住まい探しの条件はただ一つ「練習場に近いこと」。うまくなるために故郷を離れ、目標とともに住む街が変わった/プロ体操選手・内村航平さん

インタビューと文章: 榎並紀行(やじろべえ) 写真:松倉広治 

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プロ体操選手の内村航平さん。世界体操競技選手権において個人総合での世界最多の6連覇を含む21個のメダルを獲得してきた。鉄棒一本に絞った2020年の全日本選手権では世界最高得点をマークし優勝するなど、30歳を過ぎてなおトップに君臨し続けている。

体操を始めたのは3歳のころ。長崎県諫早(いさはや)市の自宅兼体操クラブで、夢中になって技を覚えた。中学卒業後には「もっとうまくなりたい」と、単身で東京の名門体操クラブへ。
以来、大学、社会人、プロとステージが変わるたびさまざまな街へ移り住んだが、街を選ぶ条件はいつも変わらず「練習場が近く、いつでも体操ができること」。

住みたい街を探すのではなく、目的や夢のために街を選ぶ。

内村さんが暮らした街の記憶をたどりつつ、その歩みを振り返る。

山の頂上にあった小学校。毎日の通学が探検だった

―― 内村さんが3歳から15歳まで暮らしたのが長崎県の諫早市。どんな風景が印象に残っていますか?

内村航平さん(以下、内村):長崎は海のイメージがあると思いますが、僕が思い出すのは山の風景です。通っていた小学校も山のほぼ頂上にありました。登校が登り坂で、下校が下り坂。下り坂というか、もはや崖のような道もありましたね。正規の通学路じゃないんですけど、そういうところを通りたがる子どもでした。日によって違う道を通って、新しいルートを開拓するのが楽しかったんだと思います。

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―― 通学自体が探検といった感じですか?

内村:はい。本当に“山道”という感じで、いろんな動物にも遭遇しましたね。ウリ坊やイタチ、モグラも見たかな。それと虫。セミが好きで、めちゃくちゃ捕まえていました。

近所には他にもコンクリートのトンネルがあったり、防空壕があったりして、よく寄り道をして探検していました。小学生のころ、防空壕に妖精が出るという噂が立って、みんなで頻繁に行きましたね。実際に妖精を見たやつは誰もいませんでしたが。

―― おばけとかではなく妖精というのがかわいいですね(笑)。体操を始めたのはいつですか?

内村:ハッキリとは覚えていませんが、僕が3歳のときに両親が体操クラブを始めて、そのころには自宅に併設された体育館に入り浸っていたと思います。友達と遊ぶのは週1回あるかないかで、学校から帰ったらずっと練習。だから、通学路での思い出以外はほとんど体操のことしか記憶に残っていません。

―― 内村少年にとっては、体操こそが一番楽しい「遊び」だったのでしょうか?

内村:そうですね。技をひとつずつ覚えるのがうれしくて、ただただ楽しく体操をやっていましたね。コーチでもあった両親からは「やめたかったら、いつでもやめていいぞ」と言われていましたが、いつでもすぐに練習できる最高の環境があるのに、やめるわけないだろって思っていました。

「もっとうまくなりたい」と、15歳で単身上京

―― 上達していくにつれ、体操への向き合い方は変わりましたか?

内村:年齢とともにうまくなりたい、強くなりたいという気持ちは高まっていきました。夜遅くまで体育館にいて、家はご飯を食べて寝る場所という感じでしたね。親には危ないから1人ではやるなと言われていたけど、練習は休みの日も勝手にやっていましたし、疲れ果ててマットの上でよく寝ていました。家のベッドより、不思議と心地よく眠れたんです。

―― 当時から体操が生活の全てだったんですね。

内村:練習だけでなく、日常の行動全てを体操に結びつけていたように思います。例えば、中学から自転車通学になったときも、どんなにきつい坂道でも絶対に足をつかずに登り切ることを自分に課してみたり。実際、自宅前に曲がりながら登っていくような急坂があるんですけど、1回も足をついたことはないですね。負けず嫌いというのもありますが、これを耐えれば強くなれるみたいな気持ちもあったと思います。

―― 「坂の町」とも呼ばれる長崎で鍛えた足腰が、まさに体操選手としての土台になっていると。そうした鍛錬の甲斐もあり、大会での結果も伴うようになっていったのでしょうか?

内村:中学2年生くらいで全国大会に出たいと思うようになり、翌年に初めて行くことができました。ただ、そこで同年代のトップ選手のレベルに衝撃を受けたんです。もう、みんなうますぎて、こういう人たちが世界体操競技選手権とかに出るんだろうなと思いました。あまりの差に自分が世界で活躍できるイメージはなかなか持てませんでしたが、一方で追いついてみたいという気持ちも芽生えましたね。

―― 中学卒業後には上京し、体操クラブの門を叩いています。

内村:このまま自宅の体育館で練習していても、強くなれないんじゃないかと思いました。それで、当時の日本のトップだった選手がいる東京の体操クラブに入りたいと思うようになったんです。じつはこの体操クラブには親のつながりがあって、5歳のころから年に1回くらい上京して練習させてもらう機会があったんです。行くたびに、「毎日こんな環境で練習できたら」という気持ちは強くなっていきましたね。

―― ただ、15歳が東京で一人暮らしとなると、ご両親は反対されますよね?

内村:はっきりとは覚えていませんが、かなり反対されたと思います。「一人暮らしなんて無理だろ、しかも東京でなんて」と。僕も一歩も引かず、「行けばなんとかなるでしょ」の一点張り(笑)。半年くらいかけて説得しましたね。両親は僕の頑固な性格を知っているし、子どもの気持ちを尊重してあげたいという思いもあったのか、最終的には認めてくれました。

ただ、自分も親になった今なら分かりますけど、そりゃあ心配ですよね。僕だって、もし娘が「中学卒業したら東京に行きたい」なんて言い出したら、猛反対しますもん。

東京は“異世界”だった。戸惑いつつも、ひたすら体操に明け暮れる日々

―― 上京後、驚かれたことは何でしょうか?

内村:何もかもが驚きでした。いや、驚きを超えて、最初は意味が分からなかったです。原宿や渋谷には人が毎日あふれていて、常にお祭りをやっているのかと思いました。ビルの高さにも焦って、いつも上を見上げていましたね。同じ日本なのに、異世界に来たみたいな感覚でしたよ。上京から15年経った今もその感覚は少し残っているというか、東京に完全には慣れていないところがあります。特に人の多さ、めまぐるしく移り変わる時間の早さが、なんとなく落ち着かないんです。

―― 上京当時は電車通学も苦痛だったとか。

内村:満員電車に乗っていると「わーっ!」って叫びたくなるくらい嫌でしたね。高校1年生のころはクラブの体育館がある千歳烏山に住んでいて、そこから水道橋にある高校まで通学していました。乗り換えも当時の僕にとっては複雑すぎて、全然覚えられなかった。距離的にはさほど遠くないのに、入学から最初の2週間は毎日遅刻していて、毎日泣きそうになっていましたね。今思えば新宿で乗り換えるだけなので簡単ですけど、「崖の通学路」からいきなりハイテクになったので混乱しました。

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取材ではかつて住んだ街、千歳烏山へ

―― 逆に、東京の楽しさを感じることはなかったですか?

内村:もちろんありましたよ。体操クラブの仲間と、たまに吉祥寺や下北沢に行きました。ボウリングやカラオケをするのも初めてだったし、高校1年生で焼肉チェーン店に行ったときは「こんな天国みたいな店があるのか!」と感動したのを覚えています。食べたいものも欲しいものも、なんでも近くにあって「夢の街だ!」と思いましたよ。

―― それでも遊びにハマることはなく、むしろ、さらに体操に没頭していったそうですね。

内村:そうですね。高校の3年間も、ずっと体操をしていた記憶ばかり残っています。学校が終わったら制服のまま体育館に直行し、夜の10時まで練習。土日は朝から練習でした。東京に来たのは強くなるためで、遊ぶためじゃない。それに、やっぱり体操が一番の遊びでしたからね。多分、それはこの先も一生変わらないと思います。

―― 子どものころ、実家の体育館で楽しく遊んでいた感覚が、ずっと残り続けているのでしょうか?

内村:もちろん、レベルが上がれば辛いことも増えていきます。今や楽しいことは1割しかなく、その1割のために9割我慢しているようなところもあります。ただ、おっしゃる通り子どものころに体育館で遊んでいた記憶だけはずっと残っていて、それがあるから続けられているのだと思います。

―― 練習場に近い家を選んだのも、体操漬けの日々を送るためですか?

内村:はい。高校時代に住んだ家は全て体操クラブの先生が探してくれましたが、僕の希望条件は「体育館に近く、すぐ練習に行けること」だけです。周辺環境も家の設備も気にせず、とりあえず暮らせればいいやと思っていました。高校1年のときは「千歳烏山」、2年で「三鷹台」、3年で「井の頭公園」と、1年ごとに家が変わっているんですけど、全て先生に言われるがまま引越しましたからね。

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高校3年生を過ごした、井の頭公園

―― 今回、高校時代を過ごした千歳烏山や井の頭公園を久しぶりに歩いていいただきましたが、いかがですか?

内村:そのころは特に気にしていなかったけど、今振り返ると、どの街もすごくいい環境でした。特に高3のときの家は井の頭公園から徒歩20秒くらいでしたから。家の目の前が、広場みたいなところでしたね。吉祥寺駅にも歩いて行ける距離で、とても便利でした。当時は「なんでこんな線路の近くなんだろう」くらいに思ってたけど、じつは生活環境としてもかなり恵まれていたんですね。

―― そんな体操に没頭できる環境を得て、大会でもメキメキと頭角を現していきます。「世界」を意識するようになったのも、このころからでしょうか?

内村:高校3年のときに全国優勝し、シニアのナショナルチームに選ばれました。中学生までは世界なんて全く考えられなかったけど、「結果」が世界で活躍したいという気持ちにさせてくれました。日体大に進んでからは、さらに命懸けで体操に臨むようになり、他は全て捨てて没頭するようになりました。

のんびりした草加の空気が、気持ちをほぐしてくれた

―― 大学時代は学生寮ということですが、社会人になり、初めて自分で家を探したそうですね。ここでいったん東京を離れ、埼玉県の草加市へ移り住んでいます。

内村:所属先の社会人体操競技部の体育館が草加市にあったので、すぐ練習に行ける場所を第一条件に探しました。というか、僕の家探しの条件はずっとそれしかないんですよね。体育館まで車で15分以上かかるところは絶対に嫌です。移動している間に練習に臨む集中力が切れてしまいそうなので。ただ、高校のときもそうでしたが、結果的にどの街も暮らしやすかったと感じています。

―― では、2011年から6年間を過ごした草加はいかがでしたか?

内村:これまで住んできた街のなかで一番といっていいくらい、居心地がよかったです。東京に比べ、時間がゆっくり流れているような感覚がありました。地元の人たちの距離感も、ちょうどよかったように思います。

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獨協大学前〈草加松原〉駅周辺

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綾瀬川沿いの松林

―― 当時はすでにメダリストで、日本中に顔と名前が知れ渡っている状況でした。有名になったことで生活しづらくなるようなことはなかったですか?

内村:特に支障はなかったですね。街の人は僕が草加に住んでいることを知っていましたし、近くのコンビニやスーパーに行くと「あ、内村航平だ」と気づかれました。でも、そこで過剰にグイグイくるわけでもなく、かといって無関心なわけでもない。「これから練習ですか?」「がんばってね」と温かい言葉をかけてくれるので、すごく励みになりましたよ。

―― 住む街が変わり、同時期に結婚もされました。その後お子さんも生まれるなど、草加時代は人生の転機となるような出来事も多かったと思います。ライフステージがシフトしたことで、競技に対する心境の変化などはありましたか?

内村:いい意味で、体操に対して「適当」に考えられるようになりましたね。それまでは考えすぎていたというか、神経質なくらい体操に全てを注ぎ込みすぎていました。全ての行動や時間を体操に結びつけないと、強くなれないんじゃないかって。

2012年には金メダルはとれたものの、僕のなかではもっとやれただろうという歯痒さがあった。それで、あまり考えすぎるのもよくないんじゃないかと思えるようになったんです。

―― 具体的には何を変えたのでしょうか?

内村:練習をしているとき以外は、体操のことを一切考えずにいられるようになりました。同じくらいのタイミングで結婚して子どもが生まれたこともあって、普段の過ごし方も変わりましたね。家族で越谷レイクタウンに行って1日過ごしたり、子どもに絵本を読むなどして、自然と気持ちを切り替えられるようになったと思います。あとはやはり、草加ののんびりした空気も気持ちをほぐしてくれましたね。

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越谷レイクタウン駅

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大相模調節池

将来どこで暮らすとしても、地元・諫早への思いは持ち続けたい

―― 2017年に草加を離れ、現在はまた東京で暮らしているそうですね。

内村:プロに転向してから、ナショナルトレーニングセンターの近くへ引越しました。最寄りの駅は伏せますが、赤羽の近辺です。赤羽に近いわりに人はあまり多くないし、平和に暮らせています。相変わらず体操中心の生活ですが、公園も近くにあって適度にリラックスできる環境です。

―― 現在の住まいも含め、これまでは全て体操を基準に街を選んできた内村さんですが、いつか競技を離れたときに住んでみたい街はありますか?

内村:それが、全くイメージできないんですよね。競技を離れたら体育館の近くに住む必要はない。でも、そうすると基準がなくなるから逆にどこに住めばいいか全く分かりません。思い切って東京のド真ん中に住んでみるのもアリかもしれないけど……やっぱり合わないでしょうね。となると、やっぱり草加ですかね。

―― では、日本に限らず、これまでに訪れた海外の街で、いいと思った場所はありますか?

内村:3年前に合宿で訪れたオーストラリアのブリスベンですね。それまでにも世界中のさまざまな国へ行きましたが、住みたいと思ったのはブリスベンが初めてです。気候も温暖だし、中心部から少し離れたところに泊まったんですけど、ちょっと歩けばショッピングモールがあって何の不自由もなかったです。ちょっとだけ、草加に似ているかもしれません。

―― 草加への愛着は相当に根強いものがあるようですね。愛着という点では、それこそ長崎はいかがでしょうか? いずれ地元の諫早で暮らすことを考えたりはしますか?

内村:今のところは考えていません。ただ、何かしらの形で地元に貢献する気持ちは持ち続けていたいです。すでに東京で暮らした年月のほうが長くなりましたが、それでも長崎は特別な存在なんです。今も地元に帰ると「長崎の誇りです」と言ってもらえますしね。

たとえ住まないとしても、あの街で過ごした思い出や地元の人たちをずっと忘れずにいたいです。だって、諫早は体操を始めた街でもありますからね。


お話を伺った人:内村航平

オリンピック3大会(2008年北京、2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロ)に出場し、個人総合2連覇を含む7つのメダル(金メダル3、銀メダル4)を獲得。 また、世界体操競技選手権でも個人総合での世界最多の6連覇を含む21個のメダル(金メダル10、銀メダル6、銅メダル5)を獲得している。国内大会ではNHK杯個人総合、全日本選手権個人総合ともに10連覇。

オフィシャルウェブサイト:http://uchimura-kohei.com/

インタビューと文章:榎並紀行(やじろべえ)

榎並紀行(やじろべえ)

編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。「SUUMO」をはじめとする住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。

Twitter WEBサイト:50歳までにしたい100のコト

撮影:松倉広治