高円寺を離れた日の悲しみは今でも忘れられない。長野の田舎に生まれたラッパー・アフロが、憧れの街で追った夢【上京物語】


インタビューと文章: 榎並紀行(やじろべえ) 写真: 小野奈那子

「MOROHA」のラッパーとしてデビューし、近年では俳優としての活躍も目覚ましいアフロさん。「娯楽やカルチャーがなかった」という長野県の青木村で育ち、何もかもがうまくいかない鬱屈とした日々のなかで東京への憧れを募らせていきます。

地元を出てからも周囲となかなか打ち解けられず、孤独な日々。積もりに積もったモヤモヤを「叫び」に変え、ラッパーとして世に出たのは22歳の頃でした。

窮屈に感じていた田舎を飛び出し、マイク1本で東京での居場所を確立していったアフロさん。これまでの歩みを振り返るとともに、20代の“青春”を過ごした高円寺への強い思いを明かしてくれました。

「道」はあっても「ストリート」はない。音楽とファッションが、村から「脱出」する唯一の手段だった

── アフロさんの出身地は長野県の青木村。高校を卒業して上京するまで、18年間を過ごした地元はどんなところでしたか?

アフロさん(以下、敬称略):一言で言うと、娯楽のない村でした。

幼少期のアフロさん

小学生の頃の遊びといったら川で釣りをするか、家でゲームをするくらいしかなく、中学・高校と上がっていくにつれて地元に対して不満を抱くようになりました。

そうした不満の捌け口というか、今の環境から脱出する術みたいなものをずっと求めていたと思います。音楽やファッションもその一つで、村から少し離れたカラオケボックスに行ってラップの曲を歌ったり、ファッション雑誌を読んだりしていると、少しだけ脱出できているような気分になれました。

── 音楽の情報は、どうやって入手していたのでしょうか?

アフロ:俺が小中学生の頃は、今ほどネットで気軽に音楽を聴ける環境ではなかったので、実家から車で30分の場所にあるTSUTAYAのCDレンタルコーナーが、音楽への唯一の接点でした。

ただ、たぶん店員さんにあまり音楽の知識がなかったんでしょうね。そのお店では「LOUD(ラウド)」っていうコーナーにヒップホップもレゲエも、パンクもメロコアも、全てが一緒くたに並べられていました。

そうなると、こっちはジャケットでジャンルを推測するしかなくて。ヒップホップだと思って借りたらレゲエだったり、メロコアだと思って借りたらハードコアで、ひたすらシャウトが鳴り響いていたり……(笑)。

銀杏BOYZの峯田さんが当時やっていたGOING STEADYというバンドや、キングギドラ、Dragon Ash、ガガガSP、SNAIL RAMP、ブレイク前の湘南乃風、あとはSOBUTとかヌンチャクとかっていうハードコア・パンクバンドもそのコーナーで出会いました。今思えば、色んなジャンルが雑多に詰め込まれている感じが“学校“みたいで楽しかったですね。

── 限られた情報を手繰り寄せるようにして、カルチャーに触れていたと。

アフロ:さっき言ったファッション雑誌だって、最寄りのコンビニに一冊しか入荷しないから、かなり貴重な情報源なわけです。それを一人で熟読していましたね。雑誌に載っている、東京のストリートカルチャーにとにかく憧れていました。

でも、青木村にはそういう場所はないんです。「道」はあっても、おしゃれな「ストリート」はないし、夜のコンビニはヤンキーたちのたまり場だから俺らは近寄れない。そんな制限された環境のなかでいかにストリート気分を味わうか、みたいなことを当時は考えていたと思います。

「東京に行ければ何でもよかった」はずが……。憧れと現実の幕開け

── 後にMOROHAを組むことになるUKさんとは、高校時代に出会ったんですよね。

アフロ:高校は1学年約300人と長野県内では大きな学校でしたけど、音楽やファッションに興味があるヤツって1割もいなかったと思うんです。だから必然的に同じグループにギュッと集まりやすくて。UKも俺も、そのコミュニティの一人でした。

俺は田舎の中学出身ということもあって、「舐められたくない」という気持ちが強かったですね。それで、ことあるごとに英語の歌詞を口ずさんでいたんです。NICOITINE(ニコチン)っていうバンドの『BLACK FLYS』っていう曲。本当は歌詞もうろ覚えなんだけど、“英語の歌“を知っているやつは舐められないだろうと思って適当に歌っていました。

そしたら、斜め前にいたUKが振り向きざま「歌詞、全然違うけど」って言ってきて。俺も「何が?」と顔を真っ赤にしながら強がって(笑)。それがファーストコンタクトだったと思います。

── アフロさんからすると、わりと恥ずかしい出会い方ですね。

アフロ:そう。でも、この歌を知っているっていうことは結構な音楽好きというか、こいつもLOUDコーナーを攻めるタイプかと思って仲良くなりました。

当時、UKはバンドをやっていて、校内でも人気者。かたや、俺は野球部の補欠。東京の高校に通っていたら絶対に交わらないだろうけど、長野の高校では希少な音楽好き同士ということで友達になれたんだと思います。

── UKさんとはその頃から、「将来、東京に出て音楽をやろう」みたいな話をしていましたか?

アフロ:あいつはずっと「東京でバンドをやる」と言っていました。俺はその時はたぶん、美容師になると話していたんじゃないかな。他にやりたいことが何もなかったし、親父が美容師だったから、とりあえずそう言っていたんでしょうね。実際に、高校卒業後は美容師の専門学校に進みました。

当時は村を出て、東京に行ければ何でもよかったんですよ。それくらい、東京への憧れが強かった。中学・高校生になって音楽やファッションを好きになり、その最先端の場所に行きたいという気持ちも膨らんでいったし、あとは彼女もいない、色んなことがうまくいかない自分でも、東京に行けば何か変わるんじゃないかと安易に考えていたんだと思います。

── ただ、地元を出て最初に住んだのは東京ではなく千葉県の幕張本郷だったと。

アフロ:はい。俺はたぶん、当時の1987年4月から1988年3月生まれの同学年のなかで、最も東京に行きたかった人間だったと思うんですけど(笑)、実際に住んだのは千葉県でした。

これはもう、「東京の学校は授業料が高いから行かせられない」という親父の一声で仕方なく。仕方なくと言ったら幕張本郷に失礼だけど、それくらい東京への思いが強かったので。だから、当時は週末の度に渋谷へ遊びに行っていました。

「辛い過去があるから今がある」とは言いたくない

── 思春期の頃にヒップホップを好きになったということですが、自分でラップを始めたのはいつ頃ですか?

アフロ:18歳の時ですね。高校の野球部を引退して、ラップ好きの友達に誘われて始めました。ただ、当時は「やってもいない悪さ」を歌詞にするなど、単なるラップの真似事に過ぎなかったと思います。

本当に自分のことを歌詞にし始めたのは、高校卒業後、美容師の専門学校に通っていた19歳から20歳くらいの頃です。当時、同級生はほとんど実家暮らしで、勉強の合間に必死でバイトして家賃や生活費を稼いでいたのは俺くらい。

経済格差にモヤモヤしつつ、その後も色んなことがあって気付けば周囲と距離ができていました。今思えば、みんないいやつらだったし、俺が勝手に壁をつくっていただけなんだけど、その時は「俺はお前らとは違うんだ」と。孤高を気取って一人で過ごすようになった。ただの孤独を、“孤高“にすり替えないと立っていられなかったんでしょうね。

そこで芽生えた反骨精神みたいなものも、ラップに走った要因の一つだと思います。

── 表現というよりも、発散のための手段だったと。

アフロ:そうですね。だからその頃にSNSが普及していたら、ラップはやっていなかったかもしれない。適当に「周囲との経済格差きつい……」みたいなポストをして、「俺もそうだよ」みたいな返信をもらって。それで満足していたんじゃないかな。

── 振り返ると、選択肢の少なさを嘆いていた少年時代から、常に何かしらのモヤモヤを抱えていて、発散する場所や術を求めていたのでしょうか。

アフロ:それはあったかもしれないですね。そこそこの進学校だったけど成績は上がらないし、野球部で彼女がいないの俺だけだし、その野球ですらずっと補欠で。サードコーチャーとして誰よりも大声を出しながら、情けない気持ち、切ない思いはずっとありました。

ただね、「そんな挫折を味わったからこそ今がある」とは言いたくないんですよ。インタビュー記事を読んでいると、よく「辛い経験が自分を成長させてくれた」とか、「今では感謝している」とか言いがちじゃないですか。でも、俺は感謝などしてたまるか!と。

── きれいなストーリーを仕立てたところで、過去の辛さをなかったことにはできないと。

アフロ:そうそう。辛さから逃れようとする力がエネルギーになったことは事実だし、MOROHAで「逆境は最高の御馳走だ」(『革命』)と歌っていたりもする。それも本当のことだけど、できれば辛い経験をしたり、誰かに傷つけられたりしなくても頑張れたほうがいい。

例えば「ただただ楽しい」や「誰かが喜んでくれる」をエネルギーにできるなら、そのほうがいいじゃないですか。だから今は、前向きなパワーが逆境とか逃避する力を超えることを証明したいと思っています。

『佳代』に憧れた高円寺。レシートに歌詞を書いた、貧しくも最高の日々

── 美容師の専門学校を卒業した後は、どこに住みましたか?

アフロ:東京の高円寺です。GOING STEADYの『佳代』という曲に「真夜中の純情商店街」という歌詞があるんですが、俺はてっきり峯田さんが創作した架空の商店街だと思っていたんです。でも、高円寺に実在すると知って、そこから街のことを調べたら古着屋が多くカルチャーのにおいもする。もう絶対ここに住みたいと思いました。

高円寺駅北口周辺

── 実際に住んでみて、期待通りの街でしたか?

アフロ:高円寺は最高でしたよ。若者が駅前で歌っていたり、変なパフォーマンスをしていたり、大人は大人で昼間から酔い潰れていたり。各々が好き勝手なことをしているんだけど、それを放置してくれるというか、「まあ、高円寺だしな」みたいな感じで許されてしまう。そんな空気感が心地よかったですね。

当時はお金がなくて高円寺にある安い飲み屋にすら行けなかったけど、毎日楽しく過ごしていました。買えないけど古着屋を巡ったり、西友の惣菜コーナーに張り付いて割引シールが貼られるのをじっと待ったり。同じように金がない若手芸人の友達と、29日にカルビが半額になる焼肉屋へ行ったり。

お金がないので、歌詞を書くことくらいしかやることがなく、漫画喫茶に入って音楽を聴きながら書いたり、バイト先のバックヤードだったりどこでも書いてましたね。ノートがないときはレシートの裏だったり。

貧乏っていう状況すら、逆に楽しめてしまえるような日々だったし、街だったと思います。

── MOROHAを組んで活動を始め、駆け上がっていく時期を過ごした街でもありますよね。

アフロ:そう。物販のグッズをキャリーケースに入れてライブハウスまで引いて歩いたのも、始発で地方に行く時に、早朝のパル商店街の坂道を上ったのも思い出深いです。

「これから俺は、歌の仕事で地方に出かけるんだ」という、どこか誇らしい気持ちで中央線に乗り、新宿の高速バス乗り場で相方と合流して8時間かけて関西に行って、30分ライブしてまた深夜バスで帰ってくる。アパートで泥のように眠り、夜からまたバイトに出かけて……みたいな、慌ただしかったけど充実の日々でした。

あの街ではうれしいことも悲しいこともたくさん経験したけど、なかでも音楽だけで生活できるようになってバイトを辞めた日と、曽我部恵一さんから「ファーストアルバムをうちから出さないか?」と言われた日のことは今でも忘れられません。

アパートの天井を見ながら、ニヤニヤが止まらなかった。これから何かすごいことが始まるんじゃないかという予感がありましたね。

20代は背伸びをしてでも、「憧れの街」に住んだほうがいい

── 高円寺には何年くらい住みましたか?

アフロ:8年くらいですかね。本当はずっと住みたかったけど、28歳の時に彼女と同棲することになり、事情があって別の街に引越さざるを得なくなりました。高円寺のアパートを出る時は、実家を出る時の比ではないくらい悲しかったのを覚えています。

引越すといったって同じ都内だし、来ようと思えばいつでも来ることはできるけど、そういうことじゃなくて。高円寺っていう街は、空気が抜けたらしぼんでしまう風船みたいに、一度そこを出てしまったらなかなか戻れなくなる雰囲気があったんですよね。

何年後かにもう一度住んだとしても、あの頃とは違うというか、自分の居場所はないような気がしてしまうだろうなと。

実際、今もたまに高円寺でライブをするんですけど、駅前の弾き語りの歌も聴こえているようで聴こえていないし、あの頃のように夕日を見て黄昏れることもなくて。切ないけど、仕方ないですね。

── 高円寺愛が強過ぎるからこそ、おいそれとまた住む気にはなれない。難しいですね。

アフロ:でも、若い頃に憧れの街に住めたことは、本当によかったですよ。だから、昔の俺のように地方から上京してくる若い人も、最初の街選びは大事じゃないかな。職場や学校に近いこと、家賃の安さもポイントかもしれないけど、「その街から自分がどんな影響を受けたいか」という視点も必要だと思います。

東京の名物って「人」だと思うから、その街にどんな人が住んでいて、自分にどんな影響を与えてくれるかを考えてみる。そして、ここだと思える街が見つかったら、多少の無理や背伸びをしてでも住んでみる。20代の街選びこそ、妥協はしないほうがいいと思いますよ。

お話を伺った人:アフロ

1988年生まれ、長野県小県郡青木村出身のラッパー。2008年に高校の同級生だったギタリストのUKとMOROHAを結成し、2024年12月に活動を休止した。俳優としては映画「さよなら ほやマン」に主演し、「第78回毎日映画コンクール」でスポニチグランプリ新人賞を受賞。2025年12月に自主企画ライブ「再就職」を開催する。著書に「俺のがヤバイ」、2025年6月にエッセー集「東京失格」(実業之日本社)を上梓。

聞き手:榎並紀行(やじろべえ)(えなみ のりゆき)

榎並紀行さん

編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。「SUUMO」をはじめとする住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。
X(旧Twitter): @noriyukienami
WEBサイト: 50歳までにしたい100のコト

編集:はてな編集部
撮影:関口佳代