著: 玉置 標本
2019年の秋、友人と能登半島の一番先にある珠洲市に遊びに行き、友人の親友宅にお邪魔した。彼は東京から縁もゆかりもなかった珠洲市に、特に目的も目標もなく移住して三年目なのだが、会社を起業して子どもも二人生まれて、とても順調に生活しているそうだ。
地方への移住を考えると、仕事はあるのだろうか、地元の人とうまくやれるだろうか、いくらでも不安になるのだが、彼に言わせると「挨拶をちゃんとしていればどうにかなる」らしいのだ。そんな訳ないだろう!ということで、移住四年目を迎えた彼に改めて話を聞いてみた。
「珠洲(すず)」という名前を聞いた瞬間に決めた東京からの移住
友人の親友である北澤晋太郎さん(31歳)は、長野県長野市の出身。似ていると言われる有名人は、小栗旬、江口洋介、エレファントカシマシの宮本浩次、ジャングルポケットの斉藤慎二、ハイキングウォーキングの鈴木Q太郎、長州小力など。その辺は読者の判断に委ねたい。
自称「真面目でかっこよくて優秀な生徒」として地元の高校を卒業後、東京の早稲田大学政治経済学部に現役で入学。勉強が好きすぎて人より一年長く在学してから卒業し、上戸彩がCMをやっていた某紳士服チェーン店に入社。
都心にある大型店舗に勤務し、すぐグチャグチャにされる店頭の安売り商品を並べなおしたり、近隣の居酒屋やカメラ屋にも負けない大声で呼び込みをするなど大活躍。会社からは幹部候補生として期待されたものの、一年で退職してしまう。
地域グループの真面目な会議にスーツで参加してきた北澤さん
北澤晋太郎さん(以下、北澤):「スーツが好きで就職したから、スーツを売って働けるのは幸せでした。かなり体育会系の会社で、仕事自体は自分にすごく向いていたけれど、一年間経験を吸収させてもらったことで、10年後、20年後の将来に予想がついてしまった。
業界全体としてスーツの販売は厳しくても、別の事業で儲けを出していたから、会社としては安泰。でもそこで自分がつくる価値が、社会との繋がりの中でわかりやすくありたかった」
――これから先の未来が想像できるから、一年で退屈しちゃったんですかね。真面目で頭が良すぎたのかな。
珠洲市の地元スーパーにて
北澤:「やめてから一カ月後、2014年の5月にFacebookのシェアで流れてきた『温めているサービスがあるけれど人手が足りない、一緒にやってくれる人いませんか?』みたいな投稿を読んで、新規ITサービスの立ち上げメンバーとして入社しました。
メンバーは社長と自分だけ。最初の半年は給料無し、オフィスも無し、一緒にファミレスでひたすら作業するような日々でした」
――働きホーダイだ。そこで何の仕事をしていたんですか。
北澤:「雑誌やウェブサイトの編集者に近い作業。それにコンテンツの見せ方を考えたり、サービスに人やお金を集めたり、なんでもやる係ですね。3年間勤務して、それなりに成功して給料もしっかりもらえていたんですが、類似するサービスを始めた大手企業から吸収される形でチームは解散になりました。
吸収した会社に入る気はなかったから退職して、これまで仕事でお世話になったけどまだ会ったことがない人たちに挨拶をして回ろうと、その社長と旅に出ました。卒業旅行みたいな形で」
――なんだか青春ですね。
北澤:「四国、山陽、近畿と回って、名古屋で社長と別れ、お伊勢参りをしたりしつつ、そういえば金沢に高校時代の旧友がいるなと思い出し、その彼に連絡を取って会いに行ったんです。金沢大学に進学して、石川県が大好きになってそのまま石川県庁に入庁した友人。
アパホテル金沢駅前のロビーで会いました。お互い近況報告をして、俺は仕事を辞めて旅をしている。同棲している彼女が住む東京に戻るけれど、今度会うときは大好きで何度も通っている佐渡島に住んでいるかもねって話したんです」
――佐渡はいいところですから。
北澤:「そしたら彼が『俺は行ったことないけれど佐渡はいいところらしいね。でも県庁職員としては石川県内を勧めないわけにはいかないから言うだけ言ってみるけど、能登半島の先にある珠洲(すず)はどうだ。佐渡と珠洲って似ているし』って」
――佐渡と珠洲、どっちも『さ行』だし、島と半島の違いこそありますが、海を挟んで物理的にも近いですね。
北澤:「そのときはまだ珠洲という場所の存在を知らなかったんですよ。漢字でどう書くかもわからない。でも僕はその珠洲っていう名前を聞いた瞬間にピンとして、そこに住もうと。
能登半島の先端にある街、そして珠洲という名前。この二つの要素を聞いてから、そこに住むっていう選択は一瞬でした」
――将来的な話ではなくて、すぐに?
北澤:「もうそういう話は早い方がいいと思って、その日の夜に同棲していた彼女にホテルから電話して、『珠洲に住むことにしたから、明日会社に行ったら仕事を辞めておいて欲しい』と連絡しました」
――まだ珠洲を一度も見てもいないのに?
北澤:「でもまあ、早い方がいいじゃないですか。
人生は選択の連続。大事そうな選択ほど5秒くらいで決めたほうがいいって、ただ僕が思っているんですよ。その選択が間違っているか、間違っていないかは、そこに自信を持って決められるかどうか。……麻雀漫画で学んだことだけど。
大事なものほど直感で決める。その感覚は日々鍛えています。……麻雀とかで」
――『直感で決める』というのは、『考えなし』とは違いますよね。これまでの経験ありきで、その瞬時に答えが現れる。囲碁でも将棋でも、プロはベストの答えが一瞬で浮かぶのと一緒ですか。
でも昼飯とか休憩で飲む缶ジュースとかは、「お前が決めて」って丸投げしますよね。あれはなんですか。
「なんでもいいから選んで」と友人に選ばせたジュースは、ピンク色のエナジードリンク
北澤:「『人に任せる』っていうのが僕の方法論の一つとしてあって。自分の選択って、そんなにおもしろくないっていうか。
もちろん自分で決めることは大事なんですけど、食い物なんかだとそこで自分の選択が正しかったっていう確認をするよりも、『任せるから決めて!』っていって変なものが出てきた方がおもしろいじゃんって」
――相手のセンスを試したい訳ではなく、あくまで自分が予想できない展開を楽しみたいんだ。でも選ぶ方も楽しかったりするから、ウィンウィンなんでしょうね。そこで北澤さんが不機嫌になったら台無しなんだろうけど。
北澤:「自分で決めたら好きなものしか食べない。でも人に決めさせると、絶対自分で頼まないものが出てくる。それがすげえよかったりする。わざとまずそうなものを頼むやつもいるけれど、それだって商品なんだからおいしかったりする。本当にまずくてもおもしろいし」
友人が適当に注文した定食を眺める北澤さん
定食にはカノシタとネズミノテ(それぞれ鹿の舌とネズミの手に似たきのこ)の煮物が付いていた。こういう出逢いが楽しいのだろう
別に移住を考えていた訳ではなかった
――地方に移住したいっていう話は前からあったんですか。
北澤:「それも全然なくて。何度か旅行をして繋がりができていた佐渡には将来的に行くなっていうのはあったけれど、佐渡よりも珠洲の方がピンと来てしまって。
その話が7月末で、たまたま住んでいた家の更新が8月末。不動産屋に退去するっていうのは伝えていて、新しい物件を彼女に探していてもらっていたところ。これはもうタイミングですよね」
――その急な展開に納得して、今もちゃんと珠洲で一緒に暮らしている彼女がすごい。
北澤:「とりあえず翌日、僕だけ一人で珠洲市に来てみたけど、これは直感の答え合わせ。道中のバスの中でも、想像通りの風景が広がっていて、これこれって!」
――前世の記憶かなんかですか。大好きな佐渡と街並みが似ているのもあったのかな。
北澤:「もう早く引越しの準備をしたかったから、日帰りで東京に返ろうと思ったら帰りのバスがもうない。しょうがないから適当な民宿に泊まることにして」
――それで翌朝、やっぱりやめようってならなかったですか。ちょっと決断を急ぎ過ぎているぞと。
北澤:「普通はそうなってもおかしくないけれど、冷静になる瞬間が無くて。民宿のおかみさんが僕の部屋に入ってきて、なぜかちゃぶ台を挟んで一緒にお茶を飲んでいる。僕はこの珠洲に住みたいって話したら、住みな住みなってずっと勧められて」
――移住欲の火種に薪をくべられづづけたと。
北澤:「それで翌日、おかみさんに市役所を教えてもらって、すぐ移住相談窓口にいって相談したら、とりあえず空き家を紹介しますよと。職員さんの案内で空き家を見たり、見附島(有名な観光地)を案内してもらいました。
東京に戻ると、彼女がとりあえず一度珠洲を見せてくれというので、その一週間後に連れてきたら気に入ってくれたので、そこで物件も決めました」
軍艦島とも呼ばれる見附島
――珠洲に来るにあたって、仕事はどうしようと思っていたんですか。
北澤:「僕は当時無職で、彼女はウェブデザイナーをやっていたけれど、仕事のことは一切考えなかったですね。とりあえず住む場所の方が僕の中で優先順位が高くて。
住む場所というか、生息する場所くらいのイメージですね」
――住みやすそうな場所に移動したいという本能は、生き物としては正しい気がします。
北澤:「予定通り8月末に引越すことになったけれど、引越し先の家が直前になって家主側の都合でキャンセルになった。市役所の人から『半年間だけ入れる仮移住用の空き家を用意するから一旦そこに入ってくれる?』って言われて、引越し当日に初めて住む家を見るっていうスタートだったけど、ずいぶん大きな仏壇があるな~くらいで、特に問題なし。
でも半年で出ないといけないから、地元の不動産屋さんと毎日のように連絡を取り合って、今の家を見つけました。その不動産屋さんと仲良くなりすぎちゃって、移住して2カ月で結婚したときの保証人になってもらったんです」
――なんというかフワッと移住しましたね。
北澤:「そもそも移住という意識がない。新宿区から杉並区に引越すのと同じ感覚で、新宿区から珠洲市に引越している。これが火星だったら移住っていう言葉を使うかもしれないけれど、所詮は国内。ただのお引越し」
――言葉が通じない訳でもないし。
北澤:「方言が強くて半分くらい通じないおじいちゃんとかいるけどね。でも何言っているかわからなくても、言いたいことは伝わるから。
珠洲に住んではいるけれど、居ついている感覚もそんなないんですよね。東京も意外と近いじゃないですか。飛行機に乗れば一時間だから、向こうの友達と会おうと思えばいくらでもあえる。今はネットで繋がっているし。
根本的に中央と地方、都と田舎、そういう二項対立でも見ていない。日本なり東アジアなり、極東の気に入った街に住んでいる、くらいのイメージでいいんじゃないですかね」
星がきれいなのも珠洲が気に入っている理由の一つ。こっちに来て星座がわかるアプリをスマフォに入れたそうだ
――ここに一生住まなければいけないという訳でもない。珠洲の一族になった訳でもないと。
北澤:「今は珠洲が拠点だけど、東京に行くのは帰るっていう感覚だし、長野も帰る、佐渡も帰る。そういう帰れる場所を増やしていきたいっていう感覚がある。できれば暖かい場所にも欲しいな」
ここまでが珠洲に住むことになった顛末だが、話を聞いていて次々と浮かぶ私の疑問を、北澤さんはヌルヌルと受け流していく。
なんというか生き方における方向転換、そしてギアの替え方が急だ。
石川県珠洲市はこんなところ
北澤さんが移住した珠洲市の基礎知識を紹介する。住民基本台帳によると2020年11月30日現在の人口は13,730人で、おもな産業は漁業、農業、畜産業など。良質の珪藻土が産出されるため七輪や陶器の生産が盛んで、伝統の揚げ浜式製塩法でつくる塩や、イカの内臓でつくる発酵調味料『いしり』なども有名。
能登半島の先端から順に、奥能登(おくのと)、中能登(なかのと)、口能登(くちのと)と呼び、奥能登は珠洲市、輪島市、能登町、穴水町から構成される。奥能登は江戸時代から明治時代に掛けて、北前船の寄港地として栄えた歴史ある場所だ。
道の駅に張られていた地図。珠洲市は能登半島の最先端だそうです
能登半島の南東側、富山湾に面した方を内浦(うちうら)、北西側の日本海に面した方を外浦(そとうら)と呼び、最先端にある禄剛埼灯台からは、条件が良ければ海を挟んで佐渡島が見える。ほぼ先端の珠洲市三崎町の粟津海岸は冬サーフィンのメッカで、シーズンになると全国からサーファーが押し寄せるとか。
金沢市から珠洲市はバスで約3時間も掛かるが、奥能登にはのと里山空港があって、羽田空港からのフライトは僅か1時間。交通費を気にしなければ東京から意外と近い。
2005年に能登線は廃線となり、珠洲駅があった場所は道の駅となった
珠洲という名前の由来は諸説あるようだが、珠洲市の公式サイト(こちら)によると『収穫祭に12個の小さな鈴を結った神楽鈴を振って報謝の舞を舞うが、シャンシャンと鳴らす鈴の音に由来する』そうだ。
今でも祭りはとても盛んで、切子灯篭(きりことうろう)を縮めた略称のキリコと呼ばれる、巨大な灯籠(御神灯)が巡行するキリコ祭りが、各集落で盛大に行われている。
珠洲の至る所でキリコ祭りが行われている
ちなみに私も移住前の北澤さんと同じレベルで珠洲市のことを知らなかったのだが、来てみるとどこか佐渡島に似た雰囲気があり、すぐに好きになった。
たまに佐渡からトキが飛んでくるらしい。
北澤さんに案内してもらった寿司屋にて。これぞ北陸という味を堪能
なんと北澤さんは甲殻類アレルギーだった。彼の分までおいしくいただきました
そんな石川県珠洲市に住んでみた感想
――移住してみて、珠洲はどんな街でしたか。
北澤:「第一印象としては、女性が元気。すごい働いているなという印象がありました。雪はそんなに多くないですね。僕が育った長野の方が全然降ります。金沢のある加賀地方の方が降る。ただ冬の空はどんよりしている。坂本冬美の世界」
――物理的に端に行くほど閉鎖的なのかなと勝手に想像しちゃいますけど、そのあたりはどうですか。珠洲は端も端じゃないですか。
北澤:「それはありますね。あるんだけど、かつては港を出入り口として、船で人が行ったり来たりしていたっていう歴史的事実もあって、想像していたよりは余所者に、こっちで『旅の者』とか『旅の人』っていうんですけど、免疫があるんだろうなーとは思います。
それが特にここ20~30年、人が出ていく一方で、だんだんこの街も元気なくなってきたよねっていう雰囲気の中で、排他的な発想になっている人もいるかなという感じ。珠洲の人は自信喪失をしているのかも。人材の流動性みたいなものが少なくなってきたからなのか」
――奥能登は北前船の寄港地だったから、明治くらいまでは人の移動が多かったんですね。
北澤:「能登半島ってアンテナみたいな形じゃないですか。江戸時代に北前船が整備されて以降、物資、人間、情報の伝搬は確実に船だったはず。でも、そういう旅の人が入ってくる土地だったからこそ、土着の人の権利を守ろうっていう考えもどこかであって、それが田舎っぽさというか、排他的な要因になっているのかもしれない。だとすればそれも僕は愛せる」
能登半島の最先端、禄剛埼灯台にて
これが能登半島の最先端からの景色。天気が良ければ佐渡島が見えるらしい
――どこの人であるかっていうのは、やっぱり気にされますか。
北澤:「実家から持ってきた長野ナンバーの車に乗っていると、『長野なのか』って必ず聞かれます。そうでなくても、人にあったらまず『どっからきた?』って聞かれる。
このどっからきたっていう言葉の意味はいろいろあって、僕みたいに髪が長くて髭面のやつが働ける場所はこの辺にねえよな、30代の男が働く場所は公務員くらいだけどそれが許されない身なりだし、猟師や農家にも見えない。なにものなんだこいつはと」
「どっからきた?」と聞かざるを得ない風貌
――それを含めての「どっからきた?」なんだ。
北澤:「そこで今は珠洲に住んでいます、もう三年経ちましたっていうと、一気に打ち解ける感がある。『おお!そうか!』って。ありがたいことに喜ばれるというか、受け入れられている感がありますね。よく来たねって。出ていく人が多いから」
――北澤さんからみて、珠洲市や奥能登エリアの魅力はどんなところですか。
北澤:「塩に代表されるんだけど、調味料にオリジナリティがあるっていうのが、僕にとってすごく魅力的。イカやイワシの魚醤もあるし。塩なんて人間にとって一番大事じゃないですか。その塩を日本最古の揚げ浜式製塩法でつくり続けている街なんですよ。
なれずしも知らない酸っぱい味だったり、ヤバい飯があるっていいですよね。奥能登の人しか喜ばないコノミタケっていうキノコがあったり、謎だらけ」
「いしり」や「いしる」と呼ばれるイカの魚醤が日常的に使われている
――その謎をおもしろがれると、暮らしておもしろいんでしょうね。東京にあるものがここには無いと嘆くよりも、ここにしかない謎のものがあるぞと喜べないと。
北澤:「そうそうそう。メチャメチャおもしろいっすね。珠洲に来て後悔とか一つもないし、もっと謎を知りたい。知的好奇心というか、そんな大それたものじゃないかもしれないけれど、それをくすぐってくる。
東京の二番煎じの地方都市じゃ僕はダメだった。だいたい同じじゃないですか。中古車屋があって、パチンコ屋があって、紳士服屋があって、ファストフードやファミレスがあって、大手メーカーが建てた家に住んで。それはそれで便利だし、正しいと思うんですけど、それはそれとして。
能登半島の先端っていうだけで、明らかにおもしろそうだった。新潟から佐渡に高速船で行くよりも、金沢から珠洲にバスで行く方が遠い。情報とか物流の遠さは佐渡以下かもしれない。だからこそ魅力が醸成されていそうじゃないですか」
――今はまだ独自性が残っているけれど、それが今後も残っているかというと微妙なものが多い。このタイミングで移住できているというのは羨ましいかな。
例えば10年後、20年後に引越してきても、もしかしたらなにも残っていないかもしれない。
北澤:「独自の文化だったり、そこに生まれる経済的なコンテンツって、地理的な要因、気候的な要因を基につくられているものほど、おいしかったり美しかったりするだろうなという仮説が僕の中にあって、それが奥能登には今もしっかり残っているんですよ。スーパーにはいしりが5種類くらい売っていて、地元の人は普通に使っている。超おもしろいですよ。
珠洲市はいくつもの村が合併してできた市で、集落ごとに文化が違っていたりとか、祭りの内容が違ったりとか、慣れるとエリアごとに特徴が見えてくる。連邦国家みたいな感じ。それぞれが自分の集落に誇りがあるから、隣の集落同士で仲が悪かったりもあります。うちの祭りが一番だって。その傾向は奥能登の市町村の単位でもありますね。」
――千葉県民と埼玉県民が仲悪いみたいな話の、もっとリアルな感じなのかな。
地元の猟師さんに呼ばれて、イノシシの解体を見守る北澤さん
美味しそうな肉をたくさんいただいた
知り合いはいつの間にか増えていった
――珠洲には知り合いが誰かいたんですか?
北澤:「誰もいません。佐渡島出身の友達が前に傷心旅行で珠洲に来て、そこの銭湯でお世話になったっていう話が、僕にとって唯一の足掛かりでした」
――足、掛かりますかね。
北澤:「その銭湯に『あのときは僕の友達がお世話になりました』って挨拶しに行ったけれど、『そういえばそんなことがあったかもね~』くらいの反応で。たぶん覚えていなかった」
――そんな状態から三年が経ち、ずいぶんと知り合いが増えたみたいですね。行く先々に誰かいる状態ですけど、なにをすると増えるんですか?
どこにいっても知り合いがいる
北澤:「広がりまくってますね。移住してきてまだ三年ですっていうと、びっくりされるんですよね。なんでこんなに知り合い増えたんだろう。草刈りとか祭りに参加したからかな。
例えば僕は楽器(ビオラ)を弾けるんですっていうと『弾いてよ、ステージ用意しておくからさー』って、2トントラックの後ろにベニヤ板を敷いた特設ステージをつくってくれたりして。それをきっかけに増えたり。僕らも楽しいし、メチャメチャ喜んでくれる。トラックの荷台でクラシック音楽、最高でしょ!」
今もたまにコンサートをやっている
――状況がよくわからないけれど、なんだか楽しそうですね。
北澤:「楽しみは金を払って消費するもの、仕事は金を稼ぐ手段だと思っている人は、これくらいの田舎は厳しいと思っていて、楽しみを自分で見つける、自分でつくるのが楽しみっていう感覚、価値観、生き様の人じゃないと。そういう人じゃないと、そもそも田舎を見向きもしないと思うけど。
移住組の中でも、まったく誰ともつるまずに、だけど楽しそうに暮らしている人もいるし、それはそれでいい気がする。地元の人とも移住者同士とも溶け込まなくても暮らすことはできる。それは東京でも一緒」
地元のおじいさんがキノコ狩りに誘ってくれた
マツタケよりも美味しいという、シモフリシメジを採らせてもらった
珠洲で始めたデザインファームという仕事
――移住に当たって仕事は考えていなかったということですが、しばらくして起業したんですよね。
北澤:「この街に納税したいというモチベーションが強かったので。税収が有り余っている新宿区に納税するよりも、僕がこっちに住んで僕にしかできない仕事をして納税をすることで、国力が1ミクロンくらい上がるかなっていう感覚があって。
引越して半年後、ここの家に引っ越したタイミングで『エスプリ』という社名で登記しました」
――何の会社ですか?
北澤:「各々のデザイナーがいる小さな組織、デザインファームと呼んでいます。デザインの本質って表面的なものではなく、問題解決であると思っていて、僕なりの発想で問題を解決するというサービスですね。
最終的なアウトプットであるウェブや紙は価値を伝えるためにあるべきで、それを根本的なところから、最上流からクライアントと一緒に考える。
僕は学生時代にウェブメディアを運営していた経験があったし、ITサービス時代に伝えるためのライティングが身についていた。写真も撮れる。妻の葵さんはウェブのデザイン、コーディングができた。だからウェブサイト、ポスター、雑誌誌面は二人でつくれる」
――やりたいこと、できる技術があったとしても、縁もゆかりもない土地で仕事を受注するって大変じゃないですか。自社のホームページをつくれば仕事が来るっていうものじゃないだろうし。
北澤:「丁寧に挨拶とかしていればいいんじゃないですか、くらいにしか考えてないです。そこで生まれた縁を大切にする。
恋愛に近いですよね。いい人と出会ったら、おもしろそうだな、もっと知りたいな、話したいなってお互いに思うようになる。そして一緒に過ごす時間を楽しむ。すべてはそこから生まれる。そのスタンスでいれば仕事に困ることはないなって。
営業は柔道なら寝技だと思っていて、ネチネチと抑え込んでいくのが得意。突然アポなしでフラっと行くことも多くて、それを5回くらい続ければ、相手が抱えている問題とか課題が共有されてきて、僕はそれを一緒に解決できますよっていう話ができる」
本当にアポなしで訪問しているんですよ
直接仕事には繋がらないだろうけど、炭焼き小屋とかにも気軽にいっちゃう
――投げ技で華麗に一本を狙うのではなく、寝技でネッチリいくと。
北澤:「大事なのはフィジカルでコミュニケーションをぶつけ合うっていうことだと思うんですよね。別にそれって田舎だからではなく、東京で営業するときも一緒」
――でも北澤さんが考えるデザインの仕事って、珠洲にあるんですか。
北澤:「潜在的な需要はありました。あるんですけれど、多くの人は『きれいなポスターをつくること=デザインすること』って思っていたり、『ウェブデザイン=ホームページの見た目』って思っているじゃないですか。これは珠洲が田舎だからとかじゃなくて、日本全体でそういう人が八割、九割かもしれないという話です。
だけど僕の考えるデザインは問題解決なので、本当に向き合うべき問題は何なのかを言語化するところから始めるので、僕たちのやれることと発想は、この街にとって絶対に価値がある。でもその価値を伝えるのが時間が掛かる」
――何のためにつくるのかというところから一緒に考えて、アウトプットに繋げていくという話なんでしょうけど、『考えることに金を払うの?』ってなりそうですね。
北澤:「そう。だから最初は普通のデザイン会社の顔をして見積もりを出して仕事をいただく。このポスター一枚つくるのにこんなことを聞かれるのか、一緒に考えることで従業員のモチベーションが上がったね、売り上げも上向きになってきたぞっていう状況をつくって、大きな仕事として次の提案をする、みたいな。
でもまだまだデザインの価値は伝えられていないなと思っています。問題解決の筋道を考えることを専門にしている人がいるというのも情報としてないんで、全く新しい存在という見られ方をしているなと」
海沿いをウロウロしていたら、なんだかすごい場所を見つけた
――ここには自分がやりたい仕事を知っている人がいないから仕事ができないのではなく、その仕事を知ってもらうことで需要を生み出す構造だ。
北澤:「怪しがられましたよ。僕、怪しいじゃないですか。でも一緒に草刈りしながら、こういう草刈りにもデザインの発想はありますよって、まことしやかにうそぶいたりして。草刈りが街全体の景色をつくっているとか、ランドスケープとして街の価値を上げているとか、こっちの言葉が向こうがわかるように。そういうことを積み重ねて。とかいって、一緒に遊んでいるだけなんですけどね。
なにを求めているか本当はわからないクライアントと一緒に、本当に解決すべき問題を言語化していく。それが種を撒くという行為。種を撒いて、半年後とか一年後とかに実った仕事が最近あって。『あの時、北澤くんが言っていたことがやっとわかったよ』と発注してくれて。ここからだなっていう感じですね」
――クライアントはどういった会社ですか。
北澤:「社会福祉施設さんとか、お菓子屋さんとか、学校とか、なんでも。県や市の仕事もしています。結局は人のつながりで仕事は来ます。それしかない」
エスプリが関わった仕事の一部
――一年目から順調にいきました?
北澤:「意外と順調。第四期に突入していますけれど、売上も順調に上がって、しっかり黒字も出て。会社としての借り入れ金も今のところありません。不思議なことに順調ですね。……不思議なんですよ」
――北澤さんがデザインで手伝うべきコンテンツが能登にはあったと。
北澤:「僕の仕事って、サービスなり、モノなり、風景なり、オリジナリティのあるもの、思いが込められているもの、魅力があるものを題材にして、その価値を言語化して伝えることなんだけれど、それと相性がいいものが奥能登には多い。
この辺りって東京資本のチェーン店とか、あまりないじゃないですか。元気に残っているスーパーとかお菓子屋さんは、なんらかの強い特徴がどこかにある。そういうところじゃないと僕の力は発揮できない。
能登にスターバックスみたいなカフェをつくりましょうという話ではない。この漬け物おいしいよねっていう話がしたいですよね。ブルーオーシャンだからやる、レッドオーシャンだからやらない、という考えではなくて、自分がつくりたい市場をつくっていく」
実際に売られているのを見ると、おお!ってなる
北澤さんのパートナー、葵さんに話を聞いた
ここで北澤さんの妻であり、ビジネスパートナーであり、現在は二児の母である、葵さんにも話を伺った。いきなり電話で「珠洲に引越すから会社をやめてきて」と言われた側は、この状況をどう思っていたのだろう。
ちなみに二人の出逢いは大学生のころで、北澤さんが入ったオーケストラサークルの一学年先輩で同じくヴィオラを弾いていたのが葵さんだった。卒業後に付き合い始め、珠洲に移住して2カ月後に結婚し、二人で起業して、現在に至る。
左から葵さん、長女の凪ちゃん、長男の不二くん
――会社を辞めた北澤さんが旅をしているときに、珠洲に引越すから会社をやめろって電話が来たんですよね。
北澤葵さん(以下、葵):「そうですね。なんか突然石川県から電話してきて、たぶん住むことになると思うって。えーって。まあ随分急だなあとは思ったんですけど、なんかおもしろそうだからいいかなって」
――まあいいかと。
葵:「この人が言うことは、絶対にやると思っていたから。東京にずっと住むことにこだわりはないし、そのときの会社にも強いこだわりはなかったし、新しいところに行って新しいことをするのもいいかなって。どうなるかわかんないけれど、とりあえず行ってみるかと。不安も別になかったですね。何とかなるかなって思っていた」
――仕事はどうしようとか、考えていましたか。
葵:「ぼんやり珠洲で仕事あるかなーと検索はしつつ、しばらくなにもせず。いつのまにか会社を立ち上げて」
北澤:「起業するまでの半年、仕事はなにもしなかったね。珠洲と仲良くなろうと、人と話したりすることに重きを置いて。ただいずれは起業すると思っていた。でもその仕事をするために移住してきた訳ではないし、そういう風に思われるのも嫌だった。その前にすることがあるでしょって。
民俗学者の柳田國男とか折口信夫とかに学べば、『そこで呼吸をしてみろ』ってことじゃないですか。そういうスタンスです。それをやればやるほど自信が湧いてくるみたいなのがあった」
――まずは住んで、呼吸して、この土地で生きてみる。
北澤:「彼女も元々は事務員だったけれど、将来的に二人のスキルでサービスをしたかった。夫婦が最小のコミュニティであり会社組織だなというイメージがあって、葵さんが転職するタイミングでウェブデザイナーを勧めたのは僕です。東京にいるにしろ佐渡に行くにしろ、ゆくゆくはこういう構想というかイメージはあった」
――そこから腰を上げて起業したきっかけは何かあったんですか。
北澤:「何もしないでいたら、移住者新年会で北國新聞(金沢に本社がある新聞社)の記者と知り合って、東京から珠洲に移住してきた夫婦としてインタビューさせてくれと。こっちはそんなに事件が起きないから、僕らが移住したくらいで新聞に載るんですよ。
そこで『将来どうしたいんですか?』って聞かれて、二人でこういう仕事ができたらいいですねって話したら、『東京から夫婦で移住、そして起業』って新聞に載って、それを読んだ地元の企業からいくつか問い合わせが来て」
葵:「じゃあ早く起業しなきゃって、そこから大急ぎで準備。この家に引越しするタイミングで登記したのかな」
現在の住まい兼事務所。すごく広いが家賃は都心の駐車場よりも安い
――急に流れができましたね。そこから子どもが二人できましたけど、今も葵さんは仕事もしているんですよね。
葵:「ありがたいことに仕事はいっぱいあるので」
――二人だけで起業するとなると、未経験のことも多くなかったですか?
葵:「そうですね。前職はウェブの更新業務が多かったので、紙とかはわからなかったし。そもそも会社を立ち上げることが初めてだったから」
北澤:「僕がやっていることって、外に出て遊んでいるか、掃除をしているか、飯をつくっているかくらい。制作に関するマネジメント、工数管理とか全部任せている。僕がやってもいいけれど、それじゃおもしろくないので外で遊んでいたい。そうしてとってきた仕事を、葵さんががんばって形にする。もちろん最終的なクオリティチェックはやっています」
――こんなこと言ってますけど、葵さんは不満ないですか。ありますよね。
葵:「彼はずっと外をふらふらしているけど、結局それは仕事に繋がっていることだから。とはいえ、私も外にもっと出たいですけど!
仕事と育児と家事をやっていると、なかなか自由に出られなくて。それは改善したいなって思っています」
――葵さんは珠洲に来てよかったですか?
葵:「まだあんまり珠洲のことを知れていないなとは思うけれど、自分で何とかする力は鍛えられているような気がします。人間としての生存能力が高まっている。仕事を無理やりでも回すとか。休みは自分でつくらないと休めないけど、自分がやらないと仕事は進まない。だから子どもが生まれる前日まで働いていたりしちゃう。
起業して一年後に妊娠して、年子でまた妊娠して。想定外の二人ですね。でも子育てはしやすい環境だと思います。東京で住んでいたアパートは、子どもが生まれたら出ていけだったんです。ペット不可と同じで子ども不可。ここはそれがないし、家賃も全然安くて広いし。近所のおばあちゃんなんて『この街で赤ちゃんの泣く声が聞こえるのうれしいわー、どんどん泣いてー』って」
葵さんの揺れない心がすごい
北澤夫婦をよく知る友人に言わせると、二人を船に例えれば、葵さんがエンジンで、北澤さんが舵なのだとか。ずいぶんと遊びの多い舵のようだが。
地元のコミュニティに入るだけではなく、コミュニケーションの場をつくる
北澤さんの友人に、北海道出身でアフロヘアーのしんけんさんがいる。金沢美術工芸大学を卒業して珠洲に移住し、シェアハウスの運営などをしつつ創作活動をしている、北澤さんにとっては頼れる移住者の先輩だ。
彼は珠洲にある飲み屋街にしげ寿司という居抜き店舗を借りて、カフェバー『仮()-karikakko-』を営業しつつ、そこで大好きな二郎系ラーメンを麺から自作して出すイベントをやっていたりする。
この店の存在が、北澤さんにとって大きな助けになっているようだ。
寿司屋の居ぬき物件で、看板すらそのままのカフェバー
ラーメンイベントのために寸胴で豚骨を煮込むしんけんさん。カフェバーとは何か
北澤:「僕が出資している訳ではないですけど、しんけんがこのお店をオープンした翌日、新聞に『共同経営する北澤晋太郎』って載っていた。これはしんけんと仲の良い記者の悪ノリだけど、そうやって巻き込まれるのって嬉しいことじゃないですか。
そもそも僕はただの客として来ていなくて、気持ちとしては共同経営だと思っていた。この店にはそういう思いの人が何人もいるから、その代表として僕の名前が書かれたということ。応援する人は移住者仲間だけでなく、地元の人にもたくさんいる。
縁のない田舎に移住してきた根無し草の僕らとしては、そういうコミュニティをつくることがセーフティーネットになっていて、この場があれば死ぬことはないなっていう安心感がある。ここによく来る銀行の支店長が、『こういう人がいるから北澤君を紹介していい?』って勝手に営業してくれたり」
麺づくりのお手伝いをする北澤さんと私
――田舎でコミニティに入るためには、その集落の公民館とか祭りに飛び込んでいくしかないイメージあったけれど、移住者が新しい場をつくって、そこに地元民が入るっていう形もあるんですね。それこそが地元の人が望んでいた関係なのかもしれない。
北澤:「しんけんは二郎系のラーメンが大好きだけど、食べられる店はこっちにはない。だからネットでつくり方を調べて、小麦粉を捏ねて太い麺をつくって、大きな寸胴鍋で豚骨を煮て、そのラーメンをここで出す。すると地元の人にも喜んでもらえる。
僕の趣味はダーツなんだけど、珠洲にはダーツバーもなかった。それでこの店にダーツの機械を置いたら、実は珠洲にもダーツ勢が結構いることが判明して、地元勢も通ってくれるようになった。
ラーメンが食べたければラーメン屋を、ダーツがやりたければダーツバーをやればいいんだなって」
しんけんさんがつくったラーメン。スープも麺も具も超本格的でうまい
北澤さんが設置したダーツ。これを目当てに来る人も多い。二階には全自動麻雀卓も用意したとか。もちろん自分が打ちたいからだ
都会にあるものが手に入らないと文句を言う前に、自分たちの手でつくってしまう。そこに珠洲ならではの文化や人材が加わることで、都会にもないオリジナルができてくる。そういうことをやっていけば、そこに人は集まってくる。そしてそれが北澤さんの仕事にも繋がっているようだ。
北澤さんに知り合いがやたら多い理由、遊んでいることが営業になる訳が、なんとなくわかってきたような気がする。
しんけんさんから厨房を借りて、いただいた猪で料理をつくらせてもらった
猪の肉と骨でとったスープに、シモフリシメジの旨味をプラスする
そしてまさかの新卒採用
北澤さんの会社には、なんと新卒採用した社員がいる。夫婦二人だけで会社を運営するのと正社員を雇うのでは、なんというか責任と難易度が大きく違うように思うのだが。ちなみに友人からは『狂気の沙汰』と呆れられたとか。
北澤:「珠洲にはそういう事例はなかったみたいで。それもやっぱり新聞に載っていました。すぐ新聞沙汰になるんですよ。新卒の社員を雇った当時は、ちょっと不安だったかな」
採用したのはしんけんの後輩にあたる、金沢美術工芸大学出身の和田実日子(みかこ)さんだ。
右が和田実日子さん。photo:Sakika Matsuda
和田実日子さん(以下、和田):「出身は広島です。金沢美大に通っていたときに、しんけんさん経由で北澤さんと知り合いました。専攻はデザインで、卒業後は東京の大きな会社に行く流れがあったけれど、それが受け入れられなくて。都会に行きたいとは思っていたけれど、大きな企業でたくさんの人の中で働く自分を想像ができない。それで就活が嫌になって、四年の秋になってしまった」
――周りの友達はとっくに就職が決まっているころですね。
和田:「やばいですよね。デザイン関係の仕事に就ければとは思っていたので北澤さんに相談していたら、エスプリはクライアントが何を求めているか深彫りするタイプの会社で、それ楽しそうだなと。誰かと仕事するっていうのがあんまり得意じゃないから、いずれ独立したいと当時から思っていたので、そういう経験がどこかでできたらいいなって話していたら、『うち来れば』って突然言ってくれて、働くことが決まりました」
――和田さんとしては、相談している時点で実は入りたかった?
和田:「そうですね。その気持ちはあったけれど、夫婦でされている会社だし、そんな私が入る余地はないかなと思っていたので。募集もしていなかったし、期待はしていなかったです。
相当困っている私を汲んでくれて採用してくれたっていう感じですね。心の中では号泣していました」
仕事場の様子
――入社してどうでしたか。
和田:「入社前に『俺は厳しいよ!』ってさんざん言われたんです。でも厳しいの意味ってわからないじゃないですか、学生にとって」
――言いそう……
和田:「でもデザインの考え方とか、クライアントとの接し方から社会の情勢まで、本当にゼロから一つ一つ教えてもらって。仕事のテクニックだけじゃなく生き方を学ばせてもらっている気がします。
私は狭く物事を見がちなんですけれど、このことを考えるにはこっちから考えたほうがいいよとか、いつも勉強させてもらっている感じですね。本当に良かったです。厳しいことも大変なこともたくさんありますけど」
――いずれは独立するっていう気持ちは、今も変わっていないんですか。
和田:「はい。お世話になることが決まった時も、北澤さんから『2~3年後には独立できるようにするから』って言われています。今が2年目。そろそろ考えていかないと」
――もうすぐですね。北澤さんとしては、せっかく育てた新入社員が、すぐに出ていったら寂しくないですか。
北澤:「全然いいです。僕は身を立てるというのが大事だと思っていて。和田が独立しても、社員から発注受注の関係になるだけで。早く対等な関係になりたいと思っています」
北澤さんに送ってもらった写真
――珠洲での暮らしはどうですか。
和田:「うちの近くに畑を借りて、休みの日は友人と野菜を育てたり。近所のおじいちゃん、おばあちゃんが気に掛けてくれて、そこから近所の人と仲良くなりました。野菜も魚もいっぱいいただけますね。
会社は食事つきだし、食費はほとんどかかっていないです。楽しく暮らしていてストレスがなく、私としては東京に行かなくてよかったって思います」
――独立はやっぱり珠洲で?
和田:「珠洲が好きなので、独立してもこの街にいたいなと今のところは思っています。珠洲で出逢った人がいい人ばっかりで。珠洲にいる移住者も、元々いる人も、波長がすごく合う気がして。土地も人も。
もうすぐ両親が定年で退職するんですれど、二人でデザインの会社を立ち上げるとか言っているので、実家の広島でもリモートで働きながらとか」
そろそろラーメンを仕上げよう
最後にラーメンを食べながら、北澤さんと雑談っぽく聞いた話を紹介する。ほら、たまたま麺があったから。
――珠洲に移住、いや引越しして、現状はよかったですか?
北澤:「めちゃめちゃ楽しめる。めっちゃ楽しんでいますよ。引越してよかった。よかったなんてもんじゃないっすね。ちょーよかった」
――逆に辛かったこともありますか。
北澤:「毎日辛いですよ(楽しそうに)!」
――どっち!
北澤:「でも対外的な要因で、珠洲特有、田舎特有の鬱になることとかは、そんなにないですよ。どこでも一緒。東京に1400万人いれば、嫌なやつが14万人いる。珠洲に1万3000人いれば130人くらいいるっていう話なんですよ。ただその130人に会う機会が多いなっていうのはある」
――人を選びづらいっていうのはあるかも。人間関係とか組織の選択肢が少ないというか。
北澤:「狭いですよね。だれがどの車に乗っているってお互いわかっているから、どこにいるかが筒抜けだったり。でもやっぱり楽しいです、珠洲最高!」
ラーメンの隠し味はいしる
――今後の目標とかありますか。大きなことでも小さなことでも。
北澤:「もしかしたら近い将来かもしれないけれど、目標にしているのは珠洲―佐渡航路の再開発。船なり飛行艇なり、わかんないですけど、陸路以外の交通で人間の流動性を高めていくっていうところに貢献をしたくて。まずは佐渡への船を通したい」
――急に話が大きいですね。個人的にはすごく魅力的なルートだけど。
北澤:「でも1975年から三年間、珠洲―佐渡間をカーフェリーが定期運航がしていて、最近も期間限定だけど船が出ていたので不可能ではない。本音を言うと、もっと気軽に佐渡に行きたいだけ。
佐渡を経由して上越に帰るとか、いいじゃないですか。さらに粟島、飛島まで行けたり、北前船みたいに日本を回れたり。能登空港から佐渡空港に定期便があってもいいし……(以下略)」
そんな航路を誰が使うんだ、採算が合わないから廃路になったんだろと、冷静に否定をしたら話はおしまい。そこからどうやって妄想を広げて楽しむか。
もちろんすぐに実現はしない夢物語だけど、そういう話をいろんな人にすることで、なにかに繋がっていくことがあるのだろう。
まずは柚子を効かせた、いしり入りの猪ラーメン。生涯で一回しかつくれない贅沢なラーメンだな
一歩間違えると、変り者、ビッグマウス、熱血長髪髭男、変なおじさんといったレッテルが貼られそうなキャラクターだが、この熱さに乗ってこれる人と出逢うことが大切なのだと思う。知らないけど。
引越し先が珠洲じゃなくても、北澤さんは楽しめたのだと思う。そしてこのインタビューのように、僕は楽しんでいると声に出しているのだろう。その裏に辛いことがあったとしても。
人生を前向きに楽しんでいる人の周りには、似た雰囲気の人が集まってくる。北澤さんの周りにいる人は、なんだか波長の合う人が多かった。
二杯目は水で締めた麺に柚子の果汁を絡めて、つけ麺に仕上げてみた
奥能登の里山と里海が融合した素晴らしい味に仕上がったのでは
北澤さんは奥能登を遊びまわることで、ここでしかできない仕事を創り出している。
私は奥能登で食材を集め、ここでしか食べられないラーメンをつくることができた。
エビもカニもカキも食べられず、釣りもサーフィンもしない北澤さんがこれだけ楽しめているのだから、珠洲はとても良いところなのだと思う。
【いろんな街で捕まえて食べる】 過去の記事
著者:玉置 標本
趣味は食材の採取とそれを使った冒険スペクタクル料理。週に一度はなにかを捕まえて食べるようにしている。最近は古い家庭用製麺機を使った麺づくりが趣味。『育ちすぎたタケノコでメンマを作ってみた。 実はよく知らない植物を育てる・採る・食べる』(家の光協会)発売中。
Twitter:https://twitter.com/hyouhon