池ノ上。心の輪郭にはまった私のための東京。

著者:  出川 光 

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今でも、池ノ上に引越して2日目の夜のことを思い出す。1日目はコンビニ弁当を引越しの段ボールに囲まれながら食べた。荷ほどきを終えて2日目にやったこと、それが直感で決めたこの街一番のバーの扉をひとりで開けることだった。

というか、初めてこの街を訪れたときからもう開けるべきドアを決めていた。くる人を試すようなその佇まい。唯一の窓からもほとんど中の様子をうかがうこともできないけれど、入り口に置かれたメニューには親しみやすい家庭料理がならぶ。木製の重いドアを勢いよく開けたその時、池ノ上は私の街になったのだ。

わかりやすく言えば下北沢の隣。曖昧に言うなら池尻大橋からちょっと入ったところ。はぐらかすなら代々木上原あたり。便利な立地にありながら東京大学と下北沢というアイコニックな場所に挟まれてメジャーになりきらない池ノ上の名前を、あまり人に言ったことはなかった。この小さな街に、誰にも引越してきて欲しくなかったから。なのでこの記事を読んだ人は読んだ後にさっぱりこの話を忘れて欲しい。

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「トレンディドラマの東京」に憧れて

それまで住んでいた街は経堂だった。友達が住んでいて、おいしい洋食屋さんやちょっと有名なパン屋さんがあって、100円ショップからLOFTにいたるまで生活に必要なものはなんでもあった。社会人や学生の一人暮らしはもちろん、家族で住んでいる人も多い街で、朝になると駅を目指す会社づとめの群れと農大に向かう学生たちが商店街で一斉にすれ違う。通勤時間帯は急行も止まるし、帰宅時間をみはからってスーパーのお惣菜コーナーに充実の品物がならぶ。週休二日で朝から夕方まで働くことに最適化された街が、大きな会社のサラリーマンだった私にとって心地よかった。

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その経堂を出ていこうとする私は、そういう生活を捨ててフリーランスになりたての31歳。「次が最後のひとり暮らしかも」、というのは毎度淡く抱いては裏切られ続けている期待だが、今回もそれを免罪符に守りなしの引越しをすることを決めていた。仕事もやめたことだし、どうにかなるだろうという気分の高まりで思い描いた引越し先の街はこんなかんじだ。

経堂よりも都心に近い駅にすること。本屋があること、作業ができそうな喫茶店があること。できれば商店街があること。あとはバストイレは一緒でもいいやと腹をくくっていて、部屋は狭くてもよかった。そういう条件の背後に思い描いていたのは、いつか見たトレンディドラマみたいな東京だった。ちなみにこのイメージは友人たちに散々馬鹿にされ続けている。

トレンディドラマみたいな東京についてちょっと聞いて欲しい。私の友人たち同様なにそれ、と思われるかもしれないけれどまぁそれでもいい。

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まず私が生まれ育った半蔵門でないことは確かだ。東京のど真ん中なのにどこか人けのないオフィス街はなんだか自分のものではない感じがして、燦然と輝くテレビの画面に映るテレビドラマの街とは違っていた。もっと主人公を受け止める居心地の良さに溢れていて、飾らないのにおしゃれな東京。大人になったらこんな街に住むんだと、私が決めた「トレンディドラマの東京」は、こんな感じだ。

渋谷や表参道に自転車で行けて、家の近くにはバーや中華屋がある。東京タワーなんかが見える都会で仕事をすませたら、地元のカフェで夜中に友達と話し込んだり、小さなバーで家庭的なものを食べたい。家の近くにあるのはスーパーじゃなくて八百屋さん、ブックオフじゃなくて古本屋。都会のど真ん中のテンションと風情に振れ幅をもった居心地のいい雰囲気。できればこっそり侵入できる屋上も欲しい。ネオンの下にバスケットゴールが置いてあるあれだ。

けれどそれは架空の場所で、自分の中のイメージも掴みどころのない漠然としたものだった。代々木上原でも恵比寿でも中目黒でもなさそうで、見つかる気配すらなかった。

渋谷まで乗って6分のレトロな街並み

豪徳寺、梅ヶ丘、笹塚、うーん。慣れている小田急線を起点にして、SUUMOの地図にマルをつけてはああでもないこうでもないと思いを巡らせながら過ごしていた。あるときなんとなしに井の頭線の窓から見えた街並みにたまげた。公園、畳屋さん、昭和のような街並み。乗り過ごした?違うのか。思わず降りたのが、池ノ上だった。何かあるような気がした。

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駅に降り立つと昔の下北沢を思い出させるむきだしのプラットホームに親近感を覚える。駅前にはコンビニがあるくらいで、チェーン店がひとつもなかった。下北沢の隣だというのに、おじいちゃんおばあちゃんがのんびり歩いている。驚くほど静かで鳥の声まで聞こえた。

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タイムスリップしたかのように全てがレトロだ。小さな古本屋、マネの「フォリー=ベルジェールのバー」みたいな鏡がある喫茶店、どのご飯どころもこじんまりとしている。

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昔からこのあたりに住んでいるのだろうとわかる古めかしい構えの一軒家が多く、思い思いに庭に施している手入れが好きだった。アロエや、つたの葉、ゆず、紅葉。見上げれば商店街のライトがこれまで住んでいたどこよりも洒落ていた。

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布団屋さん、畳屋さん、着物屋さん。「屋さん」で呼べる店が商店街にまだまだあった。時間が止まったような街に紛れ込んだような不思議な時間だった。池ノ上という地名だけあって、路地裏からは下り坂の坂道を見下ろせて、その先に下北沢や代々木上原が見える。そしてくだんのバーを見つけた。完璧だった。

下北沢、代々木上原、東北沢を気分で巡る

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勢いで引越しするのにぴったりな敷金礼金ゼロのワンルームに飛び込んだ。なりたてフリーランスの心許なさを支えたのは人生初の浴室乾燥機でもなく新調した小さな植物でもなく、この街そのものと、その絶妙なロケーションだった。

京王井の頭線の池ノ上駅のほかに徒歩圏内の駅がいくつかあった。下北沢、東北沢、ちょっと歩いて代々木上原。

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世界でたったひとりだけ家で仕事をしているような孤独に襲われそうになったら、ふらり下北沢へ。レコード屋や古本屋をのぞいたりのぞかなかったりしながら適当に歩く。ファーストキッチンの電源席かトロワ・シャンブルにいけば誰かしらが何か書いている。真昼間でも夜中2時でもちょっとしたはぐれ者とすれ違える。ビラを配っている劇団員、ユニクロのエスカレーターから見かける裸で乾布摩擦してるおじさん、ビレバン前のうどん屋にいるミュージシャンたち。目印にしている人たちとすれ違うだけでまぁなんとかなるかという気持ちになってくる。

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表参道に借りたシェアオフィスからいかにも仕事ができる女という気分で帰ってくる時は東北沢から。わたしの乗る時間は律儀に空いてくれている千代田線に揺られて降り立つ東北沢駅は新築マンション並に新しく、キリリとしている。整然とした清潔な駅の横についているカフェで仕事をまとめるのもまた一興。駅の前にひっそりと建つローソンで、小さいキムチを買って誰にも会わずに家路につくことに助けられる日もあった。

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深夜にコーヒーを飲みに行くなら代々木上原へ。スタイリッシュな建物がたちならぶ坂道を降りていき、沿線に住んでいる友人たちとおきまりのカフェでだらだら遅い夕飯を食べる。来年仕事はあるだろうか、こんな毎日を送っていていいんだろうか、同世代のみんなに遅れてないか。意味のないそういう不安は、かつて背伸びしないと入れなかったこのカフェでだらだらすることでまったりと溶けていく。

その日の気分や仕事の具合によって会いたい友達に連絡をとるように足を向けるエリアを選んだ。ムードが異なる街に囲まれていていつでもいつでもアクセスできることが、心もとない気持ちのよりどころになった。

心の輪郭にはまる街に住んで働く

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そしてとっておきが、今池ノ上に入ったな、とわかるとき。駅から商店街に降り立ったときや、下北沢のスズナリあたりから坂道を上がっていくと急に住宅街が現れて、しんと静かになる瞬間だ。

さんざん憧れたあの東京を、どうやら見つけたらしい。帰ってくるだけで心の輪郭にはまる、居場所だと思える街に住んでいる。周辺にあるにぎやかな街で気持ちを持ち上げて働いては、池ノ上で眠る。居場所だと思える街に住むことだけではなく、そこで写真を撮って、原稿を書き生きていけていることが、探していたトレンディドラマの東京にはまる最後のピースだった。

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「おまちどさん」

思い切ってバーのドアをあけた私を待っていたのは常連さんの温かく、ほのかな驚きが混じった乾杯の洗礼だった。このバーの秘密を次々常連客が耳打ちしてくれる。それで、こうちゃん、何食べる。カウンターの中でママが笑っている。隣に座った人懐っこいお姉さんがほらほらと指す小さなホワイトボードのメニューにはおいしそうな家庭料理の数々。また耳打ちされる。

「最初に食べるならオムライスかナポリタンでしょ」

その声に導かれて注文し、しばらくして目の前にドンと置かれた堂々たるナポリタン。おいしいよ、と奥に座った常連客が目配せしている。引越しの疲れを飲み込むように口いっぱいに放り込む。ソーセージ、ケチャップの味、ゆるめの目玉焼きとパスタが絡まった味が私の心を歓待するように味覚を甘やかす。おかえりおかえりおかえり。そうしてここが私の街、私の東京になった。

著者:出川 光(でがわ・こう)

出川 光

フリーのライター、カメラマン。1987年東京都生まれ。 hey社のメディア、LUNA SEAの会報誌、LIFFT journalなどで撮ったり書いたりしている。2019年に単著『クラウドファンディングストーリーズ』(青幻舎)を出版。現在は猫がたくさんいる街に住んでいます。 Twitter

編集:ツドイ