著者:杉田 映理子
ソファに寝転がってInstagramのストーリーズをなんとなしにスワイプする。
馴染み顔の楽しそうな様子や懐かしい場所、何度も食べたあの料理が、画面に表示される度に、指を止め、空の上から別世界を覗き見るような感覚で、自分不在の友人たちの日常を眺めた。ついこの間まで自分もそこにいたのに、なんだか大昔のような気がする。
2024年3月末、新卒から7年間勤めた岐阜のデザイン会社を退職して、4月にフィンランドにやってきた。最後の仕事を3月30日に終え、渡航日は4月2日。岐阜での暮らしはそれなりに充実していたけれど、仕事中心の生活がこのままずっと続いていくのがこわくなって、考えるよりも先に日本を飛び出してきた。

就職を機に流れ着いた、縁もゆかりもないまち
18歳まで東京で生まれ育ち、大学時代は長野県松本市で過ごした。その後、流れるように辿り着いた岐阜で働きはじめた。
初めて岐阜を訪れたのは、大学4年生の冬。卒業を数か月後に控えていながら、わたしは就職先が決まっていなかった。偶然、Facebookで岐阜のデザイン会社の求人記事を見つけたことがきっかけで、その会社の面接を受けるために、当時住んでいた松本市から岐阜市へと向かった。初めて訪れるその場所が、今後の人生を変えるような新天地になるとは知らずに。
岐阜駅までは名古屋駅から新快速列車でたったの20分であることも、市街地からすぐのところに、「長良川」と「金華山」のうつくしい景色があることも、昭和の面影を残す「柳ケ瀬商店街」があることも何も知らないまま岐阜の地に降り立って、とりあえず面接前にロープウェイで金華山に登った。

面接で何を話したかは、正直もう、あまり覚えていない。思いがけず、その場で内定をもらった。
「内定は出すけど、他の選択肢も含めてもう一度よく考えてから決めるといいよ」。
社長には親切にそう言ってもらったものの、“持ち札ゼロ”だったわたしは、帰り道にはもう「就職決まった」と、友人にLINEで報告をしていた。
こうして、新社会人として、縁もゆかりもない岐阜市での生活をはじめることになった。
住む場所は、面接のタイミングではじめて行ったそのときに一目惚れをした「みんなの森 ぎふメディアコスモス」(通称:メディコス)に歩いて行ける場所にすると決め、一人暮らしのアパートを借りて、岐阜生活のはじめの4年間を過ごした。

入社3か月で岐阜のガイドブックを出版
「3か月以内に岐阜のガイドブックを出版する」
それが、編集者として入社したわたしに、最初に課せられた仕事だった。出身は東京、長野の大学を卒業して岐阜へ。この地に縁もゆかりもないわたしの視点で、そしてその目がフレッシュなうちに、岐阜を紹介する本をつくるというものだった。

今思い返しても、自転車で町中を走りまわり、気になる場所を写真におさめ、地図に書き込み、会社の人たちに助けてもらいながら、いくつかのお店に取材をしたあの3か月間は、自分がまちを知り、人とつながり、その後、岐阜の地に根を張るために大切な期間だったと思う。
社会人としても、編集者としても、岐阜市民としても、すべてが手探りの中で本づくりをするのは、楽しい反面、苦しくもあって、泣きながら完成までこぎつけた。

ローカルメディアの運営や、まちのお店のブランディングや、イベント運営、自治体のプロモーションを編集とデザインの力でサポートするといった、言葉通り地域に根ざした仕事のおかげで、日々がんばって働いていれば、それだけで岐阜でのネットワークはどんどん広がっていった。休日にお茶をしたり、たまに飲みに出かけたりできる同世代の友人も少しずつ増えていった。
仕事を通してたくさんの新しい人に出会うなかで、決まり文句のように「何で岐阜に来たの?」と聞かれた。地元の人にとっては、東京出身で岐阜には縁のないわたしが、わざわざ移り住んで来たことが不思議で仕方ないようだった。
正直、確固たる理由があって岐阜を選んだわけではなかったし、何となく3年くらい住んだらまた次のことを考えようかな、くらいに考えていたので、ぼんやりとした受け答えしかできなかった。それでも自分が岐阜に来て楽しく働いていることを、方々で歓迎してもらっているように感じて、このまちの役に立てたらいいなという気持ちが自然と湧いてくるようになった。
いつのまにかペーパードライバーを卒業していた。会社の車で岐阜県内を走り回り、この地と無縁だったのが嘘みたいに、知っている風景が増えていった。県外から友人が遊びにくれば、張り切ってプランを立てて町中を案内した。


隣町への引越し。わたし、いつまでここにいるんだろう。
岐阜に住み、働きはじめて5年目の2021年5月。会社が岐阜市から隣町の各務原市(かかみがはらし)に移転することになり、それに合わせて住まいも新しい会社から自転車で通勤できる場所に引越した。
自宅と会社の間には、2つの大きな公園「市民公園」と「学びの森」がある。ここは市民の憩いの場。天気の良い日に、公園の脇のイチョウ並木を歩き、きらきらと溢れる木漏れ日に目を細めては、ここが身近にあるだけで、大袈裟でなくこのまちに住む価値があると感じた。

ランチの選択肢は岐阜市ほど充実していなかったけれど、カウンターに並ぶおばんざいから2種類を選べる600円定食の「ギフ屋」や、毎週金曜日はカツカレーの日と決まっている「ひかり食堂」など、行きつけの店がいくつかできて、よく同僚といっしょに食べに出かけた。

岐阜へ移住してから5年の月日が流れても、相変わらず岐阜に来た理由を聞かれることはしばしばあった。この頃には受け答えのおしまいに「いつの間にか岐阜に来て5年も経っていて、思ったより長居させてもらってます」なんて、冗談混じりで付け加えるようになっていた。大学時代に4年間住んでいた長野県の松本での期間を越え、18歳までを過ごした生まれ故郷の東京に次いで、岐阜が2番目に長く住んだことになる。
それでもなぜか、一生岐阜で暮らしていくイメージは持てず、ふと、「わたし、いつまでここにいるんだろう」と頭をよぎることはあった。一方で、岐阜市から各務原市に引越したことで新生活がスタートした感覚もあり、あまり深いことは考えずに日々過ごしていた。毎日、遅くまで会社に残り、休日も仕事が入れば働いて、たまに友だちと遊んで、それだけで精いっぱいだった。
まちに助け合える仲間がいる頼もしさ
各務原での生活を振り返るのに「かかみがはら暮らし委員会」の存在は欠かせない。「まちを楽しむコミュニティ」として活動している団体で、わたしはこのコミュニティに半分仕事、半分プライベートで関わっていて、暮らし委員会のメンバーといっしょにイベントを企画したり、自分の仕事に協力してもらったり、多くの時間をともに過ごした。

このコミュニティの拠点にもなっているカフェ「KAKAMIGAHARA STAND」にふらっと立ち寄れば、約束していなくても必ず知っている顔に会えた。グループチャットに「映画を見よう」とか「手芸をしよう」などと呼びかければ、何人かが集まってくれた。わたしがアパートの前で子猫を拾ったときにも、チャットで助けを求めたら、深夜にも関わらず猫好きのメンバーが食事やトイレを持って駆けつけてくれた。

「かかみがはら暮らし委員会」では、世代も職種も違うけれど、どこか近い価値観で集まった100人近くのメンバーがゆるやかにつながっている。常にいっしょにいるわけではないし、全員の顔を知っているわけではなくても、彼らの存在がそばにあるのが、頼もしく、心地よかった。
フィンランドに来てからも、暮らし委員会界隈のまちの動きはSNS越しに覗いていて、新しいお店ができたり、おもしろそうなイベントがたくさん開催されていたり、客観的に見ても、各務原市はやっぱりいいまちだな、と感じている。
ずっと、帰る場所を探している
フィンランドに来てから半年と少しが経った頃。初めて日本に帰りたいと思うできごとがあり、自分一人では消化できずに、岐阜の友人にSOSのメッセージを送って、電話で話を聞いてもらった。友人、というよりも、“お母さんのように慕っている人”と言い換えた方がいいかもしれない。わたしのことをよく理解していて、自分より長い人生経験があり、それでいて同世代の友人みたいな気楽さもある、そんな存在。
わたしがLINEでぽろっと「はじめて日本に帰りたいかもと思ってしまった」とつぶやくと、「帰りたい場所があるのは、それはそれでよかった」と返信がきた。
そう、わたしには帰る場所がある。帰りたければ、いつでも帰ればいい。
この先、生まれ育った東京に戻るつもりはなく、ほかに帰れる場所もない。故郷に帰らないと決めてから、心のどこかでずっと「帰る場所」を探している感覚があった。

「せっかく縁を広げた岐阜さえも離れようとしている。わたしはいつまで帰る場所を探し続けるのだろう……」
岐阜を離れ、フィンランドへの渡航を決めたとき、そんな悲観的な考えも浮かんだ。岐阜に来た時と同じように、海外経験ゼロのわたしがフィンランドに行くと決めたのも、はっきりとした理由はなかった。フィンランドを含む北欧は、デザインや教育、ライフスタイル、日本ではさまざまな面で「お手本」にされているのを見聞きしていて、ぼんやりといいイメージがあったこと、素朴でのんびりとしていて、直感的に自分に合いそうだと感じたこと、その程度だ。
そんな中途半端な理由で、岐阜でお世話になった会社の人たちをはじめ、仕事でつながったたくさんの人や地域の方々に、岐阜を離れることを伝えるのは、何だか申し訳なくて、後ろめたささえ感じた。
でも、帰る家さえなくとも、会いたいひとたちがそこにいれば、帰る場所になりうる。
そう思ったら、何だかすごく安心して、気が楽になった。
相変わらず、この先の人生は見えない。海外に飛び出して来たからといって、新しい自分との出会いとか、人生が変わったとか、キラキラしたストーリーも語れない。むしろ、変わらない自分に折り合いをつけながら、目標がないなりに楽しく生きる道を探している。
居心地がよく、つい長居をして、気が付けば20代のほとんどを過ごした岐阜のまち。
そこで、何者でもないわたしに、たっぷりの愛情をもって接してくれた人たち。
わたしはこれからどんな恩返しをしていけるだろうか。
12月に入り、フィンランドでは午前9時半ごろに日が昇り、午後3時半には日が沈む。昨年はわたしが住んでいるトゥルクでもマイナス30度を記録したという。
まずは、もう目の前にやってきている北欧の暗く寒い冬をすこやかに過ごしたい。
太陽が顔を出せばそれだけで喜び、淡く色づく長い夕日に癒されて。
毛糸屋さんで鮮やかで手触りの良い糸を選び、すっかり趣味になった編み物に没頭して。
湯船が恋しい気持ちを誤魔化しつつ、サウナで身体を温めて。
次、岐阜に帰ったときには、笑顔で「ただいま」と言えるように。
著者: 杉田 映理子

1994年東京都生まれ、ライター。岐阜のデザイン会社でライター・編集者として、7年間にわたり、県内自治体のプロモーションやまちづくり、イベント企画に携わったのち、現在はフィンランドに滞在しながら、これからの人生を模索中。
Instagram:@e_sary125
note:https://note.com/ichinisan/
編集:荒田もも(Huuuu)
