著: 玉置 標本
「日本一有名なニート」という謎の肩書を過去に持ち、長年にわたってギークハウスというシェアハウスを運営していたphaさんが、2年前にとうとう一人暮らしを始めたそうだ。phaさんを知る人にとっては、ちょっとしたニュースである。
そもそもなぜシェアハウスを始めたのか、どうしてニートの道を歩み続けたのか、そして今はどんな暮らしをしているのか。学生時代から遡って、本人からじっくりと話を伺った。
ちなみにphaさんと私の関係は、共通の友人に呼ばれて年に何度か顔を合わせるくらいの薄い関係で、二人きりで会うのは今回が初めてである。
家賃4100円の寮で過ごした京都大学時代
phaさんは1978年生まれの42歳(2021年3月現在)。出身地は大阪で、大阪城の側にある高校を卒業後、現役で京都大学の総合人間学部に進学。
最初の一年間は実家のある大阪から京都まで通っていたが、二年目からは伝統的に寮生が自治をする熊野寮へと入寮。400人以上が住む巨大な寮だ。
結果的にはこの選択が、今後の運命を大きく変えるきっかけとなった。
進学校に通っていた高校生時代(写真提供:pha)
待ち合わせ場所にゆるりと登場したphaさん
――二年生になってから寮に入ったんですね。
pha:「大阪から京都まで通うのも面倒なので、家賃の安い寮にでも入ってみるかと。寮に知り合いは全然いなかったので、最初は不安だったけど、なんか面白そうかなとは思ってました。熊野寮は月4100円で光熱費込み、タダみたいなもんです」
――ビジネスホテルの一泊より安い!
pha:「四人一部屋で冷暖房無し。二段ベッドが二つあって、自分のベッドにカーテンをつけて、その中だけがプライバシー。旅先で泊まる安いゲストハウス的な感じ。そういう暮らしをするのは初めてだったけど、やってみたらすごく楽しくて。そこで共同生活に目覚めてしまって、その後のシェアハウスにつながっているという感じですね」
――四人部屋ってすごいですね。知らない人との共同生活、スムーズにいきました?
pha:「割とまあ、そうですね。住人同士が仲良くない部屋もあるんですけど、僕が入ったところは、たまたま面倒見のいい先輩がいて。京大生ってなんかエリートみたいイメージがありますけど、その中でもいい家に生まれてエリートコースを歩く人と、なんとなく入ったけどエリートになる気がない人がいる。
寮には後者が集まってくるので、自分に似た人がいたから仲良くなったのかな。4100円のところに住むくらいだから、お金がない人ばかりだし」
2009年に撮影した熊野寮(写真提供:pha)
学生時代の寮生活。つっこみどころが50個くらいある(写真提供:pha)
なんだか映画の世界みたいだ(写真提供:pha)
――お金がなかったという話ですけど、当時はバイトとかしてたんですか。
pha:「してましたね。京大は家庭教師をやる人が結構いたんですけど、教えるのは好きじゃないし、やりたくない。それでコンビニやファミレスで働いてみたけど、でもなんか働きたくないなと思って、そういうのはやめてしまって。
寮の卒業生がパチプロ集団をつくっていて、一日中パチンコを打つバイトを寮の中で募集していたから、それをやっていました。寮にはやることのないダメなやつがいっぱいるので、人手としてちょうどいい。毎日朝9時とかになると玄関ロビーで『今日仕事するやついないか~』って募集していて」
――京都大学の寮で、そんな日雇い労働者みたいな募集がされていたとは。
pha:「それに手を上げると『じゃあいくぞ!』ってチャリでパチンコ屋に連れていかれて、軍資金を渡されて指定された台で打つ。アタリの台だったら閉店まで12時間ずっと打つけど、ハズレの台だったら2~3時間で解放される。当たっても外れても時給は1000円で、打っていた時間の分だけ。バイトを10人くらい放り込んだら3人くらいはアタリの台を引いて、それで儲けが出るらしくて。
このバイトは、ただ座ってハンドルを持っているだけでいいので、楽だなーって思ってました。パチプロの先輩たちも楽しそうで、こういう生き方もあるんだって」
――のちに日本一有名なニートとなる片鱗が早くも。働きたくないことに関しては、学生時代から一本筋が通ってますね。
pha:「そうなんですよ。ちゃんと働きたくない。そのバイトの経験が、まともに就職をせず食っていく道もあるんだなっていう気付きになったのは間違いない」
――楽して儲けたいのではなく、純粋に仕事らしい仕事をしたくない感じですか。
pha:「そうですね。あんまり向いている仕事がない。仕事、どうも向いていないなーとか思って、大学には6年いました。卒業したくなさすぎて。とにかく会社とかも行きたくないし、自分に当てはまるものがなにもないと思っていた。なにをしたらいいのかもわからない。
でもまあ6年生とかになると、さすがにずっと大学にいても仕方ないなという感じになってきて、卒業してなんとなく就職したんですが」
スカイツリーとphaさん
もちろん不真面目だった大学職員時代
こうしてphaさんが重い腰を上げて就職した先は、大阪にある大学の職員で、公務員のようなお堅い業務が待っていた。
――仕事なんてしたくないと思いつつ、ずいぶんと真面目な仕事を選びましたね。
pha:「何でそこに入ったかというと、楽そうかなと思って。楽だったら続くかもしれないと入って、実際楽だったんですけど、それでも毎日朝起きて職場までいって、8時間机の前に座っていないといけないというのが、つまらない。
成績管理をしたり、書類をつくったり、なんでこんなことをやっているんだろうと。でもやめてやりたいこともなかったし、食っていく術もないし」
――やっぱりそうなりますよね。その当時は一人暮らしですか。
pha:「大阪の天六というところで、普通のアパートを借りてました。家賃5万か6万くらいかな。なんで住むだけでこんなにお金が掛かるんだって思っていました。寮の家賃がおかしいんですけどね」
今となっては貴重なスーツ姿(写真提供:pha)
自称「社内ニート」だったころ(写真提供:pha)
――仕事をやめたら家賃が払えなくなるから、簡単にやめるわけにもいかない。
pha:「ずっと仕事つまんないなーって思いながら働いていた3年目に、タイのバンコクに事務所をつくるから、誰か行きたいやついないかって募集が掛かったんですよ。バンコク行ったらおもしろいかもしれないと立候補したら、自分以外に誰もいなくて」
――いきなり海外へ転勤ですか。今度の仕事はやりがいがありましたか。
pha:「いやべつに。やりがいはないけれど、バンコクの生活は楽しかった。オフィス街に事務所があって、大学を退官した名誉教授のおじいちゃんが所長でいて、日本語ができるタイ人の女性が秘書みたいにいて、僕と三人だけ。
仕事は現地の学校とやる共同研究の手配とか、うちの大学に留学しませんかっていう宣伝とか。できたばかりでなにをやるかちゃんと固まっていない状態だから、そんなにやることもない。大阪の本部からは自分で仕事をつくれっていわれるんですけど、所長のおじいちゃんは好きなことやったらいいよって。なんもしてなかった」
――もちろん最低限の仕事はしつつでしょうけど、自分から仕事を増やすようなことはせず、のんびり楽しく暮らしていた。
pha:「ホテルみたいなアパートを大学が用意してくれて、家賃も全部出してくれた。タイに駐在する日本人って、その辺の屋台とかであまり飯を食わないんですけど、僕はそういうの全然平気。屋台の飯ばかり食っていたらお金が貯まって、これがやめた後の生活資金になりました」
笑顔でゾウにエサをあげるphaさん(写真提供:pha)
タイの有名なお寺、ワット・ポーにて(写真提供:pha)
――願ったり叶ったりの仕事に巡り合ったじゃないですか。
pha:「それでも、もともと任期は2~3年だったけど、一年で退職したんです」
――あらもったいない、せっかく楽な仕事だったのに。
pha:「一年いたら、ちょっと飽きちゃって。友達というほど仲良くなった人もいないし。
2007年かな。そのころTwitterが流行って、日本に住む仲間がオフ会とかで集まっている。『今日新宿でメシ食おう』とか気軽にやっていて、それをいいなーってバンコクで見ていて、それが高まってやめてしまった」
――同じようにネットでつながっている同士なのに、自分のいないところでリアルに会われると、かなりうらやましいですよね。
pha:「そうなんですよ。でもバンコクに一度住んだことで、吹っ切れたところはあるかもしれないな。ずっと大阪に住んでいたら、今の仕事をやめたらどこへいったらいいのかわからないって思っていただろうけど、もうどこにでもいける。東京にいってもいいし、他の外国にいってもいい。やる気になればどこだって住めるなってなりましたね」
ニートが立ち上げたシェアハウス、ギークハウス南町田
大阪で3年、そしてタイのバンコクで1年。不真面目ながらも大学職員として4年間勤務し、とうとう待望の無職になったphaさんは、その身一つでゲストハウスを巡る生活を始めた。
pha:「実家にも住みたくなかったので、帰国して一年くらいは東京とか京都のゲストハウスを転々としてました。身軽だったのは、家財道具をバンコクへ行くときに処分していたので、なにも持っていなかったというのもあります。大学職員をやめたときから、自分でニートっていってましたね」
ネット仲間とのストリートコンピューティング(写真提供:pha)
各自がもくもくと作業するオフ会なども開催(写真提供:pha)
――流浪のゲストハウス暮らしから、29歳でシェアハウスを立ち上げたきっかけは何ですか。
pha:「ネット上で遊んでいた人たちと実際に会って遊ぶようになったんですけど、そうなると拠点とする場所が欲しくなった。だったら自分でシェアハウスをやったらいいんじゃないかと思って、それをTwitterとかに書いたら、それじゃあうちの空いてるマンションを貸すよっていう人が出てきた。それで始めたのが『ギークハウスプロジェクト』というシェアハウス計画。
ギークはコンピュータオタクみたいな意味。Twitterを通じて仲良くなった人は、口でしゃべってコミュニケーションするよりも、文字でカチャカチャやっている方が好き。そんな人ばっかりが集まるシェアハウスをつくりたいなって」
――ネットでの付き合いの延長線上に、シェアハウス設立がある感じなんですかね。同じような趣味嗜好の仲間と、一緒に住んでみたいぞと。
pha:「やっぱり大学時代の寮みたいなものをやってみたかった。ずっとゲームとかして遊んでいる仲間と住んでいたい。それで最初に『ギークハウス南町田』をはじめました。
3LDKのファミリー向けマンションで、元々は外国人向けのシェアハウスをやっていたけれど、今空いているから使っていいよと。もちろん家賃を払ってですけど。住人はTwitterで募集して最大3人。結構入れ替わりが多かったですね。
ギークハウス南町田の様子。濃いですね(写真提供:pha)
そして猫を二匹飼い始めた(写真提供:pha)
ニャー(写真提供:pha)
――3人だと一人一部屋の個室だから、四人部屋の寮に比べると暮らしやすそうです。
pha:「楽しかったですね、住人以外にもいろんな人が遊びに来てくれて。ただちょっと都心に出るのが遠い。渋谷まで快速で40分とかかな。そこまで遠くもないけど、ネットの人ともっと気軽に会いたい。
自分が遊びにいきたいだけなら自分がいけばいいんですけど、こっちにも遊びにきて欲しいっていうのがあるんですよね。何かのついでにちょっと寄るとか」
――そういう意味では、南町田はちょっと遠いかも。
pha:「用がなくてもふらっときてもらえる雰囲気が、人の集まる場所として重要。でもここにはなにか用事がないときてもらえない。それはちょっと寂しい。
やっぱりいろんな人が、ごちゃごちゃ集まっているのが理想だったんですよね。住んでいる人も住んでいない人もいる。常に誰かが遊びにきたり、泊まりにきたりみたいな。
それでたまたま知り合った不動産屋さんに、次の物件を紹介してもらったんです」
ギークハウス東日本橋でニートを卒業した
新しいシェアハウスは東日本橋駅からすぐの場所にあった。ビルに挟まれた古い三階建ての一軒家で、一階はレトロな喫茶店。
その二階と三階を借りて、『ギークハウス東日本橋』として再スタートした。ちょっとがんばれば東京駅や秋葉原駅からも歩いてこられる、望み通りの好立地。スカイツリーがまだ建設中だったころの話である。
シェアハウスだった二階が喫茶店の客席になっているので、そこで話を伺った
反対側にも入り口がある。テトリスだったら縦に棒を重ねたくなる、よくこのオフィス街に残っていたなという味わい深い一戸建て
ポストなどは当時のまま。この店は近すぎたので、あまり来たことはなかったそうだ
pha:「シェアハウス用の家って、なんか壊されそうとか、家賃滞納しそうとか、何人も不法滞在させそうとか思われているから、なかなか借りられないんですよ。さらに南町田から猫も二匹飼っていたので、ペットを飼える物件じゃないといけない。
僕はニートだったし、普通に借りられる物件はないので、知り合いのツテでどうにか貸してもらえる変な物件に住まわせてもらうしか道が無くて、それで移転を繰り返しながらシェアハウスを維持していた」
――東日本橋には何人が住んでいたんですか。
pha:「僕は二階の個室にいて、三階の部屋には二段ベッドを二つ置いてそこに4人。他にも金のないやつがリビングで寝てたりしていたから、最大10人くらいかな。正規メンバーが誰なのかわからない状態。
このシェアハウスは常に人が集まっていて、いつでも5~6人が夜通し盛り上がっていましたね。何かよくわからない人がいっぱいいて、ずっと遊んでいるっていうのは楽しかったです」
常に誰かがいたにぎやかなリビングも、今は物静かな客席になっている(写真提供:pha)
熊野寮時代に部屋の雰囲気が近づいてきた(写真提供:pha)
――頭の中で描いていた理想のシェアハウスだ。話を聞いていると、phaさんが中心人物ではあるけれど、あくまでシェアハウスという場所が主役という感じがします。オンラインサロンみたいな集まりとはちょっと違いますね。
pha:「いい雰囲気の場所を設計したら、人は勝手に集まってくるかなと思っていて。自分でしゃべるのが面倒くさいっていうのがあるのかもしれないですね。
シェアハウスという空間だと、別に話をしなくても空間を一緒に共にするみたいな繋がりがあるじゃないですか。こっちではずっとゲームをしていて、あっちでは本を読んでいるとか。そういう空間の方が好きです」
シャワーしかなかったので、簡易的な湯船を設置したりもした(写真提供:pha)
――まさに溜まり場だ。このころに「日本一有名なニート」と呼ばれていたと思いますが、ニートといいつつも仕事はしていたんですか。さすがに貯金も尽きてそうですけど。
pha:「そのあたりから文章を書く仕事がポツポツ。ブログを見てくれている人から、連載をやりませんかとか、本を出しませんかっていう話しもきて。2012年に『ニートの歩き方』という本が出て、それ以降はコンスタントに本を出しているっていう感じです」
――そうなると、もうニートじゃなくて立派な作家だ。
pha:「ニートの定義は34歳までの非労働力人口。2013年の35歳になったところで、文章の収入も増えてきたし、もう違うだろうとニートを名乗るのをやめました。ファッションニートとか言われるし。
それ以降はニートとしての仕事はやっていません。ニートとしての仕事っていうのも、言葉としておかしいですけど。でもいまだに僕をニートって覚えている人が多くて。8年前にやめたのに消えないですね。
書いている文章の内容は、働くのは苦手とか、のんびり生きたいとか。だからニート的といえばニート的なんですけど。ニートを続けてきたことで、いつのまにか食べられるようになっていて、なんとなく生きていける術が身についた。それもいつまで続くかわかんないんですけど、今のところは何とかなっています」
喫茶店でphaさんはハンバーグサンド、私は生姜焼きサンドを注文。「一個交換しませんか?そっちも食べてみたい」と自然に言われて「シェアサンドだ!」って興奮した
東日本橋時代によく散歩していたという隅田川沿いを案内してもらった。川沿いは空が広くて好きな場所
パーマンのヘルメットみたいなブランコがあった
ギークハウスはとしまえんの一軒家から上野の倉庫へ
こうしてニートという肩書を脱ぎ捨てはしたが、phaさんのシェアハウス生活はまだしばらく続く。
pha:「東日本橋は気に入っていたけど、シェアハウスだった二階を喫茶店の席にするからなのか、引越してくれといわれて、同じ不動産屋の紹介で今度は練馬区のとしまえんへ。
家自体は広い一軒家でよかったんですけど、都心からちょっと離れるし、駅からも徒歩15分くらいなので、遊びにくる人が減ってしまった。それが寂しかったですね。
そこに最大5人で住んでいたんですけど、来客がいないと気まずい感じがしてくる。だんだんと内部の人同士でぶつかっちゃって。空気がよどむんですかね」
ギークハウス豊島園にて(写真提供:pha)
来客が少なかったからか、人間以外も混ざっているような(写真提供:pha)
野菜を育てたりもしていた(写真提供:pha)
――普通のシェアハウスに起きるような問題が、ギークハウスでも起きるようになってしまったと。なんとなくわかるような気がします。
pha:「掃除当番をちゃんとやれとか、ゴミをきちんと捨てろとか。いろんな人がきていると、まぎれるんですけど。それがちょっと不満だと思っていたら、また引越してくれといわれて」
――流浪のシェアハウスだ。
pha:「例の不動産屋にいくつか紹介されて、今度はビルにある倉庫を借りた。上野と浅草の中間位で、立地がいいからここにしようと。全然住居スペースじゃなかったんですけど。
住環境としてはダメでも、人が集まる空間でさえあれば楽しくやっていけるっていう自信があった。コンクリートの上に畳を敷いて、倉庫の中にテントを張っての生活。これが原点だっていう気持ちで、名前を『ギークハウスZERO』にしました」
都市型キャンプ生活がスタート。こうなると毎日が文化祭みたいだ(写真提供:pha)
――まさに秘密基地づくり、そのワクワクする感じはすごくわかります。そこに私も居たかったって思うくらい。さすがに住むのは大変そうですが。
pha:「自分で住める環境をゼロからつくるっていう経験は、普通ないですからね。田舎だったら小屋をつくって暮らすとかもあるんでしょうけど、都会で人が住まないところに住むっていうのは楽しかったです」
――住みやすさだけでいえば、圧倒的にとしまえんの一軒家が上でも、当時のphaさんが求めていたものは、立地だけはいい床がコンクリの倉庫だった。phaさんにとってのシェアハウスは『家』である前に『場』なんですね。人が集まれる家にしたいというよりも、人が集まる場所に住みたい、みたいな。
ものすごく楽しそうではある(写真提供:pha)
pha:「そこのビルではネット放送をやっていて、生放送で変なコメントが付いたら消すっていうバイトをやっていました。ほとんど問題は起きないから、基本的に座っていればいい誰でもやれる仕事。それを昔の自分みたいな、働きたくない人に紹介していました」
――パチンコの打ち子を募集する側、みたいな立場になった訳ですね。
pha:「別にそれで自分が儲ける訳じゃないですけど、一周まわりましたね。働くのが苦手な人でも、なにか食い扶持をつくれればいいなって昔から思っていて。
仕事がなかったり、行き場のない人の受け皿として、ガレージでもよかったらおいでよといえる場所ができた。
でもシェアハウスって、自分が住むよりも遊びにくるくらいが一番がいい。やっぱり住んでいるとうるさかったりするので。でも住んでいるからこそ、一番おもしろいことが起こる瞬間を見逃さないっていうのもある。いきなり小林銅蟲(料理が得意な漫画家)がふらっときて、巨大な肉を焼いてみんなで貪り食うとか。それは住んでいないと経験できないし」
シェアハウスからの卒業
ようやく安住の場所が見つかったかと思いきや、どうもphaさんは2年で引越しをする運命のようで、今度は浅草橋に『コロニー』というシェアハウスを友人と立ち上げ、ここで三十代最後の2年間を過ごすこととなる。
浅草橋時代には、かつやでよくカツ丼を食べていたそうだ
pha:「コロニーは普通の大きな家で、そこでは人間らしい生活をしていましたね。倉庫からの引越しだったので、床がちゃんとあるじゃん!っていう感じでした。でもそこも、結局2年で出ていくことになった。
また一からシェアハウスをやるのもだるいかなって。それなら一人暮らしをやる方がおもしろそうだなと、2019年の4月に阿佐ヶ谷へ引越しました」
――とうとうシェアハウスからの卒業ですね。
pha:「ちょうど40歳で一人暮らしをしたんですよ。11年やって飽きたし、静かな暮らしもいいかなっていう気になってきたのかもしれない。
常に人が一杯いてワイワイ騒いでいるのも昔は楽しかったけれど、年を取るとちょっと疲れてきた。シェアハウスの劣悪な環境で寝て起きての共同生活は、やっぱり若者のものっていう感じがします」
――疲れが抜けなくなると、睡眠に質を求めだすから、それは仕方ないかも。
pha:「僕はもう十分やったというか、なんかね、青春だったなっていう感じがします。40歳までずっと青春時代をやっていたなっていう。さすがにもうやりすぎだろうと、シェアハウスという無茶をやめました」
――そんなのphaさんじゃない!っていわれますよ。
pha:「いうんでしょうね。でもまあ、ぼくもずっとみんなが思うニートのphaさんをやっている訳にもいかない。そのために生きている訳でもない。自分の人生がありますから。
やっぱりイメージを壊していかないといけないなって思います。イメージを守っていたら自分の人生を生きられないというか、イメージに操られるみたいな感じになるし」
――どうしてもパブリックイメージのphaさんを求められるけれど、そうはいくかと。
pha:「そればっかやっていても飽きられますしね。変えたら変えたでイメージと違うっていわれるかもしれないけれど、それなら好きにやった方がいいじゃないですか」
そんなに寂しくなかった阿佐ヶ谷での一人暮らし
一人で阿佐ヶ谷に引越してきたことで、多くの人にとっては当たり前であり、phaさんにとっては斬新な、静かで穏やかな日常生活が始まった。
阿佐ヶ谷駅にて。南口の商店街を歩くとリアルな情報量の多さに圧倒される
自分が行くことはないかもしれないけれど、誰かが通うことで存在している店がたくさんある
アキダイというスーパーで夕飯の食材を購入
たまたま?キンカンの名前だった
――阿佐ヶ谷を選んだ理由はなんですか。
pha:「一人暮らしとなると、シェアハウス時代と違って人と会う機会が減る。近所に誰か住んでいたりしたらあんまり寂しくないんじゃないかなって、友達が多い阿佐ヶ谷にしました。そろそろ一人になりたいけれど、完全に孤独は怖いので、その中間くらいなところに。都心から近くて、駅からも遠くなく、ちょっと広めで、人がきやすいっていうのが物件選びの条件でした」
――まさにシェアハウスの延長線上だ。
pha:「そうなんですよね。やっぱりシェアハウスを選ぶときのノリで物件を決めてしまった。でも実際一人暮らしをしてみると、そんなに遊びにこないし、別にこなくていいかっていう感じだった。誰か泊まりにきてくれないと寂しくて死んじゃうと思ったけど、全然平気。まだ誰も泊めてない」
――ずいぶんと極端に生活が変わりましたね。阿佐ヶ谷の住み心地はどうですか。
pha:「いいですね。ご飯食べるところもいっぱいあるし、本屋とかライブハウスとか文化的な感じもある。ちょっと歩けば川とかあるし、高円寺とかもすぐ。
大きな商店街もあって、散歩していて退屈しないです。そんなにいろいろ買う訳ではないので、SEIYUみたいなでかいスーパーが一軒あれば間に合う気もするんですけど、なんかここを歩くのは好きですね」
――確かに商店街にある9割の店は用事がない。でもそれがあると楽しい。
pha:「今のところは気に入っていて、ずっと住みたいんですけど、この先どうなるかはわからないですね。定期借家契約だし。ここに二年住んで、また二年再契約しました。だからあと二年はいると思います」
――これまで二年以内に引越してきたphaさんが、とうとう再契約しましたか。
一人暮らしだけどシェアハウスっぽい雰囲気が抜けない新居
南町田時代からずっと飼っている猫だけが今の同居人。手前がスンスン、奥がタマちゃん、ぼくも玉ちゃん
――ところでこの家、一人暮らしなのにシェアハウス感がありますね。いろんな人のモノを寄せ集めて、結果としてこうなったみたいな。全体を取り仕切るルールやこだわりがないというか。
pha:「一人でデザインしたものではない空間、そういうのが好きなのかもしれない。自分だけで理想の色をつくり上げたいっていう感じはあんまりなくて、なんかごちゃごちゃした中で、なんとかやっていくっていうのが好き。コーディネートとかしたくない。ありあわせを寄せ集めて、どうにかしたい。統一感はなくていい」
――まさにシェアハウスの考えだ。昔の住人とは今も会ったりしますか。
pha:「何回か会ったりしたけど、なんか違うなというか、わざわざ喫茶店とかでしゃべったりすることもないなって思ってしまって。一緒に住んでいたら、なんとなく仲いいつもりでいたけど」
――いつでも会えるなら他愛のない話でいいけど、わざわざ他愛のない話をするために会うのは、ちょっと違うのかも。そういえば最近になってバンドを組みましたよね。なんというか、ちょっと驚きました。
海猫沢めろん、佐藤友哉、滝本竜彦、pha、ロベスによる文学系ロックバンド、エリーツ(写真提供:pha)
pha:「エリーツ(ELITES)を組んだのは、新しい仲間が欲しかったみたいなところがあって。ある程度固定だけど、毎日会う訳でもない仲間。特別なつながりがない普通の友達だと、用事がないと会わないじゃないですか。
シェアハウスの住人同士が自然と顔を合わせるように、バンドをやっていると練習とかで定期的に顔を合わせるから」
――京大生時代に自分がエリートであることを否定しておいてのエリーツというバンド名。さすがの伏線回収。なんとなく空間を共有する仲間が、シェアハウスの住人からバンドのメンバーに変わったんだ。
pha:「バンドは楽しいですね。音楽的にはヘボいので、本当にいい音楽をつくるためというよりは、このメンバーと遊びたいというのがある。今はなかなかライブもできないけど、メンバーと集まって、くだらない曲をいっぱいつくって、バカみたいな話をして、延々とゲームをしている。
結局やりたいことは変わっていないのではっていう気がしますね、学生時代から。学生時代というよりは小学生か。こないだも熱血硬派くにおくん外伝を、メンバーと練習の後に4時間くらいひたすらやっていましたね」
――素敵な40代じゃないですか。シェアハウスと共に終わったはずの青春が、まだ続いていたんだ。
phaさんはドラムを担当(写真提供:pha)
pha:「メンバーの5人だけだとそのうち飽きるけど、ライブができるようになれば、対バンとか外のつながりもできてくる。
人が集まる『場』をいろいろやりたいと思っていて、それを『家』でやるっていうのはずっとやってきた。今は別のところでやるっていう感じですね。
ライブをやるとかもそうだし、バンドのメンバーと同人誌をつくって文学フリマに出るとか、家以外で場をつくる。家は一人でいいかなって。
――やっぱり集まる場所と生活する場所は、切り分けたほうが楽ですか。
pha:「今はその方がいい。ただ5年後とかはちょっと変わっているかもしれない。老いが始まってくると、一人暮らしも不安になるかなって少し考えている。今は健康だから一人で生活していて不便ないですけど、だんだん体にガタがきたら不安かも。
これまで有象無象を大量に集めた動物園みたいな場所ばっかりだったけど、そうでなく、信頼できる人と二人か三人くらいで住むみたいな感じだったらアリかもしれない。
一人暮らしで寂しくないのは、猫を飼っているからっていうのがあるんですね。猫がいれば、一人でもニャーンて撫でていればいいっていう感じなんですけど、猫が死んじゃったらきついかも。猫ももう14歳だし」
ニャーン
pha:「シェアハウスは変な人ばっかり。昔は自分もどうやって生きていったらいいのかわからないし、人生とかもよくわからなかった。もっと変なやつがいっぱいきて、無茶苦茶にして欲しいって思っていた。変なやつがくればくるほどおもしろかった。でも今だと、それはちょっとストレス。平穏な生活に慣れてしまったから。
生活が普通に安定してしまって、失うものが増えてしまったのかもしれない。この静かな生活を守りたいみたいな。人間としてはちょっとつまらなくなってしまった気がしますね」
シェアハウス気分を味わいたかったので、タイに住んでいたことがあるphaさんにタイ風ラーメンをつくらせてもらった
豚肉とパクチーの根を煮てスープをつくる。味付けは鶏ガラスープの素、ナンプラー、塩、生姜
麺を茹でるのに借りた鍋がシェアハウスサイズで盛り上がる。一回くらいギークハウスで料理をしてみたかった
トッピングはフライドオニオン、パクチー、空心菜。柑橘系の香りが欲しかったので、たまたま購入していたキンカンのたまたまも乗せた
「タイでは卓上に唐辛子、酢、ナンプラー、砂糖があって、味を足して食べます」ということで、薄味のスープを自分好みに仕上げてもらう。一緒に食事をすることで、ちょっとだけシェアハウスの雰囲気が味わえた
こうして日本一有名なシェアハウスに住む日本一有名なニートだったphaさんは、二匹の猫と一緒に一人暮らしをして、しっくりくる肩書がないと悩みつつ作家や文筆家として生活している。
「どうにかして働くことなく楽しく暮らしたい」という強い意志は、多くの人の潜在意識を刺激する文章となり、結果として彼が生きていくための糧となった。いつのまにか、ずっとないと思っていた向いている仕事へとたどり着いたのだ。
長生きしてほしいにゃん
働かないことで稼ぐ。理想的な展開ではあるけれど、真似すると大怪我しちゃう稀有な成功例だろう。そもそも文章でお金を生み出すことは大変な重労働だ。学生時代から人を引き付けるテキストをネットに書き続けてこられたという、phaさんの特異な適性があればこそ。
だいたいオープンなシェアハウスの運営なんて、それこそ面倒くささの極致。彼は何年も、何カ所も、それを楽しんでできた人なのだ。
phaさんのブログを読み返したら、東日本橋時代には見事な円形脱毛症になっていた。やっぱり本人は感じていなくても、見えないストレスは相当あったのかもしれない。それでも当時は安定よりも刺激を欲する気持ちが勝っていたのだろう。
もし私がリアルタイムでギークハウスという『青春』に触れていたら、自分にどんな変化があったかなと、ぼんやり妄想しながら自分の家へと向かった。
【いろんな街で捕まえて食べる】 過去の記事
著者:玉置 標本
趣味は食材の採取とそれを使った冒険スペクタクル料理。週に一度はなにかを捕まえて食べるようにしている。最近は古い家庭用製麺機を使った麺づくりが趣味。『育ちすぎたタケノコでメンマを作ってみた。 実はよく知らない植物を育てる・採る・食べる』(家の光協会)発売中。
Twitter:https://twitter.com/hyouhon