よそものの自分を漁師たちが受け入れてくれた。海と魚の街、宮城県石巻市。|文・香川幹

著者: 香川幹

2021年3月、僕は東京の大学を卒業して、宮城県石巻市に引越した。石巻市を拠点として活動する漁師団体「フィッシャーマン・ジャパン(以下、FJ)」に就職することにしたからだ。今は、その会社の一員として、漁師の担い手を増やしたり、漁業の魅力を伝える仕事をしている。

石巻に引越したのは就職のタイミングだが、大学生のときから休学して石巻に住んでいたので、石巻との付き合いはかれこれ5年になる。

石巻はどんな街なのか。一言で表すならば「海と魚の街」である。年間200種類以上の魚が水揚げされ、その量はなんと全国5位(2022年全国主要漁港水揚高)。水産業を基幹産業とする、れっきとした海と魚の街だ。そんな石巻で、僕はいろいろな肩書きをもって暮らしてきた。

魚屋、漁師、サーファー、潜水士、漁師団体職員。この記事では、その時々で自分が「何者」であったかを振り返り、石巻のいろいろな顔を紹介していきたいと思う。

漁師をやるはずが魚屋に

初めて石巻を訪れたのは大学4年生の夏。部活と勉強しかしないまま卒業することに違和感を覚えた僕は1年間休学することを決めた。やったことのないものに挑戦したい。そんな思いから、僕は漁師になることを選んだ。「母の実家が農家で、一次産業が昔から好きだった」とか「現場で働く経験がしたかった」とか思いつく理由はいくつかあるのだが、「これだ」と言い切れるものはない。漠然とした海への憧れは強かったと思う。

大学の先生に相談をしたら「石巻に行ってみたら?」とオススメしてもらった。東日本大震災の影響で漁業者が減ってしまったこともあり、漁業に全くかかわっていなかった人も寛容に受け入れてくれるという。

大学生最後の1年を石巻で過ごすことを決めた僕は、まずは魚屋の「津田鮮魚店」で働くことになった。いきなり漁師にならなかったのは、まずは魚の種類や流通を学んでからの方がいいのではというアドバイスを受けてのことだった。朝4時半に起き、軽トラに乗って魚市場に向かう。休学直前に運転免許をとったばかりの僕は、市場の縦列駐車ができなくて何度も切り返した。

セリや入札で落とした魚に、血抜きや神経締めを施して出荷する。これが魚屋の仕事だが、最初は全然うまくいかない。初めての仕事なので当然なのだが、僕の場合はそれ以前の問題だった。恥ずかしいことに僕は石巻にくるまで、1人でご飯をつくったり、洗濯をしたりしたことがなかった。そんな人間がいきなり魚を扱うのだから、もう大変だ。魚がはねて、じっとさせることさえままならない。「魚の目を手で覆うと静かになるよ」と先輩に教えてもらったときは、自分が何も知らないことを改めて実感した。

魚屋で魚をさばく僕

魚屋時代のお給料は“魚払い”だった。キロ1500円までの魚ならどれを持って帰ってもいいと言われていた。その日水揚げされたトビウオ30本のときもあったし、形が悪くて売り物にならない3キロの黒鯛のときもあった。もらったらさばくしかない。当時シェアハウスで一緒に住んでいた人たちの指導を受けながら、毎日のように魚をさばいていた。食べるのが追いつかなくなった僕は干物までつくれるようになった。ご飯もろくに炊けなかったのに。

魚払いでもらった魚たち。この日はタイとコチ、カンパチをもらって帰った

僕は石巻に地縁も血縁もない。石巻にいる間は、FJが運営しているシェアハウスに仮住まいさせてもらっていた。漁村部には大きな一軒家が多く、アパートやマンションは少ない。なのでよそからやってきた人にとって家探しは大きなハードルになる。

FJは漁師になりたい人が体験時に使用できたり、漁師になった人が家探しに困らないようにと、石巻市内に5カ所のシェアハウスを整備していた。僕が借りたのは2LDKの平屋だった。漁師用だからか、キッチンはかなり広く、どんな魚もさばくことができた。

ついに漁師に。朝4時起き生活が始まった

魚屋見習いになって2カ月が経過した。石巻に水揚げされる魚の種類をなんとなく覚えた僕は、漁師になりたい、船に乗りたいという思いがだんだんと強くなっていった。魚屋でお世話になった方に素直に打ち明けてみると、次は漁業協同組合(漁協)で働くのがいいのではないかと言われた。漁協は漁師のまとめ役のような存在。そこに行けば、漁師ともつながりができて、船に乗れるらしい。

漁協で働く日々が始まった。まずは自分の顔を覚えてもらうために、漁協の職員さんが行う「浜回り」に毎日ついていった。あいさつをすると「お前はどこからきたんだ」とほぼ必ず聞かれる。東京の大学生ですと答えると、「大学はどこだ」と聞かれる。「東大です」と答えると「え!?東大なの?」と一瞬驚かれるが、すぐに「俺も〇〇灯台出身だぜ、同級生だな」と言われて仲良くなれた。漁師さんの奥さんもすかさず「あんたのは赤門がない東大でしょ」とつっこんでくれる。

いろいろな浜に通ううちに、「マサヨシさん」という1人の漁師さんと知り合いになった。マサヨシさんはカキ養殖と定置網を営んでいた。漁協で2番目にえらい方で、そんなに漁師をやりたいなら、俺のところでやってみたらいいじゃないかと言ってくれた。朝4時半に港に集合して海に出る。まずは定置網の仕事だ。定置網は海の中に網を設置して、魚を待って取る。スズキ、ワラサ、アナゴ。毎日違う魚を取り、魚市場に運んでいく。

朝の6時ごろからカキ養殖の仕事が始まる(浜のお母さんたちはもっと早い)。カキを水揚げし、浜のお母さんたちと一緒にナイフを使ってカキをむいていく。これが非常に繊細な作業なのだ。スピードが大事なのだが、カキの身に傷一つでも付けば出荷できない。周りが5秒に1個むいていく中、僕は2分かけてようやくむけるくらい。しかも傷付けてしまうことも多い。そうなると、そのカキはお持ち帰りとなる。「お前は働きにきているのか、もらいにきているのかわかんねえな!」。最初はそう言われていた。

ここではカキの一番おいしい食べ方に出会った。ただでさえ、毎日たくさんのカキを持ち帰っていたのだが、休憩中に振る舞われる「蒸しガキ」は格別の味だった。雪が降る中、ストーブの上に鍋をおき、殻つきカキを10個ほど入れて蒸す。10分もしたら鍋から湯気が立ち始める。0℃近い寒さの中で、熱々のカキをフーフーしながら食べる。「石巻で一番おいしかったものは?」と聞かれたら、間違いなくこのシチュエーションで食べるカキである。

就活するべく帰京するも、再び石巻へ

カキのあとは、沖合まで出て魚を取るトロール船やまき網船で働いた。しかし、僕は海の神様に好かれていなかった。トロール船では、僕が乗っているときは不漁続きで、僕が船を降りた日からは大漁だった。まき網船は僕が乗船したその日に事故が起きて、そのシーズン中、操業不可能になってしまった。漁師さんからはたびたび疫病神扱いされることになった。

もっと漁師見習いを続けたかったが、就活のタイミングがやってきてしまった。就活をするにしてもかなり遅かったが、一度東京に戻ることに。しかし、石巻での生活が忘れられなかった僕は、すぐに石巻に帰ってくることになった。自分が魚屋&漁師見習い期間にお世話になっていたFJが新卒採用をしてくれることになったのだ。

フィッシャーマンジャパン(FJ)の面々

「FJに入る=漁師になる」ではない。僕は普段陸にいて、漁師さんの手が回らない仕事をしている。電車や学校に貼る水産業の広報ポスターをつくったり、地元の高校生向けに水産業のアルバイト企画をしたりしている。どうしたら水産業の世界に目を向けてくれるのか。試行錯誤の連続だ。

好きな水産業がこれからも続いていくように、環境活動にも取り組んでいる。海なくして、水産業は成り立たない。近年、三陸の海では海藻が生えなくなってしまう「磯焼け」現象が発生している。ウニが海藻を食べ尽くしてしまうことが原因の一つとされているので、僕は潜水士の資格をとって、ウニ駆除にも挑戦している。

休みの日は、波を追いかけて

海は働く場所であったが、遊ぶ場所でもあった。ある日、偶然サーフィンを教えてもらい、どハマりしたのだ。サーフィンをしたときの二つの感覚──①波を前にしたときの「波にどう乗るか」しか考えられなくなるような没頭感と②うまく波に乗れたときの自分と波とサーフボードが一つになったような一体感──がとても好きだった。

これまで何人もの方に教えてもらったが、その中でも「シンエツさん」は特別な存在である。東北で初めてプロサーファーになった人だそうだ。当時はシンエツさんの顔が印刷されたうちわをみんなが持っていたらしい。

サーファーは怖いイメージもあったが、シンエツさんはとても優しかった。波の乗り方を何度も教えてくれたし(それは今も続く)、ウェットスーツのお下がりをくれたり、サーフボードも探してくれた。波にまかれて、海の中を転がる僕を見て、「ナイス、ワイプアウト(波にまかれること)」と大爆笑してくれる。

石巻には台風のときにだけ波が立つ、長浜というサーフスポットがある。しかも、波に乗れる場所が1カ所しかない「ポイントブレイク」のスポットなので、初心者では波に乗るのは難しい。

長浜は海水浴スポットでもある。台風のときはこの何倍もの波の高さになる

サーフィンは初心者にはつらいスポーツだと思う。上達しようにも、まず波がないと練習できない。波が良い日なんて多くないし、良かったとしても早朝や夕方だけなど、時間が限られる。さらに、波に乗るにも、上手な人たちと波の取り合いをしなければならない。波を誰よりも先に見つけ、全力でこいで、波を捕まえる。サーフィンを始めて3年ほどになるが、まだまだ初心者だ。

石巻のお気に入りスポット紹介

ここで、石巻での5年間をともに過ごしてきたお気に入りの場所を紹介したいと思う。

四季彩食いまむら

店主と誕生日が同じということで仲良くしてくれる創作料理屋さん。海の幸も山の幸も、石巻の食材を味わい尽くすことができる。家族や友達が石巻に遊びにきたときは必ず予約を試みる。

 

石巻魚市場
夕方になると、底引き網の船が20隻ほど魚市場岸壁に帰港する。明かりのたくさんついた、大きな船が入船してくるシーンは大迫力だ。石巻で一番好きな場所である。

 

フィッシャーマン・ジャパン(FJ)
「新3K(カッコよくて、稼げて、革新的)」な水産業の実現を目指し、漁師や水産加工会社の担い手育成、販路開拓に挑む。事務所1階はコミュニティスペースとして開放している。

 

IRORI
石巻にあるおしゃれなカフェの一つで、街づくりにかかわる人との遭遇率がかなり高い。自家製のはちみつレモンソーダ割りがおいしい。仕事をするにも、雑談するにもとても良い。

 

追分温泉
宿泊でも日帰り温泉でも利用している。ホタテ、ホヤ、ツブ貝など、石巻で取れた海産物を使った夜ご飯の御膳はとても豪華。ヒノキでできたお風呂場は、日々の疲れを完全に取り去ってくれる。

もっと多くの人に海の世界を知ってもらいたい

水産業は「きつい、汚い、危険=3K」と言われている。時には、肩が痛い、腰が痛い、首が痛いなども入れて20Kと呼ばれることもあるらしい。日本の食を担い、国防的にも大事な産業であるはずなのに、みんなから憧れられる産業とは言えない。

FJは、そんなイメージをひっくり返し、「カッコよくて、稼げて、革新的な(=新3K)」水産業を実現するという理念を掲げている。僕はそれがとても好きだ。3Kを新3Kにするために、僕にできることは何か。それは自分が海での仕事や遊びを楽しみ続け、その魅力をより多くの人に伝えることだと思っている。

アポも入れず、石巻を突撃した5年前。たまたま漁師さんとお会いでき、話を聞かせてくれた

「水産業は魅力にあふれている」というつもりは毛頭ない。実際、水産業は課題でいっぱいだ。担い手不足、販路の喪失、海洋環境の悪化。魚屋や漁師見習いをしながら、そんな課題を垣間見るときもあった。だから、僕は漁師になるのではなく、水産業全体にかかわれるフィッシャーマン・ジャパンで働くことにした面もある。

でも、自分が水産業や海にほれこんでしまったのだ。課題を抱えているなら、少しでも力になりたいし、もっと多くの人が憧れるような産業にしていきたい。

そしてその夢がかなったときが、漁師見習いでも、フィッシャーマン・ジャパンでもなく、本物の漁師として働き始めるときなのかもしれない。石巻ならきっとそんな選択も受け入れてくれるだろう。

著者:香川幹

1998年生まれ。大学在学時に石巻の水産業に飛び込み、漁師や魚屋として働く。漁船や漁協で出会ったアツいプレイヤーたちに心を奪われ、2021年からフィッシャーマン・ジャパンの一員に。主に広告や広報を担当。潜水士。

Twitter:@V1Rbhlw

編集:乾隼人(Huuuu)