も販売継続中

数馬酒造の竹葉いか純米や宗玄酒造の原酒や純米酒といった能登のおいしい地酒も揃っている

イカの魚醤(ぎょしょう)である、いしる・いしりも販売中。もちろん購入させていただく

佐藤さんが買った肉厚のイカ焼き。半分いただいたが、ものすごくうまい

和平商店応援キャラクターだという「いかずきんちゃん」に心を掴まれた

子どもの支援活動をしている北澤晋太郎さん

午後1時過ぎに珠洲市へと到着。海浜あみだ湯という銭湯で、北澤晋太郎さんとその友人である新谷健太さんと合流する。

自宅が全壊となってしまった北澤さんは、家族を実家のある長野へと避難させ、自身は金沢市内を拠点にしつつ、珠洲市の子どもたちの教育支援などに奔走していた。

海の目の前にある海浜あみだ湯。被災者の方は無料、それ以外の人は500円で入浴できる。私も入らせてもらったが、広いサウナもあるし、しっかり深さのある浴槽がとても気持ち良かった※海浜あみだ湯の最新情報は海浜あみだ湯のXをご確認ください

佐藤さん(左)と北澤さん(右)

北澤晋太郎さん:「僕はNPO法人ガクソーとして教育やアートの支援活動をしていたので、金沢に避難した子たちと一緒に勉強したりとか、相談にのったりとか。大したことはなんもしてないですけどね。

震災当初は集団避難中の中学生を陰からサポートしたり、金沢のホテルでの2次避難者だったり、続々と入ってくる支援者団体だったりの裏方を行っていました。シーツを洗ったり掃除をしたり料理を手伝ったり。

今は珠洲市の復興計画の策定委員会の委員になっているので、行政とやり取りしながら、僕らなりに住人から意見を聞いて、復興計画に盛り込むっていうところのつなぎ役をしています」

あみだ湯の二階で子どもに勉強を教えたりもしているそうだ

「結局、地震の前から潜在的にあった問題が一気に噴き出して顕在化している。まあ問題だと感じてはいたがまだ向き合わなくてもよかった、先延ばしにしてきたことが、めちゃめちゃいっぱいあったんですよ。

空き家や少子高齢化もそうだし、特に教育面の問題は大きいと思っていて。今後その意思決定プロセスの中に入って、住人と行政のコミュニケーションの繋ぎの役目をする。そういうことを、ここから5年とか10年ぐらいやってくんだろうな。

今いる子どもたちをサポートしつつ、今後のために動く。これは短距離の話ではなくスーパー長距離なので、あんまり歯を食いしばってやったらやばいなって思っていて。あえて匍匐前進するぐらいのペースで行くのがいいかな。

震災直後の頃はまだ余震が続いて怖かったから、僕も人を呼べなかったけれど、今はこっちの宿もぼちぼちやっていますし、少し離れた七尾市とか羽咋市に泊まってもいいし、来られる人はこの奥能登の状況を見た方がいいと思います」

ガクソーの拠点だった建物は2018年から続く群発地震でだいぶ弱っていたが、元旦の地震でとうとう立ち入りも危ない状態となった

銭湯を再開させた新谷健太さん

北海道からの移住者である新谷健太さんは、昨年夏頃から高齢となった海浜あみだ湯のオーナーの手伝いをしており、震災後は1月19日と早い段階で再開させている。

珠洲市は多くの地域で断水していたが、海浜あみだ湯は地下水を汲み上げて使っていたため、奥能登の公衆浴場としては最速で営業することが叶ったのだ。

左が新谷さん、右はまだ自宅が断水中の常連さん。前回会ったときは豚骨を煮て二郎系ラーメンを作っていた新谷さんが、今は銭湯で風呂を沸かしているとは

右が海浜あみだ湯オーナーの納谷悦郎さん。写真提供:北澤晋太郎

新谷健太さん:「このあみだ湯を本格的に手伝うようになったのが昨年の7月ぐらいなので、ようやく1年経ったぐらい。住んでいた家は全壊してしまったので、今はここに住み込んでいます。

震災翌日の昼、避難所から北澤さんとあみだ湯を見に来たんですが、最初は絶望で営業再開するなんて思ってなかったんです。全然無理だと思ってました。

でも地下水を汲み上げるモーターが生きていた。おかげで避難所の仮設トイレ用の水などを汲むことができました。

自衛隊のお風呂が10日ぐらいから来てくれましたが、どうしても入浴時間が短かったり、テントなので寒かったりで、常連さんからなんとか再開できないかと言われて、じゃあやってみるかと」

すぐ裏にある海から津波がここまで押し寄せたそうだ。あと数十センチでも高かったら再建はできなかったかもしれない

「震災後は市役所もパニック状態だったから、水道屋さんもどこから手をつけていいかわかんない状態だったみたいで、すぐに来てもらえました。井戸から新しい配管を通したら意外とスムーズに復旧できて、1月19日に再開。重油じゃなくて薪のボイラーだったのも大きいです。

先行きの見えないまま、どうにかこうにかでしたね。たくさん人が来ることが予想される中、まだまだ余震も続いていたので、いざという時にどうやって避難させようとか、混雑しないように地区ごとに分けて案内しようとか、オペレーションが難しかった」

かなり年代物のボイラー。物流が完全に途絶えていたので、重油ではなく薪だったことが早期の再開を助けた

薪となる廃材はいくらでもある

珠洲市の断水は解消されつつあるが、早期復旧困難地区に指定されたエリアが1000戸以上あったり、水道管から水を引き込む私有地内の給水管が破損していたりと、断水している家はまだまだ多い。

そして自衛隊による入浴支援が8月末で終了した今、銭湯の役割はこれからも大きいのだろう。

ただ被災者でもある新谷さんなので、とにかく無理はしないでほしい。あみだ湯の運営は一人で背負えられる重さではないと思う。私は何もできないのだが。

「また今度ラーメンでも作りましょう」と、二人と約束をした。

珠洲市の市街地

 

みんなでラーメンを作った思い出のしげ寿し

正面からみたら大丈夫そうだったが、裏を見たら完全につぶれていた

しげ寿しの近くで営業している店舗があったので話を伺う

斜め向かいにあったいろは書店の仮店舗だった。タクシー会社の車庫を改装して、新年度の教科書販売に間に合わせるため3月21日に再開したそうだ

いろは書店のあった場所。一階が完全につぶれる形で全壊したため、二階から床板をはがしてパソコンや財布などを探した。現在この場所での立て直しを計画しているとのこと

北澤さんと食事や買い物をしたショッピングセンターのシーサイドは、地震と津波による被害で営業停止を余儀なくされた

シーサイドの裏手にある港は地盤沈下していた

飛び出たマンホールが道をふさぐ。写真提供:佐藤正樹

珠洲市のシンボルである見附島もかなり崩れてしまった

震災前の見附島

輪島市・黒島漁港へ

珠洲市と同じく被害の大きかった輪島市、そして隆起によって海底が露出した黒島漁港を経由して、最大震度7を観測した志賀町赤崎にあるTOGISOへと向かった。

被害状況にグラデーションの濃淡はあるものの、どの道を通っても倒壊した家屋、露出した山肌、凸凹になった道路が存在した。

輪島へと向かう途中の様子

5万平方メートル以上、約300棟が焼失した輪島朝市。再建に向けての取り壊しが進んでいる

輪島朝市の周辺

 

輪島朝市から国道249号線を走って海岸線に出ると、海底が露出してしまった海が車窓から見えた。

黒島漁港に寄ってもらい、大きく変わった地形を目の当たりにする。不謹慎かもしれないが、映画「猿の惑星」のラストシーンを思い出した。

居合わせた漁師の方に話を伺うと、輪島港など大きな港の復旧から工事が進んでいるため、ここはまだ手付かずの状態とのこと。この状況なので年明けから漁に出られていないそうだ。

この場所をどうするのが正解なのか、まったくわからない。

車窓からの景色。ただの引き潮ではないので、水面下だったところに草が生えている

隆起した黒島漁港の堤防

海底だったところから

古民家を買い足してボランティアの活動拠点を作った佐藤正樹さん

被災地を見て回ってから到着した赤崎集落にある「能登の古民家宿 TOGISO」は、外観からは震災のダメージが見受けられず、逆に以前よりもバージョンアップしているように見えた。

だがそれはオーナーである佐藤正樹さんが、盛大に課金した結果だった。

到着した志賀町赤崎のTOGISO

震災前に改修した自慢のキッチンでサザエを剥く佐藤さん。TOGISOが理想の形になりつつあるタイミングでの被災だった

まだ屋根にブルーシートが掛かった家も多かったが(屋根を直す職人も瓦の在庫も足りていない)、倒壊している家は見かけない。後でわかったことだが、この地域は地盤がかなり強かったそうだ

佐藤正樹さん:「僕は発災時、東京にいました。お酒を買って帰る途中、急に携帯がブーブーたくさん鳴って、友達からLINEがいっぱい入って、それで地震を知って。

TOGISOにはリモートで確認できる防犯カメラが2つあるので、その録画映像を再生したら、グワングワン揺れて、カメラが落ちて転がって、何も見えなくなって轟音だけが記録されている。もう1つのカメラにはご近所さんが逃げる様子が映っていた。

とりあえず震度7でも建物は建っているし、隣近所の方も大丈夫そうだと。そこから何ができるかといったら、ネットにかじりつくことしかできない。

でも出てくる情報は輪島とか珠洲の話ばっかりで、志賀町の状況がなかなかわからない。そこはものすごく不安だったけど、ご近所さんが家の中をスマホで撮影して送ってくれて、なんとなくの状態は把握できて、そこでまあまあ安心しました。

そもそも僕はこの街が好きで、なんとかするという目的があった。ご近所さんに撮ってもらった動画を見て、諦めなくてもよさそうだと確信しました。

1月5日の金曜日、仕事が終わると同時に支援物資を車に積んでこっちへ向かいました。それで6日の早朝に着いて、やっぱり小さい絶望をちゃんと味わったんですよね。大好きな場所がこんなになっちまったっていう心のダメージを。

ぐっちゃぐっちゃ。単純にぐっちゃぐちゃ。建物はある程度大丈夫だったけど、瓦は落ちてるし、ガラスも割れている。今はある程度元通り風だけど、歪んじゃって閉まらないドアもまだあります」

1月6日の正面玄関。写真提供:佐藤正樹

1月6日の海岸側から。津波が押し寄せた跡。写真提供:佐藤正樹

「それを受け止めて、じゃあ次どうするか。6日、7日、8日の3連休に作業すれば、宿が足りない能登で、なんとか泊まれるようにはできるぞと。

水道は出ないけど電気とネットは大丈夫、エアコンもつくしストーブも布団もあるから10人ぐらい泊まれる。じゃあ支援者を受け入れれば、ちょっとは能登の助けになれるんじゃないのかなという気持ちが生まれた。

僕は山形県出身なんだけど、東日本大震災のとき、山形は被害の大きかった太平洋側の仙台や福島の復興支援の拠点になっていた。だから拠点を作るっていうのは今後の復旧においてものすごく重要な役割を果たすっていうのを実感していました。

僕はここの住人ではない。震災前から家を譲ってもらってたので罹災証明書は5枚も届いた。でも住民票を置いてないから公的な支援は受けられない。

当事者とも微妙に違うようなポジション。できることは人それぞれ違うから、復興支援をし続けるのは僕の役割じゃなくて、支援者を支援するのが僕の役割だと考え、支援者が滞在できる場所を作ろうと。

まだ水は出ないし、ちょっと雨漏りするけれど、それでもよかったら誰か使ってねと営業活動したら、ちゃんと有効活用してくれる団体と繋がり、継続的支援の拠点になるという結果に繋がった。これは本当に良い経験になりました。

能登からの帰り、富山のコンビニに寄って水道で手を洗ったとき、当たり前に水が出てウヒョーって思いましたね」

ボランティアの力でゴミが除去された海岸線。津波がもう少し高かったら、集落の家々に甚大な被害が及んでいたのだろう

赤崎漁港にある漁協の建物は、津波によって大きなダメージを受けていた

「そこからクラファンで集めた募金に自分のお金を足して、雨漏りを修理したり、屋根を耐震瓦に変えたりして、なんなら合併浄化槽を入れてアップデートしてTOGISOを元の古民家宿に戻し、震災後に譲ってもらった家を新たにボランティアハウスとして準備しました。

TOGISOを直すのにも、新しく家を買って整備するのにもお金は必要なんだけれども、お金に関しては、将来の自分が稼いでくれると信じて、手元のやるべきことを片付けながら未来を向いて進むしかない。

未来に負債を残し、後回しにし続けることを良しとはしない。そうやって生きてきたつもり。溜まったツケは誰かが引き受けないといけない。修繕費のババ抜きをしても社会は変わらない。今はもう赤崎集落内に溜まったツケは、僕が全部払えば良いと本気で思っています。

地震の直後、ここの家の状況を見て気分がすごく落ち込んだんだけど、持ち直すために勇気をくれたのは、過去の自分がやってきたこと。今までちゃんと積み上げてきたことだった。

絶対に失敗しちゃいけない選択肢が、ものすごくたくさん急に用意されたんだよね。選択を誤ると、うまくいかない未来に繋がってしまう。ちゃんとうまく繋がる未来にするにはどうしたらいいのか」

「震災の直後から、悲惨な状況の中で如何に未来に繋げていくのかっていうところにだけ軸を置いて、情報発信をしてきました。いつか能登を訪れてくれる方々が安心できるようにネガティブな発信は控え、継続的に興味を持ってくれるように。

津波が来たけれども家までは届かなかった。建物は震度7の揺れにどうにか耐えた。だから、いつか絶対またこの能登に、赤崎に来てくれるって約束してくれと。

いつかみんなが来るのがわかっていたから、こうしてがんばれている訳です」

40年間放置されていた北前船の船主の家も震災後に購入。人が手放したくなるタイミングだからこそ、自分がチャレンジする権利を買うことができたという考え方

どこを見ても家主のこだわりを感じる。建てるのに4年掛かったそうだ。本格的に手を入れると何千万円も掛かるだろうが、それだけのロマンに溢れた物件だ。他にも合わせて合計6軒を購入したとか

「元旦の地震が起こってから2000万円くらい使いました。こうしてTOGISOが戻ったのは、ちゃんとお金を使った成果。クラファンでみんなにだいぶ助けてもらったけれど、辛いっちゃ辛い。

でも、この能登らしい景色を失ってはならない。

地震の前後でも僕のやることは変わっていません。2017年から赤崎集落の街並み保全活動を続けてきた訳だから、それを継続するだけ。震災は想定外でしたが、そもそも長期的な視点で価値を創っていくつもりだったので。

地盤が強いこともわかり、奇跡的に能登らしい景色が残っているならば、私財をぶっこむ合理性がある。推しの景色に重課金

蔵から出てくる古い漆器を利用した商品開発も始めている

食器として使われなくなった輪島塗のお椀をランプシェードにするクラファンを実施

まあ、この負債を返したら明るい未来しかないんじゃないの、みたいな気持ちでやっています。僕も楽しんでるからね、ちゃんと。

将来的な目標はあまり考えていないけど、とりあえず現状維持。この集落の生き方、暮らし方、素朴さ、景色みたいなものを守るというか、守りながら楽しむっていうところに、僕はものすごく価値があると思ってるから。

あとはやっぱり、いつか50センチオーバーのイシダイを突きたいですね!」

ここの海は本当に素晴らしい

ある日の佐藤さんの獲物。写真提供:佐藤正樹

本日の私の獲物

ネズミゴチ(通称メゴチ)っておいしいですよね!

漁師町だからこそのおすそ分けによる贅沢すぎるサザエご飯

同行していた佐藤さんの友人が「玉置さんはベラが好きなんでしょ」と釣ってきてくれた

震災後に能登へと戻ってきた田中俊也さん

佐藤さんの友人で、能登で震災にあって一度引っ越しをしたものの、戻ってくるという決断をした木地師で「木漆工をき」の田中俊也さんから話を伺うことができた。

田中俊也さんは大阪出身。金沢美術工芸大学を卒業後、加賀市の山中温泉での木工修行を経て、2015年に独立して能登に移住した

田中俊也さん:「笹波というTOGISOの隣の隣の集落に住んでいました。震災は揺れましたってもんじゃなかった。立てなかったですから。

家でおせちを食べて一杯飲んでいたら地震が来て、もう必死で子どもを二人抱えて、妻も一人を抱えて、どうにか机の下に潜って。

家は崩れこそしませんでしたが全壊判定。子どもは7歳と4歳と1歳なんですが、もうトラウマ状態で、この家にはいたくないと。ずっと賃貸で去年の10月に購入したばかりだったのに。

津波警報も鳴っていたし、すぐ避難所の防災センターに行ったけど、ここらの集落の人がみんな集まったので、すし詰め状態で横になれないし布団も足りていない。それでも僕らは子どもがいたので、皆さんによくしてもらいましたが」

全壊判定となった田中さんの家

「避難所には3日だけいて、加賀市の僕がもともと働いていた親方の家に6日まで泊まらせてもらって、妻の実家がある青森で一カ月ほど暮らし、それから父が所有している京都の別荘に移りました。

もう能登に戻るつもりはなくて、京都で新しく工房用の物件を探したりしていたんですが、こっちに比べれば人が多いし、自分らが思い描くような家も土地もなくて。

それで僕が『やっぱり能登に帰りてえな』って言ったのがきっかけで、戻ってくることを考え出して。

子ども達も徐々に能登へ帰りたいって言い出したので、何回かこっちの知り合いの家に泊まらせてもらって、みんなでちょっと過ごして、やっぱいいよねって。

結局こっちに帰ってくる決断をして、佐藤さんから紹介してもらった空き家に9月からって感じですね。幸い工房はまだ使える状態だったし。

いろいろあったけれど、能登に戻ってくるというのが現実味があったというか、未来が一番見えたのが能登やったんで」

工房が無事だったことが能登に戻る後押しとなった

「僕は海に入りたかったし、狩猟の免許も取ろうと思っていて。そういうことするには能登ってうってつけの場所でしょ。すごく豊かな場所なんで、お米もおいしい、お酒もおいしい、食材もおいしい。

ここなら僕がやりたいことが全部できる。だから地震にあっても、まだ戻りたいと思った。

今回こういう災害があったからこそ、集落の人たちが持ってる知識とか技術を教えてもらいたいなとも考えていて。サバイバル力っていうか、生き抜く力をすごい持ってはるんで。

やっぱり戻ってきてよかったです。子どもらも楽しそうっすもん、ずっと。環境が変わってストレスが溜まっていたのか、肌荒れしていたんですけれど、戻ってきたらすぐきれいになりました。生まれてからずっとこっちにいたから、水も空気もあっているんやろうな。

僕らの集落は人口200人くらいで、震災後に45人が出ていきました。戻ってきたのはうちの5人だけです。まだ避難所にいる方もいますが、すでに仮設住宅に入った方も結構います。

また揺れたらどうしようって思いますけど、でも1回でかいの来たから、あと100年ぐらいは大丈夫かな。わかんないですけど、もうこれ以上は勘弁願いたいです」

この日は待望の祭が行われた。写真提供:木村柊

能登に行ってよかった

一口に被災者といっても、家族構成だったり、被災の状況だったり、インフラを含む周辺環境だったり、引っ越しという選択肢の有無だったり、すべてが人によって違うので、大きな主語で部外者が語ることはできない。一人一人で事情は違う。

国、県、市町村、集落、家族、個人、あるいは企業。誰もがこの状況下でできることを選択しながら、1年や2年ではゴールしない長距離の道を歩んでいる。

こうして被災地を見させていただき、よかったといったらおかしいが、どこか他人事だった自然災害の怖さや奥能登の現実に触れることができた。

だから私はなにをするべきというのも思いつかないのだが、とりあえずまた近々、能登へ遊びに行こうと思う。都心部から遠く、僻地と呼ばれるような場所だからこそ、ここには貴重な文化や景色があるのだから。

震災前に屋根を葺き替えていたので、なんとか倒壊を免れたTOGISOの納屋

修繕前の様子

倉庫の二階の壁に穴を開けて、海が見えるようにするそうだ

やれることは自分でやるスタイル。私は金銭面で支えられないので、このハシゴをしっかり支えるという形で手伝わせてもらった

こうして最高の空間が完成し、2年前の「窓をつくって海が見えるラウンジにしたい」という発言が現実のものとなった。まだガラスが入っていないのでこのままだと冬は寒そうだが、TOGISOは震災後も少しずつ理想の形へと進んでいる

夢を語っていた2年前の様子

地元スーパーであるトギストアーに注文した見事な刺し盛りをいただいた

トギストアーは一旦仮設店舗へと移り、被災した店は建て替え予定とのこと

赤崎集落で見かけた美猫

 

海浜あみだ湯

NPO法人ガクソー

能登の古民家宿 TOGISO

木漆工をき

石川県災害ボランティア情報

【いろんな街で捕まえて食べる】 過去の記事 

suumo.jp

著者:玉置 標本

玉置標本

趣味は食材の採取とそれを使った冒険スペクタクル料理。週に一度はなにかを捕まえて食べるようにしている。最近は古い家庭用製麺機を使った麺づくりが趣味。同人誌『芸能一座と行くイタリア(ナポリ&ペルージャ)25泊29日の旅日記』、『伊勢うどんってなんですか?』、『出張ビジホ料理録』、『作ろう!南インドの定食ミールス』頒布中。

Twitter:https://twitter.com/hyouhon ブログ:https://blog.hyouhon.com/