僕には八王子という“距離”が必要だ

著: pato

八王子は遠い。遠いのだ。

都心で活動する人の多くがそう感じるだろう。八王子は遠いのである。東京の最果て、ほとんど山梨、そんなイメージを抱いている人もいるんじゃないだろうか。僕の住む八王子はそんな場所である。

概念として遠い街、八王子

友人との飲み会や打ち合わせ、都心で行われるそれらの活動の後に「八王子まで帰る」と宣言すると、その場にいた人に必ずこう返される。

「めちゃくちゃ遠くないですか?」

それは全くもって異論がないところだ。八王子は遠いのである。

中央線の快速なら新宿から37〜47分ほど、京王線の特急なら39~46分ほど。車だったら1時間くらいはかかるだろうか、直線距離で40キロくらいの道のりだ。確かに遠い。ただ、実際の遠さ以上に遠いと感じる人も多いんじゃないだろうか。きっと、八王子は概念として遠いのだ。

「都心に出ることが多いんだから、都内に住めばいいのに」

そんなことをよく言われる。言わせてもらうが、八王子も都内だ。もう一度言う、八王子は都内である。東京都八王子市である。

もっと言わせてもらうと、僕が住んでいる家の近くには、都心からやってきたカップルなんかが、ちょっとアウトドアライフな装いでやってきたりする。そいでもって「やっぱここまでくると空気がオイシイネ」「そうだネ!」と深呼吸である。ふざけないでいただきたい。八王子は都内だ。うちの近所だ。都心とそんなに空気が変わるわけではない。フリスビーとかやりはじめるんじゃない。水筒に入れたホットコーヒーを飲むな。

さらに言わせてもらうと、大雪や台風のときなどの異常気象を東京のニュース番組で扱うとき、必ずといっていいほど八王子インターの定点カメラを「異界の地」のごとく映すのをやめてほしい。確かに八王子が大雪のときに新宿では雪すらないこともあるが、同じ東京なのだ。

そんな扱いを受ける「遠い八王子」だが、僕にはその遠さが必要なのである。

そう、僕には八王子という距離が必要なのだ。

JR八王子駅と京王八王子駅

東京都の西の端に位置する八王子市は広大な市域に約56万人の人口を有する中核市だ。実は東京都唯一の中核市だったりする。

そして八王子には「八王子駅」が2つ存在する。

ひとつはJR八王子駅で、中央本線や横浜線、八高線が乗り入れる大きなターミナル駅だ。南口にはビックカメラや高層タワーマンションなどがあり、北口には多くの店舗が存在する、いわば八王子市の中心的な存在だ。

八王子駅を中心に放射状に延びる2本の道路のうち、北西に延びているのが「ユーロード」だ。周辺には多くの店舗が立ち並ぶ。一部は歩行者道路になっていて、道路上にテントを並べて古本市や骨董市などの催しを行うこともある。そんなにぎやかな通りだ。

北東側は「アイロード」と呼ばれている。京王プラザホテル八王子脇から延びるこの道路は車の往来が激しく、バスなども行き来している。歩道を歩く人も多い。なぜなら、この先にもうひとつの“八王子駅”があるからだ。

JR八王子駅から400メートルほど離れた京王八王子駅は、「K-8(ケイハチ)」と呼ばれるショッピングセンターの地下に存在する。新宿へと続く京王線の始発駅だ。

八王子から新宿へと向かう場合、JR八王子駅を使って中央本線で行く方法と、京王八王子駅を使って京王線で行く方法が選択できる。電車賃は京王のほうが少し安い。定期を持たず、いつも時間に余裕のある僕はどちらを利用するのかその日の気分で選ぶのだ。

この日、新宿で人と会う約束があった僕は、京王線を選択した。どうやら僕はその先に少し気が重い“何か”があるときほど、京王を選択する傾向が強いようだ。JRも京王も選ぶ電車の種別にもよるが、所要時間はそう変わらない。ただ、なんとなく京王線のほうがゆったり向かってくれるような気がするのだ。だから、新宿に気が重くなる“何か”があるときは京王線を選ぶ。

銀色の車体にピンク色のライン、おなじみの車両がホームで待ち構えていた。始発駅なのでだいたい電車がホームにいてくれる。これに乗り込んで出発を待つ。やはり気が重い自分がそこにいた。

気が重いまま京王八王子駅を出発する

いつの間にか電車が発車し、長い地下トンネルの暗闇を走り始めていた。電車が走れば走るほど新宿に近づき距離を縮めているかと思うとまた気が重くなる。車窓の暗闇の中に憂鬱(ゆううつ)な顔をした自分が映り込んでいた。

人に会うことが嫌いだ。


編集部との打ち合わせや仲間との飲み会、気になる子とのデート、僕はそれら全てが等しく嫌いで、できればやりたくないとすら思っている。このあたり少し説明が難しいのだけど、“会う”という行為自体が嫌いなのではない。会えば楽しく過ごすし、饒舌すぎるほどに喋り倒して引かれてしまうことだってある。ただ、そこに至るまでの心の準備が重苦しい、それだけで“会う”という行為が嫌いなのだ。

僕は人に会うとき、人に会う自分になる必要がある。おそらく、その自分になるのに人よりも時間がかかるのだろう。家を出てすぐに新宿アルタ前に到着してしまっては、人に会う自分ではない状態で会わねばならないのだ。それは丸裸を見られることに近い。だから僕は時間をかけてゆっくりと人に会う準備をし、 “人に会う自分”になる必要がある。これは絶対だ。それには八王子から新宿までくらいの時間と距離が必要なのである。


電車はすぐに地下トンネルを抜け、強い日差しと共に一軒家が立ち並ぶ景色が見えはじめた。まるで住宅街の隙間を縫うように電車が走る。ほどなくして電車はスピードを落とす。同時に北野駅へと到着する旨のアナウンスが車内に流れた。

北野駅~高尾山口駅内にある温泉~

京王線の北野駅では、八王子方面へと向かう京王線と高尾山口方面へと向かう高尾線、二つの路線に分岐する。高尾線はそのまま高尾山の登山口へと続いている。

北野駅へ到達すると、登山ウェアに身を包んだご年配の団体がドカッと乗り込んできた。おそらく高尾山登山の帰りなのだろう。皆さん一様に疲れた表情をしていたが、口々に感想を語り合う様子は心底楽しそうだった。やはりこの辺は空気がおいしいわあとか言っていたから厳重に抗議してやろうかと思った。

高尾山は人気のある山だ。年間の登山客数は300万人とのことで、富士山などの有名な山を抑えて世界一だと言われている。ここ八王子市に世界一の山があるのだ。標高599mと手ごろな高さでありながら都心からのアクセスも手軽で、一年中登ることができる、このあたりが人気の秘訣だ。もちろん、高尾山は八王子が誇る有数の観光地であるが、高尾山はひとまず置いておいて、僕は京王高尾山口駅となりにある「京王高尾山温泉/極楽湯」を特に推したい。

サウナに水風呂など完備しているが、なかでも露天風呂が素晴らしい。高尾の自然を眺めながら登山の疲れを癒やすのも良いだろう。ぬる湯とあつ湯が用意されているので、疲れ具合にあわせてどちらか選ぶことができる。

僕も原稿などで疲れたときは、登山すらしていないのにここで癒やされている。今登山してきましたという顔で入浴していると、本当に登山をやり遂げた気持ちになってくるのだ。「いやー、暑かったですね。この時期の山登りはこたえますねぇ」浴槽で隣になったおっさんが話しかけてくる。「ええ、日差しも強くてだいぶ焼けちゃいましたよ(笑)」そう答えた僕の肌は一切日焼けをしてない。山になんて登ってないからだ。

そうだ。今日の新宿での用事が終わったら、そのまま京王線に乗って帰ってこよう。そこで高尾山口駅までいって温泉に入ろう。そう考えると、本当に少しだけど「人に会う」という重い気分が晴れやかになってくる。なかなかに単純なのである。

高幡不動駅〜台風でも人が並ぶ老舗の味〜

新宿へと向かう京王線の中でまた深いため息をついた。北野駅を出た電車はそのままいくつかの駅を通り抜けて高幡不動駅へと滑り込んだ。八王子市を飛び出し、東京都日野市にあるこの駅は、動物園線および多摩モノレールの乗換駅となっている。駅から徒歩数分の場所には、駅名の由来となった関東三大不動にも挙げられる「高幡不動尊(高幡山明王院金剛寺)」がある。

車窓から高幡不動駅周辺の景色を眺めると、思い出すことがある。何年か前にそれこそ高幡不動までやってきて食べた饅頭が妙に美味かったのだ。あれは美味かったなあ、とスマホで調べてみると、松盛堂というお店の「高幡まんじゅう」というらしい。美味しいものの記憶はいつまでも心に残るものだと感心する。よく覚えていた。

ところで、八王子にも有名な饅頭がある。先述した八王子北口、西放射線ユーロードに店舗を構える「つるや製菓」だ。

おそらく、八王子の人なら知らない人はいないんじゃないだろうかというほどの饅頭屋だ。白餡と柔らかい生地、小ぶりな饅頭だがとにかく美味い。この饅頭が大人気で店には常に行列ができている。台風が近づいているときに通りかかったときも、4人ほど並んでいたから脅威だ。「饅頭屋に並ぶ前にやることがあるだろ」と心の中でつっこまずにはいられなかったけど、つくづく、美味しいものの記憶はみんなの心の中に根付いているのだ。

そうか、これから会う人に美味しい饅頭の話をしようか。「台風の中に200人くらい並んでてまんじゅうの取り合いで殴り合いのケンカがはじまった」とか少し盛って話そうか。でもこれ少しじゃねえな。とにかく、人に会うことが苦痛なのは、何か話題を用意しなければならないことも一つの要因だ。美味しいものの話題なら鉄板なので、少しは時間をつなげられるのではないか。

電車が高幡不動駅を出るころにはちょっと気が楽になっていた。提供する話題がひとつ準備できたことは喜ばしいことだ。これならなんとかいけるんじゃないか、そんな気分が高まってくる。いける、きっと会える。

聖蹟桜ヶ丘駅〜ドラマに登場するネットカフェ〜

それでもまだまだ憂鬱な僕を乗せた電車は聖蹟桜ヶ丘駅へと到達した。

この駅は東京都多摩市に属しており、ジブリ映画『耳をすませば』の舞台として有名だ。ファンの間では聖地のような扱いになっているらしい。映画やアニメ、ドラマで登場した場所を実際に見ると興奮するものである。逆によく行く場所がそういった作品に登場したらもっと興奮するのかもしれない。「例のプール」みたいなものか。よく分からないけど。

そういえば、八王子のユーロードにあるドン・キホーテ、その隣にあるビルに「コミック庵ぽらん×ぽらん」というネットカフェがある。僕はよくここでマンガを読んでいるのだけど、結構な頻度で「今日は当店で撮影があります」と掲示されている。ドラマや映画などでのネットカフェのシーンによく使われているらしい。

お、有名な女優がくるのか、それならもうちょっと滞在してすれ違いざまにでも見てみるかな、と心を弾ませてブースにこもるが、宮下あきら先生の『魁!!男塾』を熟読してしまい、いつも女優を見逃す。

それにしても、有名な女優さんたちもネカフェのシーンの撮影のためにわざわざ八王子までやってくるのだ。なんだか妙な親近感みたいなものが湧いてくる。好感度が上がると言ったらいいだろうか。

逆に打ち合わせや飲み会や何かでわざわざ八王子からやってくる僕にだって、相手が親近感みたいなものを抱いてくれる可能性があるのではないか。むしろ、抱くべきである。そうだそうだ。こんな遠くからきているんだから抱くべきである。今日会う相手だって僕に親近感を持つべきだ。だんだん強気になる自分がいた。

分倍河原駅〜最強の立ち食いそばはコロッケそばである〜

聖蹟桜ヶ丘駅を抜けると大きな川に出た。多摩川だ。電車は多摩川にかかる鉄橋を通過していく。川を越えるとすぐに分倍河原(ぶばいがわら)駅へと到着した。JR南武線の乗換駅だ。いよいよ府中市となり、新宿が近づいてきた。

分倍河原という駅名を聞くと思い出すことがある。何年か前、電車に乗っていたら強烈にそばを食べたい欲望に駆られた。その時も新宿に向かっていて、人と会う約束があったはずだ。なかなか憂鬱だった僕は分倍河原に来てまでも“人に会う自分”になれず、なかば逃げるようにそばを欲し、途中下車してそば屋に入ったのだ。新宿で人と会う約束をしているのに、だ。これはもう暴挙である。

もう店名も忘れてしまったが、あの時のそば屋には本当に救われた。逃げだした僕を迎え入れてくれたそばという存在に心底ほっとしたのである。東京は、ほとんどの駅の周辺にそば屋が存在する。まさしく駅のソバ、だ。そういった意味で安心感を得る部分があるのだと思う。

八王子にも、そんな駅のソバ、のそば屋がある。個人的に最強の立ち食いそば屋だと思っているお店だ。

JR八王子駅よりさらにひと駅隣の西八王子駅、その駅前、徒歩1分の場所に「じんそば」がある。まさに駅のソバだ。見落としてしまいそうな小さな店舗に、角という立地でなかなか見つけにくい。

じんそばは全てのメニューが激安で、かけそば・かけうどんはなんと230円だ。おすすめはコロッケそば。夏場は「冷やし(プラス50円)」で頼むと格別で、しっかりと氷が入ってくる。本当に美味しく手軽なのでホッとする。

西八王子のそばに思いを馳せながら分倍河原駅を通り過ぎる。今日は逃亡しなくても良さそうだ。この調子でいけば、きっと新宿までに人に会うモチベーションになっているであろう。なんだかホッとしつつあった。

府中駅〜八王子のコワーキングスペースで締切に追われる〜

電車はあっという間に府中駅へと到着した。府中駅前は長年の再開発が終わったところで、駅から見える景色が近代的なものに変わっている。僕にとってはそんな近代的な街並みも何も関係なく、単に「競馬場がある場所」である。大きなレースがあるときは毎週のように通っている。そんな場所だ。

僕自身、この府中という街にはほろ苦い思い出がある。競馬でしこたま負けた帰りにトボトボと歩いていたら電話がかかってきて、すぐにでも提出しなければならない書類の存在を思い出したことがあった。今すぐにでも提出しなければ危険が危ない。そんな状況で僕はコワーキングスペースを探した。

いつでもパソコンを持ち歩いているので、書類をつくるくらいその辺のカフェでもやろうと思えばできたが、その日はどうしてもコワーキングスペースでやりたい気分だった。死ぬほど探し回ったが、その当時、府中にコワーキングスペースはなかった。今はどうだか分からないが、とにかくなかった。結果、先ほどしこたま負けた競馬場に舞い戻ってスタンドに座って書類を作成した。はたから見たらパソコンを駆使したID馬券師だ。

このように、僕は「どうしてもコワーキングスペースで作業したい!」というよく分からない欲求が湧きだしてくることがある。普段は八王子にいるので、そんなときはユーロード沿いにある「8Beat」を利用している。

値段が安く、なによりも落ち着く雰囲気で集中して作業に取り組むことができる。八王子の中心にあるので、少し外出して食事などに行くのに便利。やよい軒も近い。

よく考えると、この8Beatで作業しているときは締め切りに追われ、「死ぬ~」みたいになっていることが多い。また閉じこもって作業をするので陰鬱な感じになりやすい。そう考えると、いくら気が重いとはいえ人に会うために外出している今のほうがずっと幸せで喜ばしいことではないだろうか。うん、きっとそうだ。きっとそうだ。俄然やる気が出てきた。どんとこい、新宿!

調布駅〜ホルモンを求めて僕らは街をさ迷った。月を見ながら〜

電車は調布駅へと滑り込んだ。もう新宿はすぐそこだ。

どういった経緯だったか忘れてしまったが、この調布でホルモンを求めてゾンビのように街を徘徊した経験がある。調布はPARCOなどの商業施設があるし、都会だからホルモンを食べることなど訳ないと思っていたが、なぜかどの店も満員御礼で全くホルモンにありつけなかった。

なぜあの日の僕らはあんなにもホルモンを欲したのだろうか。なぜあんなにどの店も満員だったのだろうか、今となっては分からないが、確かにホルモンだけを純粋に求めていたのだ。思い出すとずっと月が綺麗だった。

そんなホルモンゾンビのために、八王子において僕がおすすめするお店を紹介しておきたい。西八王子駅からほど近い場所にその名店「祭」はある。

アットホームでレトロな雰囲気がとても落ち着く店だ。夏の熱気が立ち込め、煙が充満する店内から笑い声が聞こえてくる。ここのホルモンが絶品でとにかく美味い。もう一度言うけど、とにかく美味い。

僕自身は気になる女の子とこの店に来て、もちろん絶品のホルモンを食し、結構いい感じで意気投合し、次も来よう! と鏡月のボトルキープまでしたが、紆余曲折を経て、次にその子と来ることはなかった。既読スルーである。クソッ。

なんだか急激にテンションが落ちてきた。ボトルキープまでしたのにどうして、という気分だ。あの鏡月はまだこの店に置かれているのだろうか。キープされているのだろうか。なんだか心配になってきた。

人と人との関わり合いはこういったことがあるから恐ろしいのだ。あんなにも意気投合したのにこうである。なんだか今日の用件も恐ろしくなってきた。結局、人は分かり合えないのである。鏡に映った月のように虚ろであやふやなものなのである。

やはり今日は人に会うべきではない。そんなことを考え始めた。

調布駅と明大前駅のあいだ〜川沿いに残された遺構の紆余曲折とは〜

調布駅の地下ホームを出た電車はいつの間にか住宅街を走っていた。僕の気持ちはかなり重く、陰鬱なものになっていた。やはり人に会うという行為は今日の僕には荷が重い。次の駅、明大前駅で降りて引き返すべきではないだろうか。そんな気持ちが生まれてきた。

国領駅を通過すると、住宅街の隙間を縫って一瞬だけ川と水辺の景色が見えた。住宅が密集するこの辺りの風景に溶け込むようにしてその川の風景がある。僕は川沿いの風景が好きだ。心の底から気持ちが落ち着くので、暇さえあれば川のほとりを歩いている。

特に八王子には川の景色が山ほどあるのだ。川なのに山ほどあるのだ。そのなかでも特に僕が好きな川辺を紹介したい。

浅川へと続く南浅川の風景は心が落ち着く。川の両側に遊歩道が整備され、散歩やランニングにもうってつけだ。

川沿いの道路を歩きながら周囲をキョロキョロしていると、脇の道の民家に溶け込むようにして、巨大なコンクリート造りの建造物が建っている。最初に発見したときは、この家の人が趣味で建てたものかと思ったが、調べてみると「橋脚」だった。

Google ストリートビューでも確認できる

戦前の話ではあるが、この周辺には高尾線の山田駅から分岐する形で京王御陵線という路線があったのだ。戦局の悪化により乗客が減り、不要な路線ということで廃線となっており、ほとんどの線路や橋脚は撤去されたが、写真に写っているものを含む2つの橋脚だけが残されたようなのだ。なんとも歴史の重みを感じる遺構で、八王子のなかでも最も好きな場所だ。

本当に普通の住宅街の中に突如として現れるのが良い。そして、ここに線路があったんだと思うと、急にこの周辺のいびつな形の道路や、意味不明な中央分離帯が持つ意味が理解できるのだ。たぶん鉄道があったのだ。カードが一気にめくれるように全ての謎が解ける、この橋脚にはそんな魔力があるのだ。

そうだ。そういうことなのだ。

この橋脚も最初からここだけ残そうとして残ったわけではない。紆余曲折を経てさまざまな要因が絡んでこうなったのだ。きっとそうだろう。道路に姿を変えた場所や、中央分離帯に姿を変えた場所もある。残らないのもなりゆきだし、残るものもなりゆきなのである。

鏡月をボトルキープしたのに残らなかった関係もなりゆきだ。人との関係なんてなりゆき以外の何物でもない。今日会う人だって、何を話そう、どんな自分で接しよう、そんなことを考えたってしかたがないのだ。なるようになる。なりゆき。それ以上でもそれ以下でもないのだ。

明大前駅〜なりゆきを超えて残されてきたもの〜

人との関わり合いはなりゆきである。そう考えながら車窓を眺めていた。

電車は明大前駅へと滑り込んだ。ここで結構な数の乗客が降りていくが、すぐに結構な数の乗客が乗り込んできた。なかなかの混雑のまま、新宿を目指すことになりそうだ。

明大前駅はその名の通り明治大学の前にある。だからだろうか、周囲には大学生と思しき人たちが多いような気がした。そのなかで一組の男女が目に留まった。大人しそうな女の子と大人しそうな男の子、おそらく大学生だと思う。

あまり会話をしなかった二人だが、突如として女の子が男の子の腕を取り、自分に引き寄せて抱えこんだ。つまり、腕を組むような状態になったのだ。男の子は戸惑いこう言った。

「なんか、勇気あんじゃん」

その言葉に、女の子は視線をそらしながら言った。

「まあね」

しばらく沈黙が続いたが、男の子が少し顔を赤らめながら言った。

「ここじゃまだ見つかるかもしれないし、噂になったら……」

そのセリフで僕は全てを察した。同じサークルだ。隠れて付き合っている。でも何も進展がない。その状況で彼女のほうが勇気を出して腕を組んだのだ。明大前駅というリスキーな位置で腕を組んだのだ! 同じサークルのうざい先輩とかが見てるかもしれないのにだ!

「別に噂になってもいいじゃん」

彼女は残そうとしたのだ。このままではお互いに勇気を出せないまま有耶無耶で終わってしまう可能性もあったのかもしれない。彼女は彼との関係を残したかった。だから腕を組んだ。消えるものは消える、なりゆきだ、人間関係とはそんなものだ。だから畏れる必要はない。けれども、彼女はなりゆきで済ませたくなかった。残したかった。

その強い意志を見ていると、八王子のとある銭湯のことを思い出す。

JR八王子駅と西八王子駅のちょうど中間に「松の湯 *1」という銭湯がある。サウナがあり、庭師が整備したといわれる露天風呂も素晴らしい老舗の銭湯だ。特に、ジェットバスの勢いが凄まじく、殺されるかと思うほどだ。たぶん世界一勢いのあるジェットバスだ。

地元の人に愛されたこの銭湯に「閉店のお知らせ」が貼り出されたのは2016年のことだった。スーパー銭湯の台頭や時代の流れ、後継者不在、そういった要因があったのかもしれない。この銭湯もそういったなりゆきによって消えるはずだった。

しかしながら、「残してほしい」という地域住民の声が数多く寄せられ、有志による投書も数多く集められた。そして後継者が決まり、正式に存続が決まったのだ。

腕を組み照れ臭そうに笑う彼女の笑顔が、この松の湯の姿と重なった。なんだか勇気が湧いてきた。

§


今日の僕は人に会うべきである。きっと会うべきである。そこに可能性があるのだから。

会ったらまずは何の話をしようか、やはり最初は鏡月のボトルキープの話でがっちりと心をつかんでおくか。それから美味しいものの話だ。

そう考えていると、電車はいつの間にか暗闇を走り、駅でもない場所で停まったり徐行したりを繰り返していた。きっと新宿駅が近い。

僕はこうして、新宿で人に会うまでの間、さまざまな精神的葛藤を乗り越えている。それにはやはり、これだけの時間が必要なのだ。これを乗り越えて初めて僕は人に会う自分になるのである。僕には八王子という距離が必要なのだ。そこに可能性があるから。

八王子という街には時間が早く流れる場所とゆっくり流れる場所がある。新しいものと古いものそんな混沌とした価値観が混在するなかを今日も僕は自分のペースで散歩し、自転車で走るのである。そこには考える時間がある。


さあ、人に会う時間だ。


そうつぶやいて京王線新宿駅の長い階段を地上へと登っていった。

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著者:pato (id:pato_numeri)

pato

テキストサイト管理人。誕生日プレゼントにもらった1000本のストロングゼロと共に暮らすおっさん。稲村亜美さんが好き。

Twitter:@pato_numeri テキストサイト:Numeri ブログ:多目的トイレ

編集:ヨッピー/はてな編集部

*1:2019年6月から改装のため休業予定