著者: 飯塚政博
「お前ら、仮面家族みたいだな。」
痛い一言だった。
駒沢で友人2人と一軒家のシェアハウスを始めたばかりの2020年初頭。
それぞれの友人を招き、家の屋上を開放して餅つき大会を開催した。
本格的な餅つきセットをレンタルし、臼や杵の生の重さに感動してみたり、珍味を餅に添えてみたり、クールポコ。の真似事をしたりなどして、餅であそべ得るだいたい全部を一巡したところで、ひとりの参加者から冒頭のフレーズを言われたのだ。
曰く、お前らはみんなでいるときは自然に盛り上がってるけれど、同居人3人だけのとき喋らなすぎじゃね? ということらしい。喉を通過中だった餅とともに絶句した。
腹が立ったからではない。図星だったからだ。
慌てて水で餅を胃に流し込みながら、何言ってんだよ、とまったく気の利いてないツッコミを入れたが、心中は穏やかではなかった。結局その一言は、『人間失格』における「ワザ。ワザ」並みの破壊力をもって、餅つき大会終了まで、私の胸に沈殿し続けた。
仮面家族か。言い得て妙である。事実、我々は生活こそ共にしているが、いわゆる一般的にイメージされるシェアハウスの華やかさとは無縁の静かさの中で暮らしている。
とにかく、無言なのである。3人でそろって飯を食ったのは入居初日の大晦日の年越し蕎麦だけだし、階段やリビングですれ違うときの挨拶も、当初は「ういっす」だったのが「っす」に変わり、今では原型が崩れきって、言葉なのか吐息なのか判別不可能な“音のふるえ”で交信するに至っている。ほとんど野生動物のそれである。
しかし、だ。
では、我々がその暮らしを後ろ暗く思っているかと問われれば、はっきりとNOなのである。むしろ、その逆。最高の暮らしをしていると思っている(無論、同居人の本心までは知りようがないが...)。私は、この静けさと自由な距離感を愛している。どんなに仮面家族のようだと揶揄されても。
そして、この限りなく静かで奇妙な暮らしと、駒沢という街は無関係ではない。駒沢には、自由な距離感を奨励する“街のムード”がある。
三軒茶屋と二子玉川という主要駅に挟まれ、少し歩けば、自由が丘にも隣接するホットエリアに位置しながらも、人々を強烈に惹きつける象徴や名物には決して恵まれていないこの街では、どこまでも住民それぞれの生活こそが主役である。そうした不文律が、この街にはたしかに流れている。
誰かがバズらせた人気店の過剰な誘惑や、街から提示される定型の暮らし像、住民それ自体にべちゃと貼り付けられる架空のイメージ(○○族とか○○男子とか)が存在しない分、暮らしのデザイン権の裁量が大きく、目配せの交差がないのが心地良い。あるいは街構造的にも、やたら図体の大きな商業施設や高層マンションの類が少なく、街に見下ろされているという感覚がないのも、駒沢の風通しの良さを下支えしているだろう。
ひとたび駒沢公園に寄ってみるといい。駒沢で暮らす人々の、その謳歌の様がありありと見て取れる。
すべての人に開かれた413,573㎡の広大な敷地で、部活練に励む学生が、愛犬と共に早朝のジョグを楽しむランナーが、紅葉のいちいちに目を奪われている牛歩の老夫婦が、まだ酒の味も知らないであろう未来のスケボーヒーローが、AirPodsぶっさして昨晩のTBSラジオJUNKでも聞いてるのであろうニヤニヤ顔の青年が、同じ時間を、わずかな気遣いと最大の自由のもとで、分かち合っている。無数の異なる事情が、矛盾も分断もなく同時にそこにある状態を多様性と呼ぶなら、この公園には、それが具体的な手触りと共に、ある。
こと私にとっても、とりわけコロナ渦初期、駒沢公園の存在は大きかった。
ただでさえ仮面状態のシェアハウス内に加え(驚くことに第一回緊急事態宣言下の自宅ですら我々は無言を貫いた)、自身の音楽活動もほとんど中断してしまい、他人とのまともな接点を失うなか、公園にいけば物理的に人間がいて、自分とはまったく違うリズムで生きていることを確認できたのは精神の安定をもたらした。
今でも、週3日は必ず駒沢公園に足を運ぶ。「あとで聴く」に溜めておいたPodcastやラジオを片っ端から聞きながら走る時間がたまらなく好きなのだ。個人的な見解だが、走りながら音声コンテンツを聴くと、よりダイレクトに話者と繋がれる感覚があり、彼らの話している内容もビビットに体の中に浸透してゆく気がしている。だから、情報インプット系の音声コンテンツなら走りながらの方が吸収効率は上がる。余談だが、音声コンテンツが本格的に生活に定着するといわれて久しいけれど、コロナ以降のランニングブームという極太な文脈と合致すれば、2021年あるいは本当に音声コンテンツ全盛時代がくるかもしれない。
余談ついでにだが、私がよく聴く番組は、Podcastなら『こんにちは未来』や『Off Topic』。ラジオなら『問わず語りの神田伯山』『オードリーのANN』は欠かせない。毎週のルーティンの中に楽しみな番組があるのは幸福なことであり、パーソナリティや配信主たちには毎日の活力をいただいている。
駒沢公園を走り終えたあとは、駒沢通り沿いのメキシカンブリトー屋の「SOLMEX」に行くのが鉄板となりつつある。近ごろ、公園の周囲にはランナーの食生活傾向に合わせてかサラダ屋やフレッシュジュース屋が目立ってきているが、私には関係のない世界である。欲望の向くままにたっぷりのソースとともに肉を食らうのが私の性には合っている。せっかく走ったなら飯も健康志向でと考えるのか、逆に消費カロリーの埋め合わせを、と考えるのかも駒沢では個人の裁量次第なのだ。無理に街の空気やスタイルに染まる必要はどこにもない。どんな生き方も自由にデザインできるのだ。
そんな駒沢に居を構える我々のシェアハウスは、契約上来年の退去が決まっている。
つまり、仮面同居人とも、もうじき解散である。
仮面といえど、同じ屋根の下で暮らしていれば、それなりに大きな出来事があったし、それはこれからも退去当日まであり続けるだろう。例えば去年は、同居人のひとりがコロナ渦に発明したオンライン演劇でひと山当て、巨財をなした(らしい)。世界中の誰もが部屋に引きこもらざるを得なかった状況を尻目に、わずか60cm離れた隣室で、ひとり華麗な羽化を遂げる彼をそばでみれて私は嬉しかった。しかし、シェアハウスらしく同居人の祝い事はみんなで華美に、なんてありきたりなことはしない。公演の千秋楽に、324円のシルベーヌをそっと部屋の扉の前に差し入れするだけでいい。それだけで十分なのである。それが我々なりの幸福な距離感なのだ。これを仮面だなんて、誰に嘲笑する権利があろうか。むしろ、遠くで孫を想う祖父母のごとき慈愛すら感じてこないだろうか。
最後に。
ディスタンスという言葉が歴史上最も跋扈した2020年は、物理のみならず精神的な人間同士の距離感だって、もっと自由に編み替えていけることに全員が気づいた1年でもあった。無理に付き合う必要のない人間同士が、存在は目視で尊重しあいながらも、各自の人生を機嫌よく済ませてゆくことができたらどれほど快適か。接続過剰の呪縛から解放され、より自分最適された生活を志向する時代はすでにはじまっている。そんな時代の中、誰のことを排除も束縛もしない駒沢で、人生のハンドルを握り直すのは悪くないだろう。
著者:飯塚政博
編集:ツドイ